Goodbye Lullaby(後編)
血の水鏡がプリズムとなり、彼女たちは天へと舞い上がる。拡散を繰り返した光は、不可避のガラスの凶刃となって地へと降り注いだ。
ニーナとナノ、彼女たち自身が光の性質を帯びる能力、双魔鏡はキャストのハクアを有無を言わせず惨殺した。
丸岡高校の校庭はさながら鏡の樹海と化していた。対となった鏡が幾重にも重なり、人一人が通ることのできる隙間もない。その中で自由に動き回るのは、二人の妖女だけだ。
「あっけなかったねー、ナノ」
ニーナが楽しげに口元を押さえて、向かいの鏡に話しかけた。
「そうでもなかったわ。あいつの能力が先出しされてたら勝敗の結果は逆だったかもしれないし」
ナノが鏡の中で冷静に結果を分析した。ナノが映る鏡にも、ニーナの鏡にも、血しぶきがこびりついている。
二人の間に横たわるのは、数分前までハクアだったもの。切り刻まれた肉塊には、生け花のように破片が刺さり、もはや躯としての原型すら留めていない。
「そろそろ解除しよっか」
「そうね」
鈴のような清涼な一音が鳴り響くと、鏡の樹海は瞬く間に崩壊し、光の粒子は二つの人型を取り戻す。
「ふわぁ……ねみー。帰ろーぜナノ」
くつろいだあくびをするニーナをよそに、ナノはハクアの亡骸を見下ろして、いびつな笑みを浮かべる。
断罪とは名ばかりの私刑となってしまった。それもこれもハクアが、ナノの大切なものに手を出したのが悪いのだ。
「気は晴れた? ナノ」
「ううん、全然」
ナノが笑顔を引っ込めると、ニーナがその肩を抱いた。
「気むずかしいねえ、”色欲様”は」
ナノはひょいとニーナの手から逃れる。
「貴方も”怠惰”らしからぬこと言わないの。どうでもいいじゃないの、私のことなんて」
ニーナはナノの刺々しい言葉を軽く聞き流す。
「ふてくされんなよ、あたしたち片割れなんだから仲良くしようぜー」
ナノは能天気なニーナを無視して、一人で歩こうとするが、高下駄なので歩みはおぼつかない。ニーナに支えてもらう。
「ねーねー、明日はユッキーと遊ぼうよ。縄でぐるぐるにしてさー、キャハハ」
「幸彦君は私と遊んでくれないんだもん。支配者がまだその時じゃないって」
ナノがふてくされたように言うと、ニーナが真顔になる。
「ナノはそうしたいくせに。素直になれば?」
ナノは足を止め、声を震わせる。
「……、簡単に言わないでよ。私と、幸彦君は……」
ナノが腕を上げると、手首には刃物で切ったよう傷跡が無数に走っていた。
ナノは袖で手首を隠すと、ハクアの亡骸を振り返る。
「”嫉妬”はこれで退場。美堂薫子は出口を完全に見失った。バイバイ」
(*)
美堂薫子は疲れを忘れ、憑かれたように学校の敷地内をさまよっていた。
初めてせっちんと出会った木のトイレの前に来ると、銅像の側に置いておいた眼鏡を手に取る。
肝心のせっちんの姿は跡形もなく、あんな子供は初めから幻だったのではないかと思わされる。
せっちんは頑なに一人になろうとしている。薫子にはそれが不安で堪らなかった。
支配者とやらが、せっちんを襲う可能性がある。そう考えたら、このまま帰るには気がかりが残る。
「はあ……、それにしてもあの真っ黒い獣が私の本性なのかしら。何かショック」
キャストとゲストは一心同体だと伊藤は言っていたが、何故獣は薫子を襲ったのだろう。
「ねえ、君。訊いてなくても訊いててもどっちでもいいけど言っとくわ。恐がらなくてもいいのよ」
あの獣は何かを恐れて暴力で解決しようとしていたような気がする。もしやそれを解消すれば、力を貸してくれるかと思ったのだ。
自分の胸に手をおき語りかけても、何の反応もない。当然と言えば当然だったが、どうにも腑に落ちない。
「ま、成るようになるわよね。せっちんは、転んでもただでは起きないだろうし」
少し平静を取り戻した薫子は、せっちんの捜索を一端あきらめ、寮に戻る決心をする。
思えば、未来とスカートめくりの捜査をし、陽菜と喧嘩し、ハクアと戦い、伊藤に話を聞いてと気の休まる暇のない一日であった。湯船に浸かって早く休もう。安寧はもうすぐそこと、気の緩みきった時に異変は起きた。
「っ……!?」
目を射るような閃光が辺りを包み込んだ。薫子はとっさに手でひさしを作って目を細めたが、光源はわからなかった。人工のものではなさそうだったが、かといって暖かい光ではない。一分ほどして白っぽい光は収まったが、薫子の目はしばらくその刺激に慣れることがなかった。
目が慣れると、下校するため校庭に向かう。光のことはあまり深く考えないようにしていた。
校舎には電気がついていないようだ。伊藤とハクアはもう帰ったのだろう。
薫子はゆっくりとした足取りで校舎を横切ろうとして、何かを踏んづけた。拾って見ると、片側だけのローファーだった。土にまみれて汚れているそれに薫子は見覚えがあった。不意に動悸が早まる。
「あ、あの娘……、また誰かにちょっかいかけたんじゃないでしょうね」
喉を鳴らして、校舎の陰が濃い部分に歩を進める。次に見つかったのは、穴だらけの帽子。薫子はそれらの品を胸でしっかりと抱え込む。
薫子の歯がカチカチと鳴っている。寒さは感じないが、これから待ち受ける光景を予期しているようだった。
校庭の一角がわずかに盛り上がっているのが視野に入る。そこで足を止めて目をつむる。
雲間から月光がのぞき、洗い浄めるように校庭を照らした。
眼下に広がっていたのは、血だまりだった。そこに倒れているのはハクアなのだろう。ボロボロのジャケットとスカートでかろうじて判別できる。側にひしゃげた眼鏡が落ちていた。
