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第八話 アーサの反逆

アーサのそれはそれなり

ラフィータは生まれがいいので方面によっては古風な考えを持ってたりします。

 ぱたん、とドアが閉められた。


 室内に一人取り残された男が執務机に向き合いながらしきりに額を撫でている。ポマードで固めた前髪が数本机上に散らばるのも気にしない。半開きの口は歪な笑みを示し、頬は痙攣と見まがうほどにひくついている。極めつけに、血走った藍色の瞳は男がいかに狂乱状態にあるのかを端的に示していた。


 男――――すなわち冒険者ギルドハクマ支部長、リルオネ=ロビンソンは窮地に立たされていた。

 先ほどまで支部長室にいた軍服の男達の姿が脳裏にまざまざと甦る。


 ダン! と鈍い音がする。

 ストレスに耐えきれなくなったリルオネは机を勢いよく叩いた。


「ほわああああああああああああ!!!」


 奇声を上げるリルオネ、

 彼が机を叩いた衝撃で、一枚の書類が宙を舞い、やがて床にほらりと落ちた。

 事務的な筆記体がしたためてあるその書類には次のような内容が記されていた。

 

 当冒険者ギルドに所属するカルーラ=ガロンの処遇について

 厳正な裁判の判決として、かの者を銃殺刑に処すことを決定した。

 刑法十二条より、上告はこれを認めない。

















 天が暗ければ地も暗い、などというのは田舎の話。

 陽が落ちてからというもの、ハクマの街では明かりが次々と数を増していった。

 行灯あんどんに照らされる大通り。街を行く冒険者達の姿がやわらかな光と影の中に浮き沈みしている。


 ラフィータ=クセルスアーチは窮地に立たされていた。


 ラフィータは自分の前を歩く少女をちらりと見る。

 うすく化粧をほどこしたような赤みがかった白髪が揺れている。ライバーホークを狩った帰りのこと。後ろ髪にクセがついているのは紐で髪を束ねていた名残である。


 ラフィータは少女に手を引かれていた。

 彼女の左腕が先を急ぎたくないラフィータを力強く引きずっていく。


「ねえ、アーサ」


 少女が足を止めてラフィータの方を振り返る。

 街の行灯が彼女の顔を照らしている。色味のうすい肌が橙赤色に色づいている。


「どうかしましたか」


「い、いや……。ほら、少し寄り道したいんだ」


「寄り道」


「うん。……こら、そんな顔するな。諦めてるよ、もう」


「でしたら、どこに」


「ついてきて。少し入り組んだ場所にあるから」


 今度はラフィータがアーサの手を引いて、大通りをいく。

 冒険者達の合間を縫うようにラフィータが進む。小さな体が人の流れに逆らって、彼は道端にたどり着くやいなや大通りから分岐する小路地に足を向けた。


 路地は閑散としていた。数人の冒険者が女の腰に手を回したまま談笑しているのが目に入ったほか、人の姿は見えない。それほど離れてもいないはずなのに表通りの喧噪がどこか遠くに聞こえる。


「マスター?」


 夜が本来持つ静寂が小路地に降り落ちていた。

 アーサが少し心配そうな声音でラフィータを呼ぶ。


「もう少しだよ。ここを曲がれば……、ほらあそこ」


 路地を曲がった先に小さな明かりが見えた。 

 軒先で灯された行灯が店の手前を照らしている。


 民工シャンベラ細工店

 行灯の隣に吊された看板にそう記してあった。


 ラフィータは暖簾のれんをくぐって店の中に入っていく。

 暗い店内は様々な工芸品が並べられている。商品が透明なケースに収納されているのは盗難防止の為だろう。受付付近に唯一灯された燭台から淡い光が放たれていて、その光を反射して工芸品はきらきらと輝いていた。工芸品は女物が多いようだった。アーサは不思議そうな顔でそれらを眺めている。


