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イーストサイドには、雨が良く似合う。その街の雰囲気をよく盛り上げてくれる。
安酒で簡単に酔っぱらった気息奄々の労働者達が泥まみれの石畳に転がり、ぐしょぬれでぴたぴたになった薄っぺらな服を纏い、街娼が流し目を送るのだ。
ちょっと路地に入れば、クスリで目を回しているいかれた奴らもうずくまっている。そんな素晴らしい街だ。
アントニーはそんな街に住むしがない工場労働者だった。巨大な工場に勤め、週に一回少しばかりの給金を貰っていた。
毎日食べていくのがやっとというくらいの額だが、彼はひもじい思いをしながら、酒も飲まずにそれを貯めた。毎週二シリングくらいずつ、ちょこちょこと貯めた。
それで何をするのか? 平凡な一般市民が暮らすサースタウンに、自分の店でも開くのか? そんなことはない。女を買うのだ。一月に一回、ヴァネッサを買うのだ。
今夜はそのヴァネッサを買う日だった。最近はほんの僅かだが暮らし向きが良くなった。道端に転がる痩せこけた酔っ払いたちを優越感に浸って眺めながら、アントニーは雨に濡れる通りを歩いていた。
お前らとは違う。俺は酒なんかより、もっといい事に金を使うんだと、内心勝ち誇っていた。
「誰か……一ペニーでいいんです。金を……」
「お前さあ、恥ずかしくないの? 俺達みたいに、真面目に働けよ? 地獄に、落ちちゃうよ? ん?」
ボロきれを纏う浮浪者が、空き瓶を差し出し道行く人々に金をせびっていた。
酒に酔って気が大きくなった奴らが、浮浪者を散々にけなしながら、小銭をビンに放り込む。浮浪者は両手を合わせ、何度も何度もお礼を言う。イーストサイドではお決まりの光景だ。どん底にいるのは同じなのに、自分より下らしき人物を見つけては盛んに嘲弄するのだ。
(バカな奴らだ。そんな奴に金をやるくらいなら、少しでも貯め込めばいいってのに)
一人の女に金を注ぎ込みまくる自分の事は棚に上げ、アントニーは彼らの事を鼻で笑う。
(俺は偉いんだ。酒を我慢している。あんなふうに酔っ払ってバカな事はしない。そのご褒美がヴァネッサだ。ヴァネッサ……)
浮浪者の視線は全く無視して、アントニーは角を曲がる。そこに彼女の住まうあばら家はあった。軒先に立って、ヴァネッサは日々客を誘っているのだ。アントニーも、月末に貯めたお金を一気に叩いて、彼女と夜を共に過ごすのである。
(はあ。ヴァネッサ。今日も……)
一晩よろしく。と盛り上がりたいところだったが、アントニーは通りの真ん中ではたと立ち止まった。いないのだ。いつも道端に立っているはずのヴァネッサがいない。代わりに座り込んでいるのは、酒をボトルで呷っている一人の男だ。
「え……? ヴァネッサ……?」
アントニーは茫然と呟くと、慌ててあばら家の前まで走る。二、三年の間、アントニーが酔った帰り彼女に出逢ってからというもの、一月に一度の逢瀬は欠かしたことがなかった。しかしいない。あばら家の正面に立っても、中に彼女がいる様子は無い。
「嘘だ。何でいない?」
アントニーは焦りのあまりぶつぶつと呟くと、そばに座り込んでいた男を見下ろす。
「おい、酔っ払い!」
「何だ? いきなり叫ぶなよ。頭が、痛くなんだろ」
瓶を置いて、白髭の男は気怠そうに呟きアントニーを見上げる。灰色の瞳が、射抜くように彼を捉えた。一瞬怯みそうになったアントニーだったが、気を取り直して男に向き直る。
「お、お前。いつもここにいる女の事知らないか?」
「ここにいる? 女? いや。知らねえな」
男はちらりとあばら家を見て、静かに首を振る。アントニーは呻いて頭を掻いた。
(馬鹿な。なんで)
ヴァネッサは街娼だ。毎日朝から道端に立って、男を誘っているはずだ。客が取れればあばら家に迎え入れる。病気でもあばら家の中で寝ている。この辺りを離れる理由など、殆どなかった。頭が真っ白になったアントニーが立ち尽くしていると、男はふと顔を上げ、にやりと下卑た笑みを浮かべる。
「そいつが春売りってんなら、『フロワズブラッド』に殺られちまったんじゃねえか?」
アントニーは目を見開く。一気に血の気が引き、ガタガタと震えだす。買う買われるの関係に過ぎなかったが、それなりにアントニーはヴァネッサを愛していた。
「ふ、ふざけるなぁっ!」
「あばっ」
関節が浮くほど拳を握りしめると、アントニーは座り込んでいる男をいきなり蹴りつけた。男はあばら家の壁に叩きつけられて呻く。ジンの瓶が落ち、甲高い音を立てた。ろくでもない冗談は言ったが、いくら何でも理不尽である。
「畜生! ヴァネッサ! ヴァネッサ!」
アントニーは当ても無く走り出した。ヴァネッサは苦しい生活の中で唯一の楽しみだった。それを失くして、これからどう生きていけばいい。アントニーは彼女の名前を呼んで、酔っ払いだらけの暗い街を走り続けた。
だが、やがて走り疲れてきた。そのうちに気も変わってくる。実際ヴァネッサが娼婦殺しに襲われていたとして、どうやって助けるというのか? アントニーに答えは無かった。ヴァネッサはただの春売りだ。彼女にこだわる必要はあるのか? アントニーに答えは無かった。別の女を見繕えばいいのでは? アントニーはそんな気がしてきた。
(ヴァネッサは足元を見るようになってきやがった。大して美人でもねえくせに。そうだよ。何で俺こんな。全然、必死になることないじゃないか)
アントニーは立ち止まった。その途端に全く馬鹿らしくなった。別にヴァネッサと寝る必要などなかった。目の前にも娼婦が立っている。胸はヴァネッサよりも豊満だ。顔も好みだった。
(何だよ。アイツでいいじゃないか。アイツにしよう)
彼はいやらしい笑みを浮かべると、財布を取り出してその重みを確かめる。たっぷりだ。彼は頷くと、どこか呆けている女に向かって見せつけるようにしながら、ちょろちょろと女へ歩み寄る。
「おい、お前――」
しかし、その言葉は突然現れた影に遮られた。