All in one
ロープを緩めて、吊るす人、
ほんの少しの間でいいの、
ほんとの愛がくるはずだから、
はるばるやってくるはずだから。
シャーリィジャクスン 佐々田雅子訳『絞首人』
一
絨毯を敷くように、間断なく白百合の花弁が咲き乱れていた。花の芳香は嗅覚を痺れさせるように、強烈に空間を牛耳っている。
百合畑に挟まれた細い道に一組の男女がいた。一方は寺田幸彦。足を投げ出し、座っている。
片や彼に寄り添うナノは、薄い緋襦袢だけを羽織っている。目の覚めるような白い肌と百合によく映えた。
ナノは気怠げにシャボン玉を吹いて時間を潰しているように見えた。
「こうやってね、一方的に解釈ばかりが増えていくの」
ぷくくと、均等に膨らんだシャボン玉が空気の流れに乗って彼方へと飛んで行く。
「多元宇宙論、って聞いたことない? 幸彦君が見てきた世界もその一部」
ナノはその宇宙の最も始まりを生きる存在だと幸彦は聞いていた。
「でもね、ここだけの話、宇宙は一つしかないの。今はやっと二つにまで減った」
神様のきまぐれか、悪魔の仕業か、いずれにしろ取り返しのつかない段階にいるのは間違いない。支配者権限は世界の矯正装置だ。薫子は社畜、伊藤はポチ、全ての概念は簡略化されようとしていた。
「それが幸彦君と、私。今までは単に時間を逆行させて世界を小さくしてきた。でも今回は違う。宇宙は一つに統一されるんだよ。これがNew orderの最終段階」
誇りに満ちたナノを尻目に、幸彦は上手く流れに乗れなかったシャボン玉に目をやった。
「僕ら以外の人はどうなるの?」
ナノは無言で隣に腰を下ろし、腕を絡めてくる。
一寸先は闇だけが広がる。振り返っても、同じ半で押したような風景が広がる。エッシャーの騙し絵のように同じ場所を回っていても不思議はなかった。
耳が痛くなるほどの静寂は、呼吸音も足音さえ吸い込まれてしまう。
目を上げれば、天井の境もわからぬほどの暗闇に寒気を覚える。距離間が曖昧になり、見るだけで疲労が蓄積していた。
傍らのナノは、執拗に体を押しつけてきた。薄い襦袢を通して彼女の小振りの乳房が存在を主張する。
幸彦はたまらず不平を口にした。
「皆が皆でなくなる。そんなのは嫌だ」
「何言ってるの? こうなることを望んだのは幸彦くんでしょ」
ナノは腰に手を当て、困った振りをする。西野陽菜の天真爛漫さを彷彿とさせるが、幸彦の記憶からは本物の陽菜の姿を薄れさせる呪いとなっていた。
「絶対違う。僕が、僕が欲しかったのは」
「本当の愛、そうでしょ?」
羽毛ほどの重さも感じさせない彼女の肩を押し返し、幸彦は決然と自分の意志を示す。
「そうかもしれない。でもそれはこんな形じゃないんだ。ナノ、もうやめよう」
ナノは血走った目を見開き、幸彦の首に歯を立てた。甘噛み程度だったが、幸彦は驚く。その隙に押し倒すと、自分の帯を解いて幸彦の首に巻き付けた。
「何反抗してんだよ、バーカ」
幸彦は、触れてはならない領域に土足に踏み込んでいた。それを承知で本音を言ったのだ。ナノの真意を確かめるために。
ナノは有無を言わせず帯を締め上げる。
「本当はさ、誰でもよかったの。支配者は誰でも良かったし、他のキャストが同じ立場にあってもおかしくなかったんだよ。でも、私は西野陽菜という概念を手に入れた。これって啓示だよね、愛の」
ナノは嬉々として幸彦を虐待していたが、酸欠で幸彦が意識を失いかけているのに気づくと、泡を食ったように慌てだした。
「きゃあ! いっけなーい。死んじゃやだやだ。他の世界の幸彦君は、レ◯プしまくったら、壊れちゃったから大事にしないとね。これが愛? やっぱ私、チョー天才♡」
二
伊藤嘉一郎が目を開けた時、傍らに美堂薫子が仁王立ちしていた。てっきり命を失い、別の世界の地平に足を踏み入れていると思ったため、素早く上体を起こし目を走らせる。
盛んに燃える蝋燭の火の動きが、頭痛を誘発した。顔面が腫れ上がり、口の中に血が溜まっていた。
彼は敗北を自覚した。薫子に対する恨み言は浮かばない。むしろ春風のような清々しい気分が大勢を占めていた。
