旅立ち、そして君に出会い
いよいよ試練の日を迎えた朝。といっても試練の日は決められているものじゃなく、自分でタイミングを図るものだった。
朝の白い光が部屋に差し込んで私の顔を照らした時、何となく「今だ」と言われた気がした。もしかしたらシシリー・パースに出会う夢を見たのかもしれない。それか、憧れの大魔法使いとなって物語の1ページを飾っている夢だったかもしれない。
覚えてない。覚えていないのに、その日が今日なのだと自然に思えた。
「出発だ!」
ベッドから飛び上がると、いつの間にか足の間で寝ていたらしいロータスがゴムボールのように跳ね上がった。
鏡の前で慌ただしく支度を整える間、魔法使いの掟を頭で繰り返した。
・自分が信じた人間の願いを叶えること
・自分が信じた人間以外に正体を明かさないこと
・願いを叶えたら夢のように消えること
一目で魔法使いだと気づかれては失敗なので、外見は慎重に選ぶ必要がある。いかにも派手な衣服は身に着けず、絶対に空は飛ばない。魔法を乱用しない。それと物語に出てくる魔法使いたちはどれも老婆のような形をしていた。
元は絨毯だった灰色の布きれを纏い、部屋の扉をくぐる。
「ニル!どうしたのその酷い格好!」
背中を丸め、杖をつきながらよろよろと歩く。
老婆を装った私をケラケラと笑ったのは、リリーだった。
「一緒に朝ごはんを食べようと思って誘いに来たのに。その気も失せちゃった」
「それならいいけど。私、これから人間の世界に行ってくる」
「え?人間の世界に?」
リリーは同じ見習いだけれど、私ほど魔法使いであることにこだわりを持っていない。与えられた時間をどう楽しく生きるかが重要なので、歴史に自分の名を残すことには関心がないのだ。よって、試練を受ける気もさらさらない。
「もしかして試練のため?」
「もちろん」
「そんな、まだ早いんじゃないの」
「でも今日がその時だって、目が覚めた時に気づいたの」
「だけど……」
いつもは茶化してばかりのリリーが神妙な顔つきになる。私の身を案じているのだ。理由はわかっている。
「もし失敗したら…追放だよ?」
試練を通れば一人前の魔法使い。ただし失敗すれば、ただ人間に魔法使いの正体を晒したとして、厳しい罰が与えられる。
魔法使いの村を追放。もうここへは戻って来ることができない。
「一人前なんか目指さなくてもいいじゃない。ずっとここで静かに暮らそうよ。人間に会わずにひっそりとさ。私たち魔法使いは、本当はその方がいいんだよ」
リリーの声が徐々に乏しくなっていく。彼女のお祖母さんは、人間の罠にかかって捕らわれてしまった。リリーは人間が好きじゃないのだ。彼女と同じような考えを持つ魔法使いは他にもいる。人間のために魔力を使ったシシリー・パースを、非難する人も。
「リリー。ごめんね。それでも私は、行きたいと思う」
「人間のために?」
「そうじゃない。これは私の夢だから」
「魔法使いが夢を見るなんて」リリーは寂しそうに呟いた後、左の目から一滴涙を落とした。
魔法使いだけが流せる青い涙。空と海の青を集めたような色だった。
「ニルの赤毛、きれいなのに。このオンボロ布で台無しね」
「この髪色は目立ち過ぎるから」
「じゃあ私が色を塗ってあげる」
リリーが杖を縦に振ると、私の頭上に光のシャワーが降り注いだ。夕日みたいな色だと言われてきた髪の毛が、みるみるうちに銀色へと変貌していく。
「それ、シシリー・パースと同じ髪の色なんだって」
「え!本当に?」
「そう。日の光を浴びると、虹色に光るの」
今すぐ鏡を見て確かめたいけれど、部屋の中へ戻ったら気が変わってしまいそうだったから。