「な、何よ……、これ、嘘でしょ!?」
人間の死に立ち会った経験はあるが、ここまで凄惨なものは見たことがない。尻餅をついてしまう。
放心しながらも薫子は、血だまりに手を触れた。
「まだ、温かい……」
(*)
伊藤嘉一郎は、黒のポルシェの運転席で腕時計に目を落とした。時刻は八時を回ったばかりだ。彼は焦れたようにハンドルを叩いた。
ハクアは何をしているのだろう。餌に釣られて素直に応じると思っていたが、見込み違いだったのだろうか。
彼女はキャストであり、人間ではない。伊藤の知らない論理で生きているのは承知していたつもりだったが、まだ自分の知らない領域があるのが我慢ならない。
「少しお灸が足りなかったようですね」
伊藤は暗い愉悦のこもった笑い声を立てた。ふとサイドミラーに目をやると、後方から美堂薫子が小走りでやってくるのが、見て取れた。
サイドガラスを開けて顧みるに、薫子はひどく憔悴していた。片手に伊藤も見慣れたローファーを握っている。
「どうしました? 美堂さん」
気安く声をかけると、薫子はびくっと体を震わせた。
「ハ、ハクアが……」
薫子は幼児退行でも起こしたように、挙動が頼りなかった。可愛い。伊藤はハクアのことを忘れ、彼女を組み伏せて、切り刻みたいと思った。
「ハクアに何かあったのですか?」
薫子はたどたどしく事情を説明した。伊藤は満足な答えが得られたので、笑みを浮かべた。
「何笑ってるのよ!」
薫子は窓から手を入れ、伊藤の胸ぐらを掴み揺さぶった。彼はされるがままに任せた。
「失礼。彼女のことは残念に思います。しかし、キャストは所詮駒です。君が気に病む必要はありませんよ」
薫子の力が抜ける。弱々しい手は血で汚れていた。
「ハクアは貴方のために闘ったんじゃないの? どうしてそんなことが言えるの? あの娘の所に行ってあげて」
「これから約束があります。手を離してください、美堂さん」
薫子は伊藤のシャツの襟元を両手でねじり、首を絞めてきた。すさまじい圧迫感に伊藤は意識を失いそうになる。
「車から出なさい。私の理性が保つ内に!」
薫子の腕力は尋常ではない。伊藤は観念したように薫子の腕をタップする。一瞬力が緩んだ隙に、魔法の言葉を投げかける。
「せっちんは、果たして無事なのでしょうか」
怯んで完全に脱力した薫子の小指を伊藤は、あらぬ方向に捻り上げた。悲鳴を上げて薫子は腕を車内から引っ込める。窓ガラスを締め、エンジンをかける。
薫子が何か喚いているが、気にせず発車させた。
薫子は、せっちんにハクアの死を重ねたのだろう。彼女たちの絆は時として弱点になり得るのだ。
薫子は座り込んで、遠くなっていく伊藤の黒いポルシェを見送ることしかできなかった。 ハクアの死亡現場が脳裏にフラッシュバックし、口元を押さえる。せっちんも同じ目に遭わないとも限らない。
「そうだ、せっちんなら」
せっちんは、一度薫子の命を救っている。ハクアももしかしたら助けられるかもしれない。
薫子は一縷の望みを賭けて立ち上がった。
(*)
校庭には、濃い靄が立ちこめていた。せっちんが足音を立てることなく、どこからか現れる。
せっちんは、ハクアの亡骸の前に持っていた黄色と白の菊を一輪ずつ置いた。それからしゃがみ、手を合わせる。ほんの一分も満たない時間だったが、彼女は真剣に死者を悼んでいるようだった。
せっちんは立ち上がり、靄の中に姿を消す。
靄が消えると、入れ替わるように薫子が息を切らせて走ってきた。
「あ、あれ?」
ハクアの遺体が見あたらない。必死になって辺りを捜索したが、大量の血痕やハクアの持ち物もなくなっていた。
結局見つけたのは、まだ瑞々しい黄色と白の菊だけだった。薫子は菊の側に奇妙な図形を発見した。無限を表す∞の記号の上にスラッシュがついている。ハクアが死に際に残したものかもしれない。薫子はしっかりと記憶する。
菊を折れるほど強く握りしめ、薫子は寮へと戻った。
寮の玄関に明かりが点いている。一応警戒しながら、寮に入る。玄関にいたのは、幸彦である。落ち着きなく歩き回っていた。薫子に気づくと、喜びと驚きが日の光のように彼の顔中に広がった。
「美堂さん、無事で」
薫子は幸彦の胸に勢いよく飛び込んだ。ほとんど無意識の行動だった。
「み、美堂さん?」
「何も言わないで。もう少しこのままでいさせて」
幸彦は薫子のか弱く震える背中に、おそるおそる手を回した。二人は濃厚な菊の香りに包まれ、抱き合った。
薫子が落ち着くと、幸彦は彼女を伴って食堂へと向かった。昨夜の狂乱が嘘のように食堂は片づいていた。もはや何が現実なのか薫子にはわからなくなりそうだった。
「座ってて。何か食べるもの持ってくるよ」 「食欲ないからいらない」
幸彦は食堂の厨房に消えた。薫子の尋常でない態度を察して、何も聞かないでくれたようだった。
薫子は血がにじむほど唇を噛む。理不尽な死に対する怒りもあったが、何にも増して自分のうかつさが許せなかった。
一体自分はこの学校で何をしてきたのだろう。一歩間違えればハクアを殺した犯人と立場が入れ替わることもありえたのだ。暴力で解決することしか知らない薫子もまた、ただの獣に過ぎないのではないか。あのサバンナにいた頃から何も成長していないような気さえしてくる。まるで人の皮を被った獣のようだ。
「美堂さん、できたよ」
幸彦が小さい土鍋を持ってやってきた。
「いらないってば」
「食べないと力でないよ。僕も待ってたらお腹空いた。一緒に食べようよ」
