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せっちん!  作者: 濱野乱
澪標編
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心の温度


強風吹き荒れるビルの屋上に出たハクアは、双眼鏡で美堂薫子の終焉を確認した。


罪業の書で具現化したライフルの弾は風による影響を全く受けず、薫子の額を正確に打ち抜いた。


罪業の書が具現化するのは、罪の記憶。ケネディ大統領の暗殺の場面を見事に再現してみせたのだ。


リムジンが通りがかったのも、狙撃しやすい道路を走ったのも偶然ではない。罪業の書が招き寄せた純然たる結果である。


かつてケネディ大統領が狙撃された時間はほんの数秒のことだった。それゆえ、三発の銃弾を速射したことに疑問が沸き上がった。しかし被疑者死亡で真相は闇に葬られた。


そして、ケネディ大統領を直接死に至らしめた弾は最初の二発とは別角度から撃たれたものと判明している(諸説あり)。


「吾輩の能力は常勝無敗! 勝った! 澪標編完!」

 

銃撃を浴び、頭部を撃ち抜かれた薫子の体が後ろに倒れる刹那、虎は時間を止めた。薫子が上体を反らし、両腕を不自然な方向に曲げた格好のまま静止する。


虎の腹からは、歯車のような金属部品がいくつもこぼれ、生物としての見かけ上の形態を失いかけている。それはゲストである薫子の死が近いことを意味していた。

 

確定した事象の結果を強制的に運命に当てはめるハクアの能力は、時間を止めようと防ぐことができない。それを理解していた虎はある布石を打っていた。


 

「禍福は糾えざる縄の如しとはよく言ったものだ。タイミングが僅かに早くても、遅くても負けていた。完敗だった。しかし」


虎は運転席から身を乗り出し、薫子に鼻を突き出す。


「このタイミングで、融資が限度額に達した。融資は利子をつけて返済する義務がある。美堂薫子から時間を回収する! そう、瀕死のダメージを受けた分もきっちりとな!」


薫子から抜け出た血液が、バキュームされるように傷口に巻き戻る。傷口が塞がり、致命傷を与えた凶弾が、前方に消える。


虎の時間融資には、大きなデメリットがあった。


時間を止めるたび、使用したゲストの体内に蓄積した時間を奪うという契約が前提となっている。薫子の足のサイズが小さくなっていたのはそれが原因だ。

つまり融資限度額に達すれば、強制的に時間を徴収する。能力を使い続ければ、やがて体内時間を奪われ、ゲストの存在自体が消滅してしまう。


ここに至るまで融資限度額が高く設定されているため、一気に時間を返済することはなかった。


だが、二度目の銃弾が発射された際、虎は限度額を引き下げ、破産を狙った。そうすれば、三発目の止めのタイミング後に膨らんだ利子と融資を強制的に回収し、致命傷を回避できると踏んだのだ。それでも一か八かの綱渡りだったことには変わりはない。


虎おしてそれをさせたのは、薫子がわざわざ後部座席に移動して、弾丸を受けたことだ。


おそらく薫子は、弾が飛んできた時点か、それより前にケネディ暗殺の舞台を連想していただろう。運転席にいれば死ぬことはない。だが彼女はあえてそれをしなかった。ハクアも薫子の性格を読んでこの舞台を用意したに違いない。


「俺の能力で助かると踏んでたわけじゃないだろうが、全く大した女だよ。お前は」


誇りで心を動かされるのは、これで二度目だ。この情のもろさが原因で、支配者は自分を飼い殺すのだろう。


「支配者には悪いが、俺は度胸のある女が好きだ。肩入れさせてもらったぜ。それにこいつといれば、おこぼれに預かれそうだしな。俺は食いしん坊なんだ」


薫子の肌が細かなタイルのように剥がれ、虎の壊れた部品の代替となる。


虎と時間を介したやりとりをしている間、薫子の記憶の深淵に沈んだ澱が、走馬灯のように浮かび上がっていた。


嗅覚による刺激は時に視覚より鮮明に脳に記憶されている。こびりついた泥の臭いが、立ち上る。


幼いと言っても、十代後半の薫子が水たまりで遊んでいる。鈍色の泥を顔から被って、くじらの真似だ。


「じゃぶじゃぶ」


真似ではなくて、本当に大海を泳ぐくじらになりきったつもりでいる。

子供の頃は、何にでもなれた。雲をつかんだり、星に手が届いた。


どうしてみんなできないんだろうと不思議で仕方なかった。

「くろ? どこ?」


薫子は不安を紛らわせようと指をしゃぶった。それからいてもたってもいられず走り出す。


無人駅の電車に吸い込まれる高校生の薫子の背中を成人した薫子が見つめている。

 