 店番の男がラフィータに気づき、気だるげに手を振ってきた。


「ういーす。らっしゃい。そっちのもらっしゃい」


「こんばんわ、オタバネさん。遅くまでご苦労様です」


「こんばんわ」アーサが丁寧に頭を下げる。


 店番の男はくわあ……とあくびをした。

 それから受付台の下に燭台を照らし、何かを探し始めた。


「例のだな、ラフィータ。確かここらに前もって……」


「お願いします」


 ラフィータと店番のやりとりをアーサが首をかしげて見ている。


「アーサ、あちらの男性はオタバネさん。昼間は冒険者、夜はこうして細工店を営んでいる」


「俺が営んでるわけじゃない。経営は女房任せ、俺は店番に駆り出される可哀想な夫、ってわけ」


 オタバネと呼ばれた男がラフィータを手招きしている。その手には小さな包みがあった。受付台の下から引っ張り出した物がそれだった。


 ラフィータは受付台に歩み寄り、財布から取り出した銀貨を一枚オタバネに渡す。


 オタバネが帳簿を指で指し示す。

 ラフィータはインクペンで帳簿にサインをすると、次いで懐から判子を取り出し、インクのついた面を帳簿にぐっと押しつけた。


「取引成立と。じゃ、これを」


 ラフィータは包みを受け取った。

 そして、彼はその包みをアーサに手渡した。


 表情を変えず包みを受け取ったアーサを見て、ラフィータはふふっと笑う。

 恐らくただの荷物持ちだと思っているのだろう。本当のところはそうではない。


 ラフィータが店を出る。

 オタバネは店先に出てラフィータに握手を求めてきた。


「オタバネさん。今日はありがとうございました。未払い分は必ずお支払いいたします」


「心配してない。これは命を救われた感謝のしるし。本当は代金なんて貰わなくてもいいんだから」


「そういうわけにもいきません。もう少し財布に余裕が出てきたら、またお訪ねします」


「そうだな。シャンベラ細工店をご贔屓ひいきに。って、女房なら言うのか。はは、商売文句が分からない。それじゃラフィータ、冒険者生活頑張って。夜道に気をつけて」


「はい。それではまた。さようなら」


「さようなら」アーサが続いて別れの挨拶をする。


 ラフィータが店をあとにするのと入れ替えに、一人の男が細工店の暖簾をくぐった。

 それを尻目にラフィータが独り言のようにつぶやく。


「クエスト帰りの冒険者が立ち寄ることが多いんだ。彼らの目的は僕と同じ、かな」


「はあ」アーサはとりあえずという形で相づちをうった。


「いずれ分かるよ。ところでアーサ、その包みは懐にしまって。大通りでひったくりに遭うといけない」


「はい。ところで、これは何なのでしょう」


「帰ってからのお楽しみ」


 酒に酔った冒険者からアーサを庇ったりしながら、ラフィータは大通りを目指す。


 大通りに出てしばらく進み、再び道を折れる。

 慣れ親しんだ宿への道、両脇の家屋から漏れる光と月明かりが夜道を進むことを許してくれる。


「マスター、オタバネ……さん? と、お知り合いだったのですか」


「ん、うん。アーサは知らないよね。ハクマの街に来た日、僕はキースと協力してグレイスフープを倒したって言ったろう。お前がギルドでドールの登録を受けているときの話」


「はい」


「ほとんど目立たずグレイスフープのマナだけを頂戴しようと思っていたんだけど……。グレイスフープのすぐ横で、オタバネさんが腰を抜かして座り込んでいてさ。それを助けたのが馴れそめ。あの人、助けた後も僕の姿ばっかり追ってたみたいで、僕の実力もそれとなく理解してる」


「それは……」


「大丈夫。オタバネさんはいい人だよ。あまり目立ちたくないって話をしたら、ああして噂も立てずにいてくれるし」


 今日買った商品も定価から大分値下げしてくれていたりする。

 ラフィータは本当に頭の下がる思いだった。


「オタバネさん、いい人」


「そう、彼はいい人」


 そんなやりとりをしているうちに、宿の目の前にたどり着いた。

 木造りのドアを開けると、赤々と灯るランプが受付を照らしているのが目に入る。

 受付ではいかつい顔をした老人が居眠りをしていた。


「ご主人、遅くなって申し訳ない」


 老人の体がびくりと揺れる。

 年配の主人はあたりを見回した後で、暗がりに立つラフィータとアーサの姿に気づいた。


「…………書け」


 主人は短い髭を撫でながら低い声でそう言った。

 ラフィータは指示通り台帳にサインをする。


「ご主人、こんな夜遅くに大変申し訳ないのですが……。できたら、風呂釜をお借りしたいのです」


 主人が片眉を上げてラフィータを見すえる。

 あからさまに面倒くさそうな顔つきをしていた。


「…………浴びたばっかだろ」(きのう水で体を清めたばっかじゃねえか、お前ら)