去り際にリリーを抱きしめ、一気に村の外まで走り抜けた。
緊張と不安。それ以上に好奇心が胸を躍らせた。
人間の世界へ行くには、魔法使いの森を半ばほど進んだところにある分かれ道の、右を選べばいい。ちなみに左の道は湖畔へ続いている。
高揚感に包まれながらいざ、右の道へと進んだ。この先はこれまで踏み込んだことのない、未知の領域。
ロータスが肩の上で縮こまっているのがわかる。
「何よロータス。お前、元々はこっちの生き物だったでしょう」
あちらとこちらの境目にある森の中で育った生き物たちは、風に漂ってくる魔力に当てられて、変異を遂げる者もいる。中には言葉を操れるようになる生き物もいるというけれど、ロータスに至っては何を聞いても「ウキャキャ」しか言わないので、そこは諦めている。
森を進むにつれ、だんだんと景色が変わっていった。くすんでいた葉の色が青々とした色味を放ち、虫を誘っているのかそこかしこで花が香っている。
空を飛び交う生き物の姿形も違う。
あの影は鳥だ。
ピーチクパーチク、ケケケ、ポッポポー。
移りゆく景色にすっかり目を奪われていたら、いつしか森を抜けていた。
眼前に広がるのは村とは違う、活気づいた町並み。立ち並ぶ建物の隙間を縫うようにして移動する無数の人影。賑やかな声。
「人間だ…」
気持ちが高ぶり一気に町中へ駆けだして行きたくなる衝動を堪え、1度深呼吸をした。呼吸を整え、しっかり猫背を保ちながら一歩一歩町へ近づいて行く。
何という町なのだろう。
それにしても人間が多い。右を見ても左を見ても家が連なり、人間が忙しなく行ったり来たりしている。
「デイジー!何してるんだい!早くこっちに来て洗濯を手伝っておくれ」
「畑がまたウサギに荒らされてやがった!あのミミナガめ、今度はとっ捕まえててやるからな!」
「ママ―お腹空いたよママ―」
聞こえてくる会話を一つ一つ拾っていればきりがない。
目が回りそうな人の動きにしばらく立ち尽くしていたら「邪魔だ」と、大男に跳ね飛ばされた。尻もちをつき、地面を這いながら路肩へ逃げ込む。
なんて野蛮な人間だろう。あれはダメだ、不合格。
初めて目にする世界に圧倒されながらも、私はお目当ての人間を物色することを忘れなかった。
清く、気高く、美しい人間。
町中に目を凝らす。
溢れかえる人の群れに紛れ、美しい娘を見つけて声をかけた。
「娘さん。すまないが水を1杯わけてくれないかね?」
娘は足を止めた者の、あからさまに不快な表情を作った。それだけならまだ良かった。
「いや!汚い手で触らないでちょうだい!」
乱雑に手を払いのけられ、フン!と鼻であしらわれる。
綺麗な顔をしているからといって、内面の美しさとは程遠い人間だった。
気を取り直してもう1度。
「そこのお嬢さん、ワシに水を一杯恵んでくれないかねぇ…?」
2番目に呼び止めた娘ははつらつとした声で「いいわよ!」と了承し、水を汲んだカップを差し出しつつ笑顔を向けた。
「いくら払える?」
「あ…お金は持っていなくて、」
「あらそうなの。じゃあこれはあげられないわね。私にとっても大事な水だから」
娘は残念そうにした割に、あっさりとカップを持って帰ってしまった。
この調子で何度か道行く人間に声をかけたものの、どれも似たり寄ったりの結果だった。
意気揚々と村を出てきたはいいけれど、今はただぼんやりと人間の流れを眺めているだけだ。延々と同じ場所に座り込んでいようと、誰も老婆には目もくれない。
物語に登場する美しい娘たちは本当に実在するのだろうか。
「全部人間が作った作り話よ」リリーの台詞を思い出して憂鬱になる。
いいや、ここでめげてはいけない。魔法をかける人間は選ばれた者。そう簡単に見つかるはずがないのだ。