「あ、起きたわね」
薫子は伊藤の変化に目ざとく反応した。彼女もまた戦闘終結に至るまで無傷では済まなかったようだ。伊藤に首を締められた箇所は痣になって残っていたし、終着の攻防では右手の中指が折られていた。
「寺田君を追わなくていいのですか? もう時間はあまりありませんよ」
伊藤は自分の容貌の崩れを手で触れ、内心嘆いた。薫子にしこたま殴られ、歯も数本折れている。
「あんたに陽菜のことを訊きたいと思ってね」
死闘を酌み交わした威勢の良さはなりをひそめ、薫子は声を落とす。
「正直に答えて、あんたは陽菜を愛していたの?」
伊藤の思考は凍り付き、その一瞬後に、笑い転げていた。傷の痛みを忘れて大口を開ける。
腹を抱えのたうち回る伊藤に、薫子は恐れを抱いた。
「ち、ちょ、頭大丈夫? 殴りすぎたか」
伊藤は一瞬で、器用に笑い声を止める。蝋燭の火が燃え尽きる音だけが響く。
「いえ、あまりに馬鹿げたことを訊くと思いまして」
「何ですって?」
薫子はいきり立つ。まるで計算していたように伊藤はほくそ笑む。
「僕は愛など不確かなものを信じません。西野陽菜とはあくまで利害の一致だけの関係でしたよ。僕は単なる当て馬に過ぎなかったのです」
あの日、陽菜と最後まで時間を共にしたのは、伊藤だった。
陽菜は深夜、伊藤のマンションを一人で訪れた。
そして自分を殺してくれるように伊藤に依頼した。伊藤は彼女の首を締めるのを躊躇してしまった。陽菜は失望したようにこう言った。
「私は怖いんだ。自分の気持ちに正直に生きられないのが。お母さんは自分に嘘をついたからダメになった。私は正直に生きたい。今までありがとう、利用してごめんなさい、嘉一郎君」
陽菜の方から、伊藤との関係の精算を切り出した。彼女は伊藤の覚悟を試したのだった。そして幸彦の元に行こうと望み、それは叶わなかった。
伊藤は無意識に能力を使い、彼女を殺したのかもしれない。亜矢子を殺したように、広い世界に羽ばたこうとする彼女の翼をもぎ取ったのかもしれない。まるでイカロスに嫉妬した神のように。彼自身は自分の罪を認めようとしなかった。それを認めてしまえば、幸彦に嫉妬したことを認めてしまうからだ。
「訊きたいことはそれだけですか」
「訊いたのが間違いだったみたい。本当に最低」
辟易しながらも後ろ髪引かれたように薫子はその場で足踏みしていた。納得いかないのか、何か言いたそうにしている。伊藤の方から水を向けた。
「君は西野さんにどんな印象を持っていますか?」
薫子は目を細め、闇に同化して見えづらい大扉を発見した。
「正直なところ、よくわからない」
「こう思っているのではありませんか? 西野陽菜は恋に破れた可哀想な子だと」
概ねその通りだったが、薫子は答えない。よしんば、西野陽菜が幸彦を想っており、ナノがその想いを叶えようとしているのなら、薫子は最も邪魔な存在なのかもしれない。まるで牡丹灯籠のような話に今更ながら寒気がする。
「話は飛びますが美堂さん、イラク戦争を覚えていますか?」
「何よ、藪から棒に」
貿易センタービルのテロに端を発した一連の忌まわしい戦争は薫子の記憶にも鮮烈に残っている。
「あの戦争ではブッシュ大統領がイラクを悪の枢軸国と名指ししたことで、戦争は始まりました。ナノがしているのはそれと同じことです」
大量破壊兵器があろうとなかろうと、大義があれば戦争は成り立つように、偽りの恋を真実味を持って語られたとしたら。
「物語はリアルに近づくか……、でもそれはリアルじゃなくて所詮リアリティーだわ」
薫子は一度咳き込むと、ゆっくりと扉に向けて歩き出した。
「あ、最後に頼みがあるのですが」
伊藤が呼び止めた。
「一応聞いとく。手短にね」
伊藤はみっともなく床に額をこすりつけた。
「君の下着を僕に見せてください」
一生を棒に振る浅ましい頼みに、何故か薫子は心を動かされた。
「冥土の土産ってわけね。いいわよ、目に焼き付けなさい!」
快く応じると、破れて腰巻き状態のスカートを振る。伊藤はありがたそうに手を合わせ拝んだ。
「はい、おしまい。去ね」
