第七話 王者の証明 VSライバーホーク
主人公組は高所にあってテンションが高くなってたり。怒鳴らないと風で聞こえなかったり。
ギルド職員が書面に目を落としたまま固まっている。
ラフィータ=クセルスアーチ
表層レベル76
潜在レベル55
「隠す気は、ありますか……?」
「ありません。そもそも隠すものがない。早く書類をよこしてください」
「駄目です!」
ギルド職員は書類を隠すように抱え持ち、絶対に渡さないぞ! という姿勢を見せつけてきた。
この頃、この若い女職員の名前を覚えた。
エルフィー=シャンクというらしい。愛称はフィーちゃん。
「おかしいですよ!」
「おかしいのはあなたです」
「え、私がおかしい、の……?」
「そうですよ。だから早く書類をこちらに」
ラフィータが動じぬ態度でエルフィーにせまる。
過去に何度か衝突したときはこのやり方で済んだのだが、今日は彼女も譲らなかった。
「だって、レベル76って、普通はランクBの冒険者がやっと……。ラフィータさん、ランク何ですか」
「もうすぐDになります」
「ほら! やっぱりおかしい!」
「何もおかしくはない。私はソロだ、だからレベルも上がりやすい」
「ででで、でも! だからといって……」
「フィーちゃんやめなさい。はしたないわ」
年配の女職員が仲裁に入る。
彼女はエルフィーの手から書類を奪い、書面に目を落とす。
「ラフィータ、あなたパーティーに入る気はないの?」
「先約が入っています。ランクが上がり次第、所属するつもりです」
「そう、ならいいけど……。レベルを上げるのは結構だけど、狙われないようにしなさいよ」
「心得ています」
ラフィータは職員から書類を受け取り、次いでクエスト用紙を職員に差し出す。
そのとき、年配の職員に目礼をした。
「ほらフィーちゃん、しっかりして」
「あ、はい。ええと、ライバーホーク……の討伐。お、お一人で……」
エルフィーが何か言いたそうな顔で見つめてきたが、ラフィータは無視を決め込んだ。
「ランク制限、なし。レベル制限、クリア……」
「…………」
「はい……。承りました……。では、ギルド証の提示をお願いします……」
ラフィータとアーサの去ったギルド館で、エルフィーが先輩職員に愚痴をこぼしていた。
「いつも素っ気ないんです。私より若いくせに、大人ぶっちゃって……」
「いろんな生い立ちの人間がいるものよ。いちいち目くじらを立てては駄目、騒動の元だから」
「でも、でもっ。あの人、いつも一人で、選ぶクエストは危険なものばかりなんですよ。やっぱり私、納得いかなくて……」
「気持ちは分かるけど。ほかにあのクエストを受注するパーティーがいない以上、職員に冒険者を止める権利はないわ。ねえフィーちゃん。あの人おかしいのよ。あの手合いをまともに対応してたらきりがないわ。受け流すことも必要よ」
「分かっています。それでもせめて、危険なクエストばかり受けるのは止めてほしくて……」
先輩職員はため息をついた。
エルフィーは怖いのだろう。自分が責任を持って送り出したラフィータが森から帰ってこなくなるのを恐れている。再三にわたる注意はそれが原因だろう。
それは先輩職員にも覚えのあることだ。
実際にそれを経験して、そして慣れてしまった彼女には今のエルフィーがどこか懐かしく見える。
「ねえ。もっと仲良くなる方向で接してみたら?」
「え?」
「ほら、ラフィータも男の子だし。フィーちゃんがもっと気を持たせるように振る舞えば、ラフィータもフィーちゃんの心配をむげにできなくなったりして」
「き、きをもたせる?」
「やだあなた女の子でしょう」
エルフィーの顔が火にかけたやかんのように赤くなった。
「さ、休憩は終わりよ。窓口に人が来てる。仕事よエルフィー」
「は、はい。少々お待ちくださーいっ」
「待てねえよ早くしろクソが!」
「はい今すぐ参ります!」
「アーサ、今日のクエストはお前の双肩にかかっている」
「そうけん?」
「重大な責務だ。失敗すれば、泣くどころじゃすまない」
「え、あの。何の話でしょうか……」
アーサの猫耳がぱたりと倒れつつある。
尻尾にいたっては右の太ももにくるりと巻きついてしまった。
「これまでいろいろな魔獣を狩ってきた。ゼブラ、グロウ、ウルフカミナ、ラジカルウッズ、……。正直、歯ごたえのない魔獣だったろう。拍子抜けしたというか」
「そんなこと、ありませんけど……」
「今日の魔獣はひと味違う。名は『ライバーホーク』。この魔獣、並みの冒険者では狩ることができない。理由を話すよ」
アーサが真剣な表情でラフィータを見る。
「それは、降りてこないからなんだ」
「降りて、こない……?」
「うん。ライバーホークはずっと空を飛んでいる。四六時中、眠る間も惜しんでやつは飛ぶ。本来は巣の近くに泊まり込んで降りてくるのを待つクエストなんだけど、僕はそれをしたくない。森での寝泊まりはとても危険だからね。そこでアーサ、お前の出番だ。何をすればいいか、分かるね?」