いちいち声をかけていては埒が明かないと、思い切って道の真ん中で倒れ込むことにした。
こうしていれば心優しい誰かが気づいて、きっと手を差し伸べてくれる。
固く冷たい地べたに身を投げ、じっと目を瞑った。人間が通る度に砂埃が舞い、鼻の奥がムズムズしてくる。
「おい何だ。寝てるのか?」
「馬鹿、行き倒れだ。放っておけ」
「わざわざ道の真ん中で倒れなくてもいいのに」
目は閉じていても耳は塞げない。次々と降りかかる刺々しい言葉の槍に、早くも心が折れそうになった、その時。
「どうしたのお婆さん!」
ふっと目の前に気配を感じて瞼を開いた。上品な顔立ちの乙女が心配そうな顔で、こちらを見下ろしている。
「ああ…お嬢さん、少し具合が悪くなってしまってね…」
「まぁ大変!どうぞ私の家でお休みになって」
乙女は私の体を支え、暖かな家の中へ案内してくれた。さらに椅子に腰かけるように言い、ひざ掛けを手渡し、おまけに美味しいミルクスープまで。
この町に来て、これほど親切にされたのは初めてだ(と言ってもまだ半日ほどしか経っていないけれど)。
もしかして、もしかすると、ついに出会ってしまったのかもしれない―――。
淡い期待を胸に乙女を凝視する。
「お婆さん、体は温まった?他に欲しい物はなぁい?」
「大丈夫だよ。ありがとうね。ところで……お嬢さんはどうして、見知らぬ婆に親切にしてくれるのかね?」
「え?どうしてって……」
乙女はフフフと可憐に笑い、静かに答えた。
「教えよ」
「教え?」
「子供の頃、お祖父さんから教わったの。もしどこかで救いを求めている醜い老婆を見つけたら、迷わずに手を貸しなさいって」
「はぁ、それは……」
「そうすれば、醜い老婆はたちまち美しい魔女に変身して、お前の願いを叶えてくれるだろうって」
「えっ」
思わぬ方向へ話が進み、私はうろたえた。
この乙女が大きく開く。
「あなた、魔女なんでしょ」
椅子が倒れるくらいの勢いで腰を上げた。
バレた。追放だ。ううん、まだバレていない。私自身が認めなければバレたことにはならない。ここで取り乱せばすべてが水の泡になる。
必死に平静を装い、おずおずと声を絞り出した。
「おかしなことを言うお嬢さんだ。私を魔女だなんて、失礼な」
「ねえ待って!叶えて欲しい願いがあるの。あの麗しい王子と、私を……」
「だから魔女じゃないって言ってるだろう!」
迫り来る乙女の背後に本棚があった。その中に見覚えのある本を見つけてハッとする。そうか、この乙女のお祖父さんがあの本を―――。
しぶとく縋りつく手を振り払い、走って部屋を逃げ出した。
尚も私を呼ぶ声が聞こえる。あの声が聞こえなくなるくらい、もっと遠くに。
森の中へ戻り、身を隠すように木の上で蹲っていた。
私はもう老婆の姿をしていなかった。全身の力が抜けて、2つの目から青い涙がボロボロ零れ落ちると同時に魔法が解けた。それからはずっとこの場所で泣き崩れている。
神出鬼没のロータス知らん顔で木の実を食べていた。
「ロータス!お前少しくらい役に立とうとは思わないの?」
かつてロータスは人間の世界で暮らしていた。しかし気まぐれな性格故、しょっちゅうこの森に入り浸っていたせいで、その姿は魔力の影響を受け緑色に変色してしまった。
人間たちから不気味がられ、当時の飼い主からも見放され、落胆しきっていたところを私が救ってやったのだ。
それが今はどうしたことだろう。恩を忘れ、主人が涙に暮れていようがお構いなし。恩返しをしろとは言わないが、せめてもう少し従順さを身につけてもらいたい。