「ええ。しかし今日、私のドールがクエストで目覚ましい活躍を見せたもので、そのねぎらいに熱い湯を浴びさせてやりたいのです」


 主人は野菜についた害虫を見るような目つきでラフィータをにらみ、やがて大きくため息をついた。喫煙者特有の匂いがラフィータの鼻孔をくすぐる。


「全ての準備はこちらで請け負います」


「…………いい、やる」(んな小せえ客に火なんて扱わせられるか、危ねえったらありゃしねえ。薪だってどれくらい使うか分からんとくるし。いい、俺がやる)


「ありがとうございます。代金はいかがほどで」


「…………ん」(いつも通りだ)


 ラフィータは銅貨を数枚、主人の手に握らせる。


「…………今からか」


「はい。荷物を部屋に置き次第、向かわせていただきます。お手伝いをさせていただければ……」


「…………呼ぶよ」(すぐ沸かすから。したら呼ぶから待ってろ)


「分かりました。それでは、お願いします」


 ラフィータとアーサが二人で頭を下げる。


 主人は台帳を閉じ、硬貨の入った袋を手に持つ。

 彼は宿のドアにかんぬきをかけた。

 そのころ階段を上っていたラフィータの耳にこんな愚痴が聞こえてきた。


「風呂好きと酒好きは客に迎えたくねえもんだ……。ったく。潔癖症め」


















 湯を沸かしている間、ラフィータは物を知らないアーサに男女の違いについて懇切丁寧に教授していた。


「アーサだって、体を見られちゃ嫌だろう」


 アーサは顎に手を当てて考え込んでいる。ラフィータが考え込むときの仕草を無自覚に真似ているのだった。彼女はときどきこういうことをする。


「嫌……でしょうか。分かりません。でもやっぱり、マスターとなら」


 ラフィータは頭を抱えた。

 彼は危惧した。このままではアーサが他人に裸を見せるのを厭わない痴女になってしまう。


(痴女ドールなんか引き連れたくない)


 少なくとも、裸の見せ合いが常識的におかしいことは理解してもらいたかった。

 ラフィータは攻め方を変えた。


「アーサ、分かったよ。お前に恥じらいを教えるのはしばらく見送ろう」


「ごめんなさい……」


「いいんだ。で、アーサ。正直に言う。僕はお前の体を見るのが、すごく恥ずかしい」


「マスターが、恥ずかしい……?」


「そうなんだ。嫌な気持ちとはいかないけど、それでも。その、男女で服を脱ぎ合うのは、やっぱり特別な関係の間柄でするべきなんだよ。無闇に他人に見せていいものじゃない」


