第十八話 私は全てを灰に帰す
「今年もやってきましたこの季節! バネテッカ捕獲祭りの時間だよ!」
ギルド館の中は大量の冒険者で賑わっていた。
昨晩、バネテッカという魔獣の大量発生が確認された。夜のうちに大陸から無数の卵が生み出され、今朝方それが羽化し始めたのだ。
バネテッカは滋養に効果のある仙薬として知られており、わりかし高値で取引されている。
これを捕獲しない手はない。捕獲のためには人手は多い方がいい。このため、もとよりハクマ支部に所属する者たちの他、その傘下パーティーであったり、逆にハクマ支部に傘下パーティーを置く高ランクのパーティーなどがハクマ支部に集結していた。
「凄い人です」アーサが周囲を見渡して驚いている。
「俺たちもクエストの手続きをしにいくぞ」
ヘクトールの森が異様な様相を呈している。
目につくのは一面の黄土色。繁茂した草木の緑が皆、黄土色に塗り尽くされている。
バネテッカとは全長五センチに満たない小さな虫である。三日月型の胴体に足が四本生えていて、背中には薄羽がしまい込まれている。見た目は昆虫めいているが、これでも大陸から生み出される立派な魔獣なのだ。
あたりに無数の羽ばたき音がこだましている。時刻は昼時前。これよりバネテッカは飛翔を開始する。他の個体を蹴落としてより高く飛ぼうとする。
飛ぶのは雌雄にかかわらない。全ての個体が飛ぶ。高く飛べると言うことはバネテッカにとってのステータスであり、そうして彼らは優れた異性を見つけ、交配する。交配した後で――――死ぬ。羽ばたきに体力を使い切り、交配に命を燃やして、いざ産卵という段階で力尽きて土に帰る。生物としてはなんとも奇妙なことだが、それがバネテッカという魔獣の一生なのだった。
と、バネテッカの羽ばたきを上書きするような大きな羽ばたきが鳴った。烈風が巻き起こり、地上に張りついていたバネテッカがもみ殻のように吹き飛ばされていく。
「アーサ。空に上がったらまずスキルでバネテッカを魅了すること。アーサのマナに嗜好性を覚えたバネテッカが群がってくる可能性があるから、そのときはマナを背後に出力して狙いを絞らせないこと。いいね」
「はい」
筋肉質な翼が何度も上下する。
それは鷲に似た魔獣だった。灰色の羽根が体全体を覆っているが頭部だけは真っ白な毛色をしており、まるで雪が降り積もったような毛色がどこか気品すら漂わす美しさをほこっている。ラフィータとアーサはそんな魔獣の背中に乗っていた。
「ガガモット、飛べ!」
ラフィータがロープを引く。
鳥形魔獣『ガガモット』が奇声を張り上げる。
半月以上も前のことだ。ラフィータは空の王者『ライバーホーク』を狩るにあたり、このガガモットの力を利用した。アーサの魅了スキルで魔獣を懐柔し、その背に乗ってライバーホークと激しい空中戦を繰り広げた。
今回再び懐柔したのはおそらく前回と同じ個体のガガモットであろう。魔獣はアーサとラフィータの姿を見るなり首を下げて服従の意思を示した。万一を考えて再度アーサのスキルで手なずけたが、それがなくとも二人の指示には従っただろう。
ガガモットの足が地から離れる。
目指すは上空。今はバネテッカの群れが黄土色の雲霧となりつつある場所。
ガガモットが木の葉を押しのける。その体がうす暗い森から抜き出て青空の下に躍りでる。
「うわあ……」
アーサが何とも言えない表情でうめく。
バネテッカの大群が宙を占拠していた。晴れ渡った空の下なのに、あたりはまるで日食かと疑いたくなるほどにうす暗い。ぶんぶんと耳障りな羽音が鳴り止まない光景は、見る者が見れば気色悪さから気絶するかもしれない。