目をぱちくりとしたアーサは、少し不安げな顔つきでラフィータに近づき、彼の後ろに回って腰に取りつけられたククリナイフの柄にそろそろと手を触れた。そしてそれを引き抜こうとする。
ラフィータは柄に手をかけてそれを止めた。
「何をしてる」
「わ、私、ナイフを一本しか持ってない、ので……」
「ん、……うん。その双剣じゃない。アーサ、双肩にかかっているって言うのは……」
言葉の説明をほどこした後で、ラフィータは一つ咳払いをする。
「アーサ、お前にしか出来ないことだよ。思い出して」
「私にしか……。あ、スキルでしょうか」
ラフィータはアーサの頭にぽんと手を置く。
アーサの顔つきが見違えるように緩んだ。
「そう。特に今日は、これまで特訓してきた『魅了』のスキルを活用する」
「『魅了』を」
「詳しくは歩きながら話すから。ついてきて、出発するよ」
「今回のクエスト、報酬がすごくいい。食事が数日だけ豪華になるよ」
「そうなのですか」
「うん。でも、それと引き替えにクエスト失敗時の違約金がすごく高い」
「え、それは、どうして……」
「ここ最近、バネテッカっていう小さな魔獣が大量発生する予兆が出ているんだ。バネテッカは滋養に効果のある仙薬として知られててね、これを捕獲するクエストが掲示板に乱れ打たれることになるんだけど。バネテッカ捕獲の最大の障害になる存在、それがライバーホークなんだ」
「ええと、冒険者の皆さんが魔獣を狩るのに支障が出ないよう、あらかじめライバーホークを討伐しておく。ということですか」
「その通り」
ライバーホークは人を襲うことの少ない魔獣であり、本来なら討伐依頼の出ない魔獣に属している。
こうしたクエストは少なくない。低ランクの冒険者が安全に狩りを実行できるよう、高ランクの冒険者にあるエリアで最も危険度の高い魔獣を討伐させることはよくあることだ。ラフィータが以前に狩猟した『ゼブラ』などはその典型である。そのほかにも『ベジトラ』『マウントマッド』『ホウコウカ』など、市場に求められる素材は皆無だが、危険度が高いために討伐依頼が出る魔獣は数多い。
「大量発生までにライバーホークを狩らねばならない。これは時限つきのクエストなのさ。期限までに確実に狩ってもらう必要があるから、なるべく高ランクの冒険者を釣るために報酬を高く設定し、低ランクの冒険者をよせつけないために違約金も高く設定する」
「ん、ううん……」
「少し難しいかな。分からないことは、あとで考えるといい」
考え出したアーサから目を離し、ラフィータは頭上を確認する。
太陽はまだ低い。時間はたっぷりとある。
「アーサ、今日は期待してるからね。いい働きをしたら、何でも一つ言うことを聞いてあげる」
「え!?」
アーサの猫耳がぴーんと張り立った。
彼女はその場で小躍りしながら鼻歌を歌い出した。
あまりの変貌ぶりにラフィータの頬に冷や汗が垂れる。
「無理なことは言わないでよ。無理なものは無理だから」
一応釘を刺すが、喜びの舞を踊るアーサの耳に届いているか定かではない。
ラフィータは頭をかいて、数秒前の軽率な自分を呪おうとした。
しかし、アーサの喜びぶりを見ているうちに「まあ、いっか」という気持ちになった。
間違ったことを言ったつもりもない。アーサにはおどかすより張りきらせる方が合っていると思うからだ。
今回のクエストはアーサに自信をつけさせる側面を持っている。
アーサのレベルは非常に高い。正直そこらのランクEやランクDは軽くのしてしまうほどの力量は付いているだろうと思う。ラフィータと同じクエストをこなしているのだから当たり前の話だが、それにしてはアーサの動きが硬いように思われた。
ラフィータの目には、アーサがいまだ魔獣と対峙することに緊張を感じているように映る。魔獣と戦うのはアーサ本人で、ラフィータは彼女の行動について戦闘中に口出しすることはできない。おそらく、自分で考えて選ぶ行動に対し「これでいいのだろうか」と言った具合に不安を抱いているのだろうと思った。
ラフィータの考えている通りに無事クエストが終了したら、ラフィータはアーサを褒めそやすつもりだ。それも「よくやった」ではなく「お前はできるやつだ」というふうに褒める。
「アーサ、行くよ」
「はいっ」
ラフィータはある事実をアーサに伝えなかった。
当然だが、彼の財力では違約金を払うことができない。
クエストに失敗した暁には、宿を追い出されたあげくハクマの街壁付近で涙を堪えて野宿することが決定している。しばらくは指定されたクエストのただ働きが続く。一日一食が三日に一食に変わる日も遠くない。
(言わないでおこう)
余計な心配をさせるのは御法度。
厳しい現実はそっと胸の中にしまい込んだ。
ラフィータは目的地をめざし、歩みを早めた。
(アーサ、いいね。あれを狙うの)
