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せっちん!  作者: 濱野乱
澪標編
72/97

いい日旅立ち

改札に殺到する雑踏の波に飲まれないように、美堂薫子は少し柱側に寄ることにする。


柱の側では、セーラー服の少女が膝を持ち上げローファーを突き出すように前に向けていた。


ローファーの先には、スーツにストライブのネクタイ姿の精悍な男が膝をついている。


「舐めろ」


螺々は唇から、人間の尊厳を無視した命令が飛び出す。


「喜んで」


それを承る男は流れるような動きで膝を折り、ローファーのつま先に口づけた。そして滑った舌を伸ばした所で、薫子は目を背けていた。

この男とだけは顔を合わせたくなかった。

伊藤嘉一郎。

 因縁のある相手だが、所詮芝居の向こう側の人間に過ぎない。スクリーンの役者のようなものだと自分に言い聞かせる。


仕立てのいいスーツを着て、甘いマスク、高身長で見た目は申し分ない。しかし、生理的な嫌悪は拭えずにいた。

伊藤と出会ったのは偶然ではない。


一時間程前、せっちんの大軍を退けた薫子と螺々は、一端部屋に戻り、遠出の準備を始めた。

 

「東北だ」

螺々の決断の早さには驚かされる。薫子は説明を求めるが、螺々はトランクに備品を積めるのに余念がない。

「行くぜ、東北。下着を積めて、戦闘準備だ」

「だから、何で東北? 説明して」

「行けばわかる。次なる舞台は温泉。とだけ言っておこう」


荷物と共に、無理矢理薫子はタクシーに乗せられた。 

タクシーの窓から東京駅の煉瓦づくりの外観が近づくのを眺めると、感慨が沸き起こる。


「初めて上京した時を思い出すなぁ。あれ……、あの時なんで東京に」

薫子はとっさに口を閉ざす。少し頭痛がした。 

螺々は興味深げに薫子の様子を観察するのを怠らなかった。


タクシーを下り、駅前で出迎えるように現れたのが、伊藤だった。長身の伊達男だ。嫌でも目に付く。


「お待ちしてましたよ」

喧噪の中、よく通る声で伊藤は歓迎の意を示した。

さりげなく薫子の荷物を持とうとしたが、固辞される。


「罠か」

螺々は歯がみする。せっちんが、パンフを落としたのも待ち伏せが目的だったのかもしれない。あの引き際の良さを怪しむべきだった。

伊藤は両手を上げ、白い歯を見せる。

「おっと、勘違いしないでください。僕は敵ではありませんよ」


その言葉に何度騙されただろう。螺々もカヲリも身構えこそすれ、緊張を解くことはなかった。

「じゃあ、何だ? 合コンでもするか? それなら野郎をもう一人連れてこいよ。ここで待っててやるから」


薫子は吹き出しそうになった。仮に伊藤が従ったとしても、螺々はすぐにこの場を離れるつもりだろう。


「それはまたの機会に。そちらもメンバーの追加を検討して頂けるなら是非」

「ロリコンは死んでも治らんようだな。誰が進んで犠牲者を差し出すか」


伊藤と螺々の会話から取り残されていた薫子は、逃げだそうと試みるが、伊藤の横目に射すくめられる。 

「ご無沙汰していますね、美堂さん。君にとっては一瞬のことだったのでしょうが」


疲れたような吐息が彼の口から出るのは意外である。どんな状況でも余裕を崩すことなどなかったたこの男にも疲労は蓄積するらしい。

「さっそく本題ですが、共闘しませんか?」

「駄目だ」

「絶対嫌よ」

螺々は即答して薫子の手を引き、構内を目指す。意見の一致を見たのは初めてのことである。


「東北に行くのでしょう?」 

螺々はぎくりと足を止める。

「僕も行き先は同じです。道中、互いの背中を預けた方が事が進みやすいと思いますが」


「言っている意味がわからん。お前はどの立場からものを言っている? 支配者側の人間が」

伊藤は、これまで一貫して支配者の手駒を演じてきたように思える。


「僕も、博士と同様、西野さんを支配者と目していました。彼女が支配者でないと気づいたのは、博士より早かったため、手を引いたまでです。もはや敵対する理由もないのがお分かりでしょう」