「アーサ、最終確認。命綱、よし。ゴーグル、よし。頭巾、よし」
「全部よし、です」
「バネテッカは噛むからな。身体強化を怠るな」
「はい」
「よし。狩りを開始する」
「うっひゃあ。うようよいるねえ」
キースが手のひらで目の上にひさしをかけながらそう言った。
森が変色したような光景が広がっている。足を踏み出せば靴の裏でバネテッカがつぶれて体液が噴き出る。それを気色悪がっていては冒険者はやってられない。
ぶんぶんと凄まじい数の羽音がこだまする中、エルメスが地面に虫取り網の柄を突き立てた。
「焼き払ってしまいたい……」
「駄目だよ焼いちゃ。さ、行くよエルメス」
キースがエルメスの肩を叩く。
エルメスは仏頂面をしたままバネテッカの大群を睨みつけている。
そのとき、大気の震えが遠くから聞こえてきた。
聞き慣れた大音量の奇声に二人は顔を見合わせる。
「ガガモットだね。ラフィータとアーサちゃんかな」
「恐らくな。さて、急ぐか。……気は乗らないが」
バネテッカは本能に従い空を飛ぶ。
今なお空中へと羽ばたいている個体は数多い。そのため地上で捕まえられる個体は時間と共に減少していく。さらに様々な障害物のある森と違って空はさえぎる物がない。捕獲の効率を重視した結果、ラフィータ達はガガモットに頼るという手法をとった。
一方、地上で作業を実行するキース達はバネテッカが空に飛んでいってしまう前に魔獣を捕獲せねばならない。空から落ちてきたバネテッカはあまりあてにできない。それらのバネテッカは短い交尾のあとで即座に死亡し、死骸が生物大陸に飲み込まれてしまうからである。
「高ランク魔獣には遭遇したくないぜ」
「そんなこと言ってると遭遇するんだなあ」
虫取り網を片手にした二人が森を駆けていく。
「アーサ、暴れるな」
「うぅ……。服の下に……」
ガガモットの背中でアーサがもだえている。
ぴっちり閉ざしていたはずの服の下にバネテッカが侵入したのだ。彼女は体をじかに這い回られる感覚に耐えられないようだ。おかげで魅了スキルも集中できず解除してしまっている。
ラフィータは捕獲したバネテッカを入れてある袋を見た。袋にはかなりの量のバネテッカがおさめられている。素材を潰さないことを考えるとここらがいったんの潮時だった。
「アーサ、下に降りるから。我慢、我慢」
「うぅぅぅぅ……」
ガガモットが降下する。
地面に降り立ったあとで、ラフィータはアーサの背中に雷撃を流してバネテッカを昏倒させた。
「……?」
アーサがほっと息をはいて服の下をまさぐっている最中のこと。
ラフィータはふいに肌にざわつきを感じた。
(なんだ)
彼はあたりを見渡した。
バネテッカがうごめく光景が広がっているだけだ。
彼は目を細める。感じたのは大気マナに含まれた不可解なマナの波動。彼は考えられる事象を脳内で片っ端からふるいにかけて原因の究明を急ぐ。
「マスター、これは……」
アーサも違和感を感じたようで、彼女は不安げな顔つきでラフィータのもとに近づいてきた。
「考えられることとして一つ。この場の大気マナに馴染まない異物が大地から生み出された可能性だ。マナの波動の強さからすると、こいつはかなりやばめの魔獣かもしれない」
ラフィータは半月前に戦ったウルフカミナの変異種を思い起こしていた。
もしあれと同じクラスの魔獣が生まれていたとすれば、事態は一刻を争う。別行動で狩りをしているキース達も心配だった。
と言ってもクエストから撤退するわけにもいかない。違和感を感じたからという理由でハクマへ帰還してもし何もなかったらキースとエルメスに面目が立たない。ラフィータは難しい選択を迫られていた。
