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アントニーは、先程の幽鬼と同じくらいの勢いで彼女に突進した。壁に彼女を叩きつけ、両肩を掴んで彼は必死に訴える。
「頼む! 金なら、幾ら、でも……」
しかし、その言葉は途中で途切れた。その煽情的な胸元をちらりと見遣った瞬間、彼はとんでもない違和感に気が付いたのだ。真紅のドレスだとアントニーは思っていたが、実際見ると所々白い部分がある。
濡れた肩を掴む感触もおかしい。何故かぬめっている。反射的に彼は女から手を放し、自分の手のひらを見つめた。真っ赤に染まっている。血だ。
「あ、あばっ」
アントニーは口を震わせ、小さな悲鳴を漏らした。彼は気づいてしまったのだ。彼女は真紅のドレスを纏っていたわけではない。純白のドレスを纏っていたのだ。……真紅だと思っていたのは――
「ひ、人ごろ――」
「ごめんなさいね。私、売りたい人にしか売らない主義だから」
「あひっ。そんな。俺は……」
悪戯っぽく笑った女に対して、恐慌したアントニーはしどろもどろに呟く。今にも気を失いそうだ。足ががくがくと震える。雨に濡れて目立たないが、もう漏れている。
そんなアントニーを舐める様に見渡すと、女は蠱惑的な視線を送り、そっと耳元に寄って囁いた。
「まあ、そんなにしたいなら考えてあげるけど? 必要な代償は、もうわかってくれたでしょ?」
「きえええええっ!」
女のような悲鳴を上げ、アントニーは再び逃げ出した。もうファックしたいとすら思えなかった。とにかく逃げて、どこかに隠れたかった。
(この街はおかしい。どっかに逃げないと。どこかに逃げないと殺される……)
ようやくまともな結論を出すことに成功したアントニーは、その足をイーストサイドの外へと向けて走った。ひたすら悲鳴を上げながら、外へ外へと。酔っ払い達を蹴飛ばし、ヤク中達を突き飛ばし、彼は走った。
しかし、いきなり目の前に人影が差し込み、したたかぶつかったアントニーは尻餅をついてしまった。人影はハッとなり、慌ててそばに屈み、小さく頭を下げる。
「すまん! 急いでいるからこれで勘弁な!」
「急げリチャード! このままでは……!」
黒のインバネスコートに黒の山高帽を合わせた中年男は、遠くから呼ぶ低い声に反応して振り返る。
「わかってるっつの! 本当にすまん!」
彼は駆け出しながらアントニーに謝罪のジェスチャーを送り、イーストサイドの闇へと消えてしまった。突然の出来事にアントニーはしばし茫然となった。何があったのかすらよくわからない。
しかし、やがて肺さえ押しつぶしにかかる恐怖が押し寄せ、アントニーは何かに引っ張られるように走り出す。一生分の体力をここで使い切るかのように、彼はひたすらに走った。泥に足を取られ、ごみに蹴躓きながら、それでも走り続ける。
アントニーが走っているうち、遠くが不意に騒がしくなった。悲鳴とも歓声ともつかぬ叫びが、街に反響して聞こえてくる。
(何だ? 何が起こっているんだ?)
それは好奇心などではない。何か良からぬことが起きているのでは、という純然たる恐怖だった。しかし、彼はうっかりその方を振り返ってしまったのだ。
瞬間、アントニーは首筋に殴られたような衝撃を感じた。背中にぴったりと誰かがくっつき、ひっそりとアントニーに囁く。
「むむむ……君の血、あんまり綺麗じゃないねえ……」
青年と思しき声。アントニーは目を見開き、悲鳴を上げようとする。しかし後ろから伸びた手が顎元を締め上げ、彼を素早く黙らせる。
「ダメだって。今君の血を集めてるんだから」
アントニーは目を落とす。ガラスの管が首筋に突き刺さり、脈々と溢れる血が透明な瓶の中に流れ込んでいた。アントニーは背後の青年を振り払おうと必死に暴れるが、血がますます溢れるばかり、ますます死に近づくばかりだった。
「いやいや、悪いねえ。わざわざ手伝ってくれるなんて」
(何で! 何が? 死ぬ? 死ぬ!)
パニックになるアントニーだったが、血の気を失った彼はこれ以上暴れることも出来ず、ふらりとその場に崩れる。目の前の視界が歪み、耳鳴りもする。瓶一杯に血を集めた青年は、一気にガラス管をアントニーの首から抜き放った。のろのろと血が溢れ、ぬかるむ道路を汚していく。
「ありがとう。君の血は無駄にはしない。本当にありがとう」
白衣の上からマントを着込んだ青年は喜色満面に微笑み、手を振って走り去った。
後に残された青年は、天を見上げてぼんやりとする。もうまともに何かを考えることも出来ない。首筋の鈍痛と、鉛を胃に押し込まれたような気怠さだけが彼をこの世に繋ぎ止めていた。
(おかしい……何で。死ななきゃ――)
アントニーはがくりと崩れる。イーストサイドで誰かが死ぬなど日常茶飯事だ。金で揉めた娼婦が死に、アルコールで頭をやられた飲んだくれも死ぬ。不良に目をつけられた物乞いだって死ぬのだ。アントニーの死も、イーストサイドにおいては同じくらい無価値なものなのだ。
だが、彼は間違いなくその日、数奇な運命を辿ったのだ。彼は、その日、イーストエンドの影に蠢く三人の殺人鬼に出逢ったのである。死は無価値でも、その運命には価値がある。
ついでに、彼はまた出会っていたのだ。サースタウンに暮らし、そんな殺人鬼達を追いかけている、一人の探偵にも。
殺人鬼達の夜 Fin