「ねえロータス。クインスのネコは人の言葉を喋るんだって。それにどんな物にでも変身するって噂よ。とんだ化け猫よね」
対抗心を燃やさせようとしてみたけれど、ロータスは相変わらず木の実を食べ漁っている。おかげで腹は丸く膨らみ、日増しに大きくなっているじゃないか。そんなに蓄えてどうするのだ。
「はぁ……」
物語を読み耽っていた時とは違う、重たい溜息が零れた。
「村へ帰ろうかな……」
だけどどんな顔をして帰ればいいのか。
人間は思っていたほど手強かった。みんな自分のことに必死で、他人を助ける暇はないようだ。やっと巡り会えたと思った相手も下心が明け透けで、危うくこちらの正体が暴かれてしまうところだった。
やはり時期尚早だった。そう言って村へ戻ろう。リリーはからかうだろうけれど、きっと優しく出迎えてくれる。ニンファーも笑って許してくれる。クインスは……毒づいてくるだろう。それでもずっとこの場所には留まれない。
諦めて村へ引き返そうとした時だった。
俄かに獣の呻き声が聞こえてきた。
何事かと目を凝らせば、一際太い幹が育つ傍でイノシシが罠に嵌っていた。
あれはおそらく人間が仕掛けたものだ。確かトラバサミとか言う名前の。
人間たちが魔女狩りに躍起になっていた時代、まるで動物を狩るように罠を仕掛けていった。黒歴史の残骸が、まだそこらじゅうで息を潜めているのだ。
「かわいそうに」
イノシシはトラバサミに挟まった足を引き出そうとするも、もがけばもがくほど激痛が走るのか、悲痛な叫び声をあげている。
ロータスが「キィキィ」と同調したような声で鳴き、私の裾を激しく引っ張った。
「わかった、今助けるから。待って」
木から身を乗り出した直後、真っ白なベールのようなものが視界に入り込んだ。
それは木漏れ日を受けてキラキラと反射し、思わず眩しさに目を細めるほどの白さだった。
よくよく見ればベールだと思った物はローブで、裾の隙間から2本の足が覗いた。
白いローブを纏った謎の物体はイノシシの元へ歩み寄ると、素早くトラバサミから解き放った。
同胞であれば即座にわかる。だけどあの物体からは何も感じ取れない。すなわちあれは―――。
「……人間?」
相手はローブに包まれているし、真上からでは顔を見ることもできない。ただしトラバサミを掴んだ手は雪のように白く、繊細だった。
町娘かもしれない。イノシシを解放した、心優しい人間―――?
いいや騙されてはいけない。この後弱ったイノシシに追い打ちをかけて、取って食べるつもりかもしれない。
目に映るものがすべてではないと思い知った今、疑心暗鬼は凄まじかった。
「ウキャキャ!」
膝の上でロータスが騒ぎ始める。イノシシは助かったというのに、今度は私の襟元を手繰り寄せ、ぶんぶんと揺さぶりかけた。
「だめ。もう人間は信用できない」
「ウキャキャキャー!」
「だめだって!」
一体どこにそんな力を隠し持っていたのかと思うくらい、ロータスの腕力は激しさを増し、油断しきっていた私の体はバランスを崩した。
「おふぉっ……!」
おかしな声を上げながら落下する。
魔法使いが木から落ちるだなんて、村のみんなに話したら笑い者にされるはずだ。
一面に広がった柔らかいコケのおかげで痛みは免れたものの、呆気なく転落してしまった自分へのショックから、すぐには立ち上がれなかった。
ゆっくりと、コケを踏みしめる音が地面から伝わってくる。
目の前が陰ったと思ったら、大きな瞳が私を見下ろしていた。
「驚いた。空から人が降って来るなんて」
息を呑む。
白雪姫なんかよりもずっと白い肌に見とれた。
それから金色に流れる髪の毛や、赤い実を食べた後のような朱色の唇にも。
幅広い目を縁取る長いまつげ、顔の中央を通るスッとした鼻筋、色素の薄い瞳。