幸彦は明るく言って、土鍋をテーブルに置いた。鍋の中は野菜の入ったお粥が煮えている。よくよく考えれば、未来に無理矢理連行されて朝から何も口にしていない。生理反応は正常なようだ。薫子は口の中の涎を飲み込んだ。幸彦が茶碗にお粥をよそう間も彼の手の動きに目が離せずにいた。
「私もう駄目かもしれない」
幸彦は薫子の前に茶碗を置いた。
「どうして? 会社と何かあった?」
「会社のことは今はどうでもいいの。ただ私自身の問題が」
幸彦に話しても仕方のないことだと思いながらも、薫子は心情を吐露しないではいられなかった。
「私、誰かを傷つけることしかできないの。もう嫌になっちゃった」
「そうだね。美堂さんは僕が知る嫌な大人と同じだ」
薫子は、はっと顔を上げた。幸彦の怒った目と目が合う。
「美堂さんは僕を利用しようとして近づいたんでしょう? せっちんのこともそうだ。会社のために」
「違うわ! 最初はそうだったけど、今は違う。信じて」
幸彦だけは味方になってくれる。その甘い予想はあっけなく崩れた。自業自得だったが、今日ほど一人が心細く感じた日はない。薫子は顔を伏せた。
「会社員の美堂さんは信じられない」
でもと、幸彦は続ける。
「僕は、高校生の美堂薫子さんのことは少し知ってるつもりだよ。今の美堂さんは、むやみに誰かを傷つけたりしないって」
薫子は不思議そうな顔で聞き返す。
「そうかな? そんなに違うもの?」
幸彦は素直に頷く。
「うん、高校生の美堂さんはとっても素敵だから」
薫子は顔から火が出そうであった。
「こ、こら、何口説こうとしてんの? 年上からかうな、十年早い!」
かっとなって幸彦の頭にチョップすると、気持ちのたがが急に外れたようで、こみ上げるものを押しとどめることができなくなった。涙も鼻水も滝のように止まらない。手で顔を隠す。
「あれ? あれ? ちょっとごめん、見ないで」
「別に泣いたっていいんじゃない。今の美堂さんは高校生なんだし」
幸彦に頭を撫でられて、薫子は自分が求めていたものをわずかに知る。自分が肯定されたからといって、暴力を肯定するつもりはない。これからも理不尽と遭遇するたびに拳に頼ることになるかもしれない。それでも、自分は一線を越えることはないと思える。そんな気がした。
(*)
伊藤は十分ほど車で市内を走り、看板のない小さな喫茶店に足を踏み入れた。
古色とした空気がよく似合うその店に、客は一人しかいなかった。
「遅かったね、嘉一郎。五分の遅刻だ」
赤い革張りのソファで足を組む女性の前に伊藤は立ち止まり、慇懃に頭を垂れた。
「申し訳ありません、丑之森博士。気分を害されたでしょうね」
丑之森と呼ばれた女性が濃い金髪の横髪を払う。三角型の耳が一瞬かいま見えた。
「その博士というのはやめてもらえないかね、嘉一郎。気安く螺々(らら)ちゃんと呼び給へ。その方がハラショーだし、私はこの名を気に入っている」
丑之森螺々は、快活に犬歯を見せて笑った。百八十センチ近いすらりとした五体に、肩に届く濃い金髪に褐色の肌、瞳はコバルトブルー、年齢は二十代後半に見える。タイトスカート、ブラウスに黒のジャケットを羽織っている。
伊藤は螺々の向かいに座った。螺々は慣れた手つきで煙草に火をつけ、辺り構わず煙を吐いた。
「ここは禁煙なのでは?」
「構わんよ。店のお許しは頂いた」
店の奥に萎縮した様子のウェイトレスがいる。どんな手段を使ったのか聞くまでもなくわかる。
「今宵の私はハラショーに気分がいい。五分くらいの遅刻くらいは大目に見てやろう。それにしても、私のことがよくわかったね? まだ新しい手配書は出回っていないはずだが」
丑之森螺々は国際指名手配犯だ。名前も偽名ではないかと伊藤は睨んでいる。螺々は会うたびに姿形を変える。整形などではなく、丸ごと肉体を乗り換えるらしい。どんな方法か伊藤は知らないが、五年前に会った時、螺々は初老の紳士だった。
伊藤の好奇の視線に気づいた螺々が胸元をうっとりと撫でる。
「これ、いいだろ? 娼婦だったが、あまりにハラショーな女だったものでね。永遠に私のものになってもらったよ」
「ええ。大変魅力的かと」
螺々は疑わしそうに伊藤の顔をのぞき込む。
「少女病の君にする質問ではなかったね。相変わらずうら若き蕾を汚すのはやめられないのかい?」
「汚しているつもりはありません。彼女たちも楽しんでいるし、僕はスリルを提供する。それだけです」
螺々は感心したように煙を吐いた。
「ははあ、そんなものかね。世の男たちが聞いたら泣いて悔しがるだろうね。まあ、彼女たちに罪の意識を求めるのは酷ってものだろう。誰しも真実の愛なんて知る由もない」
螺々の口から愛という言葉が出て伊藤は笑みを浮かべる。
「笑うことはないじゃないか、嘉一郎。私だって愛のイロハくらい理解しているつもりだよ。君は私にとって息子も同然なのにそんなこともわからないのか」
伊藤は奥歯を強く噛みしめる。螺々はそれに気づかず話を続ける。
「真実の愛ってのはね、私が今ここにこうしていることだ。じゃないと私は君を愛せないし、君は私を愛せない。汝の隣人を愛する前に己を愛せよということさ」
究極の自己愛。螺々が口にするのは、自己を中心として世界が回るという真理。一見いびつに感じる真理にも伊藤は反駁する気が沸かない。
「納得いかない顔をしているね。でもいずれ誰しも理解するしかなくなるのさ、私の愛の深さをね」
できれば永遠に知りたくないものだ。伊藤はそう思ったが口にしなかった。
「ところで嘉一郎、キャストは一緒じゃないのか」
