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数日後の夜のこと。黒いコートを着込んだニコラスは鼻歌混じりにイーストサイドを練り歩く。このままではおれんと立ち上がった自警団達が、鉈持ち棍棒持ち、血眼で殺人鬼を探していた。そんな彼らの姿を一瞥すると、ニコラスはあばら家とあばら家の隙にその身を滑り込ませる。その奥に、兄の観察対象は寝ているのだ。彼は無邪気に笑うと、猫の額ほどの空間へと足を踏み入れた。
「やあ。来たよ!」
「ああ。クスリ……クスリをくれ……」
真っ青な顔で横たわっている浮浪者。彼は打ち上げられた魚のように、口をパクパクさせて、ニコラスをじっと見上げている。ニコラスはそんな男の弱り果てた姿を見て、溜め息を吐く。
「あーらら。クスリが切れたらすぐこれだもん。全く情けない奴!」
「あひっ」
ニコラスは浮浪者の尻を蹴りつける。鈍い音が周囲に響き渡った。もぞもぞと力なく蠢く浮浪者の尻を、ニコラスはさらに何度も何度も蹴りつける。
「ううー。イタイ、イタイ……」
「痛いかい? 痛いだろう? なら僕の言うことを聞くんだ。ずっと聞くんだよ? クスリを使ったってそれは変わらないんだ。いいかい?」
「ハイ……わかりました。わかりましたから……クスリをください……死に、そう」
蹲って懇願する浮浪者を、ニコラスはゴミを見るような目つきで見下ろす。いや、ゴミを見るときでもこんな黒々とした目はすまい。ニコラスは懐から紅い粉末の入った小瓶を取り出し、小さな手の内で弄びながら彼を見つめる。
「どうしようもない奴だなぁ。このクスリのせいで死にそうになってるのに」
「は、はい……何でも、言うことを、聞きます……」
もはやニコラスの呟きすらまともに聞こえていないらしい。ニコラスはせせら笑いつつ、小瓶を浮浪者の横顔に向かって落とした。
「仕方ないなぁ。ほら、クスリだよ」
「ひぃーっ! クスリだ!」
いきなり浮浪者は飛び上がり、獲物を見つけた獣のようにボロを振り乱して小瓶を掴み取る。震える手では、コルク栓を外すのももどかしい。ややあって何とか外すと、彼は薬瓶に鼻を押し付け、一気に粉末を吸い込んだ。瞬間に、アヘンやコカインなんかとは比べ物にならない快感と万能感が浮浪者に襲いかかる。
「アア、いい。キタキタキタ、俺は出来る。なんでも出来る。とにかくそれだけの力がある!」
彼はそう言うと、目を光らせて立ち上がる……も、いきなり唸って四つん這いになった。涎をだらだらと零しながら、野犬のように野蛮な目つきで、喚き吠え始める。与えられる快感は十倍だが、アタマのやられ方も十倍なクスリだった。ニコラスは肩を震わせながら高笑いし、獣同然になった浮浪者を見下ろした。
「お似合いだ! お似合いだよその恰好!」
少年は腰に提げていた鞭を手に取り、男の尻に叩きつけた。犬のようにキャンと喚いて、男は慌てて縮こまる。怯え切った目で、男は少年の事をじっと見上げた。
「さあ、食べていいよ。食べることを許してあげるよ。今日も一人分、女を探して食べるといいよ。女の血は上手かっただろう?」
鞭をぶらぶらとさせながら、ニコラスは男の耳元で小さく囁く。男はうんと呻くと、身を翻して駆け出した。ニコラスはへらへらと笑い、その後をちょこまかと走って追いかける。
「さあさあ。行けよ」
男は四つん這いのまま駆け出し、通りの中に駆け出した。初めてクスリを使った夜に、女を噛み殺してその味を占めた。クスリを使う度、その情動に駆られる。不審を感じて駆け寄ってきた自警団達を跳ね飛ばしながら、男は少しでも美味そうな女を探して走る。
喧噪響き渡る通りの向こう、一人の女が立ち尽くしていた。古びたドレス越しに窺える、すらりとした線が美しい。物憂げな顔で俯き、長い髪が色白の顔にかかっている。その目が男に向けられた瞬間、もう男は駆け出していた。多少やせぎすでも構わない。パンよりも軽く股を開く女ばかりのこの街で、生娘のような奥ゆかしさを見せるその女は、男の肉欲を激しくそそった。唸りながら、男は女に向かって飛びかかる――
「やれやれ。本当に来るとは思わなかった」
何という事だろう。刹那、女の姿は桜吹雪となって散り行き、ヘイアンスタイル、羽織に袴を纏う男へと変わってしまった。その顔は、狐の面で覆い隠されている。誰もがわかる。イーストサイドを彷徨い、悪を裁く謎の男、フォックスだった。
「あひいっ! 女が! 女が男に!」
突き飛ばされた男は、思わず我に返って狂乱する。一気に戦意を喪失し、縮こまってがくがくと震え始めた。
「ちえっ。これじゃあ望み薄だな……つまんないの。兄さんに言ってこなきゃ」
物陰から見ていたニコラスは舌打ちし、くるりと身を翻して走り出す。狂った獣男と突然現れた狐面の男に自警団は視線を奪われ、そんな少年の動きには気づかなかった。
「さあ、年貢の納め時だ。娼婦殺しに便乗して自らの欲求を叶える愚か者め。今のうちに後悔しておけ」
「ひ、ひ……」
男は泡を食って縮こまる。月の光を受けて、純白の狐面はさらに怪しく輝くのだった。