(はい。頑張ります)
(耳栓ばっちり)ラフィータが両耳に人差し指を突っ込む。
(ばっちり)アーサがそれを真似する。
(じゃあ、打ち合わせ通りに。タイミングは自分で見計らえ)
ジェスチャーを交えたやりとりをしたあとで、ラフィータが茂みから飛び出す。
ひどく耳障りな奇声が爆音となってラフィータの肌を圧迫する。
ラフィータの接近に感づいた魔獣がくちばしを最大限にあけて、巨大すぎる鳴き声を上げている。
鳥形魔獣『ガガモット』
姿形は鷲をそのまま大きくしたものに近い。
灰色の羽根が体全体を覆っているが、頭部だけは真っ白な毛色をしている。まるで雪が降り積もったような毛色はどこか気品すら漂わす美しさをほこっている。
ガガモットが二本の足で立ち上がり、翼を優雅に広げる。
幅五メートルを越す巨大な翼が上下し、あたりの大気が大きく乱れ始める。
飛ぶつもりだ。
ラフィータは魔獣が地を蹴るより早く肉薄し、その背中に軽やかに乗り移る。
ガガモットが暴れる。
魔獣は耳がいかれるほどに巨大な奇声を上げながらばさばさと翼を振り回す。
ラフィータはあらかじめ用意していた頑丈な繊維で織り込まれたロープを手にし、それをガガモットの首にくくりつける。次いで彼はガガモットの背から飛び降り、ロープの片方を近間の樹木に手早く結びつけた。
ガガモットは鋭いクチバシをラフィータに突きだす。
ラフィータは最初の一突きを難なくかわし、二撃目が来る前にガガモットから遠く距離を取る。
魔獣はラフィータを追おうとした。
が、ロープが魔獣の動きを阻害する。
ガガモットの様子はリードで繋がれた飼い犬そのものだった。
力を込めてロープを引きちぎろうとするも、そこはラフィータが念入りに選んだ素材、簡単には千切れない。
「ガガモットさん!」
そこでアーサが姿を見せる。
彼女は魔獣に駆けより、魔獣に向けて両腕を広げて見せた。
ガガモットがアーサに襲いかかる。
しかし例の如くロープに移動を制限され、少女を肉片に変えることかなわず。
アーサは真剣な表情でガガモットを見つめる。
その額から汗がたらりと垂れ、呼吸が乱れて肩が上下しているのが分かる。
ガガモットの動きが止まる。
魔獣はアーサをじっと見つめていたが…………
「クエエエエエ……」
やがてその場にうずくまり、首をぺたりと地につけて大人しくなった。
アーサがそろそろと魔獣に近づく。
自分の腰ほどもある頭部に、彼女は恐る恐る手を伸ばした。
「クエエ」
ガガモットが鳴き声をあげた。
鼓膜を裂くような奇声ではない。どこか喜びを感じさせる声音だった。
アーサがラフィータの方を振り向いてくる。
白い尻尾がぶんぶんと乱舞している。彼女は晴れやかな表情でラフィータを呼ぶ。
「マスター!」
『魅了』スキルによるテイムの成功だった。
ガガモットの頭を木の方に向かせる。
人が服を脱ぐようにすっぽりと、ロープはガガモットの頭から呆気なく抜け落ちた。
「ガガモットのがーちゃんです」
アーサはラフィータにそう伝えてきた。
ガガモットは小さな声でうめくと、アーサに頭をすりすりとこすりつける。前髪のように発達した頭部の羽根がアーサの頭にばふりとかかる。
きゃっきゃとはしゃいでいるアーサ達を横目に、ラフィータは黙々と作業する。
彼はガガモットの背に乗っていた。まず魔獣の首にロープを輪っか状にして取りつけたら、別のロープを取り出して片側の先端を魔獣の右足に結びつけ、もう片方を魔獣の背を通して首のロープに結びつける。左足も同様にロープを結びつけ、背を通して片先を首のロープに結びつける。
ラフィータは魔獣を刺激しない程度にロープをぐぐっと引く。しっかりと結びついている。
簡易式のハーネスが完成した。
ラフィータは魔獣の背から飛び降り、魔獣の舌でべろべろと舐められているアーサに言葉をかけた。
「アーサ、仲良くなるのはその辺にして。さっそく練習するよ」
「はい、マスター。がーちゃん、よろしくお願いします」
「エックエエッ!?」
それから飛び立ちやすい場所に移動する。
ラフィータがアーサの手を引きながらガガモットの背に乗りあがる。
「アーサはうつぶせで首のロープを掴む。絶対に離すな」
「はい」
ガガモットの背に寝そべったアーサの上にラフィータが重なる。
ラフィータは魔獣の足に繋がる二本のロープをしっかりと掴んだ。
「用意よし。アーサ、ゴーグルをつけたらガガモットに指令を出して」
「はい。がーちゃん、飛んでください!」
ガガモットが羽ばたきだす。
周囲の空気が乱れに乱れる。
ガガモットの背筋が風をはらむ草原のように波打つのが分かる。
それは突然にやってきた。
体がふわりと浮き上がる。大地が視界から遠くなっていく。
「アーサ、怖くない?」
耳元でつぶやいたラフィータに対し、
「大丈夫です!」
アーサは大きな声でそう叫んだ。
ガガモットの体が木の葉を突き抜け、三人は青空の下に躍りでる。
