鏡(後編)
薫子のすぐ側で、断続的に水の滴る音がしていた。閉ざされた暗闇の中でも、手を伸ばせば確かにその気配を感じることができる。かといって、正確な音の位置ははっきり掴めない。自分ではどうすることもできない大きすぎる雑音に、薫子はやがて我慢できずに耳を覆う。
「どうかしたか?」
せっちんが心配そうに薫子の背中をさすった。
二人は、校舎の三階にたどり着いていた。薫子が苦しそうにうめき出したので、立ち止まっている。もはや限界ではないのか。撤退すれば、一応再起をはかることはできる。
せっちんは、物音一つしない廊下に不安を感じていた。いつ教室に潜む襲撃者が現れないとも限らない。薫子は戦える状態ではないし、せっちんも戦闘能力は皆無である。
薫子は水の音に神経を集中していた。せっちんの存在も忘れ、壁や天井の存在も消え去り、自身の肉の姿も捨て去った時、薫子は突然走り出した。
せっちんは慌てて追いかけるが、追いつけないほどのスピードで、薫子は水の源泉を発見した。廊下の奥にある手洗い場の水道の蛇口の一つから、水が垂れていた。薫子はまっすぐそこまで走っていき、蛇口を締めた。
せっちんが追いついた時、薫子は懐かしい感動に打たれて立ち尽くしていた。
かつて薫子は無意識にそれを行っていた。ある時は雪山で、サバンナで、研究所で。生き残るための本能が示す道筋に従うだけでよかったのである。人間らしい生活に埋没してはいたが、薫子の獣の本能は死んではいなかったのだ。
せっちんの手を逆に引くようにして薫子は階段に戻った。三階には敵はいない。薫子は悟っていた。
四階に差し掛かろうとした時だった。せっちんと薫子は同時に足を止めた。先に口を開いたのはせっちんだった。
「それは”たいか”ではないか?」
薫子も少なからず感じていた危惧を、せっちんは鋭く指摘した。
「かんがえてみよ、そなたはじぶんでかかえきれぬ”ざいもつ”をかかえ、じめつしたのではなかったかえ?」
「・・・・・・、そうね。貴方の言うことも一理あるかも」
人類は動物的な部分を捨て去り、理性的であろうとしてきた。闇を恐れ、灯りをともし、街を作った。アダムとイブ以前に戻ることを恐れ、思想を作った。禁断の林檎を正当化するための道を突き進んできたのだった。今の薫子はその逆の道筋を辿ろうとしている。果たして原罪をすすぎ、天国の門を叩くことは間違いであろうか。進化か退化よりも、薫子は自分が間違っているとは思わない。父の愛という呪縛は生涯、彼女を見逃すことはないのかもしれない。
「心配してくれてありがとう、せっちん。でも私は自分を偽ることはしないつもりよ」
せっちんは苛立ったように片手を振った。
「そなたのしんぱいなどしておらぬ。わらわがしんぱいなのは・・・・・・」
せっちんは物思いに沈み、それ以上、口を開くことはなかった。薫子はしばらく待ってから、当座の問題に取り組むことにした。
「階段の頂上を見て」
せっちんが目を上げると、奇妙なものを発見した。階段と壁の間にピアノ線のような細い糸が、張り巡らせてあった。あからさまな罠にせっちんは眉をひそめる。
「さもありなん。このまますすむのか?」
「そうね・・・・・・」
罠を想定していたが、あのハクアの仕業にしては杜撰すぎるように思える。逃走に焦ったとも考えにくい。薫子はより一層警戒感を強めると共に、ハクアがまだ校内に残っていることに少し安堵していた。
「わらわがたしかめてくる」
せっちんは握っていた薫子の手をぱっと離した。
「え? 何を言ってるの? 危ないわ、やめて」
薫子の声に反抗するようにせっちんはピアノ線に近づく。階段の正面の廊下には穴の空いた木箱が無造作に置いてあった。木箱から階段の距離はざっと三メートル。ピアノ線はちょうど、せっちんが跨ぎやすい高さに張ってある。
「止まりなさい! せっちん」
薫子が悲痛な叫び声を上げる。
せっちんが手を離した途端、薫子の感覚は混乱し、自分の位置が掴めなくなった。
せっちんは構わず、線をまたいだ。線に触れれば、箱から何かが飛び出るのは自明だった。あえてその危険を被ろうとしたのは、せっちんなりの意地であった。薫子の覚悟に彼女も知らず突き動かされていたのだ。
