第五話 彼を蝕む病
視界を覆うもやが晴れていく。
あたりの空気が真っ赤に染まっている。スキルによるマナの性質変化が伝播した結果である。まるで夕焼けの景色を見せられているようだ。
ラフィータは肩で息をしていた。
顔を流れる汗をぬぐう。
(五の章六『北天の加護』)
彼の目の前に半透明の青い防御壁が展開されていた。
熱線が直撃する寸前に発動したのだが、なんとか持ちこたえてくれたようだ。
(この距離で、この威力! 優秀な個体だ。やってくれる)
ラフィータはニヤリと笑う。
と、彼の目の前を一筋の煙が立ち上る。
下を見れば、腹部の布地に焦げ目が付いている。
(ちょっと危なかったかも)
「マスター! マスター!」
ラフィータが目だけで振り返る。
すぐそばでアーサが心配そうな表情をしている。顔面が落ち葉にまみれていた。
熱線が直撃する前に、ラフィータはアーサを地面に突き落としていた。
アーサはちゃんと受け身をとってくれたらしい。彼女は再び木を登ってきたというわけだ。
「アーサ、無事か」
「私なんて、どうでもっ。それよりマスターは……!」
「見たら分かる。まるで無傷だ」
スキルによる攻撃は直撃を防げば終わりとはいかない。
今も熱線の余波によって大気中のマナが赤く反応しているように、スキルはマナに性質変化をもたらすものが多い。
スキルは言わば、マナに送られる『指令』である。
指令はマナからマナへと伝播する。今回は『指向性を持つ熱線になれ』という指令が変質したマナに乗って空間を伝わった。
この指令、物体を貫通する。
例えば今の熱線、どれだけ耐熱性の高い盾でも防ぐことは出来ない。
指令は盾をすり抜け、盾と冒険者の間のマナを性質変化させて熱線を作り出してしまう。
そしてもう一つ、指令は冒険者の体内マナをも性質変化させる。
体内マナの変質に関しては対抗するテクニックを持たない者は甚大な被害をこうむる。
内蔵を直接攻撃されるのだ。少しの傷が致命傷になりかねない。
今回ラフィータが展開した魔法障壁は物理的な熱線はもちろん、飛来する『指令』をも遮断するものだった。実際、熱線は遮断して見せた。しかしとっさのことで展開の仕方が甘かったらしく、少量の『指令』が壁を貫通してしまった。
事前にアーサを突き落とし、防護壁を展開し、さらに体内マナを操って体を『指令』から保護する。
防護壁の展開が間に合わず壁と腹部の間で熱線が生じてしまったようだが、それ以外は上々の結果と言えよう。
「で、ですがマスター、お腹のそれは」
「問題ない。つまり、いわゆるかすり傷」
「ほ、ほんと……? ほんとに……?」
「服をめくって見せればいいの。取り乱しすぎだよ、アーサ」
「え、あ。ごめんなさ……」
そのときだった。
ラフィータの肌が大気マナの乱れを察知する。
「…………」
彼は一瞬考えた後、アーサを抱き寄せてその目を手で覆う。
直後、赤い光が二人を包み込む。
飛来した熱線が防護壁に直撃する。
凄まじい衝撃が二人の肌を、体全体を震わせる。
溶鉱炉の中に身を沈めたような、圧倒的な光量が視界を埋め尽くす。
しかし、防御壁はびくともしない。
ラフィータはアーサの顔から手をどかす。
アーサが恐る恐る瞳を開ける。
瞬間、彼女はあっと口を開けた。
彼女はそのまま目の前の光景に見入った。
壁の表面では熱線が幾筋にも割けて、二人の後方へ流れていく。
オレンジ色に変色した壁を前にして、アーサは感嘆の息をついた。
水が沸騰した際に鳴るような、ぼこぼこぼこ! という独特の音を聞きながら、ラフィータはアーサに問う。
「どう」
「す、すごいです。まるでマグマの滝みたい」
熱線の勢いが弱まっていく。
シュウウウウウウッという音と共に、防護壁の色合いがみるみる変化していく。オレンジから白へ、白からもとの青色へ。
