「蜜月」カルテット番外編
眠っているスィグルの横顔を、ギリスは指で描くようになぞった。枕の上で寝息を立てている鼻先に触れても、スィグルは目を醒ます気配もなく、深く昏々と眠っていた。
激情にまかせて果てもなく抱いたら、彼は疲れて眠ってしまったのだった。
愛とはそういうものだろう。とにかく深く抱き合って、相手を貪るものだろう。
そのように答えると、エル・イェズラムはいつも、可笑しそうに笑っていた。そして、若いうちにはそれで良かろうと言った。
正答ではないという意味だと、ギリスには判ったが、訊いても答えをもらえる訳ではなかった。
自分の頭で考えろと、イェズラムは言うに決まっている。生きているうちは考えろ、頭を使え、お前の頭は石に食わせるためにあるのではないのだぞ、と。
盆を引き寄せて、ギリスは養い親の形見の長煙管をとり、そこに葉を詰めた。火種に押しつけて浅く吸うと、冷たい匂いのする煙が口の中に広がった。
麻薬を吸うのを見て、スィグルは初め驚いた顔をしていた。無痛のエル・ギリスにはそんな悪習はないと信じていたのにと、咎めるような顔だった。
常習しているわけではないが、時々無性に吸いたくなった。
病床のイェズラムは、具合が悪いといつも、ギリスを枕辺に呼び寄せて、看病をさせた。苦しむ長老に、鎮痛のための麻薬を吸わせてやるため、ギリスはいつもこの長煙管に火を入れて、口元までもっていってやった。
発作的な激痛が治まるまでに、半日で済むことも、何日もかかることもあった。
その間、イェズラムは決まって良く喋った。
普段が沈黙がちだっただけに、その饒舌はどことなくおかしかった。
深い酔いのせいで、イェズラムの話は時折、ギリスには良く分からない内容になることもあった。そういう時、イェズラムは別の誰か、すでに過ぎ去った時代の中にいる者たちと口をきいているようだった。
紫煙蝶が効かなくなっても、イェズラムは自ら死のうとはしなかった。
族長は固く禁じていたが、世の中にはもっと良く効く葉っぱもあると、イェズラムは知っていた。
使ったことがばれると、族長に首を斬られるぞとギリスが言うと、イェズラムはいつも鼻で笑った。
それがどういう意味なのか、ギリスはいつも考えてみたが、良く分からなかった。
イェズのほうが族長より偉いから平気なのかと問うてみたこともある。それにもイェズは笑っていた。ただただ笑うばかりだった。
そういう時、強い麻薬のせいで、イェズはちょっと変なのだと、ギリスはやむなく納得していたものだった。
そんな姿を思い出すと、この長煙管の吐く煙が、むしょうに懐かしく思える。
なにか酔えるものが、自分にも欲しくて、誰かと寝たり、麻薬を試してみたりする。しかしそれは所詮、皆が喩えて言うように、一瞬の華だった。
満たされない飢えを感じて、ギリスは隣で眠っている弟を眺めた。うつぶせで眠っている白い体は、大人でも子供でもなかった。強引な腕で抱けば、その中にすっぽり収まってしまう。
揺り起こして、もう一戦交えようか。
ぼんやりと瞬きしながら、ギリスは眺めた。
スィグルは砂漠の逃げ水のような奴だった。喉が渇いて必死で追いかけても、そこには辿り着くことができない。毎日のように誘って思い通りにしても、ギリスはいつも空腹でいる自分を感じた。貪ったところで、霞を食っているようなものだ。
俯せのまま眠っているスィグルの裸の背に、ギリスは手をのばした。肩を覆う傷に触れると、治癒者たちが手を尽くしたが、どうしても消えないという、文字のような醜い傷が、いびつに指に感じられた。
王族などつまらない。
そう言うと、イェズラムはスィグルが人を食った話をしてくれた。暗闇の底で、守護生物に追われる恐怖と飢えに狂い、人肉を食らって生き延びたのだという。