「ハクアですか。彼女は死んだようですよ」
「他人事みたいだね、感心しないなぁ、そういうの」
螺々は煙草を灰皿でもみ消した。
「会ってみたかったなあ、聞いた限りでは遊びがいのありそうな娘だったじゃないか。まるで君の婚約者にそっくりの」
伊藤はこまっちゃくれたハクアの姿を思い浮かべてみたものの、何の感慨も湧いてはこなかった。キャストが死亡することで、ゲストにペナルティがあるかと思いきやその兆候もない。遅かれ早かれハクアを切るつもりだった伊藤にとってそれは、先の憂慮が減ったことを意味する。
「楽しみが一つ減ったが、まあよしとしよう。で、死因は?」
螺々が油断ならぬ顔つきに変わったのを見て取り、伊藤も気を引き締める。
「日本刀で、背後から斬られたようです。恐らく失血死かと」
螺々は伊藤から目を離さなかったが、しばらくして二本目の煙草に火をつけた。
「凶器を特定しているのだから、ハクアを殺った奴に心当たりはあるみたいだね?」
伊藤はよどみなく答える。
「ええ、僕も現場に居合わせましたから。犯人は美堂薫子です」
螺々のこめかみに血管が浮き出るのを伊藤は見逃さなかった。
「ハラショーじゃないか。まさかこんなところで出くわすとは。正に運命と言う他ない」
螺々は吸いかけの煙草を乱暴に灰皿に押しつけ消すと、神経質な笑い声を立てた。
「嘉一郎、君も人が悪いね。彼女と会ったことを黙っているとは」
「彼女が転入してきたのはごく最近です。しかも生徒としてね」
「生徒? 確か彼女は君と五つくらいしか違わないんじゃなかったか」
「会社で不祥事を起こしたために押しつけられた仕事のようですよ」
螺々は何か思案していたが、薫子に並ならぬ興味を覚えているのがわかる。
「薫子はどうしてハクアを殺った? 支配者側の人間か」
「そのようですね。支配者は魅力的ですから」
螺々は虚を突かれて固まったが、一瞬後、豪快に笑った。伊藤も追随するように愛想笑いを浮かべた。
「正直ここに来るまで君の依頼を受けようか迷っていた。でも決意が固まったよ。やろうじゃないか」
伊藤は思惑が叶い、若干の達成感を得る。元より螺々は依頼に乗り気だったに違いないが。
「さて話は纏まったところで、祝杯でも上げようか。ビールでいいか、嘉一郎」
螺々が注文を済ませる間、伊藤はテーブルの上から灰皿がなくなっていることに気づいた。
「そういえば嘉一郎、キャスト七体いるらしいけど、どんな奴らなんだ」
「確認できたのは、嫉妬、色欲、怠惰、暴食のみです」
「”嫉妬”が消えて残り六体か。君は丸腰で残りの相手を……、まあ、それは心配いらないか」
「ええ、支配者は僕の手中にありますから問題ありません」
螺々が体を前に乗り出す。
「なあ、そろそろ支配者とやらの正体を教えてくれよ。私にだって知る権利くらいあるはずだ」
伊藤は螺々が灰皿を握っているのを発見する。螺々は何も手に持っていないと思っていた。勘違いだったのだろう。
「申し訳ありません。本人の同意がないことには」
「何もとって食おうってわけじゃない。それでも駄目か?」
伊藤は軽く頷いただけだ。螺々はそれが気に入らなかったらしい。灰皿をテーブルにたたきつけた。
「なあ、嘉一郎。いい機会だから言っておくがね」
螺々が灰皿をひっくり返して振った。中身の灰はテーブルに落ちなかった。
「君は私の依頼人だが、上下関係はないだろ。一応契約は結んだが、君が隠し事をするっていうんならこっちにも考えがあるぜ」
伊藤が頭部に違和感を感じ、触れてみると煙草の灰がついていた。
螺々がにやつきながら、天井の一点を指している。伊藤は視線を上に向け、目を疑うことになる。
天井に、大きな蝸牛が張り付いていた。小型犬くらいの大きさで、黄色と紫の混じった毒々しい色の貝を背負っている。蝸牛はのろのろ天井を移動し、伊藤の丁度真上に止まった。
「知る権利があるって言ったのは、こういうことさ。私もゲストの一人だからね」
伊藤は合点し、天井から目を正面に戻した。螺々がゲストで、あの蝸牛がキャストということを今日初めて知ることになったにしては、落ち着き過ぎる反応ではあった。
「あれが見えるようになったのは、つい一週間くらい前なんだ。もっと驚くと思ったのにな。つまらん。じゃあ、ちょっとばかしあれの能力を披露しようか」
螺々はそう言って、灰皿を片手で持つと、もう片方の手で覆った。手を開いた時に、灰皿はどこにもなかった。
「お、お待たせいたしました」
緊張した面もちで、妙齢のウェイトレスがトレイを持ってテーブルに近づいてきた。並々とつがれたビールが黄金色の波を立てている。
伊藤は、床に消えたはずの灰皿を見いだす。ウェイトレスは、トレイを運ぶことに必死で灰皿に気づく様子はない。
予想通り、ウェイトレスは灰皿に蹴つまずき、トレイに載ったビールグラスは勢いよく宙を舞う。
「も、も、申し訳ございません!」
ウェイトレスは身も世もあらず謝った。一通り謝った後、首を傾げて奥に引っ込んだ。
何故ならビールはグラスに並々と注がれた状態のまま、きちんとテーブルに載っていたからである。
螺々は、勢いよくビールを飲み干した。口についた白い泡を、鮮やかな赤い色をした舌でなめとる。
「上下関係は問題じゃないんだよ、嘉一郎。でも、あれの使い道くらい相談してもバチは当たらんだろ。私は間違っているかね?」
伊藤は、黙したまま自分のグラスを螺々のグラスに近づけた。
(*)
幸彦は、カードを持つ薫子の様子をうかがった。薫子の眼鏡の奥の瞳は、凪いだ海のように穏やかで感情が読めない。