「と、いうわけ。この程度のスキルは完全に無効化できる。だから、アーサが僕の心配をする必要はない。勿論、心配してくれるのは嬉しい。だけどそれで冷静さをかいてしまったら、今度はアーサに危険が及ぶ。分かるだろう?」
ラフィータはアーサの頭にぽんと手を置く。
その際、叩くとは言わないまでも少し強めに力をこめた。
「もう少し僕を信用してくれていい。このレベル帯の魔獣に遅れを取るつもりはないから」
「マスター、すごいです」
アーサはラフィータに尊敬の眼差しをさし向けてくる。
そのキラキラと輝く純朴な視線に耐えきれなくなって、ラフィータは彼女から顔をそむけた。
なんだか体中がむずがゆかった。褒められた経験に乏しい彼は、こういう時にどう返事をすれば良いか分からなくなってしまう。
「マスターって、本当にすごいんですね!」
アーサがラフィータの肩を揺さぶる。
「う、うん。まあね」
「アーサは浅はかでした! 尊敬しますマスター!! もともと尊敬してましたけど!!! もっともっとそんけ……」
「うるさい」
枝の上ではしゃぎ始めたアーサを叱りつける。
「さあ、三度目が来ないうちに撤退しよう」
「戦わないのですか」
「戦うのにも準備がいる。今回はアーサにゼブラを知ってもらうのが目的だったんだ。これでいいんだ」
ラフィータとアーサは枝から枝へと飛び移って、地面に降り立つ。
ラフィータは今一度方角を確認し、その場を後にする。
ゼブラは追ってこない。
魔獣は冒険者の気配が消えたことを確認し、再び通常の巡回ルートを辿り始めた。
「マスター、どこに向かっているのですか」
「この道、見覚えがないか」
「え……」
アーサが歩きながらきょろきょろと辺りを見渡す。
彼女の表情が曇っていくのと同時、頭部の猫耳が少しずつ倒れていく。思い出せないようだ。
「『溜まり』の地理を把握しておくのは大切なことだ。今度からはただ僕の後ろについてくるだけじゃなく、地形を記憶することを意識するように」
「はい」
「で、質問の答えだけど。そろそろ……、あった」
ラフィータは足早に一本の木に歩み寄る。
その木の幹にはラフィータが以前しるしとして斬りつけた横一本の線が残っていた。
ラフィータは木の根元を覆っていた茂みをかき分ける。
茂みの下には人一人がすっぽり入れる深さの穴があった。穴は枯れ木と葉っぱで埋められており、ラフィータはそれらをいそいそとかき出していく。
「それは以前に運んでいらした……」
ラフィータは穴の中から樽を抱え上げ、外の地面に置いた。
樽の中からはぴちゃぴちゃと液体の揺れる音がする。
「そうだ。あのときはちゃんと説明しなかったけど、これは全て今日のために準備していたものだ」
ラフィータはアーサに計画を説明していく。
『ゼブラ』を倒す、とても簡単な計画を。
「そんな方法で……」
「うん。経験から知ってる。『ゼブラ』はね、見た目に見合わず臆病なんだ。厄介なスキルもそれで封じ込める。封じ込めれば話は早い。あとは文字通りの『電撃戦』だ」
ラフィータはぺろりと唇を舐めた。
「おそらく二分とかからない」
「ですがその作戦、マスターが危険では……」
ラフィータは口元をゆるめてアーサの頭を撫でた。
アーサは上目遣いのまま不思議そうな表情でラフィータを見ている。
「アーサ、二度目になるけどね。僕のことはいいんだ。さっき故意に熱線を受け止めて見せただろ。お前の心配を和らげるために消費したマナだ。無駄にさせないでくれ」
ラフィータは樽をいっぺんに二つ抱えた。
「アーサも手伝って。場所はここの近く。『ゼブラ』が来る前に、急ごう」
ドシン、ドシンと地鳴りがする。
鳥系の魔獣が群れをなして羽ばたいていくのを、ゼブラは視界の端にとらえていた。