長屋に、ぱぱを置いてどこに行ったのだろう。食事の世話は薫子がしないと駄目だと叔母に言われていたのに。ぱぱはあの後……


一匹の黒い猫が、道路に横たわっている。地面に転々と、血の跡が続いていた。

 

「死んだら天国に行けなくなるんだよ。可哀想にね」


誰かが耳元でそう囁いた。まるで蜘蛛がはうようで気持ち悪い。

 

 

 二

 

気づくと薫子はリムジンの運転席におり、ハンドルに頭を載せていた。その状態から飛び起きた。額に汗をかき前髪がはりついている。


助手席で虎が体を窮屈そうに丸めている。彼の背中を撫でていると、気持ちが落ち着いてくる。


車の前方から地響きと共に、迷彩色の大型戦車が道路を走行してくる。キャタビラは容赦なくアスファルトの表面をならしていた。


リムジンから二十メートル離れた場所で、軋むような音を立て戦車は止まる。鋭い針のような砲身が、薫子の額に狙いをつける。


「美堂薫子に告ぐ!」


ハッチを開けたハクアが小さな顔をのぞかせた。手には拡声器を握っている。


「どうやって生き延びたのか知りませんが、これが最後の戦い。ここが年貢の納め時。覚悟するですぅ」


ハクアの声は拡声器を通しているせいか、ひび割れてうまく聞き取りづらい。それとも動揺が本人の自覚以上に反映されているのかもしれなかった。


「ええ。もう終わりにしましょう。私にも見つけたい自分があったみたいだから」


ハクアは侮蔑するように唇を曲げる。


「笑止! 内面を覗いた所で、おのが醜い姿を露呈するだけ。ナルシスのように無様に溺れ死にたいんですか? お前は」


薫子は車から颯爽と降りた。虎が音もなく付き従う。


「吾輩が何度も見た夢は支配者により実現しました。もはや嘘か誠かなど、大した問題ではない。吾輩は、吾輩は」


「貴方は嘘じゃない」 


薫子は真顔を崩すことなくそう言った。


「偽物なんかじゃない。確かに伊藤が失った誰かではないかもしれない。でも貴女は確かにここにいる」


ハクアは戦車に乗り込み、ハッチをバタンと閉めた。


「発破をかけただけじゃねえのか」


虎が心配そうにつぶやいた。


「そのつもりよ。正面から勝たないと意味がない。あの子のためにも、私のためにも」


これは存在を賭けた戦い。しかしぶつかり合う本人たちはそんなことはもはやどうでもよかったのかもしれない。 心の底から戦いを楽しむ、まるでギリシャのオリンピアで戦う勇士のような光が二人の顔を華やいで見せた。


「会社に行かない社畜には死あるのみ! 発射ファイヤー!」


ハクアの号令を機に砲身が轟音と共に火を噴く。射出された弾が薫子に至る時間は数秒を切る。


「時間を融資するか?」


虎がわずかに時間を遅らせる。しかしそれも遅延にすぎないと誰もが心得ていた。


「いいえ。言ったでしょ、正面から勝つって。それに今の私なら」

 

拳に漲る力に他人事のような身震いがする。時間融資の返済で、薫子の体は若返っていた。恐らく二十代前半、体感でウェストがかなり緩くなり、少し胸がきつくなる。


「どうせこの戦車の攻撃も回避できないんでしょう。偶然かな、前の世界の私もハクアと戦った時も戦車と根比べしたのよ」

 