幸彦は、一気呵成に薫子の手からカードを一枚もぎ取った。その瞬間、彼の顔に絶望の影が覆う。
「また、負けた」
二人は食後、薫子の部屋でトランプ遊びをしていた。普通にやってもおもしろくないので、負けた方が脱ぐことになっていた。
「どーだ! これが大人の力よ、参ったか」
薫子は堂々とのたまうと、大きな口を開けて笑った。
幸彦は自棄になりカードを投げ捨てた。
「僕、もうそろそろ帰らないと、美堂さん」
「駄目よ。脱ぎなさい」
幸彦は既にワイシャツを脱ぎ、肌着になっている。ためらいがちに肌着を脱ぎ、脇に置いた。
筋肉の隆起の少ない華奢な体だったが、薫子は穴の開くほどいたいけな少年の素肌を見つめるのをやめなかった。
幸彦は両手で体を押さえる。
「も、もう服着ていいだろ? 寒いんだ」
薫子がにじり寄ってきたので、幸彦は少し怖くなった。
「えー? どうしょっかな? 若い子の体見る機会なんてあんまりないし、もっと見せてよ。どうせ減るもんじゃないし」
「恥ずかしいんだからやめてよ!」
薫子は、幸彦の腕やお腹をさんざん触ってセクハラを楽しんでから、急に立ち上がって伸びをした。
「あー、疲れた。お風呂入ってくるね」
「じゃあ僕はもう帰るよ」
幸彦はやっと解放されると思い、服を着ようとしたが薫子に取り上げられてしまう。
「その格好で待ってなさい。まだつき合ってもらうんだから」
薫子は幸彦の服を持って、部屋を出て行ってしまった。部屋の中は暖房が効いている。凍死することはないだろう。
幸彦のシャツの匂いを嗅ぎながら、上機嫌で脱衣所に入る。幸彦は如才なくお湯を張っておいてくれたのだ。
「後十年若かったら寺田君と結婚してもよかったかも……、なんてね」
薫子はまだ立ち直ったわけではなかった。ハクアの死の衝撃はまだ尾を引いている。
幸彦にはせっちんの無事を知らせてある。幸彦には予め、彼女の無事がわかっていたようだ。二人は、薫子には見えない糸で繋がっているのかもしれない。
あの菊の花は、せっちんが置いたものに相違ないと薫子は思っている。せっちんはまだ無事なのだ。これからの方策に、せっちんは不可欠だろう。薫子はハクアを殺した犯人を探すことに決めている。しかし、探し出してどうするかはまだ未定だ、
薫子はブラウスを脱ぎ、スカートに手をかけたまま止まった。何気なしに鏡を見た。学生時代とそれほど変わらなはちきれんばかりのバストと魅惑的なプロポーションの自分が、かがんだ体勢で固まっている。恐る恐る左肩を回して、鏡に映り込むようにした。
「えっ!?」
薫子の左肩は、縦一直線に腰の当たりまで裂けていた。石榴のように赤黒い筋肉の繊維が手に取るように視覚化していた。
「い……、いやああああああああああああっ!」
薫子の悲鳴を聞きつけて、幸彦が脱衣所に飛び込んできた。
「ごめん、入るよ。大きな声が聞こえたから。大丈夫? どうしたの?」
薫子は肩を押さえてうずくまり、嗚咽を漏らしていた。幸彦はどうしていいかわからず、ひたすら薫子の背中をさすった。
薫子は少し落ち着きを取り戻すと、再び鏡の前に立った。肩は裂けていなかった。指でつつくと確かな触感がある。
「ね、ねえ、私の肩、変じゃない?」
幸彦は横目でちらと薫子の肌を確認して、顔を背けた。
「何にもなってないよ」
「もっとちゃんと見て! 触っていいから」
幸彦の手を半ば無理矢理掴んで、肩こう骨当たりを触らせた。幸彦の手は温かく汗ばんでいた。
「ど、どう? 変じゃない?」
「う、うん、すごくスベスベしてて、柔らかいよ」
薫子は、息を大きく吐いて座り込んだ。目の錯覚にしては、嫌に生々しいものだった。胸の動悸がまだ収まらない。
「美堂さん、学校で西野にぶたれたところが痛むの?」
「い、いいえ、多分違うと思う」
考えてみれば、陽菜に突き飛ばされたくらいで薫子が倒れるはずがない。左肩は、獣に傷を負わされた箇所と一致する。せっちんに聞いてみないことにはわからないが、どうにも不安になる。
幸彦が薫子の肩にタオルをかけてくれた。
「あんまり痛むようなら、大きな病院で検査してもらった方がいいよ」
「あ、ありがとう」
薫子は幸彦の手を強く握りしめた。二人の息づかいだけがやけに大きく響く。
「て、寺田君?」
「うん、何?」
半裸の幸彦が不思議そうに聞き返す。
「もう平気だから、出ていってくれる?」
「あ!」
幸彦は真っ赤になって、脱衣所を飛び出した。
薫子はくすっと小さな笑い声を立てた。
それから二十分ほどして、湯浴みを終えた薫子がピンクのパジャマを着て部屋に戻ると、幸彦は正座して待っていた。
「本当に大丈夫? すごい悲鳴だったから」
薫子はうろんげに返事をする。
「う、うーん。平気よ平気。それより服返すね。寒かったよね」
湯上がりで桜色に上気した薫子の素肌を当たりにして、幸彦はどきまぎしている。それに気づいた薫子はいたずら心が湧く。
「夜道は危ないし、泊まっていってもいいのよ」
「そういうわけにはいかないよ。学校の女子寮だし」
「ふーん、学校の寮じゃなきゃいいのね」
急いで服を着ている幸彦に嫌みを投げかけると、部屋の隅に体育座りした。
「貴方くらいの年の子にはわからないでしょうね。三十手前の女が、どんな気持ちで夜眠るかなんて」
「そ、そんなことわかるわけないよ。もう帰るよ、いいよね?」
薫子が同情誘うような一際大きなため息をつくと、幸彦が部屋の入り口で立ち止まった。
「どうしたのー? 帰らないの?」