ゼブラの視界は体の表面に埋め込まれた無数の視覚細胞によって得られている。
つまりゼブラには死角が存在しない。視覚細胞によって得られた情報は体内の最奥に密集した中枢神経において処理され、危険な外敵の存在をゼブラに知らせてくれる。
ゼブラは道なりを歩む。
ゼブラを遮るものは存在しない。道の障害となるものは事前にゼブラが取り除いていた。利用できる樹木は皮膚に張りつけ、それ以外は道端に放り投げる。そうやって自力で整備した道を巡回するのがゼブラの習性なのである。
と、ゼブラの足が止まる。
ゼブラは今、崖沿いの道を進んでいた。崖沿いというより崖の真下と言った方が正しいか。右手にはゼブラをもってしても見上げるほどの断崖がそびえていた。荒れた斜面は木が数本まばらに生えているだけだ。
そんな場所でゼブラが足を止めたのは、前方になにやら奇妙な引っかかりを覚えたからだ。
ゼブラが鈍感な触覚を持っていたなら気づく間もなく通り過ぎただろう。それで問題はなかったのだ。
しかし臆病な気質で知られるこの魔獣、不幸なことに触覚は鋭敏だった。
命運を分ける一瞬の選択、
ゼブラは一歩後ろに下がり、じっと目をこらしてしまった。
糸だった。一方を木に巻きつけられている。他方は崖のすぐそばに生えた木に巻きつけられていた。
糸は数本巻きつけられており、柵のようになってゼブラの進行を妨げている。
ゼブラが問題の解決をもくろみ思案を開始した頃、
ラフィータは口元に歪な笑みをたたえつつ、魔術行使を開始する。
ゼブラのこしらえた巡回路に小柄な少年が飛び出してきた。
少年は巨大な魔獣と真っ正面から対峙している。
ゼブラは知らない。少年の懐には起動した魔法陣が隠されてて、今も懐炉のような熱を少年の腹に伝えていることに。
新たな問題が現れたことによりゼブラの思考がしばし混乱する。
と、わざとだろうか。少年はゼブラを見たまま手を大ぶりに振っている。
ゼブラはしばし沈黙していた。
それが一転、巨体の前方に急速にマナが集結し始める。
スキル行使の前兆を感じただろうに、少年は突っ立ったまま行動を起こさない。
ゼブラが人の表情を解したらきっと怒り狂っていただろう。
だって、少年は笑っていたのだ。
結局、ゼブラの中枢には一抹の危機意識すら生じなかった。
前方に浮遊する莫大なマナに『指令』が巡り始める。
これによって前方のマナが性質変化する。
マナは熱を帯びた光線となって対象を焼き払う――――はずだったのに、
ゼブラが異変を感知する。
ただし感知しただけで対処は出来ない。
それはそうだろう。
『指令』が巡り、マナが高熱を帯びた瞬間だった。
突如生じた紅蓮の炎が爆音と共にゼブラの視界を包み込んだ。
ゼブラの前方に巨大な火柱が立ちのぼる。
見る者を萎縮させるほどの豪火がゼブラの体に襲いかかる。
そして引火する。魔獣がせっせと蓄えてきた体表の木材に。
鎧が燃えている。火は魔獣の前方、突きだした首のあたりを重点的に包んでいる。
ラフィータは苦しげにのたうつ魔獣の側面に回り込んだ。
そこであらかじめ手にしていた小石を魔獣に投げつける。
ゼブラに死角はない。前方以外の視覚細胞はまだ生きている。
ゼブラはラフィータの位置に気づく。
少し遠い。ゼブラの中枢はそう判断した。
魔獣は再びスキルの行使を開始する。
それが第二の悲劇に繋がる。
ゴウッッ!!! と、
ゼブラの側面で爆炎が生じる。
炎が魔獣の体表を侵し、皮膚の奥まで食い破る。
ゼブラは知らなかった。
最初から魔獣は誘い込まれていたのだ。
(三の章八『秘匿の息吹』)
地面に置かれた五つの樽から油が霧状になって空気中に散布される。
いくつかの塊に成形された油の霧は今なおゼブラの周辺につかず離れず浮かんでいる。