「狩りは続行する。一応は空から監視しつつ、問題が起こった場合は運び屋の館へすみやかに帰還する。アーサ、いいね」
「はい」
と、ラフィータは鼻先に水滴がつくのを感じた。
彼は空を見上げた。東からやってきた黒い雲が青空を飲み込もうとしている。天候が崩れ始めていた。陽は遮られ、風はみるみる冷たくなっていく。
「あまり悠長にしていられないな。アーサ、上で気流が変わるかもしれない。しっかりね」
「頑張ります」
ラフィータは知らない。
事態はすでに暗転し始めていることを。
ラフィータはガガモットの胴体に手を添えた。魔法を発動し、その毛に覆われた体表に電撃を流す。毛にまとわりついていたバネテッカが煙を上げてぼろぼろと落下していく。
ガガモットがぶるぶると身震いをした。魔獣はすがすがしい顔つきをしている。
「ガガモットの治療をお願い。噛まれたところが複数あるみたいだから」
「分かりました。がーちゃん、じっとしてて」
治療を終えたガガモットが翼を伸ばして羽ばたいていく。
来訪者はもう地に足をつけた頃合いだ。
ラフィータが大気マナからさらなる違和感を感じるのは、まだしばらくの時間を要する。
キースとエルメスははやる心を押さえて狩り場へと急ぐ。
とある高台から森を見下ろした結果、彼らはバネテッカが異常に集まっている箇所を見つけたのだ。今、そこに急行している真っ最中である。
と、彼らの横を疾走する影があった。
まるで二叉の川が合流するように両者は近づいていき、やがて互いを認識した。
「キースかテメエ!」
「げっ! ヘルソー・ブレイダ!」
Bランクパーティー『ヘルソー・ブレイダ』が姿を現した。
彼らはキース達を見るなり柄の悪い声で騒ぎ始めた。
「へいへいキース何の用だ! 言っとくがあそこは俺らのものだ! そおらタックル!」
ヘルソー・ブレイダの一人が走りながらキースに肉薄し、肩をぶつけてきた。
「やめろって! ギルドに訴えるよ!」
「武器は使ってねえ! 規約スレスレだぜゴラア!」
「その鎧が凶器なんだよ!」
ヘルソー・ブレイダのトレードマークはトゲ付きの攻撃的な鎧だった。
「鎧は俺らのタマシイだ!」
「こいつは肌と一体化している」
「つまりは鎧はステゴロよ!」
「どうしてそこまで馬鹿なんだ!」
「んだとテメエ! 馬鹿にしてんのかゴラア!」
「してるんだよ! クソ! 話しているだけで体力を使う」
「ヒャッハアアアアアア! おいらが一番乗りだぜえええええ!」
「あ!」
ヘルソー・ブレイダの一人が飛びだした。
男は信じられない速度で走りキース達を置き去りにする。
「にゃろ! 負けるかよ!」
キースが遅れて加速し、男について行く。
突出した速度をほこる二人が先頭を突っ切る。
二人は肩を並べながら疾走し、バネテッカが大量に発生している地帯に飛び込んだ。
そこで彼らは足を止めた。
二人は前方の光景に眉をひそめた。
大地が光を帯びている。
風が渦をまく。大気の流れに乗せられたバネテッカの群れが竜巻のようになって景色を彩っている。
固唾をのんで場の成り行きを見守る二人。
彼らの視線の先で、ぼこりと土が盛り上がる。
土が弾け飛ぶ。
地面から突き出たのは一本の腕。
腕は籠手のようなものを身につけていた。手のひらが何かを求めるように空を掴んでいる。
「ま、まさか……」
キースがおののき息をのむ。
大地から人が生まれる。
それは大概がドールの誕生を示すが、あいにく今はその可能性は低い。
身の毛もよだつマナの波動。
キースは剣の柄にかけた手が震えるのを押さえられない。