薫子はうつ伏せに寝ころび、足をぶらぶらさせた。幸彦はじっと何かに耐えるように拳を握っている。
「この辺、バスが一日数本しか通らないんだ。今からだと徒歩で帰るしかない」
「そお、大変ね。外は寒いでしょうね、気をつけて帰ってね」
薫子がつれなくすると、幸彦は勇を鼓して部屋に戻ってきた。
「と、泊まっていってもいいのかな? 僕」
薫子は曖昧に頷く。
「ちょっと家に電話してくる」
幸彦が出ていくと、薫子は小さくガッツポーズをした。
幸彦が電話を済ませ、お風呂に入っている間、薫子は机で書き物をして、それに厳重に封をして机の引き出しにしまった。
戻ってきた幸彦が、部屋の入り口に立ったまま言う。
「じゃあ、美堂さん、僕は隣の部屋で寝るから。おやすみ」
「えー? 何よそれ、一緒の部屋で寝ましょうよ。どうせベッド空いてるんだし」
「さすがにそれはまずいよ」
と言いつつ、腹の底では喜んでいるのが丸分かりである。からかいがいのある玩具を野放しにするほど薫子はやさしくない。さらにまくしたてる。
「何がまずいの? 陽菜に申し訳が立たないとか考えてる?」
「い、いや」
薫子は幸彦の側まで駆け寄り、耳元で囁く。
「ただ一緒の部屋で寝るだけよ。変なこと考えちゃダーメ」
幸彦から体を離すと、電気を消してベッドの下の段に潜り込む。
「ほら、早く寝なさい。おやすみ」
幸彦は何か言いたそうな風で立ちすくんでいたが、しばらくして上のベッドに上がる音がした。
薫子の目は闇の中で爛々と輝いていた。
一時間ほど経ったのを見計らうと、薫子はベッドを離れ、抜き足で上の段に上がった。 幸彦は健やかな寝息を立てていた、シャツが少しはだけて、胸元がかいまみえた。
「何よ、つまんない。悶々としてるかと思ったのに」
唇を尖らせ文句を言いながら、窮屈なベッドの隙間に薫子は器用に潜り込む。幸彦の体臭と体温が間近に感じる。
薫子は、そのまま天井を仰いで時間が過ぎるのを待った。
幸彦が寝返りを打とうとして、薫子の胸の当たりに手を置いた。
「ん……、うーん……、うん?」
目覚めた幸彦が声を上げそうになったので、薫子は手で彼の口を覆った。
「夜這いに来ちゃいましたー」
明るく言うと、幸彦の鼻息が荒くなった。薫子が手を離し顔を近づけ、近づけ、唇が触れそうになってから顔を離す。幸彦は明らかに落胆したような顔で、薫子をにらんだ。
「何よ、その顔。すっごい残念そう。あはは、そんなに私としたかった?」
「いい加減にしてよ、美堂さん」
幸彦は、苛立しげに薫子の腕を押し退けた。
「何が目的か知らないけど、あんまりふざけるなら僕は帰るよ」
薫子は、小鳥のさえずりのように弱々しい吐息を立てた。それから顔を手で覆った。
「行かないで。今すっごい余裕なくて、誰かと一緒いられたらって思って……、でも、貴方がいなくなったら、私」
幸彦は掴んでいた手を離して、薫子の頭を撫でた。
「もしよかったら、今日何があったのか話してくれないかな。それで美堂さんの重荷が減ればだけど」
薫子は横向きになり、幸彦もまた向かい合うようにして横になる。
「前に私がエゾテーから来たって言ったわよね」
「うん」
「今ここにいるのはね、私が不倫したせいなの。上司と不倫してたの」
幸彦は押し黙る。その沈黙に薫子は責められているように感じた。
「・・・・・・本当に?」
幸彦からは薫子の顔は見えないが、薫子には彼の息を飲む表情が手に取るようにわかる。
「嘘なんて言わないわ。私は道に外れたことをしたの。それでこの学校の調査を引き受けた」
「その上司の人は、美堂さんにこうして欲しいって思ってるのかな」
「思ってないかもしれない。私は自分のエゴを、押し通そうとしているだけなのかも」
上司は、断っても構わないと薫子に言った。それで評価が下がるとか、解雇をちらつかせるということもなかった。お前は俺が守ると最後まで言ってくれていた。
「どうして今、僕にその話を?」
「誰かに聞いてもらいたかったの。自分を正当化するためじゃないけど。どう思った?」
幸彦は困ったように体をもぞもぞさせた。
「美堂さんが反省しているなら、もう気にしなくていいんじゃないかな。……、って無難なことしか言えない。人生経験の浅い僕には荷が重すぎる話で、混乱してる」
「そうよね……、私が悪かったわ。この話は忘れてくれていいわ」
薫子は幸彦に罵倒されることを密かに期待していたのだが、それは叶わなかった。腹いせに幸彦の足に自分の足を絡ませて、困る姿を堪能する。
「ねえ、今度は寺田君の話が聞きたいな。せっちんとはどんな話をするの?」
「えっ、えー、主に食べ物の話かな。せっちんって、すごい食欲があるみたいなんだ」
薫子は笑いを堪えきれなくなる。
「あの娘、本当に便秘なのかしら。まあ食べるってことは元気なんでしょうけど」
「便秘は本当だと思う。きんのおまるも本当にあるのかもしれない。でも」
幸彦の声が小さくなる。
「きんのおまるが見つかったら、せっちんはきっといなくなる。美堂さんも、いつまでここにいるわけじゃないでしょ?」
「そりゃね。貴方って意外と寂しがり屋なのね」
「寂しがりじゃない人なんているのかな、美堂さんもそうでしょ」
二人は声を押し殺して笑った。
「こんな私でも、いなくなったら悲しんでくれる?」
「うん。会ってまだ少しだけど、悲しむと思う」
幸彦は、何故薫子がそんなことを言うのか不思議であった。まるですぐにでもいなくなるような雰囲気だ。
「陽菜と比べてどっちが大事?」
「西野? うーん……」