ゼブラが苦し紛れに三度目のスキル行使に出る。
それを察知したラフィータは油の塊を操作して魔獣に叩きつける。
三本目の火柱が上がる。
痛みと苦しみからゼブラの前足が屈し、膝が地につく。
ラフィータはそこで動きを止めた。
棒立ちでゼブラをじっと見つめる。
ゼブラの周辺でマナが霧散していくのが分かった。
(よし、植え付けた)
ラフィータは空気中に浮かせた油をゼブラの上、動物で言う背に当たる部分に叩きつける。
火の手が伝染し、背中でも火柱が上がる。
それと平行して、ラフィータはあらかじめ崖に垂らしてあった紐をつかみ、崖を登り始めた。
早い。五十メートルはあるだろう崖をすいすいと登り、数秒経たぬうちに半分まで到達する。
「アーサ!」
崖の上でアーサがひょっこり顔を出した。
彼女はラフィータに向けてあるものを投下した。
崖を四分の三ほど上りつめた状態でラフィータはそれを受け取る。
槍だ。
長さ二メートル半に及ぶ鋼鉄製の剛槍がラフィータの手に収まる。
ラフィータの体勢が一気に変わる。
崖を上に向けて登っていたのが、今度はその勢いを利用して横に移動する。
歪んだ放物線を描いて水平に移動したラフィータの眼下にゼブラが映る。
(位置取り、よし)
降下を開始する。
ラフィータが崖を疾走する。
ただ落下するだけにとどまらない。
靴に仕込まれた吸着魔法すら利用して、彼は崖を蹴り続けた。
ゼブラはそれを察知した。
視覚細胞の残りが結んでくれた像が冒険者の接近を訴えるが――――
ゼブラはアクションを起こさない。
上方からの敵に対してできる対抗手段はスキル行使、
スキル行使が――――遅れる。
植え付けられたからだ。
スキルを使えば爆発が起こる、そう何度も教えられたから。
天国と地獄を分ける一瞬の判断、
ゼブラの気性はやはり臆病だった。
天命を待つように頭を垂れたゼブラの背中へ、槍が雷のように降り落ちる。
槍が柄の半分以上まで深々と刺さったのを確認する。粘着性の膜を貫く勢いを得るための崖下りだったが、目論見は成功と言える。
言えるのだが……
魔獣の背に乗ったラフィータの顔が歪む。
痛みにゼブラが暴れ出す。
彼は振り落とされぬよう槍をしっかりと握る。
(外したか)
液体状に散らばったゼブラの中枢神経の、その核となる部分を貫通できれば即死させられたのだが、そう上手くはいかなかったらしい。
(仕方ない)
ラフィータは手甲の下に隠した魔法陣を起動させる。
(四の章十五、『フィロスの鉄槌』)
槍を通じてゼブラの体内に注入されたラフィータのマナが変質する。
紫電がゼブラの体内で暴れ狂う。
魔獣の神経がボロボロになっていく。
脳髄を直接焼かれるに等しい攻撃を受け、ゼブラの腹が地に着く。
そのときだった。
「―――――スター!」
魔術行使に集中していたラフィータの耳にかすかな叫びが聞こえた。
はっとして上を向いたラフィータの視界に黒い影が映り込む。
ラフィータはゼブラの背から飛んだ。
先ほどまで彼がいた場所を銀色の刃がえぐる。
「お手際お見事! しかし君には運がない」
降下してきたのは男だった。
男は黒く長い髪をかき上げながらラフィータにお辞儀をしてくる。
「初めまして冒険者。僕の名はミクルス=フォンゲータ。以後、お見知りおきを」
「何のつもりだ」
ラフィータが冷えた口調で問う。
ミクルスと名乗った男はわき腹を叩きながら声無く笑った。
「何のつもりだと聞いている」
「何のつもり? 答えよう。横取りだよ」
地に下りたラフィータに対し、いまだゼブラの上を陣取るミクルス、
男は片眼をつぶったままラフィータにほほえみかけてくる。
(ああ、やめてくれ……)
ラフィータはくらりときた。