体を鋼鉄の型に押し込まれたようなとてつもない圧迫感を感じた。もし今、その波動を音として聞けるのなら、おそらくは大瀑布の直下にいるような凄まじい轟音が鼓膜をつんざいているに違いない。
空を目指していた腕が地面に手のひらをついた。
地面が二つに裂けていく。その様子はまるで棺の蓋をこじ開けるようだった。
長い銀髪が風に揺れる。
地面を押しのけて現れたのは小柄な少女だった。開かれたまぶたの奥で藍色の瞳が見え隠れする。小首を傾げてぼんやりとキースらを眺める様子はまるで長い夢から醒めたあとのようだったが、何故だろうか。彼女のそれは年齢に見合うあどけなさを感じさせない。光を無くした瞳、人形のような無表情。どちらかと言えば、彼女の姿は精神的に自失した疾患者を思わせるものだった。
「キース! いったいどうし……。っ!?」
遅れて駆けつけたエルメス達の顔がいっせいに強張る。
少女はエルメス達を認めると、上体を起こして地面に埋まったままの足を引き抜いた。
彼女が着用する甲冑から土がパラパラと落ちていく。背丈は大きくない。キースの目測ではラフィータと同程度だろう。
チリンと、硬い音がした。
少女の首からペンダントが胸元に垂れ下がる。
無骨な鎖にくくりつけられていたのは、錆びついた鉄製のプレートだった。
No.1394
プレートの表面にはそう刻まれていて、
そして、それの意味するところを冒険者達は知っている。
決定的だった。
「も、亡者……」
誰かがぽつりとつぶやいた。
その呪われた響きがの当惑の中に隠されていた恐怖に実感を与えた。
「ひ、ひぃ!! 逃げろおおおお!!」
ヘルソー・ブレイダの面々が脱兎の如く逃走を始めた。
「馬鹿野郎キース! 何やってる撤退だ!」
「あ、ああ……」
エルメスに強く腕を掴まれて、キースはようやく恐慌状態から脱することが出来た。現実に帰ってきたキースも踵を返して少女から距離を取ろうとする。
少女がゆるりと立ち上がった。
少女の手が自身の腰元に伸びる。そこにあるのは一振りの剣。
そこで少女の腕がぴたりと静止する。
うつむいた少女の頬を水滴が伝う。その表情は悲壮に彩られていた。
「なんで……。やだ、だめ……。殺したく、なん、て……」
か細い腕が痙攣する。武器を手にすることを拒んでいた右手は、しかし最後にはしっかりと柄を握りしめた。
「殺……す。殺す。さなきゃ……」
涙は枯れる。
少女は無表情のまま顔を上げた。
鞘走りの音を伴って抜き身の剣が陽の光に晒される。
少女は鉛色の剣腹を顔に近づけ、そっと口づけをした。
「『風断ちの死』……」
突風が巻き起こる。
心臓が破裂しそうだった。
もっと速く走らなければいけないのに、恐怖に侵された四肢がどうしても言うことを聞かない。足場が悪いのも大きかった。大地に這う冒木の根がこれほど恨めしく思えたことはない。
「キース、これからどうする!」
前を走るエルメスがキースに問いかける。
「とりあえずラフィータと合流しないと! クエストなんかやっちゃいられない!」
そのときだった。
キースとエルメスは全身の皮膚が泡立つのを感じた。
莫大なマナの波動が背中を追ってくる。
それも尋常でないスピードで。
はっとして振り向いた二人の視界に、あの少女が映り込む。
少しひらけた場所にあって、遠くの少女は爪ほどの大きさに見えた。
「え……」
刹那、少女の付近の景色が蜃気楼のように揺らいだ。
そして次の瞬間、
キースの間近に少女の姿があった。
「!?」
遠くで大地が爆散している。
少女の伴う衝撃波がキースの体を打つ。
一歩。
ただ一歩であの距離を詰められた。
「逃がしはしない……」
少女が霞む速度でキースの懐に突撃してくる。