その話を聞いたとき、ギリスは自分の内奥で何かが震えるような気がした。
大罪だ。天使が許すまい。
ギリスのそんな感想に、イェズラムは笑い、今あの子は天使に赦しを乞いに行っているから、もしも生きて戻ることができれば、一点の汚れもない身だと話した。お前の新星になれる。
あの子が戻ったら、兄と弟のように助け合って、新しい時代のための支度を始めろ。
新星。イェズラムが時々話したそのことを、ギリスは彼の最期の願いとして受け止めていた。
まだ帰らぬ新星のことを、時折思ってみることもあった。
頭がいかれるほどの恐怖がどういうものか考えてみても、ギリスには分からなかった。ささいな恐ろしさですら、自分には想像がつかない。
苦痛と恐怖に身悶える仲間たちを見ると、いつも羨ましかった。自分だけが、そこから切り離されている。
痛みを知りたければ、何かを愛することだとイェズラムは教えた。人でも、部族でも、何もなければ自分自身でもいい。何かを深く愛することができれば、怖れとは、痛みとは何かを学ぶことができる。たとえ肉体がそれを知らなくても、心が知ることになるだろう。
愛ってあれのこと? ダロワージで拾える。あれのどこが痛いんだ。
イェズラムが言うのが、広間から始まる一時の情事のことかと信じて、そんなふうに尋ねると、イェズラムは笑って首を横に振っていた。お前が言うのは恋のことだろうと、イェズラムは言った。呆れたという顔で。
イェズもダロワージで恋なんかするの。
興味本位で尋ねると、答えるイェズラムの視線は遠かった。
昔はしたさ、人並みに。だが今は、服を脱ぐのも面倒だ。
別にいいじゃん、着たままやれば。
ギリスがそう返事をすると、イェズラムは煙管を銜えたまま笑った。この上なく可笑しいというように。そして、お前は多淫だなと罵ったが、その声は優しかった。
ある日、イェズラムに連れられて刑場へ行った。刑吏たちが使う悪面をかぶせて、イェズラムはギリスに、罪人たちの処刑を行うよう命じた。
それは常ならば、竜の涙たちが行うような仕事ではなかった。
死に行く者の最期のひと睨みには呪いがあると言い伝えられており、刑吏たちはそれを避けるために、磁器の仮面をつける。その面には、ひとつ目の怪物のような醜い顔が描かれてある。
悪面をつけたイェズラムの姿は、ギリスの知らない男のようだった。
魔法を使って、心臓だけを狙えと教え、イェズラムはまず自分で手本を見せた。
イェズの魔法は戦場を照らす炎のはずだ。
しかしその時、炎は見えなかった。
それは人の心臓のごく細かな急所だけを焼く小さな火であり、目の前にいる死に装束を着た覆面の男を、ごく短く藻掻かせ、絶命させた。
同じことをやってみろと、イェズラムは促した。
命じられるまま、ギリスは試みた。一人、また一人と罪人は命を失っていったが、あるものは一瞬にして全身凍り付き、ある者は中途半端に凍って、中々上手くいかなかった。
罪人たちは、いくらでも運ばれてきた。
作業に没頭するうち、ギリスは悪面の中で、滴るほどの汗をかいた。
氷結の魔法を使うというのに、魔力を振るうと、いつも身のうちが灼けるようだった。
では、火炎を使うイェズラムの魔法は、彼の体を冷やしているのだろうか。
自分が茹だるのと逆に、彼はいつも凍えながら戦っているのだろうか。
そんなことを考えながら、試み続けるうち、やがて針のような薄氷が、罪人の心臓をとらえ、ギリスは成功した。
嬉しさのあまり、ギリスは悪面を剥いで、隣に立つイェズラムに笑いかけた。養い親は、そんなギリスをひどく暗い目で見下ろしていた。
イェズラムはギリスの手から悪面を取り上げ、それを刑場の床に叩きつけて割った。その音に、怒鳴りつけられたような衝撃を感じ、笑みを失ったギリスの頬を、イェズラムが平手で打った。