暴力的な衝動が彼の心にかすみをかけていく。
「君は無所属の新米君だ。具合の良いことに調べがついている。つまり、例えばこの手負いのゼブラを横取りされたとして、君は報復に出るだけの勢力を有していない。というより、君がゼブラを横取りされたと騒いでも信じる輩もいないだろうね。ああ、ねえ君分かる? こんなに美味しい話ってないだろう」
ラフィータは無言で魔術を行使しようとした。
彼は一本の糸を握っていた。それは始め槍に巻きつけられていたもので、他端は槍の石突きに繋がっている。もしゼブラから振り落とされても、それを介して雷撃をゼブラに流し込めるようにするために用意した。当然、マナを通しやすい素材で出来ている。
今、ミクルスは槍の近くに立っている。
槍から放出したマナを変質させ、雷撃によって昏倒させるのはわけないが……。
「ノン!」
マナの動きを感知したのか。
ミクルスは片手を突きだしてラフィータに制止のポーズをした。
「ドールをお忘れでは?」
ラフィータの顔から血の気が引く。
彼はちらっと上を見た。
先ほど警告を発してくれたアーサはそれ以来声をあげていない。
それにミクルスは上から駆け下りてきた。
崖の上に仲間がいるとしても、何もおかしくはない。
「アーサに、何をした……!」
「んん、怖すぎる顔つき。でも威勢だけで僕の優勢は変わらない。君に言えることは、その紐を手放して今すぐこの場を立ち去ることだ。安心したまえ、ドールは所有物として認められている。事が済んだら解放するさ」
「…………」
「無論、傷の一つは覚悟してくれたまえ。よく言うだろう? 可愛い方が悪いって」
にやりと笑うミクルスを見た。
瞬間、ラフィータの方針は決定した。
「ねえ、ミクルスとやら」
「なんだ。さっさと立ち去らないか」
「あなたは、いわゆるパーティーリーダーなのかな」
「ふふ。そうだね。『クロユリ』というパーティーを組んでいる。ランクはC、君のかなう相手では……。どうした、なぜ笑っている」
ラフィータは下を向いて口をゆがめている。
声を押し殺すように、くっくっと、肩を揺らしながら。
「いいことを聞いたよ。だったら、あなたの言うことにきっと従うんだろうね」
「は? 何を……。つっ! これは!」
己の体に叩きつけられた感知しにくいマナの霧にミクルスが気づいた瞬間、
ラフィータががばっと顔を上げる。
両目に妖しい光を宿しながら、
彼は右手を突きだし、声高に叫ぶ。
「六の章七十『リリスの陥落』!」
ミクルスの首ががくりと前のめりになり、次いで真っ直ぐ元通りになる。
男の表情がなくなっている。能面を貼り付けたような無表情だ。
ラフィータは次いで紐にマナを流し、電撃でゼブラを完全に抹殺する。
魔獣を倒したことで体内に侵入してくるマナを感じていると、突如ミクルスが叫びだした。
「お前達! 下りてこい!」
男が数人、崖の上から顔を出す。
アーサの顔は見えない。
「武装解除を手伝え! こいつ相当に金目の物を持っている! 許す! 略奪しろ!」
男が三人、嬉々として斜面を滑り降りてくる。
対してラフィータのとった行動は簡潔だった。
彼は斜面を登りだした。
垂れた紐を手に持って、アーサから槍を受け取ったときと同様に。
慌てた顔をした男数人とすれ違う。彼らは今さら方向転換などできない。
結果として男達が地面に到達する頃、ラフィータは崖の上にたどり着くことになる。
崖の上では男が一人、呆けたような表情でラフィータを見ていた。
男の下では組み敷かれたアーサが驚いた表情でラフィータの方を見ている。
引きはがされた胸当て、破かれた布地。
その光景が目に映った瞬間、
ぶちりと、
ラフィータの中で何かが切れた。
男がアーサの首にナイフを突きつけるより早く、ラフィータの左拳が男のみぞおちに沈む。