あまりの速さに彼女の輪郭すら捉えられない。
緑色の光を纏う剣が閃光となってキースの視界に線を引く。
「キース!」
とっさにエルメスがキースの前に割り込んだ。
エルメスの掲げた槍と少女の剣が交差する。
力比べの末、エルメスはたわいもなく吹き飛ばされた。
エルメスの体が真後ろにいたキースに激突する。
二人は砲弾のような速度で空中を飛び、ろくに減速もせぬまま一本の樹木に叩きつけられた。
衝撃に肺から空気が搾り取られる。視界がブラックアウトし、キースは一時的に意識を手放しそうになった。
「キース、無事か……」
「し、信じらんないよもう……」
全身が痛みに悲鳴を上げている。寸前で身体強化をしていなければ骨の数本は軽く折れていただろう。
「あいつは……」
必死に立ち上がろうとするキースの耳に痛烈な悲鳴が響いた。
「嘘だろ……」
視界の遙か先で血煙が上がっていた。
逃げ惑う冒険者に少女の剣が降りかかる。
腕が飛ぶ。足が千切れる。
胴体に風穴が空き、最後に頭部が切り離された。
ランクBの実力者達がろくに抵抗もできぬまま死んでいく。
現実離れした景色にキースは歯が鳴るのを押さえられない。少女のもたらす絶望が心を蝕んでいく。
虐殺は唐突に終わりを迎えた。
殺す人間がいなくなったのだから当然だった。
そして少女は次の獲物を探し求めた。
その無感動な瞳がキース達を正確に捉えた。
「…………」
キースは泣きそうになった。
剣の柄を握る手にまるで力が入らない。足は子鹿のように震えていた。
そんな彼の肩をエルメスがとんと叩いた。
エルメスの手がキースの口元に近づけられる。その指先には白い丸薬がつままれていた。
「キース」
エルメスが自分の分の丸薬をごくりと飲み下す。
「覚悟を決めろ」
翡翠色の瞳がキースに強く訴えかける。
キースの震えがおさまっていく。彼はエルメスの手から丸薬を受け取って、それを口に含んだ。
少女が死体に刺さった剣を引き抜くのが見える。
小さな殺戮者はキース達の方に体を向けた。
「来るぞ」
「うん」
キース達が服用したのは『白狼丸』と呼ばれる丸薬だった。服用すれば操作できる体内マナの量が爆発的に増大し、身体強化の効果を著しく高める効果がある。使用後は副作用として数日ほど異常な高熱にみまわれ、運が悪ければ体細胞が壊死して死に至ることもある。言わば窮地を切り抜ける切り札のようなもので、冒険者はよほどのことがない限り白狼丸を口にすることはない。
キース達にとって白狼丸は最後の手段だった。
飲み下した瞬間から全身に未知の力がみなぎっていく。いつもは泥のように重い体内マナが今は軽やかな流水のようにすら感じられる。二人は思った。いけるかもしれないと。討伐は不可能でも、実力を拮抗させるくらいならば訳ないのではと。
数秒待たず、
二人は認識の甘さを悟り、そして絶望へたたき落とされた。
少女が弾丸のような速度で接近してくる。光を纏った剣を走りながらに振りかぶり、少女はキースに斬りかかる。
少女の袈裟斬りをキースが剣で受け止めようとした。
――――キースは生じたであろう火花を視認することすら出来なかった。
斬りかかってきたのが本当に人間なのかすら疑わしい
濁流を全身に受けたような衝撃がキースを襲う。
神速で押し返された自分の剣が胸当てにめり込む。
骨が折れ、肉が断裂する。
「脆弱……」
少女の剣閃が弧を描いた瞬間、キースが矢のような速度で吹き飛ばされる。
少女の剣がひるがえる。
その太刀筋が一線を描いたとき、少女の背中に突き出されたエルメスの槍は難なく上へとはじき飛ばされた。
(死角からの攻撃を……!?)