ギリスを殴る大人は、これまで一人もいなかった。殴っても痛みのない者を撲ったところで、なんの意味もないと皆思うようだった。
「この仕事に英雄譚はないぞ」
今も鮮明に耳に残る声で、イェズラムが語っていた。
「殺しをやるときは、泣きながらやれ。今すぐ聖堂へ行って、同族殺しの赦しを乞うがいい」
刑場の扉を指して、イェズラムはギリスを追い立てるように言った。
本物の悪党にはなるな、悪党・ギリス。
いつも汚れない身でいろ。お前は新星のための英雄になるのだから。
そう言い終えて、イェズラムは自分が使った悪面も床に落として粉々にした。それは仮面に押しつけた罪を祓うための習わしなのだ。ずっと後になってから、ギリスはそれを知った。知らずにいたあの瞬間には、イェズラムが怒っているのだと信じて、追われる犬のように刑場から逃げ出した。
聖堂で跪き、赦しを乞うた天使像の白い顔を、ありありと思い出せる。赦しを求めて、必死で祈った。あのとき自分が祈っていた相手が本当は誰だったか、今なら分かる。
なぜ死んだんだ、イェズラム。どうして帰ってこないんだ。
英雄譚がそんなにいいものか。
思い出に残るだけの顔に、ギリスは問いかけた。
族長は、詩人達の声が枯れ果てるまで、何度もイェズラムの最期の英雄譚を詠わせた。玉座の間に繰り返し流れるイェズラムの死の話を耳にしていると、ギリスは耐え難い怒りで頭が割れそうだった。
玉座から、イェズラムの英雄譚を聴き、英雄の死を骨まで貪ろうとする族長が憎く思えた。
名君だかなんだか知らないが、本物の名君だったイェズラムが死んだのに、その小綺麗な人形が、殉死もせずに生き続けているのは、おかしいと思えた。
王族なんて。
派手に着飾り、えらそうに命じることしか出来ないような連中だ。
本当に力を持っていたものが、族長冠をかぶるべきだった。
新星がどうのこうのと、イェズラムは馬鹿だ。さっさとあの玉座に、自分で座ってしまえば良かったのだ。
君臨するのに血筋などいらない。彼の操る炎に、いったい誰が不足を感じただろう。
そう思ってから、ギリスはふと、ほとんど吸いもせず持っていた長煙管が、すでに燃え尽きているのに気付いた。
無駄に燃やした麻薬は、ただ冷たい匂いを寝床に燻らせただけで、多くの追想をギリスに与えはしたが、わずかの酔いすらもたらさなかった。
煙管を握りしめたままの手で、ギリスは頭を抱えた。
思い出は一片の悲しみもなく、その日々を過ごした幸福感だけを連れてきていた。それと相反する、やり場のない怒りが、ギリスの頭の中で煮えたぎり、ひどく矛盾するふたつの力として鬩ぎ合っている。
これが苦痛というものではないかと、ギリスは思った。石の痛みに悶える仲間の姿と、今の自分はよく似ている。無様で、哀れで、醜く、いっそ死んだほうがましだと心にもない弱音を吐いて、のたうち回る。本当はただ、幸せに生きていたいだけなのに。
助けてくれと、ギリスは祈りかけた。
その隣で、何の前触れもなく、眠っていたスィグルが藻掻くようにして、目を醒ました。
身を起こして、驚いた顔をしているスィグルの黄金の目と、ギリスもやはり、ひどく驚いて見交わした。
寝乱れた黒髪の間から、スィグルの蛇眼は、爛々と光って見えた。玉座に座っているあの男と、よく似た目だった。
寝ぼけ頭を振り払うように、スィグルは小さく頭を一振りした。そしてギリスがまだ寝床で頭を抱えているのを見下ろし、その手に握られている長煙管を、汚らわしいもののように睨み付けた。
「臭いと思った」
出会い頭に斬りつけてくるような口調で、スィグルは言った。
「僕の部屋で吸うのはやめてよ。臭いが残るんだよ。我慢ならないんだ。何度言えばわかるんだよ、この馬鹿め」
