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「クスリ……あのクスリをくれ……」
カビで黒ずんだぼろを纏い、髭を伸び放題にした浮浪者が、これまたあちこち擦り切れたぼろを纏う青年に向かって縋りつく。青年――ロブは顔をしかめ、懐から取り出した赤い粉末の入った小瓶を浮浪者に見せつける。
「まず金だ。五シリング出せ」
浮浪者はあんぐりと口を開け放つ。何とか職にありついている奴らでも、週に十シリング貰うのがやっとだ。働いてすらいない彼が払えたものではない。彼は禁断症状を起こしてがくがく震えながら、ロブが握りしめる小瓶に向かって手を伸ばす。
「無理。無理……どうか……」
「うるせえな! じゃあどんだけ金あるんだよ! あるだけ寄越せ! それで手打ちにしてやらぁっ!」
ロブは浮浪者を蹴りつけ、唾を飛ばしながら喚く。ロブは何年もクスリを売り捌いてきた。こんなクスリで身を持ち崩した浮浪者などに構わず、ジンの味に飽きてきた奴らを相手にすればいいことは、体感的に知っている。
しかしダメなのだ。手練れた売人ほど、今はヤバいと知っていた。手元にあるクスリをさっさと売り払って、大人しくしておくべきと気づいていた。たとえタダでクスリを渡すことになったとしても。
「金……? 金なら、もう全部、お前に渡した……だから」
「だぁーっ! 畜生わかったよ! こんなもんくれてやる!」
息も絶え絶えに訴えかけてくる骨と皮だけの男に、ロブはとうとうやけを起こして小瓶をあるだけ投げつけた。
「あああ……くすり、クスリ……」
虚ろな目、涎を垂らしたまま、地べたに散らばった小瓶を男は這いずって掻き集めようとする。気味の悪さに口元を歪めると、ロブは身を身を翻して路地を離れる。売人の連続殺人が起きてからというもの、ロブの同業者は次々と降りた。
今のロブのようにタダ同然で叩き売ったり、あるいは川に投げ捨てたり、またあるいは自宅に隠したりして、とにかくクスリとの関わりを隠そうとした。今こそ好機と、必死にクスリを握りしめて売人を続けようとする命知らずもいるのだが。
(俺はあんな素人みたいにはならねえ。プロなんだ。今を何とかしのいで、またクスリを売り捌――)
心の中で、自分に言い聞かせるようにしながらロブは歩き続ける。
クスリで狂った奴が強盗を仕掛けようとしたり、恋人を壊されたなどという逆恨みで刺そうとしてくる奴は前にもいた。しかしロブは一人一人確実にいなしてきたのだ。
今回も、何とかしてみせる。路地の出口を前にして、彼はそう心を決め直したのだが。不意に現れた二つの人影が、思い切り出端を挫いてしまった。
「きえええ! 『吸血鬼』!」
ロブは真っ青になって尻餅をついた。黒い帽子に黒いコート。厳しい目元が威圧感を放っている。そのだぶついた懐の内側には、噂の瀉血器具が入っているに違いない。隣にいるのは仲間だろうか。市章が輝く制帽に、黒いコート。間違いなく警察の人間だ。何という事だ。吸血鬼は警察とグルなのか?
「違う。大声で人を殺人鬼呼ばわりしないでくれるか」
山高帽の男は一気に渋い顔をすると、尻餅をついたロブの襟元を掴み、無理やり引っ張り立たせた。そう。彼らはつい先ほどイーストサイドにやってきたリチャードとエルヴィンだったのだ。
「お前、ヤクの売人っぽいな」
崩れそうなレンガの壁にロブを押し付けるなり、リチャードは探るような視線を彼に向けた。突然の言いがかりに、ロブは首を傾げてみせる。だが図星だ。顔が真っ青だ。
「は、はぁっ? 何言ってんだ、お前?」
「ここに住んでる野郎でそんな血色良くいられるのは酒屋かヤクの売人くらいのもんだろ。そうじゃなかったら泥棒だな」
「う、うく……」
ロブはろくに言い返せない。黙り込んでいると、エルヴィンは路地の向こうを指差しさらに追い詰める。
「それにだ。あの男、どうにも挙動が不審だぞ」
「え?」
二人も振り向くと、そこには瓶を開けて赤い粉末をしこたま吸い込んでいる男がいた。すっかり興奮して顔に血を上らせ、全身使って息をしながらクスリを吸い続けている。
「ハァーッ! ハァーッ! これだ。この感覚! オレは強い! とにかくすごい力がある! オレは何でも出来る! オレは……!」
いきなり浮浪者の男は奇声を上げる。目を赤く血走らせ、獣のように唸り、四つん這いのまま三人に向かって襲い掛かってきた。
黄ばんだ歯を剥き出し、ぼろきれを獅子の鬣のように振り乱して。