「特別な、関係……」


 アーサの頭で猫耳がぴょこぴょこと動いていた。

 特別な関係。アーサはその言葉に多大な興味を寄せたようだった。


「特別な、関係……とは、どういうことですか」


「え、それは、その。えと、好き合う、同士の、というか」


 ラフィータは顔が赤くなるのを自覚した。

 こんな会話したくない。だからずっと避けてきたのに。


「…………」


 アーサはそんなラフィータの様子をじっと見つめていた。

 彼女ははっと息をのんだ。そしてラフィータに正面から抱きついた。


「マスター、分かりました!」


「こら、アーサ」


「マスター以外の人の前で服を脱がなければいいのです。そうですよね」


「え。う、うん。そうだけど……。アーサと僕は特別な関係ではないわけで……」


 アーサはショックを受けた表情でラフィータから距離を取った。


「マスターは、アーサのことが嫌い……ですか」


「いや。好きだよ。好きだけど」


 そんな表の反対は裏みたいな話をされても困る。

 そう言おうとしたところ、アーサが再度ラフィータに飛びついてきた。


 彼女はラフィータの首元に顔をうずめたまま鼻歌もどきをさえずりだした。

 ラフィータは説得を諦めた。


「とにかく……。僕の前では許すけど、他の人の前では絶対に服を脱がないこと。何か褒美を対価に要求されても、それだけは絶対にしないでくれ。ほら、約束」


 ラフィータはアーサと指切りをした。


 その後、部屋の扉が叩かれた。

 ラフィータは湯浴みに使う道具を持つと、アーサに引きずられるようにして階下に降りていった。


















「タオルを巻いていたらお背中を流せません」


「…………」


 ラフィータは木椅子に座ったまま無言の抵抗を示す。

 両足の親指を交差させたまま股をぴっちりと閉じて。

 その顔はすでに茹で蛸のように真っ赤に染まっていた。


 アーサは彼の後ろに立っていて、その手には手ぬぐいと石けんが握られている。


「マスター」


「うぅ……。なんでこんな……」


 泣きたい気分だった。

 ラフィータは前かがみになりつつ断腸の思いでタオルをはぎ取る。

 白いそれを股の上に掛けた。最後の砦である。


 背後をちらりと窺うと、にっこりしたアーサが手で石けんを泡立てている。


 ラフィータは目を閉じて呼吸を落ち着けようとした。


 そんな彼の背中にぺたりと、冷たい感触が押しつけられる。


「ひゃっ」


 ラフィータがびくりと体を揺らす。


 思わず目を見開いたラフィータの背中を、冷たくてしなやかな感触が滑り落ちていく。

 なんとも言えぬ奇妙な感覚が腰から頭頂まで駆けのぼる。彼はたまらず身震いした。


「マスター、緊張してらっしゃいますか」


「アーサ、どうしてタオルを使わないの」


「え、それは、その……」


「タ、タオルを使って。その、お願いだから……」


「…………」


 アーサは主人の背中に手を置いたまま、綺麗なつむじを巻いた金色の頭頂部をじっと見つめる。

 彼女は普段は絶対に聞けない主人の弱気な声音に聞き惚れていた。


「アーサ?」


「やです……」


 アーサは素手での洗浄を再開した。

 手にたっぷりと泡をつけて、傷跡の目立つ主人の背中を丁寧にこする。


 突然の命令違反、しかし怒る間もなかった。

 ラフィータは両拳をぐっと握って、ぬめぬめとした感触から意識を遠ざけようとやっきになっている。目をぎゅっと閉じたまま頭を小さく左右にふっているのもそれが理由である。


「体、傷跡だらけですね」


「む、昔の名残。なかなか、消えて、くれなくて……」


「マスター、力を抜いてください」


 アーサがラフィータの肩を優しくもみほぐす。浮き彫りの鎖骨を撫で、脇の下をさする。

 それに反応したラフィータが真っ赤な顔のまま両足を小刻みにばたつかせる。


「もしかして、誰かに体を洗ってもらうのは初めてですか」


 ラフィータはやけくそになって首を何度も縦にふった。


「赤ん坊のとき以来だ! 物心ついたときには一人で体を洗っていた! う、んん……! アーサ、前は自分で洗うから! やめて……!」


「駄目です」


 アーサの両手がすばやく伸びてラフィータの腹にとりつく。彼女の手がそのまま上に向かい、今度は胸をなでさすり始めた。


 思わず腰が浮いた。

 限界だった。


「もうやだ!」


 ラフィータは前につんのめるように立ち上がった。

 顔どころか体全体を真っ赤に染めたラフィータは、まとった泡を飛ばしながら勢いよく振り向いた。

 彼はびしっとアーサを指差す。


「お前の洗い方、やらしいんだ! タオルを使えって言ってるだろう!」


 裏返った声で叫ぶラフィータ。

 しかし肝心のアーサに反応は無かった。


 ラフィータは眉をひそめる。

 そして、アーサと自分との間に一枚の布きれが落ちているのに気づく。


 ラフィータの顔から血の気が引いた。


 銅像のように固まったラフィータの体の一点を、猫耳の少女は凝視している。


「あ、あ、ああ……!」


「マスター。それはいったい……」


 間髪おかず、ラフィータの壮絶な悲鳴が夜空にこだました。


















 壁に掛けられたランプに羽虫がよっている。

 日が沈みだいぶ経っている。そろそろ寝静まる者も出始める時間帯。


 ちゃぷりと、ラフィータがお湯に体をひたす。


 あのあと、体の力が抜けてしまったラフィータは木椅子に座らせられ、素手による垢落としを継続して受けた。魂の抜け殻となったラフィータはそれでも手の感触に反応していたが、もう反発する気力を無くしてアーサのされるがままになっていた。