寝起きの不機嫌はいつものことだった。
それにしたって、よくもここまで人をなじれるもんだなと、ギリスは呆気にとられてスィグルを見上げた。
「ここは俺の部屋だよ」
ギリスが教えると、スィグルは二、三度、どうしても呑み込めないという風に瞬きをした。それから彼は、まだ汗じみたままの顔を擦った。
「そうだった。帰らなきゃ……」
「まだ昼間だけど」
驚いて、ギリスは言った。スィグルが寝ぼけて、もう夜だと勘違いしているのだと思った。
「まったく昼間っから何をやっているんだか」
枕を見つめて、スィグルは独り言のように呟いた。
「話があって来ただけなのに」
「話なんか何もしてもらってないけど」
寝ころんだまま、ギリスは尋ねた。
「そりゃそうだろう。話す前になんだか良く分からなくなったんだろう。お前ががっつくから、話してる暇もなかったんだよ」
こちらの枕を叩いて、スィグルは苛立ったように言った。なんでこいつはいつも苛々しているんだろう。どうもそれは王族の者たちの性質のようで、イェズラムのところに時折現れる族長も、たいてい苛立っているようだった。
「拒めばいいのに」
それが当たり前だと思って言うと、スィグルはさらに腹を立てたらしく、ほとんど殴るような強さで枕を叩いてきた。
「やめろって言ったよ」
「新手で誘ってんのかと思った」
答えないでいるスィグルの顔は渋面だった。ギリスは黙った。これ以上怒らせると、何をされるか分からなかった。
「僕はグラナダに行くから」
突きつけるように、スィグルはその話を切り出した。
確かそれは、タンジールより西にあるスィグルの領地の名前だった。なにかの褒美で、族長が彼に与えた、小さいが豊かな鉱山都市だと聞いている。
「行くって、いつから」
「十日後に出立する」
勝ち誇ったように言うスィグルの顔に、ギリスはまた唖然とした。
「もっと早く言えよ、そんなこと」
「生憎、お前と違って忙しくって、話す暇もなかった」
なんだか偉そうに言うスィグルの言葉は嘘ではなく、このところ中々捕まえる機会がなかったのだった。宮廷の博士たちと引きこもって、スィグルは毎日、訳の分からないことを、ぶつぶつ言っているらしかった。
「じじいと逢い引きするのが忙しくて、俺は放ったらかし。お前の趣味の幅広さにはびっくりする」
「そういう想像しかできないのか」
憤慨して、スィグルはまた寝床を叩いた。
それが面白くて、ギリスは笑った。
「僕は人質時代の遅れを取り戻さないといけないんだ。お前とふらふら遊んでばかりいるわけにはいかないんだ」
どことなくふて腐れた顔で、スィグルは言った。言い訳めいていて、おかしく、ギリスはまた笑った。
確かに一時、毎日ふらふら遊んでばかりだった。最近やっと我に返ったらしく、スィグルはずいぶん連れなくなった。毎日だったのが、三日と空けずになり、それが五日になり、しばらく晩餐のときにしか口をきかないこともあった。
そのことに文句を言った憶えはないのだが、なぜか後ろめたそうに言い訳される。
「寂しかったかギリス」
子供っぽい顔でスィグルが尋ねるので、ギリスはまた笑いそうになった。そうしていると可愛げのある弟だった。
「寂しかった」
相手の望むまま返事をすると、それは確かに本当のように思えた。
ギリスには寂しいという感情は、良く分からなかった。ひとりでいると退屈だった。ぼんやりと追想に耽るばかりで、何かをしようという気になれない。そういう時にスィグルの顔を見られれば幸せな気がした。そういう感情を、人は寂しいと呼ぶのだろうか。
「グラナダにはどれくらい行くんだ」
寂しいな、と内心に呟いてみながら、ギリスは尋ねた。
スィグルはじっとこちらの顔色をうかがっていた。