差し伸べられた手は先ほど目にした手と同じだけれど、思っていたよりもずっと大きかった。
町娘などではなかった。男だ。人間の、男。
こちらへ向けられた手をじっと眺めるだけで、身動きが取れずにいた。
痺れを切らしたらしい彼は口の端を持ち上げると、勝手に私の手を掴んで引き上げてしまった。
間違いなく、これまで目にしたどの人間よりも秀でた容姿をしているし、むしろ人間離れしているようにも見える。もしや人間ではなく、妖精の類かもしれない。
正体を見極めようと睨んでいれば、彼の口が動いた。
「大丈夫?」
「えっ」
「どこも痛くない?」
たった今、会ったばかりの相手を心配しているのだろうか。
ぎこちなく肯けば彼は「良かった」と笑顔を見せた。
「あなたは……人間?」
「もちろん。お前は?」
「に、人間よ」
魔法使いだとは、口が裂けても言えない。
「ふうん。それにしては変わった髪の色をしてるね。夕日みたいな色だ」
「……よく言われる。生まれつきよ」
「おまけにクルクルだし」
彼は何の躊躇もなく私の髪に触れ、毛先を弄ぶ。
驚いて身を引こうものなら、失笑を買った。
「あなたは町の人?」
「まぁそんなものかな」
「それで、あなたはここで何を……」
「あなたじゃない。ロサ」
「……ロサ?」
彼は頭を覆っていたローブを取り払った。
金色の髪がやっぱり眩しい。
「名前だよ。俺のことは……そうだな、旅人だと思ってくれたらいい」
「旅人?」
「そう。あー吟遊詩人とも言うかな。いろんな場所を巡って歌を歌ってる」
「何のために?」
「何のって……俺はただ、探してるんだ」
「何を?」
軽妙だった会話のテンポが急に鈍くなった。
次から次へと質問を投げかけたせいで、どうやら相手は気後れしているようである。
信用できない人間相手に、どうしてここまで積極的になったのか、自分でも不思議だった。
「……やっぱりもういい」
「いいって何?」
「もう何も聞かない。これでおしまい」
必要以上に関わってはいけない相手だ。人間だとは言ったものの、いつ正体を見抜かれるかもわからない。
さっさとこの場を立ち去ろうと踵を返した。
だけどどうしてだか、足音は後を追ってくる。
「何で追いかけてくるの?」
「人の話ばかり聞いておいて、自分の話はしないなんて狡いと思わない?」
「私の話が聞きたいの?」
「そう。お前の話」
言葉の意図は読めない。
彼は人間、なのだろうけどやっぱり町中で見た人たちとはどこかが違う。
傷ついた者を解放する優しさ、自ら名を名乗る気高さ、それに目を見張る程の美しさ。
自分が探し求めていた理想の人間と合致する。だとしても―――。
振り返って、今一度彼の顔を拝む。何度見ても、どこをどう見ても、微塵の悲壮感も感じさせない。艶めいた肌と爛々とした目は幸せの証。これ以上望むことなど、おそらく彼にはない。彼に魔法は必要ない。
それならば。
「……私も探してるの」
「何を?」
「優しくて気高くて美しい人間」
彼は怪訝そうな顔を作った。
類は友を呼ぶと言う。
彼の周りに、私の理想とぴったり当てはまる人間がいるかもしれないと思った。
「どこにいるか知らない?」
赤い口元が緩やかなカーブを描く。笑っているのだ。声も出さずに。
「……知ってるよ」
「えっ!本当に?どこにいるの?」
「お前の名前を聞かせてくれたら教えてやる」
その交換条件は何だろう。一筋縄ではいかない相手。だけど印象は悪くない。むしろ―――。
「……お前じゃない。私はニル」
形の良い唇が私の名前を形作る。
「ニル」
その名前も響きも私の物のはずなのに、まるで初めて耳にするような音だった。