ゴキリと嫌な音を伴って、男の体が宙に浮く。
ラフィータは悶絶する男を木の幹に叩きつけ、
その陰部にそっと手を添える。
彼は男の耳元でささやいた。
「罪な男は女になるべきだ」
悲鳴が大空にこだまする。
事を済ませたラフィータはアーサのもとにかけよる。
「アーサ、無事?」
ラフィータは柔らかな口調で話す。
アーサは呆気にとられていたが、なんとか頷くことが出来た。
ラフィータはアーサをぎゅっと抱きしめると、
「しばらくここにいて。安心して。すぐに済むから」
そう言って、笑顔のまま崖の下に下りていく。
その頃、崖の下ではこちらもまた悲劇がおこっていた。
「てめえミクルス! 何のつも……、ぐわあ!」
「逃げろ逃げろ逃げろ何をやってる! 刃向かうな逃げてくれ!」
血しぶきが舞う。
ミクルスが仲間に斬りかかっていた。
その顔は口元だけが楽しげで、目は悲痛な表情をしていた。
ラフィータが崖を駆け下りている。
地面に降り立った彼に対し、ミクルスは恭しげに頭を垂れた。
「もういいぞミクルス、正気に戻れ」
ミクルスがはっとして辺りを見渡す。
彼は青い顔してがくがくと震えだした。
周囲には呻き声を上げて動かない男が三人、全てミクルスが斬りつけたものだ。一応支配魔法に抵抗はしたらしく、切り傷は加減されたものになっている。手当をすれば一命は取り留めるだろう。
「僕はなんてことを……」
ラフィータは震えるミクルスの首を掴み、崖の斜面に叩きつけた。
ミクルスは抵抗できない。支配系統の魔術を身に受けた後遺症で体に力が入らないためだ。
「なんてこと? なんてことないだろうミクルス。ねえ、外道なあなたにとっては」
「う、うそだ……。こんな餓鬼が、僕を……。信じないからな!」
「『災難だった』。この言葉一つで終わる人生……」
ラフィータは抜き身のククリナイフを男の首に添える。
「ねえミクルス、人を殺めたことはある……?」
ラフィータはミクルスの耳元でそっとつぶやく。
ラフィータの首元に黒い紋様が浮かび上がっている。
それは赤黒い魔法陣だった。魔法陣は雨で生じた波紋のように、次々と広がっては薄くなり、そして消えていく。雨が強まるように魔法陣が数を増す。首から顔へ、背中から腹へ。それが次第にラフィータの肌を埋め尽くしていく。
まるで彼自体を侵食するような……。
そんな異様な光景を目にして、ミクルスは涙を流して懇願する。
「い、いやだっ。助けてくれ、頼む命だけは……!」
情け無用にナイフの刃がすべっていく。
肉を裂き、血がこぼれ落ちる。
ラフィータの脳内が甘美な液体で満たされていく。
脳裏を白い光が包んでいく。甘く溶けた快感に体がじんわりと支配されていく。
そうだ。このまま――――
刃がもう少しで届いてしまう。
そのときだった。
「マスター!」
ラフィータははっとしてミクルスから距離を取る。
とっさに上を見ると、アーサが飛び降りてくるところだった。
(え……)
飛び降りてくるところだった。
大の字で、アーサの顔が青くなっているのが分かった。
ラフィータは慌てて身体強化をし、受け止める姿勢をとる。
ラフィータが広げた腕にアーサが飛び込んでくる。
ほとんど地面に埋まる勢いのアーサを、支えきれるはずがなかった。
ラフィータは屈し、二人仲良く地面に叩きつけられた。
顔を押さえて悶絶するアーサを横目に、ラフィータは安堵の息をつく。
これだけ転がり回れたら心配は要らない。
彼女のスキルで何とかなるだろう。
それより……
ラフィータはマナを体表付近に集める。
彼の顔がゆがむ。激しい痛みが全身を覆う。
痛みを代償に、皮膚を埋め尽くしていた黒い魔法陣が一つずつ消えていく。