「一年か二年ぐらい」
けろっとして言うスィグルの言葉に、ギリスは殴られたような衝撃を受けた。開いた口がふさがらず、ギリスは返事をしかけたまま、呆然とした。
「お前、分かってて言ってんの。俺の一年が、お前の一年より、ずっと貴重なんだってことが」
想像もしていなかった出来事に、ギリスは動揺した。口に出してみると、自分の言葉の正しさに、さらに胸を打たれる。
「そろそろ僕も、統治することを憶えようと思って」
ずれた答えを返すスィグルは、悪びれもせず、じっとこちらの目を見つめてくる。
「季節の移りに合わせて起きる出来事を学ぶために、最低でも一年。できればもう一年は、領地に留まっていようと思う。それ以上タンジールを離れるのも難があるので、そのあとは戻るつもりだけど」
「継承争いはどうなったんだ」
「最下位の者がこれ以上、どう落ちるっていうんだい」
必死で尋ねたつもりだったが、スィグルはこれにもけろりと居直ったふうに答える。
「計画をまとめて願い出て、父上に許可をいただいた」
「弟はどうするんだ」
「あいつは大丈夫だよ。父上が面倒みるだろう。僕のことはまた忘れるだろうけど、そのときは、そのときさ。僕にも自分の一生がある」
そう答えるスィグルの捌けた口調は、どこか強がって自分に言い聞かせているようにも聞こえた。ギリスは顔をしかめた。
タンジールを出ていくなんて、そんなことが起こるはずない。王族は領地を持っていても、そこへ直接に出かけていくことはない。家臣に統治を委任して、王宮からそこを治めるものだ。
「僕が人質として滞在していたトルレッキオは、学院なんだけど、小さな宮廷としても機能していたんだ。子供ばかりだけど、その中に族長がいて、学院を統治していた。継承して本当に統治する前に、失敗しても取り返しのつく場所で、その訓練をするわけさ」
優れた仕組みだと思わないかと、スィグルは同意を求めてきた。
異民族を誉める話に、ギリスはすぐには付いていけなかった。王宮の感覚として、もっとも優れているのは黒髪に蛇眼を持った同胞たちで、それ以外のものたちは皆、どうしようもなく野蛮で愚かな異民族だった。学ぶべきものなど、領境の外には何一つありはしない。そう思っているのが黒エルフというものだ。
「僕も、玉座を目指すというなら、それに必要な資質が本当に自分の中にあるのか、試しておくべきだと思って」
「イェズはお前を新星だって言ってた。試す必要なんかないよ。イェズの目に狂いはないから」
諭しながら、スィグルは本気なのだと悟って、ギリスの心臓は早鐘を打ち始めた。
こいつはまた王都から出ていく気なんだ。やっと戻ってきたばかりなのに、また行ってしまうつもりなんだ。声も聞こえなきゃ、顔も見えないところへ。
「エル・イェズラムが僕の何を知っていたっていうのさ」
苦笑して、スィグルは少し照れたふうに、乱れた髪を耳になでつけた。
「グラナダでうまくいけば僕にも自信がつくよ」
「自信なんて……玉座に座ってからつければいいだろ」
言うだけ無駄だとギリスは思った。
死線に向かってタンジールを出ていくイェズラムを、止められる者が誰一人いなかったように。
早すぎる鼓動を打つ心臓が、頭にやたらと血を追い上げ、ギリスは自分がのぼせてきたのを感じていた。枕にくずおれて、ギリスはなんとか諦めようとした。
イェズラムと違って、スィグルは死にに行くわけではない。また戻ってくる。一年か、二年かしたら。ひょっとしたら領地が面白くなって、三年先かもしれないが。
待っていればいいではないか。以前そうだったように。
新星が戻ったら、兄と弟だ。そう思って待っていた頃には、退屈な以外、さほど困りもしなかったではないか。
苦しいなとギリスは思った。
これが苦しいという感覚ではないか。