魔獣はぐんぐんスピードを上げた。
ななめ上に、空の彼方まで突き抜けるように。
冷たい風がラフィータの肌を打つ。
強風をはらむことを想定して金髪を首の後ろで束ねて服の下にしまい込んでいたが、それだけでは足りなかったかもしれない。せめての抵抗にラフィータは上着の襟首をぎゅっと締める。
ガガモットが水平飛行に移る。
高度は非常に高い。
わた雲がうかぶ晴天が手が届きそうなほどに近い。
巨大な魔法陣もその細部をくっきりと見ることができる。
「あ、マスター、あれ!」
アーサが視線で示した場所、
南方のはるか下で、ハクマの街並みが見えている。
街壁に囲まれた宿場街がとても小さく視界にうつる。
その先にはどこまでも見果てぬ丘陵地帯が陽光をあびて光り輝いている。
点々と生える森も、ハクマの手前を流れる川が地平線の彼方まで続いているのも。
その全てが視界におさまってしまう。
「わああ……」
アーサは感嘆の声をあげた。
ラフィータも思わずうなる。空を飛んだのは初めてではないが、翼を持つ者の光景はいつ見ても度肝を抜かれるものがある。地から足を離した解放感、さえぎる物なき空をどこまでも自在に飛べる高揚感がラフィータを包む。
「すごい! すごいです!」
「空を手にするとはこういう事だ! アーサ! 訓練飛行に入る! ロープは絶対に離すなよ!」
「はい!」
ラフィータが片方のロープをぐいっと引く。
それに合わせてアーサがガガモットに声をかけ、魔獣に『合図』の意味を教え込んでいく。
――――――――――――――――――――――
CHIP
アーサがライバーホークを直接『魅了』することはしない。
レベルはアーサが魔獣を上回っているが、その差が小さすぎるために『魅了』が完了するまでに長い時間を要してしまう。ライバーホークを『魅了』するために必要な環境はラフィータには整えられない。
――――――――――――――――――――――
異変が起きたのは、訓練を開始してしばらくしたときだった。
ラフィータは視界の端に小さな赤点が映ったのを見逃さない。
ロープを引いてガガモットに水平飛行するよう指示する。
赤点はみるみる大きくなっていく。
それの形がじょじょに明らかになるにつれ、ラフィータの口角もつり上がっていく。
キシャアアアアアアアアアアアア!!!!!!
空の王者『ライバーホーク』
全長十メートルをこす朱色の怪鳥が、その発達した咽頭から森の全てを震撼させるような爆音を放つ。
ガガモットの反応が鈍くなる。
萎縮している。
自分の倍以上ある王者を前にして『奇声』の怪鳥は身震いを禁じ得ないでいるのだ。
ラフィータは魔獣の尻を蹴りつけると大声で叱咤した。
「奮い立てガガモット! 奪還だ! 空の王者の名、お前が奪い返せ!」
「がーちゃん! 頑張って!」
アーサの声に闘志が燃えたのか。
「クエエエエエエエエエエエ!!!」
ガガモットはライバーホークに負けじと奇声を張り上げる。
魔獣の瞳に光がよみがえる。
「行くぞ!」
ラフィータがロープを引く。
ガガモットが旋回飛行にうつる。
ライバーホークが目と鼻の先にせまる。
「大きい……!!」アーサが思わず叫ぶ。
冗談抜きで、視界を覆い尽くすような巨体だった。
真っ赤な羽根を纏った姿には空にあって燃える業火のような印象を受ける。
ライバーホークはガガモットをぎろりと睨みつける。
魔獣だけを襲う魔獣として知られるライバーホーク、人を襲う唯一の条件がある。
それは『領空侵犯』。
ライバーホークは『ヘクトールの森』上空で一定以上の高度に達したものを無差別に攻撃する。
ラフィータの視界がガガモットの背にさえぎられる。
ガガモットが弾丸のような速度で上昇している。
ゴーグルなしでは目すら開けていられぬ強風の中、ラフィータはライバーホークが怒りの叫びを上げるのを聞いた。
同時にガガモットが奇声を上げる。
己を鼓舞し、同時に知らしめている。
お前の上を俺は行く、と。
「いいぞガガモット! 焚きつけてやれ!」
すれ違いざま、ライバーホークの巨体を遙か左下にとらえる。
と、赤い怪鳥が急速に方向転換をする。
重厚な羽ばたきの音が大気を震わせる。
巨体が重さを感じさせぬ速度で上昇する。
みるみる高度を上げたライバーホークは巨体に似つかわしくない旋回を見せ、あっという間にガガモットの後ろをとった。そのままじわじわと距離を詰めてくる。
(馬力が違いすぎる……!!)
ラフィータはガガモットを急降下させる。
ガガモットの背から離れそうになるアーサの体を腹で受け止め、自分は二つのロープに巧みに足を引っかけて浮き上がるのを阻止する。
そのとき、ラフィータは急速に高まるマナの動きを感じた。
ゴーグルに制限された視界でなんとか後ろを振り向く。
ライバーホークの咽頭には袋がある。
普段は皮が伸びきった状態ではためくだけの器官が、今はぱんぱんに膨らんでいる。
(来る!!)