「アーサ、治癒スキルの行使を許可する。鼻の曲がったドールは困る。マナは惜しむな」
ラフィータは立ち上がり、崖にもたれて泡を吹いているミクルスを蹴り飛ばした。
ミクルスが意識を取り戻す。彼はラフィータを見るなり再び気絶しそうになったので、張り手をくらわせてそれを阻止する。
「ミクルス=フォンゲータさん、でしたね」
「そ、そうです! 何か! ご用でしょうか……」
「はい、一つ提案があります。ここでの出来事はなかったことにしませんか」
「え、それは、どういう」
「あなた方のなした不義を見逃すので、私のなした制裁まがいの暴行も見逃して欲しい。もしあなた方がランクEの子供に返り討ちに遭ったと知れたら。ねえ、周りの評価も気になりません?」
ラフィータはミクルスの顎に手を添える。
傷を付けた部分に意図的に手を当てることを忘れない。
「約束をしていただけるなら、私はこれ以上手を出しません。逆を言えば……」
「あ、ああ! いいだろう。お願いします」
「ありがとう」
ラフィータは穏やかな手つきでミクルスの頭を撫でた。
ミクルスが呆けた顔でラフィータを見上げている。
「アーサ、治療はすんだか」
「はい。なんとか。ただ膝だけもう少し時間が……」
アーサは地面に座り込んでいる。
折れただろう鼻は完治している。鼻血のあとが残っていたのでぬぐってやる。
ラフィータは地に膝をつきアーサに背中を見せた。
「おぶるから。乗り方は知ってるね」
言葉に甘えてアーサが背中に乗ってくる。
ラフィータの首にアーサの手が回される。
ラフィータはよいしょと立ち上がり、ミクルスを見やった。
「一つ、今後いっさいあなた方とは関わり合いになりたくない。もし今後、あなた方が私に干渉してくるようであれば、今度こそは容赦をしません。……皆殺しにしてやる」
「は、はいいいい!」
「メンバーにもよく言い聞かせておくことです。誰か一人の突飛な行動は全体で罰せられる。例外はない。それでは、私はこれで」
「アーサ、べたべたさわるのはよして」
「だって、おかしな模様が……」
「もう消えただろう」
アーサは信用ならないらしく、しきりにラフィータの首元をなでさすっている。
ラフィータは帰路についていた。
背中にはまだアーサを背負っている。ミクルスらから離れた場所で膝を治癒させようとしたのだが、アーサがなかなか下りたがらず、結局ここまで来てしまった。
アーサには助けられた恩があるのと彼女のメンタル面の心配から、いつもより寛大になっているラフィータである。
「アーサこそ、大丈夫?」
「膝はまだ痛いです」
「そうじゃなくて、それはいいから。ほら。怖く、なかった?」
「怖かったです」
「やっぱり。ごめんね、もう少し僕がしっかりしてたら……」
「本当に怖かったです。あの、マスターがいつものマスターではない感じが。抱きしめられても嬉しくなくて、マスターが別人になっちゃうように思えて……。心細くなって……」
「…………」
ひょっとすると、崖の上で自分が何をされようとしていたのかアーサには分からないのかもしれない。
正直それはそれで問題なのだが、今回は功を奏しただろう。ラフィータはそう思った。少なくともアーサが恐怖を感じずにすんだのだから。
「マスター、さっきの黒いものは何だったのですか」
「これは……『伝染病』かな。あ、スキルを行使しても意味ないよ」
背中でアーサが脱力するのが分かる。スキル行使を鑑みたようだ。
「これはアーサに出会う前にもらったものだ。進行するに従い患者はどんどん暴力的な性格になっていく。アーサには感染らないから、安心して」
「治らないのですか」
ラフィータはわずかに口ごもった。
「マスター?」
「治るよ。うん、治るんだ。でも、そのためには旅を続けなくちゃならない。旅路の果て……、それはずっとずっと先の話だ」