手のひらを広げ、押し迫る尖った砲弾を迎え撃つ。風切り音が耳を聾し、風圧で薫子の髪はばらばらと、広がった。


着弾と同時に目を焼くような閃光と赤黒い爆炎が道路を染める。リムジンは吹き飛び、すさまじい勢いで横転し、ガードレールに激突した。


煙晴れぬ前に、辛抱しきれなくなったハクアがハッチを開けた。


「ひゃはっはは! 爆殺! 滅殺! 必殺! 美堂薫子敗れたりぃ」


哄笑し、顔を押さえるハクアだったが、眼鏡の奥の瞳は光っていた。


「勝負あったな」


離れた電柱の上に待避していた虎が、口元を緩める。


薫子は手のひらを広げた体勢で、その場を一歩も動いていなかった。ジャケットの袖は無惨に破れ、顔は黒ずんでいたものの、その鋭い眼光は衰えを知らない。


「まだ……、続ける?」


伝線したストッキングに辟易しながら、薫子は丈夫を示した。


「ば、馬鹿な」


失意のハクアは辞典を戦車の中に落としてしまう。勝敗は決した。


「これが、社畜の力だというのですか? こんなの聞いてないですぅ。きっとまた暴食の能力で」


「今の私は社畜じゃない」


薫子は袖で顔をこする。煙が目に染みた。


「会社員じゃなきゃ、肩書きがないと誰でもないんだって薄々感じてた。街を歩いても透明人間みたいに居心地が悪かった。でも貴女と本気でぶつかりあって、マジで死ぬのが怖かった。強く生きたいと願った。そうしたら、私は美堂薫子だって胸を張ることができた」


だから、ありがとう。ハクア。


薫子は自然とハクアに礼を述べていた。


「お前は、それでいいのかもしれませんが」 ハクアが、か細い声で喉を震わせた。


「吾輩は、お前と違って死ぬのを全く恐れていませんでした。捨て鉢になるのとは全く違います。そもそもキャストに死への恐怖はないのです」


死への恐怖がないことは、生きることへの執着がないことを意味する。己の価値は己が決める。自己肯定の差が、戦いの彼我そのもとなって結実したのだ。


「吾輩は何のために戦っているですか。嘉一郎さまは吾輩を嫌っているのに。支配者はその問いに答えてくれませんでした。吾輩はどこに行けばいいですぅ? 吾輩は白井亜矢子の代わりとして作られたキャラクター。それは生きているとは言えないのですね」


気丈だった涙声に変わる。無力感から押し殺していたハクアの人格が浮かび上がろうとしていた。


薫子は火傷で爛れた手のひらを差し出す。


「何者にもなる必要はないのよ。貴女はハクア。捜し物があるなら手伝うわ」


「このあまちゃんが。てめえの偽善的価値観には反吐が出るですぅ。どこまで吾輩に恥をかかせるつもりですか」


ハクアは鼻をすすり、毅然と前を向く。最後まで敵としての矜恃を貫く姿は、好敵手の鏡であった。

それゆえ、薫子では彼女を救うことなどできないのが、もどかしい。伊藤がこの場にいれば、事態も変わっただろうか。


「ねえ、寺田君がどこにいるか知ってる?」


「あのモヤシ野郎も利用されたに過ぎません。全ての元凶はナノです。ま、吾輩も嘉一郎さまを独り占めしたくてその片棒を担いだわけですから、お前に教えることはもう何もありません」


ハクアは続けて誰にも聞こえない声でつぶやく。


「最後にブッシユドノエルを食べられなかったのが心残りではありますが」


帽子を脱ぎ顔を上げる。その表情は憑き物が落ちたように澄んでいた。ハクアの胸が温度が宿る。この温度は、支配者にも伊藤にも奪うことのできない、ハクアだけの……


 

「美堂薫子。お前がこれからこの地獄でどう足掻くのか楽しみですぅ。せいぜい徒花でも咲かせるといいですよ」


憎らしげなハクアの言葉が耳に届く前に戦車から火柱が上がり、空気を震わせる衝撃が薫子を襲った。


「……、え?」


戦車の装甲の一片が、薫子のすぐ脇に落下した。


紅蓮に染まる爆心地に、原型を止めない戦車の残骸がある。それを踏みしめるように巨大な異形が立ちはだかった。


燃え盛る炎が怪鳥の形をなし、片翼だけで五メートル以上はあろうかという翼を広げる。嘴部分からは大音量の音波が放たれた。ヴァイオリンの弦を幾本もかきならすような不快な音が、薫子に耳を塞がせた。  


炎鳥の足に当たる部分は三つ叉に別れ、まるで神話の八咫烏やたがらすが現実に抜け出たようだった。 


薫子は新たな脅威に愕然とし、膝をついた。

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