あまりの反応速度にエルメスが舌を巻く。
少女が腰をわずかに落とす。
瞬間、少女が地面を蹴って前へと跳ね上がり、剣を横殴りに叩きつけてきた。
エルメスは落ち着いていた。
跳ね上げられた力を利用して槍を手の内で回転させ、槍の柄で剣から身を守ろうとする。エルメスは衝撃に備えた。力の差は絶対的だ。吹き飛ばされることを前提で、できるだけ威力を殺したうえで――――。
コツン
「え……」
少女の剣はエルメスの槍を軽く叩いて静止した。
予想を裏切る展開にエルメスの思考が一時停止する。
エルメスの視界を緑色の光が埋め尽くす。
冷たく鋭い感触が皮膚の上を撫でるような気がして。
次の瞬間、エルメスは全身から血煙を上げていた。
「ご……ふ……」
視界が赤く染まる。
エルメスは地面にがくりと膝を着いた。槍を地面に突き立てることで倒れ込むのは回避したが、しかしそれ以上は何も出来ない。腕に力を込めても立ち上がることすらかなわない。槍の柄を掴んだ手の平がずるずると滑っていき、彼は力なく地面に尻もちをついた。
(く……そ……)
エルメスが前方を見上げる。
赤く染まった視界に冷徹な少女の顔が映り込む。血がエルメスの目を覆い、少女の表情は赤色の中に沈む。少女がゆっくりと剣を振り上げていく。エルメスは少女を睨みつけた。それが何の意味も持たないと知りながら、それでも臆病に死ぬことは彼の矜持が許さなかった。
「エ、エルメ……」
キースは遠くからその様子を見ていた。切り裂かれた胸当てから大量の血を流しつつ、キースは地面に倒れ込んだまま力なく地面を掻きむしる。もはや這って進むことすらかなわない。
ぼやけた視界で少女が剣を振り上げるのが分かった。
「ふざけん……。待て……。やめ……」
キースが手が虚しく宙をかく。
少女の剣がエルメスの首元に吸い込まれる。
「やめろおおおおおおおおおおおおお!!」
エルメスは困惑していた。
首筋に感じる膨大なマナの波動。緑色に光る剣は彼の首を両断しようとして、皮一枚手前で止まっていた。
「だ……め……」
少女は泣いていた。目元から大量の涙を流し、顔を苦しげにゆがめている。彼女の手は激しく痙攣していた。まるで見えない意思に抵抗するかのように。
「い……や……。殺したく……な……」
「お、お前……」
エルメスが少女に声をかけようとしたときだった。
少女がはっとした表情をする。少女はその場から横へと飛び退いた。
エルメスが怪訝に思うのもつかの間、彼の視界を黄土色の雲霧が覆い尽くす。雲霧はエルメスの方へまっすぐ向かってきて、そのまま彼を飲み込んだ。羽音がエルメスの鼓膜を鳴らす。それはバネテッカの群れだった。群れはエルメスを避けるように後方へ流れていく。
と、エルメスは見た。
彼を覆う群れの外側で人型の影が少女の頭上に勢いよく落下する。
大きな奇声が羽音をさえぎって大気中に響き渡る。
バネテッカの群れが去り、視界が開ける。
エルメスの視界に映ったのは、空中を旋回する大きな鳥形の魔獣とその背に乗った白髪のドール。
一方、頭上から襲撃を受けた少女は剣を構えたまま前方をじっと見つめている。エルメスは彼女の視線を辿った。
背の小さな少年がいた。金色の髪をたなびかせ、両手で鉄剣を握りしめている。その体は青白い光に覆われていて、ときおりバチバチッ! と紫の雷撃が光の中に生じては消えていく。
「亡者か……」
ラフィータが暗い表情でそう言った。
昼下がりの空の下、風が強く吹き荒ぶ。嵐の到来を告げるように大粒の雨が本格的に降り始めていた。
亡者:大地から生まれる狂戦士。番号の刻まれたプレートを首から提げているのが特徴である。生まれた『溜まり』の適正レベルを遙かに逸脱したレベルを持つことが多く、熟達した技能や強力なスキルをもって敵を殲滅する。過去に一人の亡者が国を滅ぼした例もあり、場合によっては十万単位の死者を出す、厄災中の厄災。