ラフィータはガガモットに左旋回の合図を出す。
降下中だったガガモットの体が左にずれていく。
背中に感じる熱、赤く染まる視界。
突如、ガガモットの右手を巨大な火炎が覆い尽くした。
ぎょっとするアーサ、胸をなで下ろすラフィータ。
膨らむように射程を伸ばし続ける火炎が眼下に流れていく。
スキル『猛爆閃光』
決して戦闘能力が高いわけでないライバーホークが危険視される理由。
袋状になった喉元の器官にマナを圧縮し、それをスキルで可燃性の液体に性質変化させる。
次いで袋を急速に収縮させ、液体を前方へ噴射し、クチバシを勢いよく閉じて点火する。
ライバーホークが右手頭上を飛んでいく。
火の手に巻き込まれるのを嫌い、真っ直ぐ降下するのをさけたようだ。
(情報は取れた。潮時だ)
ラフィータはガガモットに合図を出す。
彼らの姿が木の葉の陰に沈んでいく。
キシャアアアアアアアアアアアアアアア!!!!
姿を隠した不届き者を探して、ライバーホークの怒りが大気にこだました。
「アーサ、ガガモットを褒めてあげて」
アーサと結んでいた命綱をほどくなり、ラフィータはそう言った。
「褒める……?」
褒められるだけで褒めたことのないアーサは一瞬戸惑ったが、ラフィータが次のように言うと納得を示した。
「僕がいつもお前にやっているようにしてやればいい。素晴らしい働きだった。ねぎらってやれ」
アーサはガガモットの背中から飛び降りると、首を下げていた魔獣の頭に飛びついた。
「がーちゃん、よくやったって。よかったねっ」
「ガガモットだけじゃない。アーサも」
ぴょんぴょんと飛び跳ねていたアーサの動きが止まる。
「『魅了』スキルも大分上達した。まだクエストは終わっていないけど、大きく前進したことは確か。アーサ、よくやったよ」
ガガモットの背を降りたラフィータにアーサが抱きついてきた。
その頭を片手で撫でつつ、あいた方の手でガガモットの胴体を撫でてやる。
ガガモットはじっとラフィータを見ていたが、魔獣は突如頭をラフィータの方に向け、首を下げた。
驚くラフィータに「クエエ」と鳴きかけるガガモット。
「二人ともよくやった」
魔獣とドール、二つの頭を撫でながらラフィータはそうつぶやいた。
「行くよ、アーサ」
「はい。がーちゃん、ゴー!!」
森の上空に冒険者を乗せたガガモットが姿を現す。
魔獣の上げた奇声が空高くまで吸い込まれていく。
キシャアアアアアアアアア!!!
応じるようにライバーホークの声が轟く。
近くの上空を飛んでいたようだ。
朱色の怪鳥が姿を見せる。
ライバーホークはガガモットの姿を見るなり、翼をはためかせてこちらに向かってくる。
「行くぞガガモット!! 気合いを入れろ!!」
「がーちゃん、ファイオー!!」
「エックエエエ!!」
ガガモットが高度を上げ、水平飛行にうつる。
その後ろをライバーホークが鬼気迫る様子で追ってくる。
堪忍袋の緒はとっくに切れているようだ。
ガガモットが風を切って進む。
ガガモットは右手に旋回してライバーホークを振りきりにかかる。
小回りのきく中型魔獣に遅れを取らず、それどころかガガモットよりさらに小さい弧を描いてライバーホークは旋回した。
一気に詰まる両者の距離。
ライバーホークの喉元で袋がぶくぶくと膨らんでいく。
それを確認したラフィータはアーサに指示を出す。
ライバーホークがガガモットの後ろをとる。
袋がはち切れんばかりに膨張し、怪鳥が首をぐっと前に突きだし、クチバシを大きく開く。
ライバーホークが今にも液体を噴出しようする――――そのとき、
ガガモットの高度がわずかに下がる。
ラフィータは後ろを振り向いていた。
右手でロープを掴み、左手は手のひらを開いた状態でライバーホークに突きつけて。
ラフィータの周辺が赤く染まった瞬間、彼は高らかに叫んだ。
「『顕界砲』!!」
ラフィータの手のひらを起点に熱線が空をかける。
赤い光が液体の詰まった袋を正確に打ち抜く。
空の色を塗り替えるほどの赤い閃光が炸裂する。
轟音と共に爆炎が立ち上り、ライバーホークの姿が火の手の中に呑み込まれる。
爆風のあおりをくらったガガモットが姿勢を崩しかけるが、アーサが的確に指示を出すことで落下を免れる。
ラフィータはアーサの太ももを叩いた。
彼の胴体をがっちりと挟んでいた両足がほどかれた。片手を離していたラフィータを支えていてくれたのだ。
高度を上げて旋回飛行に入ったガガモット。
と、眼下で立ち上る煙がにわかにたなびく。
煙を裂いて現れたライバーホークが頭上を睨みつけたまま羽ばたいている。
(気管が焼ければ楽だったけど。そう上手くもいかないか)
ライバーホークが可燃性の液体を送る管は気管とは別にある。
今回の自爆で袋状の器官はずたぼろに破れていたが、呼吸器系は機能しているようだ。と言っても先ほど怒りの声を上げなかったのを見るに、何かしらダメージは負っているだろうとラフィータは推測する。
「アーサ、プランBに移る!」