 その後、少々雑な手つきで髪を洗われて、頭からたっぷり湯を浴びせられた。


 アーサの体を洗うのはまた今度という話に落ち着いた。体を洗うことを拒否されたアーサは頬を膨らませて抗議したが、目から光を無くした主人の表情を見てさすがに自重した。


 ラフィータの体をいたわるように湯の温かさが染み入ってくる。

 彼は目を閉じると小さく呻きながらふうと息をついた。


「マスター。隣、失礼します」


 湯面の高さがぐっと上がるのが分かった。

 アーサが湯に入ってくる。彼女はラフィータの正面から湯に入ってきた。


 落ち着いていたラフィータの顔が再び真っ赤に染まる。

 彼は視線を波立った湯面に落とした。


 大きな風呂桶も、所詮は一人用。

 窮屈な桶の中で、アーサがラフィータの隣に肩を並べて落ち着いた。


 アーサがラフィータの肩に頬をすりつけてくる。

 彼女はラフィータの左腕に抱きつき、湯面の下で体をぴったりと寄せつけている。ご機嫌な表情で鼻歌を口ずさみながら、アーサはときおりラフィータの顔を窺う。そこに誰がいるのか確認するような仕草。そして彼女はまた幸せそうな笑みを浮かべて鼻歌を歌い出す。


 ラフィータは視線を空に逃がした。

 がっちり抱擁された左腕。彼は動くことを許されない。

 早鐘のように鳴る心臓。熱い血が巡り過ぎてほとんどのぼせかけた頭。


 何をどうしようなどと考えることが出来ない。早くこの時間が過ぎ去れと思っていた心すら、沸騰し湯気立った思考の中に消えていく。自分が何をしたいのかも分からずに、ラフィータは糸の切れた操り人形よろしく湯の中に沈んでいる。


 時間だけが過ぎていく。


「……ター」


 ふとラフィータの耳に声が聞こえた。

 意識が現実に引き戻される。ぼうっとしていたようだ。


「マスター」


 すぐ横でアーサがラフィータの顔を見つめていた。頭に巻いたタオルの下で猫耳がぴくぴく動いているのが分かる。

 どれくらい湯につかっていたのか。体感では一時間はそうしていたような気がする。実際そこまで時間が経っていないことはラフィータにも分かっていた。せいぜい四、五分だろう。なぜなら湯が冷めきっていない。


 ラフィータがアーサの顔を見つめ返すと、アーサは笑顔になってラフィータの方に頭を傾けた。「んふふ」と小さな笑い声が彼女の口元からもれ響いている。


(そんなに一緒に入りたかったのかな……)


 体を洗うときは毎度のように聞いてくるくらいだから、実際そうなのだろう。

 体を洗い合うことの何が楽しいのか。ラフィータには理解できないが。


「ねえアーサ、そろそろ上がろう。のぼせちゃう」


「え」


 立ち上がろうとしたラフィータの腕をアーサが強く引き止める。

 彼女は切羽詰まったような表情をしていた。


「もう少し、入っていたいです」


「でも、早くしないと屋台も閉まっちゃうし。ご飯、食べられなくなっちゃう」


「…………」


 アーサは返事をしなかった。

 その代わりにラフィータの腕にいっそう強く抱きつく。


「アーサ?」


 アーサはラフィータの目を見ようとしない。

 彼女は湯面のうねりを見つめたまま口を閉ざしている。

 無言の抵抗がそこにあった。


 ラフィータはため息をつき、「あと少しだけね」と制限付きで許可を出す。

 途端、アーサが笑顔で「はいっ」と返事をした。


 再び響きだした鼻歌に耳を傾けながら、ラフィータは考えていた。


(何が楽しいんだか……)


















 ノックの音が聞こえた。

 リルオネが返事をせずにいると、ややあって部屋のドアが開かれる。


「支部長、いらっしゃるなら返事をしてください」


 若い女だった。

 女はヴィヴィアという名で、冒険者ギルドハクマ支部長たるリルオネの補佐を務める、いわゆる秘書である。


「こんな暗いところで何をしてらっしゃるのですか」


 暗い部屋にランプの明かりが灯される。リルオネはまぶしさに目を細めた。

 ランプを片手に持って、女が執務机に歩み寄ってくる。


「ひどい顔をなされています。今日はもう、お帰りになられた方がよろしいのでは」


「もうしばらく、ここにいる」


 ヴィヴィアがため息をつくのが分かった。


 と、彼女は執務机に置かれた幾枚かの書類に目を向けた。

 彼女の目がさっと動くのが見て取れた。


「ランクBの冒険者リストですね」


「一応、めぼしい者は調べた。ランクAに相応しい人材はいなかった」


 リルオネは自分の言葉に頭を抱えた。


「そうだ。ランクAがいないのだ。カルーラの穴を誰が埋める。強力な魔獣をどうやって狩り殺す。これからが稼ぎ時だというのに……」


 ランクAの不在は単に戦力が低下したことを意味しない。

 ランクA相当の魔獣を狩ることができない。それは狩り場の大きな減退を意味する。強力な魔獣の活動圏に低ランクの冒険者を送り込むわけにはいかない。これがギルドの経営に計り知れない影響を与えることは自明だった。ともすれば、支部長としての責任問題を追及されかねないほどに。


