日はまた昇る
朝日を待っていた。
寺田幸彦は、不覚にも急斜面の上で立ちくらみを経験した。柔らかい雪に足を取られそうになり、危うく、二十メートル以上下の崖を転がり落ちる所だった。
崖下に菊の花を見た気がして、身を乗り出したのは不注意であった。目を凝らしても、そんなものがあるはずもなく、疲労のために幻覚を見たものと思われる。今日で山に籠もって五日、不眠不休の戦いが続いている。
湖を渡る白鳥を撮りたい。青森まで車を走らせた時は、何も考えていなかった。今日の日付は十二月二十五日、毎年この日は音信を絶ち、一人になると決めていた。
東京を離れる前に、自分が通っていた高校が廃校になるということで、写真にして残さないかと出版社に依頼されたことが引っかかっていた。どうしてあの学校なのだろう。あの学校にいい思い出は何一つなく、中退した身分と言うことで辞退した。
夜明けは近い。マウンテンパーカーの懐が揺れる。携帯の電波が届くのは意外だ。それを見越して来たというのに忌々しく思う。
非通知だったがこんな早朝にかけてくる相手は限られている。電話をかけてきたのは、父親だった。電話番号を教えたことはないし、十年以上会っていなかった。特段驚くこともなく事務的に用件を聞いた。
母親が、自分に会いたがっているそうだ。威勢の良かった父も墜ちたものだ。まるでご機嫌を伺うように訊いてくるのが癪である。
幸彦は「ああそう」と素っ気なく答えて、通話を終えようとした。
どうせありきたりな謝罪の文言を聞かされることになることが目に見えていた。あの女は毎年はがきを送ってきていたが、やり方を変えただけだろう。社会的に罰せられ心を入れ替えたというが、幸彦は許すことができない。
「会いたくないよ」
菊の花が目の奥でちらついた。
一際大きな羽音が湖面をざわつかせる。
朝日に染まる湖に、二羽の白鳥が降り立っていた。一羽はまだ体が小さい。親子かもしれない。
幸彦は望遠レンズのついた一眼レフカメラを強く握った。
「切るよ。待ち人が来たから。墓参りしてやってくれって伝えておいて」
さっきは誰かに背中を押されたのかもしれない。どこか強引なその人を思い出せず、眼下の白鳥に集中する。
自分もまだ許されていない。そして誰かを許せないのは傲慢に他ならない。
母を許せる日が訪れたら、きっと雪乃や陽菜を想って笑うことができる気がした。
朝日を待っていた。
伊藤嘉一郎は放課後、一人の生徒と進路面談をしていた。
机を挟んで、少女を観察する。彼女は細面の顔を下げ、スマホに熱中していた。鼻の頭にニキビができている。器量はあまりよくないが、首から肩にかけてのラインが美しい。伊藤は彼女の姿勢が、スマホに害されるのが耐えがたく、進路面談にかこつけて指導しようとしていた。
「あのね、僕はスマホに嫉妬してしまうんですよ。君の指にそんなに雑にイジられるなんて」
「キモ……」
生徒は侮蔑で薄い唇を曲げた。スマホから目を上げようとすらしない。
「先生、それセクハラじゃないですか? というか何で私、ここに呼ばれたんです。進路はもう決めてるし、ちゃんと勉強もしてます。帰りたいんですけど」
伊藤はなおも食い下がる。
「君と語らいたい。人生について」
「うーん……、先生目つきが嫌らしい。無理なんです、生理的に。女子生徒の足ばっか見てるの気づかないと思ってますか? そういうのよくないと思うんだけどな」
伊藤は冷や汗を浮かべて、ひたすら愛想笑いを繰り返していた。
「クリスマス暇そうな私を捕まえて、性欲を満たそうって、魂胆が見え見えで引きます」
伊藤は彼女を見くびったつもりはなかったが、過敏な神経は、時に大人の想像を裏切ることを失念していた。
「ううっ……、すまない。そんなつもりじゃなかったんだ。僕は」
伊藤は泪で頬を濡らした。
生徒は、伊藤の非常識な反応に怯えている。
「な、何で泣くかなー。先生って、何かカワイソー。よしよし……」
二回りは離れた生徒に頭を撫でられる倒錯的な状況に、伊藤は満たされるのを感じた。
「はあ……、本当に大概にしてください。その年で仕事なくしたら、マジで人生詰みますから。忘れないで下さい」
指を突きだし警告をすると、女子生徒は逃げるように教室を出ていった。
「ふう……、あの子は攻略しがいがありそうです」
伊藤は涙で汚れた顔を拭くと、イヤホンをはめ、古びたウォークマンのスイッチを入れる。するとテープは滑らかに語りだす。
「珍しいな。君に落とせない女がいるなんて。能力を使わなかったのか」
「今日は厄日です。”彼女”が嫉妬したのかもな。それに趣向を変えるのも悪くない」