「たびじの、はて……?」
「旅の目的にかかわる話だよ、いずれ話す。……ああそういえば、これは治療法ではないけど、進行を遅らせる対処法がある。それは怒りに飲まれないこと。自我を見失わず、自分がする行動の理由を見失わないこと。つまり僕次第なんだけど」
「お役に立てなくて、ごめんなさい」
「そんなことない。今日だって、お前の声で僕は現実に戻って来られたんだ。
……アーサ、本当にありがとう」
ラフィータは心からアーサに感謝していた。
いつもと少し感じの違う真剣さをアーサは感じ取ったようで、彼女はラフィータの首筋に頬をすりつけてきた。
「また何度でもお呼びします。それくらいしか、できませんけど……」
「それだけで十分だよ。僕が暴走しそうになったら、そのときはまた呼びかけて欲しい」
「はい……」
最後の返事は少しだけ不安の色を帯びていた。
アーサにとっては、きっといまだにラフィータが世界の全てなのだろう。自分の命よりラフィータの命を重んじているきらいすらある。だからこそラフィータの怪我や不調に敏感で、酷いときには取り乱すこともある。
アーサと契約を交わした理由の一つが、こうして『病』の進行をくい止めるための存在を求めてのことだった。今は少しだけ後悔している。その役目を押しつけることがアーサの負担になっているのだから。
と、背後から寝息が聞こえる。
アーサはラフィータの後頭部にほっぺを押しつけたまま眠ってしまったようだ。
「…………」
ラフィータはできるだけ背中を揺らさないよう注意しながら道を進む。
傾いてきた日に照らされる彼の表情は、穏やかさともの悲しさが同居している。
アーサが目を覚ました頃、そこはすでに運び屋の館だった。
「ふふっ」
光の差さぬ暗い地下牢で小さな笑い声が聞こえた。
それはとても奇妙なことだった。あたりに響くのは罪人の呻き声がほとんどだ。食事も満足に与えられず、塵と己の汚物にまみれながら硬い床に横になって眠る日々。
劣悪な環境にあって、楽しげに笑い声をたてる人間などいないはずだった。
「ふふっ。うふふふふっ」
しかし声は聞こえてくる。
声はとある牢の中から聞こえてきた。
重たい鉄扉に閉ざされた室内で、その人物はひどく楽しげに笑っていた。
「感じてしまった。このマナの波長、ああ少年よ。我らは同胞だったのですね」
鉄製の鎖でがんじがらめにされた体を揺すりながら、男は二イイイと口角を上げる。
「そろそろ死に頃かと思っていました。が、これはいけない。切ない未練です。もう一度君にお会いしたいですねえ。どうしましょうどうしましょう」
男はしきりに体を揺らしている。
男を拘束している鎖がギチギチと嫌な音を立てる。
「ハアハア。会いたい……! 君に会いたいいい! 少年、君に会うためには……。はっ!」
バキンッと音を立てて、鎖が一つ千切れ飛んだ。
男は晴れやかな顔で次のようにつぶやいた。
「脱走すればいいじゃない」
鎖がもう一つ弾け飛ぶ。
「機会を窺いましょう。軍兵と違い、看守はしたたかですからねえ。うかつには行動できない。いや、それにしても……。あくく! ネオ様、これも神のお導きなのでしょうか!」
男は牢の天井を見上げ、はるか彼方にいるであろう人物に思いをはせる。
鎖が外れて自由になった両腕を天井に向けて広げる。
どこか陽の光を一身に浴びるような仕草。
男には見えていた。神の世界から降り注ぐ、幻想的な紅い陽光がはっきりと視界に映っていた。
「ああ斜陽の時! 人類の滅亡が加速する、降魔の時代! 幸せの時がすぐそこに来ている! 人生に意味が生まれた! 死の先に道が出来た! ネオ様やりますとも! カルーラ=ガロンは成し遂げます! 全身全霊、死をもって!」