「暫定的な処置として、Bランクパーティーを統合させてはいかがでしょう。いいとこ取りです」


「各パーティーの主要メンバーを引き抜くことは考えた。しかしそれは他のパーティーの大きな弱体化を意味する。主要メンバーをなくして出来上がるのはBランクもどきの弱いパーティー。ヘクトールの森は広いのだ。これまでBランクパーティーに狩らせていた魔獣が狩れなくなっては本末転倒、甚だしい」


 男は額を手の甲でこすりながら語る。

 机の下では両足の貧乏ゆすりが止まらなかった。


 と、リルオネの目がヴィヴィアの腕に向けられる。

 秘書は書類を抱えていた。


「なんだ。何を抱えている」


「お気づきになられましたか。どうぞ。ご自分で目を通していただければ幸いです」


 ヴィヴィアから書類を手渡される。

 ランプを借りて、リルオネは書類に目を通し始める。


「これは……」


「別件で調査をさせていた冒険者リストです」


「別件?」


「『ゼブラ』『グロウ』および『ウルフカミナ』がクエスト外で討伐された件です。疑いの濃い冒険者をリストアップしました。支部長、いかがでしょうか」


「ふむ……。ん、待て。こいつ……」


 男の手があるページで止まる。


「ええ。最有力候補です。個人的に好いております」


「ふむ……。面白い奴を見つけたな。レベルも申し分ない」


「はい。既存パーティーの増強にふさわしいかと」


「いいぞ、楽しくなってきた」


 リルオネは笑みを浮かべた。

 何かを突き落としながら地位を築いた者がよく見せる、残忍で狡猾な笑みだった。


「継続し、これらの周辺を詳しく調査させろ。場合によってはマナ精査をさせても構わない」


「かしこまりました」


「枯れ木の中に新芽あり、か。ヴィヴィア、よくやってくれた」


「いいえ、褒められるようなことでは。個人的な趣味も入っておりますので」


 ヴィヴィアは指先で眼鏡を押し上げながら「ふふふ」と笑う。


















 白い煙が卓上にはき出される。


「で、こうしてここに来たわけか」


「はい。これまで育てていただいたご恩に背くような形になってしまい、本当に申し訳なく思っております。しかし、それでも私は『滅火のルイン』を出たいのです」


「黒猫キースか……」


 男は葉巻を吸いながら物思いにふける。

 白髪や皺の目立つ初老の男だった。とは言え鍛え上げられた鋼のような肉体は未だに健在で、衰えなどまったく感じさせない。


「キースの実力は知っている。お前らの仲も、生い立ちも。だが、それでもな……」


 初老の男は髪をかき上げる。

 そして対面に座る男を見すえる。


 孫がいたらこのくらいの歳だろう。背は高い。体つきはもやしのようだったあの頃に比べれば大分がっしりした。金色の髪を肩先で切りそろえて、少し冷たさを感じさせる知的な瞳は翡翠色。