「はい!」
このままでは埒があかない。
ガガモットの背にあってラフィータ側からとれるアクションはそう多くない。
雷撃やその他の遠距離攻撃はライバーホークの巨体にはあまり効果を期待できない。効果の割にマナの消費も大きいので、これを下策とする。
先ほど行使したスキル『顕界砲』が選択肢に上がる。これはゼブラを倒した折に入手したもので、強力な遠距離攻撃が実現できる。ただしラフィータはこのスキルに対する適正が低く、もう二、三度も行使すれば使用不可になる。とどめの一撃に使用するのは少々心もとない。
ラフィータは別の方法を考案した。
すでに準備はすませてある。
――――――――――――――――――――――
CHIP
討伐した魔獣がスキルを保持していた場合、狩猟者がスキルを獲得する事がある。
ほとんどの場合狩猟者とスキルの親和性が低く、二、三度の行使でスキルは使用不可になってしまう。
一部例外をのぞき、人間が永続する固有スキルを持つ条件は二つ。
一つはスキルを保持した魔獣を狩りまくり、スキルの親和性を獲得すること。
もう一つは親にスキル持ちのドールを持つことである。
強力なスキルを保持していたがドールの子である事実が露見するのを恐れ、スキルを封じていた冒険者も一昔前までは珍しくなかった。
――――――――――――――――――――――
ライバーホークが追う。
ガガモットが逃げる。
空中でのチェイスが続いていた。
袋を破壊された今、ライバーホークは炎を吐くことが出来ない。
朱色の怪鳥にとってもどかしい時間が続く。
鼻先にせまったガガモットをクチバシでつまもうとすれば、敵は小柄さをいかした急降下でライバーホークの視界から姿を消す。
ガガモットの上をとって急降下すれば今度は急旋回されてかぎ爪が空を切る。
敵を捕らえられないのはライバーホーク自体が怪我をしているのも大きかった。
動きが平時に比べて明らかににぶい。
体を動かす度に痛みが喉元をつらぬく。それでも追うことを止めなかったのは、魔獣が激怒していたからだ。これほどまでに屈辱を与えてくれた存在を生かして返すわけにはいかない。
ガガモットは今、森の木に腹をこすりそうなほどに低空を飛行している。
と、ガガモットの方で動きがあった。
魔獣の背に乗っていた少年が何かを投げるそぶりをする。
少年の前に小さな球体が投擲された。
ガガモットがそれを追い抜く瞬間、球体が起爆する。
ぼっ! という音をともなって濃密な煙があたりに広がった。
ライバーホークが煙に突っ込む。
一時的に視界が妨げられるが知ったことではない。
「武運を祈る!」そんな言葉が聞こえた気がした。
数秒待たず煙を抜けたライバーホークの視界に変化がある。
と言っても、朱色の怪鳥は気づくことはなかった。
魔獣を襲う魔獣である。本来、人にはあまり注意を向けない。
だからこそ先ほど少年にスキルの行使を許してしまったのだし、
今回もまた、ガガモットの背から少年の姿がかき消えていても気にもしなかった。
ライバーホークが煙の中にいる間にガガモットは上昇していたらしい。
視界が開けた途端、敵の姿を前方ななめ上に発見し、ライバーホークの注意は上に逸らされる。
怪鳥は必死に羽ばたいて高度を上げる。
傷が痛むが気にもしない。
じくじくとした痛みを煮えたぎる憤怒がたえず上書きしていく。
それからしばらく追いかけっこを続けて――――
ライバーホークの視界に再び変化があった。
視界の端で煙があがっているのだ。
それはいわゆる狼煙と呼ばれる合図なのだが、魔獣であるライバーホークに理解できるわけがない。
前方でガガモットの背に乗った少女が何事か叫ぶのが聞こえる。
途端、ガガモットの軌道が変化する。
上下に波打つような小賢しい飛行をしていたガガモットが水平飛行に移り、のろしを目がけて一直線に飛んでいく。
ライバーホークもそれを追う。
手負いとはいえ、飛行速度はライバーホークの方が上回っている。
ガガモットの背後につけた怪鳥は今度こそという想いでクチバシを開くも、ガガモットが急速に高度を下げたため何もついばむことが出来ない。
「がーちゃん、行きます!」
「クエエエエエ!!」
吹き荒ぶ風すら置き去りにする速度でガガモットが流星のように空を巡る。
ガガモットが一度上昇し、そして右に旋回しながら急降下を開始した。
螺旋のような軌道を描いたガガモットは地表近くで水平飛行に入った。
そこは『ヘクトールの森』にあって唯一大きな樹木が存在していない『通路』であった。
幅十メートルに及ぶ天然の道は『ゼブラ』によって整備されたものだ。ゼブラ亡き今道には太い樹木が散見され始めているが、それでも二匹の魔獣が飛行するには十二分にひらけている。
地表を爆走する二つの影がみるみる近づいていく。
影同士が密着する寸前、前方の影が大きく揺らいでそれを回避する。
もはや両者に声はない。
地表付近を飛ぶガガモットに逃げ場はない。