すぐさま薫子は伊藤の頭を踏みつけ気絶させた。殺したい気持ちは山々だが、汚い血を背負うのは御免だ。
「じゃあな、嘉一郎……」
通り過ぎる際、薫子でない声が短い別れを発した。恐らく誰の耳に入らないほどの小さな声だった。
「うえー、どっかに水出るところないかな」
薫子は口を袖で拭いながら、憂さを晴らすよう大扉を蹴りとばした。
伊藤は寝返りをうち、笑みを浮かべる。
「忘れないでください、美堂さん。君は今、全ての物語を背負っているのです。後は頼みましたよ」
三
むせかえるような白百合の香りに、鼻を覆う。薫子は、足下の百合をかき分けるように先に進んだ。
「寺田くーん! どこにいるの!」
反響はない。空間の広がりも不明なため、焦りが募る。
「追いつかれちゃったみたい」
薫子から一キロほど離れた場所に、ナノと幸彦がいた。
幸彦は仰向けに倒れ、虚ろに口を開いていた。
「行ってくるね。愛してる」
ナノは手早く襦袢の帯を締め、幸彦の唇に愛の挨拶を交わすと、蝶の羽と共に戦場へと飛び立った。
ある程度進んだ所で薫子は立ち止まり、ナノが降り立ってくるのを待った。波を伝わるように隠しても隠しきれないほどの殺気は距離を隔てていても雄弁に伝わった。
「はぁい! 久しぶり。とりま死ね」
ナノは着地から間を置かず、軽快に薫子に殴りかかる。殴られた薫子の頬の肉が衝撃で弛む。
薫子も負けじとナノの頬を殴り、お互いの腕が交差しクロスカウンターの形となった。拳の風圧は百合を茎ごと倒し、金の粉のような花粉が舞う。
両者、踏ん張り切れず、磁石のように反発し吹き飛ぶ。
ナノは地面を擦りながら、五メートルほど後方に停止。
薫子は、後ろに十メートルほど転がって止まった。
「軽いわね、お嬢ちゃん」
「加減したのに足がガクガクだよ。若い格好してるくせに体はそうでもないみたい。ウケるー♪」
耳障りなほど高い声で、薫子を皮肉る。薫子の攻撃は浅かったと見えた。
薫子はナノを警戒しつつも、周囲を見渡した。
「寺田君はどこよ」
「んん? オバサンに関係ないでしょ。はー、めんどくさ。せっちんも、ポチも口ほどにもないなー。ま、誰が追ってこようが、今の私の敵じゃないけど」
ナノは仲間と目されていた彼らの敗北をあっさり受け入れる。薫子には解せない。
「仲間意識なんて期待してた私が馬鹿だったかしら。そういえば、ニーナは出てこないの?」
「ああ、ニーナならここに」
ナノは自慢げにしどけなく開いた襦袢の胸に手を置いた。
「元から私たちは二人で一つ。より強い方が想いを遂げることにしたの」
「想い?」
ナノは白百合を一輪手に取りほほえむ。
「最強の恋物語が完成する。そのためには手をとり合わなくちゃ」
「貴女は西野陽菜じゃないわ」
ナノは真顔になり、花を投げ捨てた。
「私が、西野陽菜だよ。オバサン何言っちゃってるの?」
薫子は怯まず続ける。
「西野陽菜は、もう亡くなってるのよ」
ナノは花をちぎっては投げ、ちぎっては投げた。
「ねえ、オバサン。よだかの星って知ってる? 宮沢賢治の」
「知らないわ。悪いわね、ろくに学校にも行ってなかったから」
「教養のない大人ってなんかダサいよ。まあいいけど。よだかはね、自分の容姿を周りに馬鹿にされるの。でもよだかの偉いところは、頑張って頑張って鳥から星になるんだよ。すごくね? 今の私みたい」
その目に狂信的な光を見て取り、薫子は望みを失った。
「それはもう恋でも愛でもない。ただの呪いだわ」
ナノは花を手に取ったまま固まらざるを得なかった。
「あんたに何がわかる……」
髪を両手で押さえ、振り乱す。頭の中に不快な蠅がはい回るのに苛立っているような仕草だ。
薫子は直感的におぞましい気配を感じ取り、大きく飛び退いた。気づけば、周囲の白百合が枯れ落ち、黒い鐘形の百合が花開いていた。
同時にナノの藍色の髪が黒いグラーデーションに染まっていく。
「ねえ、オバサン、あんたにはわかんないでしょ。誰も愛したことのないあんたにはサあ!」
ナノだった何かは、口角を大きく持ち上げ、怪異そのものようにすごむ。
死臭を放つ黒百合が、薫子を取り囲んだ。
その花言葉は、復讐。