 馴れそめは単純。冒険者として頭角を表していた少年を部下がスカウトした。手塩にかけて育てた過去がある。手放したくない。そばについて教えるべき事は山ほど存在する。


「なあエルメス、考え直さねえか」


「心は、決まっています。半端な気持ちでここに来たわけじゃない……! オルグラッドさん。お願いします。どうか、ご許可を……!」


 エルメスは椅子に座したまま、深々と頭を下げる。

 オルグラッドは葉巻を吸い、煙を吐いた。冷静な判断に欠かせない一服だった。


「認めてやるよ。ただし条件がある」


 喜色を浮かべかけたエルメスが眉をひそめる。


「条件とは」


「キースをここに連れてこい」


「キースを、ですか」


「そうだ。お前だけに頭を下げさせるのは納得がいかねえ。うちの主要メンバーを引き抜くんだ。顔を向き合わせて一言。それが筋ってもんだ」


 オルグラッドは少しだけ楽しげに笑った。


「ついでにパーティーリーダーとしての心得を講釈たれてやる。じじいの長話だ。覚悟させとけ」


「はい。オルグラッドさん。本当に、ありがとうございます。ほ、本当に……なんて、言ったら、いいのか……」


 エルメスが服の袖で目元をぬぐっている。

 思うところがあるのだろう。実家も同然のパーティーを抜ける寂しさや後ろめたさ。


 オルグラッドは立ち上がり、エルメスの肩に手を置いた。


「エルメス、立派にやれよ。色々あるだろうが、俺はお前を理解する。後ろ盾とまではいかねえが、それでも影ながら応援させてもらおう」


「はい。ありがとうございます……!」


「情けねえ声出すなよ。心配しちまうだろうが!」


 オルグラッドはエルメスの背中をばしばしと叩く。

 エルメスが笑顔を見せた。涙に濡れてなお、弾けんばかりの笑顔だった。


















「マスター、あの包みは結局、何なのですか」


 ラフィータとアーサは屋台で買ってきたご飯を食べている。

 いつもの弁当箱につめてもらったのは、色ご飯が二人前、香料をまぶした鶏肉の蒸し焼きが二人前。野菜のおひたしが一人前。二人はそれを仲良くつついている。ちなみにラフィータが箸、アーサがフォーク。


「そういえば話してなかったね。開けてごらん」


 アーサがテーブルの上に置かれた包みに手をかける。

 彼女は雑な手つきで包みをはがす。


「これは……」


 アーサは包みの中にあったものを取り出して掲げた。

 ランプの明かりに照らされて、それはきらきらと輝いている。


くし、ですか」


「うん。アーサにあげる。今日は頑張ってたから、そのご褒美」


 アーサは不思議そうに櫛を眺めている。

 紅い色を基調としているが、角度を変えて見るたび櫛は光を反射して様々な色に輝いている。


「そういえば、櫛の使い方は分かるよね」


 アーサは首をかしげた。

 ラフィータは前につんのめりそうになった。


「櫛って言葉、知ってるんじゃないの」


「なんとなく、言葉が浮かんできたので……。どこかで耳にしたのかもしれません」


「そう。貸してごらん。こう使うんだ」


 ラフィータはアーサの背後に立ち、白髪に櫛をそえた。


「こうして髪を櫛でとく。寝起きとか、髪を洗う前とか、ボサボサな髪を整えるの。それが櫛の使い方」


 アーサの髪を試しにとかしてみる。

 アーサが一度痛そうな顔をしたので、それからは髪の引っかかりに注意してゆっくりと櫛を通していく。


 無言で髪をとかすのもあれなので、ラフィータは櫛についての話題をふった。


「ねえアーサ、海って知ってるかな」


「うみ?」


「うん。湖は知ってるよね。前に見たろう。あれがもっと大きくなったものを海って言うんだ」


「うみ」


「海は広い。対岸なんて、見えやしない。今日ガガモットの背中で見た景色。あれを全部、青い水で置き換えてみたものを想像してみて」


「凄そうです……」


「で、この櫛はね。海の中で生きる生き物の体を借りている。『明け色の花』って別称を持つ、特殊な珊瑚の体を使っている」


「珊瑚ですか?」


「うん。珊瑚は海に咲く花とも言われてる。いろいろな色の個体があって、すごく綺麗なんだ」


「海に咲く花……」


 アーサの目が櫛に負けぬほどきらめいている。

 海や珊瑚に興味を持ったようだ。


「海、珊瑚。見てみたいです」


「少し考えてる。ここは少し内陸よりだから今すぐってわけにはいかないけど。ハクマを出発したら海に出るルートを目下模索中。楽しみにしていて」


 髪をとかし終わり、ラフィータはアーサに櫛を手渡す。

 彼は再び自分の椅子に座り、ご飯の残りを食べ始めた。


「マスター、ありがとうございます。この櫛、大切にします」


「気にいってもらえたなら嬉しい。明日からは自分でとかすんだよ」


「とかしていただけないのですか」


 少し首を傾けながら若干上目遣いになるアーサ。

 髪をとかしてもらうのがお気に召したようだった。


「いいけど。そしたら服の紐を結ぶのを自分でやってもらうから」


「う」


 アーサは渋い顔つきをした。

次回『死狼強襲』

三話にまたがる話になります。お楽しみにノシ

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