清く気高く美しい人間
ロサが案内してくれた場所は、町と森の境界線にあった。
これはいわゆる“あばら屋”と呼ばれるものだろうか。
板を張り付けただけの壁はところどころ穴が開いているし、窓ガラスは曇っている。どちらかと言えば人間というより、動物を飼育する小屋に似ていた。
実際、傍にはヤギがいた。
こちらには目もくれず青草を食み続けるヤギの横には、ヒツジもいる。ニワトリもいる。
やっぱりここは動物小屋では?と疑惑の目を向けたけれど、ロサは肩を竦めるだけだった。
覆い茂った草花が四方を取り囲み、今にも緑に飲み込まれそうな形でひっそりと佇む―――こんな場所に、
「本当に誰かが住んでるの?」
草に埋もれた両足を動かして、恐る恐る小屋に近づいていくと、鳥が慌ただしく羽音をたてた。
気を取られた一瞬の内に、人の気配を感じ取る。
曇りガラスを横切るシルエット。
それは唐突に現れた。
「今日も日が暮れる……。この時間になればあの人は来ないわね。今日も1日平和で良かった」
何やら独り言を呟く一人の娘。よく見れば独り言などではなく、どうやら動物たちに話しかけているらしかった。
「さぁべーべー、今夜もあなたの毛を紡がなきゃね。おっとその前にメーメーからお乳を分けてもらわなくちゃ」
娘はボロボロのバケツを手に取ると、草刈りに夢中なヤギの隣に立ち、リズミカルに乳を搾り始めた。
「今日もせっせと乳搾り~朝晩2回のお約束~」
おそらく自作と思われる歌を口ずさんでいる。
人間の年齢にして十代だろうか。血色の良い肌。艶のある茶色い髪はキレイに束ねられ、一輪の花が飾られていた。そこら辺に咲いている花なのだろうけど、とても雑草には見えない。娘の美しさが名もない花の美しさを際立てているのだった。
「ヤギさん今日も~満杯ねぇ~」
歌は妙だし、ボロを纏ってはいるけれど、見た目に左右されない先天的な魅力が備わっているように思えた。
「沢山絞れたわ。このミルクでチーズを作るわね。ありがとう」
一見楽しそうに見えても、時折溜息が混ざる。
あばら屋に住んでいるくらいだから、何かしら事情があるに違いない。
「良い子だろ?」
娘を目で追いながらロサが微笑んだ。
「器量も良いし、気立ても良い」
「あの子のこと知ってるの?」
「前に森の中で会ったんだ。スカートの裾が木に引っ掛かってね。困っていたから手を貸した。でも、名前はわからない」
たった一瞬居合わせただけで“良い子”だと称するのは、それなりに理由があるのだろう。
「もっと知りたいなら、友達にでもなれば?」
ロサはそう言って顎をしゃくった。偉そうだ。
意を決して小屋の入り口へ進む。
虫に食われたような穴から中を覗き込むと、小さなロウソクの火が見えた。
壊れかけたドアを押し開く。
「誰?」
威勢の良い声が響くと同時に、ロウソクの火が消えた。真っ暗な小屋の中で、娘の不安げな声が耳に届く。
「誰なの?もしかして、お、お母様?」
お母様?
こっそり魔法を使ってロウソクの明かりを取り戻したら、娘と目が合った。
横顔も美しかったけれど、真正面から見る顔もやっぱり美しい。
「……ああ、良かった。お母様じゃなかった」
侵入者を前に“良かった”とは何事か。よっぽど警戒心が欠けているのだろうか。
「良かったの?」
「ええ、良いわ。お母様じゃなければ誰でも。といっても本当の母親じゃないから継母だけど」
そうか、良いのか。良いというのなら、どんどん足を進めよう。
「どうしてこんなボロボロの家に住んでるの?」
「継母に押し付けられたのよ。お前は今日からここに住みなさい!って横暴に。父が亡くなってから人が変わってしまった。元々私のことが好きじゃなかったのね」
娘はバランスの悪い椅子に腰かけ、糸車を回し始めた。
「ごめんなさい。お茶を出したいけれど、ここにはヤギのミルクしかないの。久しぶりのお客様だっていうのに」
「いいの。それよりもっとあなたの話を聞かせて」
「……私の話?私の話ほどつまらないものはないと思うわ。そうね、十歳までは幸せに暮らしていたわ。11歳になった時、母が流行病で亡くなった。悲しみに暮れていたところに、父が新しい母だと言ってあの人を連れてきた。私には母親が必要だと思ったのね」
「それが継母?意地悪な」
「いえ優しかったわ。少なくとも父が亡くなるまでは」
糸車の回る速度が徐々に早くなる。ヒツジの毛だろうか。ふわふわだった毛が見る見るうちに糸に変わっていく。
気付けば足元を鳩が歩いていた。どうりであちこち汚れているはずだ。
先ほど羽ばたいたのはこの鳥かもしれない。
「継母は私を恨んでいたのよ。だからこの場所に追いやった。孤独と共に暮らすように」
「恨まれるようなことをしたの?」
「父は私を一番に愛していたから」
「自分の子供を一番に愛すのは当たり前だわ」
「ええ、でもあの人はその当たり前が気に入らなかったんでしょう」
娘の手の中でいつしか毛糸が出来上がっていた。
「こうして毎日糸を紡いで、乳を搾っているけど……自分のためじゃない。時々あの人がやって来て、私が作ったものを全部持っていくの。町で売っているらしいわ」
自由なようでいて自由じゃない。毎日働いても生活が豊かになることはない。喋り相手もいない孤独な一人暮らし―――。
何て不幸を絵に描いたような娘だろう!