誰もいないイェズラムの部屋を見るときの気分。いつ帰るかわからない弟を送り出す気分だ。
痛みについて学ぶことができる。なにかを愛すると。
「明日の朝儀で族長から宣下があるよ」
「王宮から自分を追い出すやつがあるかよ」
苦い味のする舌で、ギリスは悪態をついた。
継承争いは王宮で行われる。族長冠をめざす者たちにとっては、玉座の間がこの世界の全てだ。権謀術数と、派閥の争いが、族長の血を引いて生まれてきた者たちの生涯の全てだ。彼らは王宮から一歩も出ずに生きていく。そうしなければ出し抜かれるからだ。
それに与する竜の涙たちも、大差はなかった。戦場と王宮を往復するだけで、短い一生のほとんどの日々は、このタンジールの地下深くに収まってしまう。
「やる気あんのか、スィグル」
「なかったら、もう、兄でも弟でもないか?」
じっとこちらの顔を見て、スィグルは尋ねてきた。金色の眼が、灯火を絞った部屋の薄闇の中で、爛々と魔力を宿した星のように煌めいていた。
お前が俺の新星じゃなかったら、いったいどうしたらいいんだ。
「いっしょに来なよ、ギリス。タンジールが世界の全てじゃないよ」
首をかしげて、さも大したことではないというふうに、スィグルは言った。
タンジールは世界の全てだ。族長冠を継ぐつもりなら、そうであるべきだ。そう言いたかったが、息がつまって、ギリスはなにも言わずにいた。
「グラナダに僕らのための小さな玉座の間を作ろう。女官も詩人も楽師も連れて行くよ。そこでは僕は小さな族長さ」
おかしそうに言って、スィグルは笑った。
「僕の街では、畑に金の麦が揺れて、男も女も平和に歌を歌って暮らすんだよ。お前はそこで英雄の役をやったらどう」
「むちゃくちゃな話だ」
「僕は真剣に頼んでる。グラナダで君臨することを学ぶ。タンジールで兄弟げんかに明け暮れるより、ずっと将来の役に立つはずだ。お前が来ないというなら、タンジールに捨てていく」
誰にも知られずに相手の息の根を止める魔法を、こいつも知っているのではないかと、ギリスは思った。悪面もかぶらず、花が咲いたような顔で、人を処刑する。
こいつもあの族長の子なんだ。ギリスは初めて、それを感じ取った。
絵の中から出てきたみたいな顔で、平然と命じる。戦って死ねと。その声に誰もが狂喜して従う。そういう風な悪魔の血が、この白い体に流れている。
「僕のためなら何でもできるんじゃなかったの」
とどめを刺すような甘い声で、スィグルが誘っていた。
「それはタンジールで玉座を争うとしての話だよ。継承争いに敗れたら死ぬんだぞ」
「これが僕の争いかただよ、ギリス。信じてついてくればいいんだ。僕の都には、天使だって祝福しにやってくる」
悪戯っぽく笑うスィグルの、企みを持った悪童の目に、ギリスは逆らえなかった。
なんなんだこいつは。寂しがって彷徨っていたひ弱な餓鬼だったくせに。それが今では、俺にひれ伏せと言っている。
「無理ならいいよ。お前はエル・イェズラムに命じられて来たんだろ。今から他のやつに乗り換えても、僕は気にしないよ。長老会と相談しておいで。稀代の英雄にだって、見込み違いはあるさ」
寝床から出ていこうとするスィグルの腕を、ギリスはとっさに掴んだ。今この手を離したら、かすかな糸で繋がれていた絆は切れる。
そんなもので彗星を引き留めておけると信じていたほうが、頭がどうかしているのだ。
「どうしたのさギリス」
「イェズラムは見込み違いなんかしない。お前が、俺の新星なんだと思う。でも、思ってたような星と違う。俺がお前の役にたつかどうか、分からなくなってきた」
彗星レイラスは、悪面の男を必要とするような星ではないのではないか。もしもそうだったら、何の用もなさない者として、どうやって一緒に歩んでいけるというのか。