幸彦が言い淀んだ途端、薫子は少しむっとした。背を向けてしまう。
「陽菜ともっとちゃんと話がしたかったな。喧嘩しちゃったし」
「いくらでもできるよ。これからずっと」
幸彦のまぶたが下がってくる。薫子が指で頬をつついても反応しなくなった。
「寺田君、私死にたくないよ。もっと皆と一緒にいたい」
幸彦の胸に顔を埋めて、彼の香りを胸一杯に吸って、薫子は眠りに墜ちていく。
(*)
翌朝、幸彦は一足先にベッドを出た。薫子はまだ眠っている。時刻は午前七時過ぎ。よく晴れた空の元、喜びを謳歌するような日の光が、窓から差し込んでいる。
十二月四日、土曜日。
幸彦は大きく伸びをして、部屋を出ようとしていた。
「どこ行くの?」
薫子が不安そうな面持ちでベッドから身を乗り出す。
「朝食、作ろうと思って。食べるでしょ?」 薫子は悔しそうに枕を抱いた。
「貴方って、つくづく主夫に向いてるわね。あっ、これセクハラになるか」
幸彦は薫子を安心させるように、朗らかに笑う。
「いいよ、気にしてない。卵は大丈夫?」
「うん。私、食べ物アレルギーはないから平気」
幸彦が軽快な足取りで出ていった。
「何かこういうの悪くないかも」
薫子は枕を抱いたまま一人ごちた。
食堂で二人は朝食をとった。ハムエッグにトーストだけだったが、あまりものの食材でよくやってくれていると思う。薫子一人では、ろくな食生活を送れそうにないから感謝するしかない。
「ねえ、結構ゆっくりしてるけど、時間大丈夫なの?」
薫子が訊ねると、幸彦は飲んでいたコーヒーを吹いた。
「何よ、汚いわね」
「だって、今日は学校休みだよ」
休日だということを忘れていた薫子は、久しぶりに穏やかな朝を堪能することができた。
「ねえ、寺田君、今日これから予定とかある?」
「う、うん、まあ」
歯切れの悪い答えに、薫子はにやりとする。 「デートでしょ? 陽菜と」
幸彦は大げさなくらいに首を振った。
「違う違う。買い物行くんだ、幼なじみと」
もし幸彦が暇なら、一緒に張り付いていたかった。せっちんとまた会う確率を少しでも上げるためだ。
「美堂さんはどうするの?」
「んー、せっかくだから町に出てみようと思うの。日用品買い足そうかな」
「そういうことなら僕も手伝おうか。どうせ大した用事じゃないから」
「ううん、大丈夫。そう言うつもりで言ったんじゃないの。貴方は自分の用事を優先させて」
幸彦は何か言いたそうだったが、薫子の意志を汲んでくれた。
二人で片づけをしてから、幸彦を入り口まで見送る。
「初めての朝帰りはどんな気分? 坊や」
「子供扱いしないでよ。僕ら、そんなに年変わらないじゃないか」
「あら、言ったじゃない三十前だって。一回りも離れてるわよ」
幸彦は驚いたよう目を瞬いた。
「若く見えるよ、二十歳でも通るくらい」
「オバサンおだてないの。ほら、約束あるんでしょ? 行った行った」
幸彦は十メートルくらい歩いて振り返った。
「さよなら、寺田君。陽菜と仲良くね」
薫子は大きな声で幸彦に別れを告げると、寮の中に入っていった。幸彦はその寂しそうな背中がいつまでも印象に残った。
薫子は幸彦と別れてから、久方ぶりに化粧をして、出かける準備をした。
「ごめんくださーい、山猫運輸です」
溌剌とした声に薫子は鏡をのぞくのを止めて、玄関に向かった。
玄関にいたのは運送会社の男性だ。手には大きな段ボールを抱えている。
「美堂薫子様はいらっしゃいますか?」
「美堂は私ですけど」
「美堂薫子様宛に、株式会社エゾテー様からお届け物です」
訝りながら荷物を受け取る。段ボールは結構な重さである。とりあえず玄関に置いておいたが、中身を改める気がしない。差出人の字に見覚えがあったのだ。段ボールの扱いに躊躇している内に、寮の電話が鳴った。居留守を決めこもうとしたのだが、見えない引力に引き寄せられるように、気づけば受話器を握っていた。
「……、よお」
聞きなれたかすれ声に、予感が的中したのを恨めしく思う。
「聞いてんのか? おーい、もしもーし」
「聞いてますよ。何ですか、部長」
受話器の向こう側がわずかに笑った気がした。電話をしてきたのは薫子のかつての上司、つまり彼女の不倫相手だった男だ。
「バカ、もう部長じゃねえよ。荷物届いたか?」
「つい今し方」
簡潔に言って、薫子は電話の線を指でいじる。
「仕事の話でしたら、いつもどおり定時にしていただけませんか? 私的な話なら今すぐ切らせてもらいます」
「おい、ちょっと待て。何怒ってるんだよ、人の話は最後まで聞けや。それに定時の連絡怠ったのはお前だろ? 心配するじゃねえか」
「心配して頂かなくて結構です」
薫子は感情を押さえるのに必死であった。以前と変わらない彼の態度に気持ちが揺さぶられる。
「あんなに可愛かったお前が、可愛げがなくなって悲しいよ、俺は」
「それセクハラです。この電話、録音してますから」
「わーったよ、もう言わない」
薫子は受話器の持ち手を強く握った。今更何の目的があるのだろう。じっと彼の出方を待った。
「何か言ったらどうだ、美堂」
「何で私が言わなくちゃならないんですか。電話してきたのはそっちでしょう? 用件を手短かにどうぞ」
彼は少し間を置いた後、こう口にした。
「戻ってきてくれないか?」
「え?」
薫子の脳裏に、いくつかの可能性が火花のように散って消えた。唇がわなないていた。
「部長、それは」
「いや、お前の気持ちはわかる。俺から頼んだ手前、こんなこと言うのも気が引けるんだが、まあ、何だ、撤収ってことだ、うん」
「は? はあ、そう、ですか」