「私を癒してくれるのは、動物たちだけ……」
娘は切なげに眼を伏せ、人差し指で鳩の頭を撫でた。
ついに巡り会った。私が探し求めていたのは彼女だ。彼女のために魔法を使いたい。彼女の夢を叶えたい。彼女以外に考えられない。
感動に打ち震えていたところへ、愛らしい目が向けられる。
「ところで、あなたはどなた?」
そういえばまだ自己紹介をしていなかった。
姿勢を正し、喉の調子を整えてから、頭の中で何度も繰り返した台詞を口にする。
「私の名前はイポメア・ニル。あなたの夢を叶える魔法使いよ」
さぞかし腰を抜かすだろうと思っていたのに、娘の反応は普通だった。
「そう。私はピアニー。よろしくね」
「……お、驚かないの?」
「え?何のこと?」
「だから、私は……その」
「毎晩お月様にお祈りしてたの。どうか私に友達を与えてくださいって。やっと願いが叶ったのね。言葉が通じるなら、魔法使いだろうが怪物だろうが何だっていいわ」
思わぬ言葉に拍子抜けする。
これがもし醜い老婆の姿だったらどうだろう。きっと彼女なら今と同じ台詞を聞かせるに違いない。
彼女だ!と決めたら早速本題へ移ろう。
「それでピアニー、あなたの夢は何?」
ピアニーは即答する。
「私の夢は……穏やかに暮らすことね。もちろんもう少しまともな家に住みたいけど、そこまで贅沢は言わないわ」
穏やかに暮らすこと―――。
控えめな願いにこれまた拍子抜けした。
「ピアニー。あなたほどの人がそんな小さな願いで満足してしまうなんて」
「この世界に住む人間は3つに分けられる。沼地のような場所で暮らす人間と、裕福ではなくとも平凡に暮らす平地の人間。そして全てを見下ろせる高い丘で、恵まれた生活を送る人間。私はこの沼から這い上がれたらそれでいい。真っ平らな人生でいいのよ」
「真っ平らな人生?あなたには全然似合わない」
「そうかしら」
「そうよ!もっと大きな幸せを手に入れるべきよ。例えばそう、愛する人と一緒に暮らすとか……」
「愛する人……」
その肌がほのかに色づいたのを見逃さなかった。まさか、心に決めた相手が―――?
「そういえばこの前、森の中で素敵な人と出会ったわ」
「素敵な人?どんな人?」
「黄金色の髪を揺らしながら颯爽と現れて、ドジな私を救ってくれたあの人……」
それは多分、いや絶対、ロサを指しているのだろう。
私はとっさに窓の外へ目を向けたけれど、暗くて(それでなくても曇っているので)何も見えなかった。
彼はどこへ行ってしまった?
「あれほどハンサムな人に出会ったことはないわ……」
ピアニーはうっとりと、思い出を反芻している。
確かに秀でた姿をしているけれど、あれはただの旅人だ。
「どれほど素敵だったとしても、素性のわからない相手じゃない」
「だけど初恋の人に似てるの」
「ピアニーに似合う人は他にいる。例えば……王子様とか!」
物語に登場する美しい娘の伴侶となるのは、美しい王子と決まっているのだ。
それが通りすがりの旅人なんかに奪われてはたまらない。
「私なんかが王子様と……」
ピアニーは謙遜し、何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば私の父は画家をしていたの」
「えっ」
「技量を認められて国に仕えていたこともあるのよ。父の描いた絵がいくつか残ってるわ。屋敷を追い出される時にこっそり持ち出して来たの」
ピアニーは小屋の片隅にある布を取り払い、舞い上がる埃の中から額に入った絵を手に取った。
描かれているのは立派な髭をたくわえた人間だ。眉は凛々しく、勇ましい表情をしている。
「これは?」
「見てわからない?国王様よ」
「王様?この人が……」
「あなた私よりも世間知らずなのね」
だって人間ではないから。
魔法使いだと説明したのに、全く真に受けていないようだった。
「そうね、王冠を被ってるものね。物語の挿絵で、見たことがあるかも」
「王様を知らないなんて、間違っても口にしたらダメよ。うっかり口を滑らせたら、首を
切り落とされちゃうわ」
思わず自分の首を隠すと、ピアニーは微笑を浮かべる。
「ニル、あなたはどこに住んでるの?」
「この森のずっと奥深いところ。でも今日からあなたのそばに」
夢のように登場して、夢のように消えていく存在になる。
そうしていつかピアニーを幸せへと導き、私は一人前の魔法使いになるのだ。
私に同調するように、ロータスが肩に飛び乗った。
「この子も一緒に」
清々しい気持ちであばら屋を後にし、すぐさま礼を言おうとロサの姿を探したけれど、どこにも見つからなかった。
何も言わずに立ち去ってしまうなんて。
だけど彼とはまた出会える気がする。理由もなく、彼のいた場所を眺めていた。