優越感を滲ませたため、螺々の気分を害した。しかし、損得を考えれば、悪くない取引という側面も見えてくる。

「このロリコン、使えるか……? いやしかし」


「僕は少女たちの忠犬です。今は貴女に仕えましょう。丑之森博士」

西野陽菜の犬と言わなかったことに、薫子は違和感を覚えた。やはりこの男は信用ならない。


「で、どうして東北なの? そろそろ教えなさいよ」

焦れったくなった薫子は二人に訊ねた。 

「これを見ろ」 

螺々が広げたのは、蛇腹になったパンフレットだ。何の変哲もない旅館の写真が表紙を飾っている。

「これがどうかした?」

「この顔に見覚えがないか?」

写真の右端には黒髪、和服姿の女性が写っている。笑顔だが、切れ長の目をしたどこか冷たい雰囲気の女性だ。旅館の若女将と、紹介がある。名前は、

「灰村……、香澄!?」

「これで納得いったか。彼女はゲストではないが、関係者の一人に変わりはない。話を聞きに行く価値は十分ある」

「既に三枚分の新幹線のチケットを入手済みです」

螺々は伊藤の手回しの良さに舌を巻く。 

「ほう、気が利くな、ポチ。その調子で頼むぞ」

「恐縮です」

伊藤の髪を、犬の毛並みをブラッシングするように撫でる螺々。年上男を手玉に取る魔性の少女は注目の的になっている。

気が気でない薫子は、その調教を妨害するように喚く。


「ねえ、何で灰村香澄が若女将なの? 彼女は女子高生だったのに」

薫子の虚しい問いに、伊藤は困ったように肩をすくめた。

「美堂さん、ここは以前の世界とは違います」

何か言おうとした伊藤のネクタイを下に引き、螺々は口を封じた。


「薫子。頭がついていかないのはわかるが、君の足で歩き、目で確かめ、直接耳にしたこと以外は信じなくていい。いいな?」


「う、うん」

薫子はためらいがちに頷く。それを納得するための旅なのだ。


それから、螺々と伊藤は例の忠誠の儀式を始めたため、薫子は、コンビニで預金を下ろす名目で二人から離れた。


コンビニを出るとすぐ伊藤と出くわした。後を追ってきたらしい。


「美堂さん、これからよろしくお願いします」

伊藤は握手を求めたが、薫子は無視し、カートを引いて螺々の元に急いだ。二人きりの時間をできるだけ作りたくない。


伊藤はしつこく後を追って来た。

「前から一度じっくり話をしたいと思っていたんですよ」

「そう? こんなオバサンと話してもつまらないでしょう」

「そんなことはありませんよ。君からは僕と同類の臭いがしていましたから」

「へえ?」

薫子は後ろ髪を引かれたように足を止め、それを見計らった伊藤の耳打ちを受ける。


「君からは最愛の人間を殺して、のうのうと生きている人間の臭いがします」

凍り付いたように固まる薫子を追い越し、伊藤は立ち去った。


遅れて合流した薫子は、すっかり色をなくし動揺を隠し切れていなかった。


「どうかしたか? 顔色が悪いが」

螺々に指摘されると、照れ笑いで誤魔化す。

「いや、預金が予想以上に減っててさ、ブルーになっちゃて」

 

「やっと現実が見えてきたらしいな。良いことだ」

螺々は薫子の言を鵜呑みにして頷く。真意を知る伊藤は意味ありげな笑みを浮かべていた。


十一時三分発の新幹線がホームに滑り込む。空気を裂くようなのぞみの流線型のボディに、伊藤がうっとりと目を細める。

「見てください、美堂さん。令嬢のトゥーシューズのようではありませんか」

「はあ?」

薫子は伊藤の興奮を理解できずに振り回される。

「せっかくですから、のぞみを背景に一緒に写真を取りましょう。さあ!」

「え? ちょっと触んないでよ。やだ」


肩を抱き、異様な熱意で薫子を誘う。彼は、車や電車などの乗り物フェチでもあった。


「男はいつまで経っても子供だな」

螺々はあきれ顔で眺めていたが、背後に異様な気配を感じ振り返る。


「発車時刻が迫っています。さっさと乗車するがいいですよ」

螺々の背後から、幼女が駅弁などを積んだワゴンを押してやって来た。


「やあ、君か、ハクア。しばらく」

螺々は軽く片手を上げ、旧知を見やる。


「美堂薫子は、結局ここまで来てしまいましたか」


幼女は落胆を込めた眼差しで、薫子をにらみながら自身の三つ編みをしごく。

「君も社畜推進派か。やだねえ」

「吾輩にとっては、そんなもんどうでもいいですぅ」


幼女は四角い帽子を揺らし、ぶ厚い眼鏡を指で押し上げる。

「吾輩の役目は、嘉一郎さまとの秩序を守ること。それだけを考えることにしたですっ!」

「威勢がいいな、怖い怖い」

螺々は車両に一足先に乗り込んだ。

ハクアはホームで伊藤と絡み合う薫子に、邪念を送る。


「せいぜい楽しい旅を、美堂薫子。吾輩がお前を地獄に招待してやるですぅ。ヒッヒッヒ……」

 

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