横は大木に覆われている。
逃げ場は上空、そして上空しか逃げ場がないと分かっていればライバーホークもさすがに対処できる。
さんざん煮え湯を飲まされたつけを今、ここで――――。
(三の章六……)
ライバーホークは見逃した。
大木の影に隠れ、魔法陣を起動させる金髪の少年の姿を。
掲げられた魔法陣が紅蓮の輝きを放つ。
魔法が発動する。
ガガモットがある地点をかすむ速度で通過する。
それを追ったライバーホークの視界に、
突如、巨大な網が広がった。
止まることなどできない。
朱色の怪鳥が打ち上げられた罠に頭から突っ込む。
襲いかかるとてつもない衝撃。
羽根が千切れ肉が断裂する。
体中の骨が絶え間なく折れていくのが分かる。
視界がブラックアウトする。
脳が頭頂に偏ったような歪な感覚。
焼け付くような痛みの中、ライバーホークは感知する。
タタタッ、と、
人間の足音が近づいてくる。
慣性によって罠に張りついていた体が落下し始める。
地面に叩きつけられた巨体は呻き声を上げたまま動かない。
足音が近づいてくる。
絶望が音を立てて近づいてくる。
マナを袋部分に集め、可燃性の液体が喉元を濡らしたのが最後の足掻き。
ドスッ!! と、
体に槍が侵入する感覚は一瞬だった。
槍先は軟らかな肉をこじ開け、心臓を的確に貫く。
(『フィロスの鉄槌』)
情けの無い追撃。
紫電が魔獣の体内で炸裂する。
血が沸騰する。体内組織が焼け落ちていく。
もう、助からない。
ライバーホーク体が傾ぎ、頭部が大地に叩きつけられる。
魔獣が最後に見た景色、
皮肉なほどに青い空に横切った黒い影。
王者たるライバーホークを差し置いて、ガガモットは勝者として空に君臨する。
その背中でぶんぶんと手を振る白い髪の人間。
空を汚された怒りを最後まで感じながら、ライバーホークの意識はこの世から完全に消失した。
(引火したらやばかったかな……)
ライバーホークは最後、スキルを発動させていた。
完全に仕留めるために雷撃を使用したわけであるが、少し危険な行為だったかもしれない。
「マスター!」
額の汗をぬぐったラフィータの耳にアーサの声が聞こえた。
ガガモットが速度を落としながら地に向けて滑空してくる。
魔獣は搭乗者をいたわるような柔らかい着地をした。
魔獣の背に乗っていたアーサが飛び降りて、ラフィータに抱きついてくる。
そのあまりの勢いにラフィータは思わず倒れそうになる。彼はアーサの背中をぽんぽんと叩きながら通信用の腕輪を作動させ、『運び屋』を呼び寄せる。
「マスター! どうでした! できましたマスター!」
「文句ない。タイミング、引きつけ、パーフェクト。最高の仕事だった」
「ですよね! やった! やったあ!」
興奮度マックスのアーサを見て、ラフィータも自然と笑顔になる。
彼は手甲を脱ぎ去ってその場に放り投げると、アーサを抱き寄せてその頭をわしわしと撫でた。
「一人で、本当によくやった。少し不安だったけど、これからはもっとアーサを信用することにするよ」
アーサがラフィータの首元に頬をぴったりつけて、至福の表情で抱擁を受けている。
「クエエ……」
「あ……」
アーサがはっとして振り返る。
少し離れた場所でガガモットが地に伏せていた。
ガガモットの元に駆けつけたい気持ちとラフィータから離れたくない気持ちがぶつかって、アーサはひどく困った様子でラフィータを見つめる。
見かねたラフィータがアーサを連れてガガモットの元に近づく。
地に首をぺたりとつけたガガモットの頭を二人で撫でてやる。
その後しばらく経ってから『運び屋』のドールが六人到着した。
大型の魔獣用に作られた特製のネットを所持したドール達は、ライバーホークがすでに特製ネットの上に転がっているのを見て目を丸くした。
持ち運ぶことが出来ないので、ドールはこの場で魔獣を解体する。
ライバーホークの素材で利用できる箇所は多くない。
朱色の羽根は『空の王者』の名を付加価値として装飾品に利用する。
クチバシやかぎ爪は武器などには使用されない。固さの点で言えば他に選択肢が無数に存在する。
ドール達が解体作業に勤しむ中、ラフィータは警護としてその周辺でたむろしていた。冒険者の責務である。
日が傾いてきた頃、全ての作業が終了する。
ラフィータとアーサはドール達のあとを追い、『ヘクトールの森』をあとにした。
「ラフィータ、やってくれたな」
「…………」
「どうすんのよ、これ」
ラフィータが涼しげな顔で親父を見つめる。
「ギルドの備品をこんなずたぼろにして、タダで済むと思うなよ」
「タダで済むはずですね」
「いや、そうなんだけど……」
運び屋の親父は頭を抱えていた。
男の目の前に置かれているのは、ところどころが引きちぎれてしまった大型魔獣用のネット。
朝方にラフィータが借りていったものだ。
「どういう使い方をしたんだ。今日はさすがに説明してもらう」
