第十話 夕闇に沈む嘘
「今日は有意義な時間を過ごせましたわ」
ギルド館の手前で琥珀ノ王はそう言った。
陽はとっぷりと沈んでいた。館の軒先についた明かりが周囲を照らしている。
琥珀ノ王は腰に手をあててラフィータを見ていた。彼女は銀色の髪をさらりと耳の上にかき上げる。耳元から首筋があらわになり、赤い鱗が露見した。
「カルーラ=ガロンの件はこちらでも調査させますわ。何か分かったらすぐ伝えますの」
「ありがとうございます」
「ねえラフィータ、やっぱり夕食を共にするつもりはございませんの」
「それは……。私にも立場がありますので」
琥珀ノ王は肩をすくめ、残念そうに息をはいた。
それも一瞬のことで、彼女はすぐ笑顔になって口を開いた。
「魔法の実演、とても楽しかったですわ。またお願いしますの」
「機会があれば、是非。それでは、私は失礼します」
ラフィータは一礼し、後ろを向いて歩き出した。
少年の背中が夜の大通りに飲まれていく。
琥珀ノ王は彼の姿が見えなくなるまでその場で静止していた。
「いろんな人間がいるものですわ」
彼女は心の底からそうつぶやき、そしてギルド館の中に足を向けた。
夕食の誘いを断られた彼女は酒の一杯も辞さないつもりでいた。戒律で禁じられていようが構わない。誰が彼女を罰するというのか。そう思えるくらいには、少しだけショックを受けていた。
ラフィータは宿屋に直行した。
疲労の度合いが限界を超えていた。
午後はしゃべりつくしだった。琥珀ノ王は楽しげだったが、ラフィータはそうはいかない。根掘り葉掘り聞かれることに対応し、ときに嘘を織りまぜ、それを気取られないように口調、表情、振る舞いに気をつける。それを午後いっぱい続けたのだから、心身共にまいるのも仕方のないことだった。
宿の扉を開け、宿屋の主人と二、三言葉を交わす。
ラフィータはすぐ階段を上り、部屋の鍵を開ける。
テーブルと椅子の他に寝具のみという寂しい室内。冒険者としての必需品は寝具の下に全て収納されている。
ラフィータは部屋の鎧戸を開け放つ。
そしてそのまま耐えきれず寝具に倒れ込んだ。
うす暗い部屋が静寂に包まれる。
ラフィータは寝返りをうった。
猫耳の少女が部屋の真ん中で突っ立っていた。胸当てと籠手を外して、そこで手つきが止まっている。椅子に座るでもなく無表情のまま、わずかに下を向いて物思いにふけっているようだ。思えばギルド館の中にいた時からずっとそうだった。ラフィータは昼間から彼女の声を聞いていない。
「…………」
ラフィータはゆっくり身を起こし、アーサに歩み寄る。
気づく様子のないアーサに、ラフィータは背後からぎゅっと抱きついた。
「あ、え。マスター?」
突然のことに驚くアーサを寝台まで引きずっていく。
ラフィータは彼女に抱きついたままベッドに倒れ込む。ベッドが沈み、あたりに空気をはき出した。
「マスター、どうかしましたか」
「あの人達、分かってないんだ。僕はまだ十五なんだって。どれだけ重荷を背負わせる気なのさ」
「…………」
「ごめん、アーサ。少し疲れたんだ。このままでいさせて」
アーサを抱き寄せる。
ラフィータの目の前にアーサのうなじがあった。
うなじは伸びた白髪に覆われている。ラフィータはそこに額をそっと押しつけた。かすかに漂う洗髪剤の香りが汗の匂いと混じりあう。柔らかい手触り。抱き寄せた体温の心地よさ。――――ラフィータは少し安心している自分に気づいた。
あたふたとしていたアーサだが、少し時間が経つと不思議そうな顔をしながらも抱擁を受け入れた。さんざんかわしている抱擁だが、思えばいつもアーサから抱きついてくるのであって、こうしてラフィータから抱きつくことは珍しいかもしれない。アーサの動揺もうなずけるものだった。
