スプートニクの犬
「いき」の形相因は、非現実的理想性である。一般に非現実性、理想性を客観的に表現しようとすれば、いきおい細長い形を取ってくる。細長い形状は肉の衰えを示すとともに、霊の力を語る。
九鬼周造 「いき」の構造
一
「君にこの絶望がわかりますか? 僕は世界から見放された。まるでスプートニクの犬だ」
伊藤は深慮をたたえた目で、薫子の顔をのぞき込む。
既に薫子の抵抗はやみ、唇を薄く開けたまま伊藤に体重を預けていた。先ほどまで暴れていた踵は地面から数センチ浮いたまま静止している。
伊藤の腕力は成人の平均と変わらないものの、薫子の首を腕一本で支えるのは苦にならない。
素粒子という操り人形の糸を断ち切られた人間は、伊藤の世界に到達し得ない。
一時、時間を乗り越え超人の域に近づいた薫子ですら、宇宙にいる神の加護を失えばただの肉の塊だ。
伊藤は饒舌に語り続ける。
「さっきの話の続きですが、友達何人いるか聞きそびれましたね。美堂さん」
激しく揺さぶる。反応は返ってこない。
「僕は自分の生徒に友達を百人作りなさいって、必ず言うことにしているんです。何故だかわかりますか?」
先ほどより激しく、まるで人形の首を引っこ抜こうとするような乱暴な動きに薫子はなされるがままとなっている。
「本当に百人作った生徒はね、その中に先生より素敵な男性は居ませんって言ってくれるんです。何だか自慢みたいになってきてるな。うふふ」
伊藤は笑いを噛み殺し、薫子を揺さぶり続けた。
「でも西野さんは例外でした。数少ない友人を大切にして満足していたんです。そして僕に言ったんですよ」
ここが肝要なのだと、間を置く。
「先生は、私が今まで出会った中で最低の男の人ですって。あはは、僕嬉しくって、涙が今でも……」
伊藤の目尻に光るものがあった。
一人泣き笑い、落ち着いた所で薫子の乱れた服を可能な限り整える。
「僕ばかり喋ってしまって、すみません。美堂さんにも、お友達がたくさんいるのでしょうね。きっとこれから君がいなくなって寂しい思いをするのでしょうね。いいなぁ、羨ましい。妬ましい。友達百人、ふふふ……」
色の薄くなった薫子の唇に、伊藤は激烈なキスを繰り返した。舌を入れ、味わい、今生の別れのように貪り尽くす。
顔を離すと、薫子に眼鏡をかけて直してあげた。納得した彼は、薫子を床に乱雑に投げ捨てた。
「セーラー服、とてもよくお似合いでしたよ。さて、ナノと寺田君を追わなくては。まだまだ楽しまないと損ですからね」
伊藤は舌なめずりしながら、部屋の奥の大扉に目を向けた。もはや薫子のことは意識の外である。これからの予定としては、まず寺田幸彦を殺害し、逆上したナノと戦いたい。お互い手札はほぼ割れているし、楽しいダンスが期待できる。
「最低の気分だわ」
伊藤は、はっと振り返る。しなるような薫子の拳がこめかみに当たる。よろけて、彫像に手をついた。
息絶えたはずの薫子が、制服の袖で口を拭っていた。
「目覚めのキスが、中年男の乾いた唇なんてね。思い出したくないことまで思い出しちゃったじゃないの。どうしてくれんの?」
往復ビンタが、伊藤の顔を左右に揺さぶる。
「一つ、訊いてもいいですか?」
彫刻に手をつき、伊藤は喘ぐ。薫子は聞こえなかったように額をデコピンで弾いた。
「どうして……、さっきから僕の顔ばかり狙うのです。ひどい有様ですよ。傷が残るかもしれない」
薫子は笑顔のまま、伊藤のネクタイを締め上げ罵声を浴びせる。
「決まってるでしょ。あんたの顔が生理的に受け付けないからよッ!」
伊藤の股間に至近距離から膝蹴りをめり込ませる。これは失策であった。伊藤の股間は鋼鉄のように、強固であった。薫子の膝が逆に激痛に見舞われる。
「つっ……!? パンツに何か入れてるの?」
「いいえ。今の君にときめいているから。体は正直です。踊り出したいくらいだ」
寒気に我を忘れ伊藤を突き飛ばし、距離を取ってしまった。伊藤は酔ったような足取りで、彫刻にもたれた。
「あんたみたいな男に靡く娘の気持ちが理解できない。やっぱり能力でズルとかしてるわけ?」
薫子は膝をさすりつつ、探りを入れる。
「どうでしょうね。自由を得たと言う子もいます」
「情けない男。年下の女の子しか相手にできないなんて。ま、私も人の好みをどうこう言える身分じゃないけど」
薫子も人でなしの恋に身を任せた経験があるゆえ、伊藤を非難する手も若干緩む。それとは別に伊藤を許せないのは、陽菜の死に何ら責任を感じさせない所にある。
薫子の理解が及ばない伊藤の能力は、未来に干渉できる能力ではない。起こりつつある事象をねじ曲げるだけだ。
それゆえ、未来を知ることはない。永遠に。起こってしまうこと、起こりつつあることを人より早く知るだけなのだ。
どうせならまっさらなカンバスに色を塗るような未来を作ることのできる能力が欲しかった。そうであったなら、あふれんばかりの輝きを持つ未来を持つ若人を、彼がこれほどまで憎むことはなかったかもしれない。
薫子は、透明な床に血の混じった唾を吐いた。
「辞世の句は浮かんだかしら? そろそろ行かせてもらう」
薫子の警告を前に、伊藤はネクタイを緩め軽く息を吐いた。
「ふう……、今の君を全力で抱きしめたい。来てくださいッ! 僕の胸に!」
これが最後の衝突になることを、互いが知っていた。
薫子は姿勢を低くし、七メートル先の伊藤に向けひた走る。途中、彫像が林立し、直進を阻んだ。死地を幾度もさまよい、薫子の体力は限界に近い。思考を放棄し、捨て身の特攻に打って出た。
伊藤の目には、世界を分断する素粒子の縦線が視認される。細切れの世界、伊藤と全てを隔てる憎き境だ。
両腕を広げ、腹の底から喝采を叫ぶ。
「視えるッ! 遠い宇宙から届く神の意志が。哀れなマリオネット、今すぐに解き放ってさし上げる!」
線を琴を引くように弾くだけで、薫子の一メートル付近の時空が歪む。二秒後、薫子の首はねじ切れる。
今の薫子は、生を握られた人形に成り下がる。
弐
壱
「……ごふぉっ!」
伊藤の上体が重力にあらがうように傾いだ。顎から鈍い衝撃が脳に伝わる。
死亡したはずの薫子が間近で肩肘を振り上げていた。
「何の能力か結局分からないけれど、近づいちゃえばおしまいみたいね。覚悟はいい? 陽菜の味わった痛み、あんたにも少しは味わってもらう」
伊藤の目には、コマ送りになった薫子の姿が幾重にもぶれている。その最後尾に首を雑巾のように絞られ死亡している残像がある。
「ハレルヤ」
伊藤は薫子の殴打の雨を最後まで受け止め、犬のように地べたを嘗めた。