薫子の覆面調査員の任務は、こうして終わりを迎えた。長居するつもりもなかったので、願ったりではあったものの、消化不良は残る。幸彦、せっちん、陽菜、未来、伊藤や、残りのキャストのことや、きんのおまるのこと、何一つ解決していない。しかし、会社の命令には逆らえない。所詮薫子は、しがない会社員の一人でしかないのである。
「わかりました。日曜までに荷物をまとめて撤収します」
「えらく物わかりがよくなったな。以前のお前なら意図のわからない命令には噛みついてたろうに」
「従順な学生の仮面が板についただけですよ。それからあの荷物の中身は何ですか?」
「うちの新商品だ。販促してきてくれ。これがお前のそこでの最後の仕事だ。それが済んだら、会社に戻れるぞ。よかったな、薫子」
あっという声の後、彼は笑い声で誤魔化した。
「すまんすまん、ついならいになっちまってた。忘れてくれ」
「いえ」
薫子は懐かしさを押さえることができずにいた。ふと沈黙が続く。電話の向こうに人が消えたのではないかと、薫子は不安になる。
「部長?」
彼の返事はない。
「何かあったんですか?」
なおも音信不通。
「いないんですか? 東さん」
「おお、やっと前みたいに呼んでくれたな」
彼はすぐさま嬉しそうな声を上げた。彼は良いことがあると、顎を撫でる癖がある。その様子が薫子には目に浮かぶ。
「俺さ、バングラデシュに行くことになりそうだわ」
薫子は受話器を一度離し、側に置いてあったメモ帳にバングラデシュと走り書きをした。
「私とのことが原因ですか」
「いや、違う。関係ないことはないが、お前を丸岡に派遣したことが失敗だった。事が露見するのが早すぎたよ」
「えっ? 私がここにいるのって、会社の総意じゃないんですか?」
「一企業がこんなヤバい橋渡るわけないだろ。完全に俺の独断。名誉回復とまではいかないが、こすい点数稼ぎしようと思ってな」
薫子は受話器を取り落としそうになった。それと同時に、これまで押さえこんでいた口が勝手に動き出していた。
「何て事したんですか! 貴方って人は」
「お前を利用したことを怒ってるのか」
「違います。私の事はどうなったって、貴方が上に行くのを邪魔するのだけは避けたかったのに。私は何のためにこんな」
薫子は意地を張っていた。もう一人で生きていけるのだと示したかったのだ。
東の声が低くなる。
「すまん。お前が、無理してるのは知ってたよ。その好意に甘えていたんだ。本当、どうしようもないよな。でももし、まだ許されるなら、お前とやり直したい。一緒にバングラデシュに来てくれないか」
薫子は胸苦しいのを耐えながら、何とか返答しようと、努力する。
「わ、私も」
「何てな、冗談だ。メロドラマじゃあるまいし。忘れてくれ」
彼は大きく咳払いをした。決意のいることだったに違いない。冗談ではなかったのだろう。
「不義は不義だ。俺たちはその責任を取らなくちゃならん。言葉だけでなく、行動で。これからずっとな」
「……、はい」
承知していたつもりではあったものの、改めて言われると、人生の重荷が増えた気がした。
「8:2で悪いのは俺だけどな」
「あら、私の2って何ですか」
「ずばりお前のエロボディ」
「はいはい。体が目当てだったのはとっくに知ってます」
「まじめに聞けよ。お前が入社した当時、衝撃だったんだぞ。お前の学生時代のあだ名何だっけ? 十勝の……、十勝の乳牛!」
「ふざけてるじゃないですか。恥ずかしいことを思い出させないでください。全く」
薫子は必死で笑いをかみ殺す。自分は感傷に値しない人間なのだと言い聞かせて。
「美堂、あのオルゴールはまだ持ってるか?」
「いいえ」
薫子は嘘をついた。本当は大切に持っている。
「ああ、そうか。お前雑だもんな。いいよ、それで。捨ててくれって言おうと思ったんだ」
「部長はまだ持ってるんですか?」
「いや、捨てた、つーか壊された。嫁に」
「あ……」
薫子は彼の妻と話をしたことがある。事が露見する前だったが、彼女は全てお見通しだったのだろう。
こんなことを言われた。
「うちの主人、クラシックなんて興味なかったのに最近やけにご執心でね。貴方お好き?ベートーヴェンとか。あの人って、若い娘ばかり口説いていたそうよ。何時の時代も男は進歩しないものなのね」
あの時の腹を殴られたような衝撃を、生涯忘れはしない。
「俺たち長々と会話する間柄じゃなかったな。案外こんなに長く話したこともない気がするが」
「そうでしたっけ? 二人で祇園祭に行った時とか……」
薫子は、無意味な思い出話で彼の気を引こうとしている。引き延ばせば自身の心に爪を立てると知りながら。
「そんなこともあったかもな。もう切るよ。じゃあ、元気でな」
「あ、あの、部長」
「ん?」
言葉が浮かばない。最後だというのに恨み言も感謝もぶつけられなかった。
「俺のことは忘れろ。幸せになれよ、薫子」
電話は、そこで一方的に切られた。受話器を握ったまま薫子は静止した。しばらくしてようやっと立ち上がる。
「勝手なこと抜かしてんじゃねえ!」
大声を張り上げて、手近な壁を殴った。
「格好つけてばかり。自分はそれでいいかもしれないけど私はどうなるの? 私って何なのよ!」
一つの家庭が崩壊するのを望んだことは一度もない。それでも自分のしでかしたことは大きすぎる災禍を招いた。
薫子はこの先一人で苦しむのに耐えられるのだろうか。本当は彼がすがりついてくるのを期待していたのではなかったか。一人で歩くのにこの道は、果てしなく長く困難になりそうであった。