部屋が再び静寂に包まれる。
静まりかえった室内、明かりは月明かりだけ。今はそれも雲に隠れ、大通りから届くもやのようにか弱い光が申し訳程度に部屋を照らしている。
ラフィータは眠気を感じた。昨晩はカルーラ=ガロンの一件でろくに眠れていない。
「マスター」
彼がうとうとし始めた頃、アーサに名を呼ばれた。
「どうかした」
「あの……。ええと……」
言いよどむアーサにラフィータは静かに声をかける。
「言ってみて」
「……今日の話は、本当ですか。マスターの故郷が全部なくなってしまったというのは」
しばしの無言は思考をまとめるために要した時間だった。
「……うん。そうだよ」
ラフィータはアーサの背中にそう言った。
とある小国にて起こった、歴史的な大量虐殺。
幼きラフィータは運良く生き残り、そして全てが亡骸となった都市を見た。
彼の人生はそこから始まっている。
琥珀ノ王との会話をアーサは聞いていた。昼間から黙っていたのはそういうことだった。明かされた主人の過去にずっと意識をとらわれていたらしい。
「じゃあ、旅の目的が、故郷を奪った集団を追っているからというのも……」
「半分は、事実だよ」
「はんぶん?」
「旅の目的はそれだけじゃないんだ」
「…………」
「アーサ。憎しみって、分かるかな」
「誰かのことを、すごく嫌いになること、です」
アーサはすんなり答えた。
ドールの言語理解能力は人のそれを遙かに凌駕する。日常の些細な出来事、すれ違う人々の話す何気ない言葉、会話相手の表情、仕草。そういったものを瞬時に解析し、脳内に言語体系を構成する。
ただしラフィータはアーサの答えに満足しなかった。
彼は次のように言った。
「じゃあ、その感情を抱いた事はある」
「え……。……。ないと、思います」
「じゃあ、分からないかもしれない。言葉だけで説明するとね、アーサ。憎しみを抱くっていうのは、すごくパワーのいることなんだ」
「パワー、ですか」
「うん。憎しみは人を消耗させる。風化していく憎しみをたえず守ろうとするのも、心に力を要することだ。長く強く、憎しみを燃やし続けるのはある種の才能で、僕にはその才能が中途半端に備わっていた。……僕の憎しみは消えはしないけど、それだけを旅の目的にするにはか弱すぎて」
「マスターは旅をしています」
「うん。だから、憎しみだけが僕の動機じゃないんだ。例えばね、僕はずっと冒険者になりたいと思っていた。大陸を思うまま旅したい、そんなふうにずっと」
「…………」
「これは師匠から受け継いだ夢で、だから今冒険者をしている。おかしく思うかもしれない。復讐の旅なのに、憎しみを燃やさなくちゃならないのに。でも、それもまた旅の目的」
「もしかして、他にもあるのですか」
「うん。ほら、前に言った伝染病を治すのも、一つ」
「他にも……」
「これ以上は話せない。琥珀ノ王にも話してない」
アーサはそれ以上何も言わなかった。
時間が過ぎていく。
雲から逃れた月が移動し、室内の影が角度を変えていく。
ラフィータはしばし眠りについていた。
いつもはアーサに抱きつかれるように眠っていたが、自分が抱きついて眠るのも悪くないかもしれない。無意識下にそんなことを考えながら、ラフィータはすやすやと寝息を立てる。
ぐーっ
ラフィータは音を聞いた。意識がすっと覚醒する。
ぐーっ
アーサのお腹に回した腕に振動を感じた。腹の虫が鳴っている。
「そういえば夕飯がまだだった」
ラフィータが体を起こそうとすると、アーサが彼の腕を掴んでそれを阻止しようとする。主人に抱きつかれるという珍しいシチュエーションをもう少し堪能したいようだった。
「また今度してあげるから」
ラフィータがそう言うと、アーサは彼の腕を解放した。