「さあ……お前にだって使い道はあるよ」
考え込むように指を顎にやって、スィグルはギリスの顔を見た。
「いつもみたいに笑って、僕を励まして。腹が立ったら八つ当たりさせて。一緒に食べて、一緒に寝て、一緒に戦ってくれれば、それでいいよ」
「八つ当たりはやめてほしい」
「それじゃ交渉決裂だな」
楽しげに、スィグルは声をあげて笑った。なぜ彼が笑うのか、ギリスには分からなかった。たぶん、冗談を言っているのだろう。ギリスはつられて苦笑した。
イェズラムはなぜ自分で玉座に座らなかったのかな。
それはたぶん、同じ闇夜を行くのなら、星を見ながら歩くほうが、楽しいからだ。
「わかった。八つ当たりしてもいい。俺も連れて行って」
答えると、スィグルは微笑んで、腕をつかんでいたギリスの手を外させ、その手と握手をした。いつもは手を引くために握っていた手だった。それが今は、この手が自分を引き立てていこうとしている。
新しい広間へ。
そこで助け合い、そこで争い、そのために命を捧げられると思えるようなものか。イェズラムが、タンジールの玉座の間を、命をかけて愛したように。
そうだといい。もしそうなら、無痛のギリスの生涯も、甘い痛みとともに過ぎてゆくことができる。
ギリスはスィグルの手を引き寄せて、まだ腕の中におさまる体を抱きしめた。いずれ跪いて叩頭するしかなくなる時まで、あと何時間残されているだろう。
それでも今はまだ、微笑む新星の顔は、口付けを拒みはしなかった。時をかけて、ギリスは触れるだけの接吻を降らせた。針のような切ない痛みが、甘く心臓を襲った。しかしそこに苦痛はなかった。ただ底知れない幸福感があるだけで。
振り返って見ると、夕景に佇むタンジールの尖塔が、最後の日を浴びて、まばゆく輝いていた。
夜の砂漠を行く隊列は、すでに出立の準備を整えている。
永遠に去るわけではない故郷が、ギリスにはひどく遠くに感じられた。
次に戻るときには、おそらくタンジールは戦場で、新星は戦いの狼煙を上げるつもりでいる。言葉にして確かめたわけではないが、その予感に間違いがないことを、ギリスは感じていた。
一生のうちに残された、最後の静寂のときが、これから始まろうとしているのだ。
旅装で砂牛の鞍に乗っているスィグルを横に見て、ギリスはその取り澄まして気位の高そうな横顔を眺めた。
進み始める隊列が、別れを告げる声で、麗しの(フラ)・タンジールと叫んだ。
楽園が遠ざかる。
新星に付き従う者たちは、宮廷と呼ぶには、あまりに少なかった。
しかしスィグルはそんなことは気にならないという顔で、誇り高く胸を張っていた。その光輝を振り仰ぎ、ギリスは旅立ちの手綱をとった。
いつか英雄譚が語るかもしれない。今この時の無痛のエル・ギリスの姿を。
もしも自分が英雄らしく死んで、それを詩人たちが詠うときが来たら、目の前にいるこの新星が、彼のための玉座に座り、詠う声の枯れ果てるまで、繰り返しそれを聴いてくれればいいと、ギリスは願った。
詩人たちは記録するだろう。イェズラムがそうだったように。
自分がこれから捧げる命のことを。愛のことを。甘い痛みとともに生きた、幸福な一生のことを。
「グラナダに着いたら、まず何をするんだ」
ギリスは鞍の上のスィグルに話しかけた。
そうだなあ、と、新星はのんびり答えた。
「お前と歌でも歌って、それから昼寝でもしようか」
なにも考えていない。これから決めると笑っている顔が、ギリスには何より愛しかった。
詩人たちは讃えるだろう。
自分が新星のための英雄であったことを。
そうであればいいと、ギリスは願った。
【完】
※これ以降のBL修行作品は乙女堂( http://otomedo.com/ )にあります。