伊藤は窓辺に立ち、遠目にも刺すように光るイルミネーションを見つめた。
「なあ、嘉一郎、聞いてくれるかい。蝸牛になる夢を見たんだ。その蝸牛は、ぐるぐる物体を廻すことができる。しかしな、段々、自分が回っているのか世界に回されているのか、分からなくなってしまうんだよ」
伊藤はウォークマンをジャケットの懐に入れ、教室の電気を消す。
「さあ! イメクラに行きますか。歌舞伎町にさっきの子に似た嬢がいるのをホームページ上で確認しました。これを逃す手はない」
「懲りないねえ。偶には趣向を変えたらいいのに。今日のお勧めはOLだね」
「不思議と惹かれますが、一つの所に命をかける。これが僕の主義です」
「……、ロリコンめ。何度死ねば治る」
職員室の冷蔵庫に栄養ドリンクを取りに行った所、残業を言い渡された。現実は非常である。
一瞬、転職を考える伊藤であったが、やはり自分の居場所はここにしかないと戒めを新たにする。
「真綿で首を締められるようなこの苦しみ、イメクラでは味わえません。教師は天職ですねえ」
「ま、人の幸せは人それぞれ。私はまた眠ることにするよ。おやすみ、嘉一郎」
朝日を待っていた。
渋谷スクランブル交差点の中央に、一人の少女が立ちどまっていた。ボブカットにセーラー服、白いマフラーを首から垂らしている。
午後、八時を過ぎて、セーラー服の少女が一人いても誰も気にとめない。それもクリスマスということもあってか、人でごった返している。誰しも自分の欲を果たすのに必死と見えた。目の毒なほど眩しい看板を黒いスプレーで塗りつぶしたくなる。まるで牢屋の中の落書きみたいだ。
目の前を通り過ぎる汗くさそうなカップルが、これからセックスするんだろうなと、想像して少女は暗澹たる思いがした。
信号は赤と青、交互に明滅し、人々を急かす。
少女だけが、忘れられたようにその場を動かない。砂色の無機質な瞳には何も映していなかった。
「どうしたの?」
少女は手を握られ、飛び上がるほど驚く。交差点は人っ子一人おらず、赤信号にもかかわらず車が直進してくることもなかった。
少女の手を握ったのは、スーツ姿の妙齢の女性だった。赤いフレームの眼鏡をしている。酒を召しているらしく頬がリンゴ色をしていた。
「関係ないじゃん。オバサン誰?」
少女は思春期特有の反発心を向けた。
「私は女性活躍推進大臣」
女性は動じず、ふざけた自己紹介で応えた。
少女は虚勢を張るのを忘れ、吹き出すのを堪える。
「もう遅いから家に帰りなさいよ。恋人いるなら別だけど」
女性の言葉が若干、皮肉めいて聞こえるのは、この時、少女が恋人と喧嘩別れしたばかりだったからだろうか。
「いま……せん」
億劫になった少女は脇を通りぬけようとするが、引き止められる。
「あら、いがーい。可愛いのに」
「私なんか」
少女は目に涙を溜め歩き出す。
「どうでもいい」
女性は暫くその背中を見送っていたが、何メートルか進んだところで再び呼び止める。
「おーい、何か落としたぞ」
少女は振り向いて驚愕する。女性が手のひらで小さなリングを弄んでいた。
「おい! ざけんな、返せ!」
激しく靴を蹴たて戻ってくると、リングを奪い返した。それはついさっきまで少女の薬指にはまっていたものだった。
「あるじゃない。大事なもの」
白い息を上げて、興奮冷めぬ少女を前に、女性は真摯に語りかける。
「あなたが大事だと思う限り、それは大事なものよ。いつか要らないと思うまで持っておきなさい」
少女は説教に辟易したように顔を背ける。図星を突かれたと思った。
信号が青に変わり、人波が復旧する。
「お~い、美堂~、もう一件行くぞ~」
ヌーの群れのような酔っぱらいサラリーマンの集団に女性は飲み込まれ、見えなくなった。
少女は舌打ちし、信号を渡って駅に向かった。数日前から喧嘩している両親の待つ家の方角の電車に迷わず乗り込んだ。
片や渋谷交差点を渡った、美堂薫子は居酒屋で同僚と忘年会の二次会に興じた。
ドジョウ掬いや、その年流行の芸人のネタなど宴会芸に事欠かない彼女だったが、笑顔の裏で屈託を持っていた。
先ほどの少女のことばかりが頭に浮かぶ。
あの少女は、居場所を見失っていた。薫子にはそれが直感で分かった。
いつぞや、同じような場面に出くわしたことがある。その時、薫子はその誰かを救えなかった。
今度は救えただろうか。自信はない。
罪滅ぼしではないが、もっと多くの女性を救えないだろうか。
数年後、彼女が脱サラし、女性の支援を目的としたNPOを立ち上げるのは、まだ少し先の物語。
神のみぞ知る物語だ。
(了)