外しかけの装備を全て取り外し、身軽になった状態で外に出る。
宿の外に出たところ、アーサが上空を指差しながら声を上げた。
「マスター、まん丸ですっ」
見上げると、お椀型の月がこれでもかと言わんばかりに白く輝いている。
「アーサ、月の満ち欠けは知ってる?」
「みちかけ? 分かりません」
屋台に向かう道中、月についての話をする。
屈託のない笑みを浮かべるアーサ。
―――――何気なく会話を交わしながらもラフィータは考えていた。
ラフィータは真実を話していない。
彼は嘘をついた。
旅の目的を話した。故郷を奪った集団を追うのも、冒険者として大陸を巡る夢も、病の治療法を探すのも。全て彼が抱えた想い。確かにその通りなのだが――――。それらの感情は全て、砂浜に打ち立てた木の枝のように、ゆるい地盤に生えた仮初めの感情で。プランターに植えた植物を眺めているような、どこか自分とは乖離した場所で起こる情動に過ぎない。
彼は何かをしたいなんて考えていない。
甦るのは過去の記憶。
全てを奪われ、壊されたかつての光景。
『憎悪』と『正義』の感情を抱いた友人たち。
対して、ラフィータは『絶望』した。
悲しい。耐えきれぬほど悲しい。
あの日から、悲しみだけが胸の中で静かに波打っている。
外から様々な出来事がやってきて心に嵐を巻き起こすけど、嵐が海を消すことはできない。
彼の自我は海に浮いている。
『人間として生きろ』
親代わりの師匠が言葉で船を作ってくれた。その言葉が生ける屍のようだった彼を今日まで引き止めていた。
その船にすがるように生き抜いてきた。何をするにつけても理由付けをして、時には自分自身を偽りながら、彼は悲しみの海を一人で進み続けていた。進まなければ、何かをしなければ船はすぐさま転覆し、自分であるとこが永久に失われる……そんな気がしてならなかったから。
「マスター、大丈夫ですか」
アーサの声にふと我に返る。
「ごめん、考えごとしてた」
彼が胸の内をアーサに吐露するのはもっと先の話である。
「今日も来た! 待ってたよおラフィータ! 親父! ラフィータが来た!」
屋台の看板娘に弁当箱を手渡し、同時に数枚の銅貨も手渡す。
「まいど!」
少し時間が経って、弁当箱が手渡される。
いつもよりずっしりと重い感覚に、ラフィータは思わず娘をみやる。
「あの……」
「いいの。お得意様にはサービスするってうちの決まりだからね」
「そうなんだ」
「おおお! ヘーゼルちゃんが色目を使ってる!」
「増量祭りだ! 前もふられたってのに懲りてねえ!」
屋台横にあるテーブル席からやんやとヤジが飛ぶ。
娘は顔を真っ赤にしながら男達をにらみつけた。
「違うって! あーほら、明日から緊急クエストなんだろ。ちゃっちい飯じゃ力も出せないだろうから」
娘は視線をななめ上にそらしながら弁解する。
ラフィータは驚いた。意外なところに意外な噂が広まっているものだ。
「ありがとう。美味しくいただくよ」
「あ、でさ。ラフィータ」
「うん」
「あ、あのね。ほら、もうすぐま、祭り、その、あるんだ、けど」
娘は小さな声で何かを話している。うつむいた顔が真っ赤に染まっていた。
大通りの喧噪と屋台横のヤジが大きすぎて何を言っているのか聞き取れなかった。
ラフィータは首をかしげた。
「あー。や、やっぱり何でもない!!」
「そう。これ、ありがとう。じゃ、また来るから」
「分かった。あ、明日、頑張ってね!」
ラフィータは一礼して屋台に背を向けた。
娘はその後ろ姿をため息をついて見つめていた。
「「「ふらーれた! あやーい、ふらーれた! デデンドデデンド、ふらーれた!」」」
「うるさい黙れ! ガキかお前ら!」
丸まったゴミがテーブル席の連中を直撃した。