「詳細は省きますが……。原理としては単純です。まずライバーホークを引きつけます。速度を上げて滑空してきたかの怪鳥の目の前に、ネットをばっと広げる。怪鳥はネットにかかり、地面に落ちる。そこを攻撃しました。水辺で行う漁の技術を空で活用したに過ぎません」
親父はぽかんとした表情でラフィータを見ていた。
それが一転して思案顔になる。
新しい狩りの方法を吟味しているのだ。この狩猟方法を活用できるのはライバーホークに限らない。場合によっては親父が目をつけている冒険者に技術を教えることだってあるだろう。それについてラフィータがどうこう言う権利はない。技術の流出を嫌がるなら、最初から親父に教えなければいいのだから。
「火炎袋はどうしたんよ。スキルは」
「事前に潰しました。火矢のようなものを使い、袋が膨らんだ瞬間に起爆させました。致命傷にはなりませんでしたが……」
「お前、あれを狙える技術があるのか。かなりシビアなタイミングだったはずだぞ。そして、ようなものってなんだよ」
「ようなものです」
「この野郎……」
ゼブラを倒したことはまだ公言していない。言えるはずがなかった。
親父はしばらく食い下がったが、ラフィータがどうしても口を割らないので、ため息をついて負けを認めた。
「貢献度はマイナス10あたりだ。こいつをしっかり職員に見せてくれ。じゃねえと備品がおりてこねえからな」
サインと判子つきの書類がラフィータに手渡される。
次いで、クエストの受領証と狩猟印紙の片割れが返された。
「ありがとうございます」
「礼儀だけはいいんだ。これで口も軽ければ、文句なしにいい子なんだけどよう」
「いい子って、そんな歳じゃない。……ごほん。では、今日はこれで。備品の件は、正直反省しています。おそらく今回が最後になると思います」
「そう何度も壊されたら仕事が回らなくなる。おう、すっかり暗いから気をつけてな」
「はい」
部屋を出ると、冒険者が数人列をなしていた。
いきなり出てきた子供のような冒険者に注目が集まる。
彼らの視線を全て無視しつつ、ラフィータは扉に向かう。
建物を出る。
外に出たラフィータの肌をを生ぬるい風がなでていく。
「では、こちらはお預かりします」
「ありがとう」
外でアーサに持たせていた槍を運び屋のドールに預ける。
この建物は装備の預かりシステムも担っている。
管理するのはあくまでドールであり、盗難にも遭いやすいため利用している冒険者は少ない。
ちなみに預けた槍はゼブラを突き刺し、ライバーホークにとどめを刺した歴戦の中古品である。
いわくつきなのか、露店でタダ同然で売られていたのをラフィータが購入した。しばらく外に放置していたり手入れが悪くていろいろと錆び付いているが、まだしばらくは使用できそうだ。
「マスター、今日も馬車ですか」
「うん。暗いし、疲れてるし。そうしようか」
ラフィータは停留所を目指して歩き出す。
停留所で待っていると、ほどなくして馬車が来た。
御者に金を渡す。
ギルド直営の馬車なので運賃が非常に安い。ハクマの街とヘクトールの森の往復時間を削り、能率良く狩猟してもらおうという目論見があるらしい。何にしても、懐の寒いラフィータでも気兼ねなく利用できるのはとても嬉しい。
「マスター」
ハクマまで道半ばといった頃、アーサが話しかけてきた。
「どうかしたの」
アーサはもじもじとした様子で口を開きかねている。
「アーサ?」
「あの……。ご褒美……」
「ご褒美って。あ……」
「何でも一つ、という事でした」
「う、うん」
「それで……」
ラフィータは身構える。
どれほど高価な要求がこようと失神しないよう深呼吸をする。
「あの、湯浴みをしたいのです」
ラフィータは目をぱちくりとして、次に大きくため息をついた。
その様子を見たアーサが慌てたように確認してくる。
「だ、駄目……でしょうか」
「いいよ」
「え」
「報酬があるし。湯浴みくらいなら問題ないよ」
「本当ですかっ」
幌馬車ががたりと揺れた。
アーサが立ち上がってラフィータの手を掴んできたのだ。
「う、うん。というよりアーサ、別にこういう時じゃなくても、どうしても湯浴みしたい時は言ってくれて構わないよ」
「はい。でもマスター、こういう時じゃないと一緒に湯浴みしてくれないから」
顔中の筋肉がいっせいに凍り付いた。
何か聞き捨てならない言葉を耳にした気がした。
「アーサ。今、なんて……?」
「え、ですから。マスター、いつも一緒に湯浴みしてくださらない、ので……?」
ラフィータが頭を抱えだしたのを見て、アーサの言葉尻が萎んでいく。
「やっぱり駄目、でしょうか……」
アーサの表情が一気に暗くなる。
そんな彼女を見たラフィータの内心で二つのささやきが聞こえる。
(このまま駄目だと押し切ってしまえ)
(いけない。あれだけの働きをしたアーサの期待を、お前は裏切れないだろう)
「マスター……?」
断腸の思いとはまさしく今のラフィータを言う。
ラフィータは顔を上げた。決意の表情がそこにあった。
「アーサ、僕は……」