しかしながら、彼女は短慮であった。見えていた線はフェイクだった。その数センチ先に床と近い色に塗られ見えづらいもう一本の線が風景に同化し隠されていた。
せっちんの足がその線に触れて躓くと、同時に張りつめていた糸が断ち切られた。木箱の穴からせっちんにめがけて、鋼鉄製の矢が射出された。強力が限界まで引き絞ったかと錯覚するような矢は、倒れ込んだせっちんの額を射ぬかんと、火急の勢いで迫った。
「せっちん!」
薫子は名前を呼ぶことしかできなかった。目で見ずとも彼女に危機が迫るのを感じる。手を伸ばしても、もう届かない。本当にそうか? 先ほどは手を伸ばせば水のある所にたどり着くことができた。今度もできるのではないか。
「う・・・・・・、うあああああ!!!」 渾身の思いを込めて、薫子は念じる。掴める届く間に合う! 岩をも砕く信念を抱き祈る。
気づいた時には、薫子の手に二十センチ大の鋼鉄の矢が握られていた。薫子は一瞬で、せっちんの眼前に移動していたのだ。
「はぁ、はぁ・・・・・・、やった・・・・・・」
薫子は矢を放り捨てて、座り込んだ。体は疲弊し、全身で発汗していた。薫子の動きはかつて、せっちんがやって見せた瞬間移動を彷彿とさせた。
「・・・・・・せっちん、怪我はない?」
礼代わりに薫子に送られたのは、せっちんの平手打ちであった。力一杯なのだろうが、せいぜい子供の力なので大して痛くない。薫子は叩かれた頬を手で押さえた。
「この”しれもの”が・・・・・・!」
せっちんの怒りに思い及ばず、薫子は顔を左右をうろんに向けた。
「な、何怒ってるのよ。だって貴方、死んでたかもしれないのよ」
せっちんは威厳のある目で薫子をにらみつけた。
「わらわは、”みどうかおるこ”とはなしておる。うせよ、けだもの」
薫子は唇の端をいびつに曲げたが、力を失ったように首をだらりと垂らした。薫子の影が一瞬だけ伸び縮みした。
薫子が意識を取り戻した時、せっちんの体温がすぐ側にあったので、混乱せずにすんだ。
「そなたは、”みち”をふみはずすつもりか?」
薫子は返事をしなかった。せっちんの言葉の意味を解し始め、嫌な汗がにじんだ。
仮に間違った道であろうと、その先で光が絶たれようと、薫子は後悔しないだろう。元々断崖を這い上がるような人生だったのだから。しかし、せっちんに生かされた身でありながら、彼女との約束を反故にするのは気が引けた。遠くない将来、薫子の姿はせっちんの望んだものではなくなってしまうのかもしれない。
薫子は、迷いを振り払うように首を振った。
「ごめんなさい、せっちん。もうしないから、私の側にいてくれるかしら?」
せっちんは黙って薫子の手を握りしめた。せっちんが側にいれば大丈夫。薫子は不安を隠すように自分に言い聞かせた。
(*)
薫子たちが罠を回避した頃、ハクアは紙飛行機を折り、屋上から飛ばしていた。冬の乾いた風が、飛び立った飛行機の軌道をあらぬ方向に曲げていく。ついには墜落していく様子をハクアは飽きず眺めているのだった。
「はうぅ・・・・・・、冬は嫌いですぅ。だいたい吾輩、コタツが苦手です。他人の足が触れるのを想像するだけで余計寒くなるですぅ」
ハクアはフェンスに手をつき、ぼやく。スカートの裾が風で少し揺れた。
「嘉一郎さまは今頃、”あの女”と逢瀬を楽しんでいる最中でしょうか。ムシャクシャするですぅ!」
ハクアの歯ぎしりと風の音で、薫子とせっちんが屋上のドアを開ける音は目立たずにすんだ。
薫子の左手には反りのある太刀、菊一文字則宗が握られている。せっちん曰く、伝家の宝刀らしい。薫子は深く考えず使っている。
「・・・・・・、フリーズ」
ハクアがゆっくりと振り返る。薫子たちの気配に始めから気づいていたようだ。
薫子とせっちんがハクアから十メートルくらいの距離で行儀よく立ち止まると、ハクアは満足そうに頷いた。
「懲りずによくもまあ、ようこそいらっしゃいました、美堂薫子。そちらの座敷童子みたいな方が、せっちんですね。お初にお目にかかります、吾輩、キャストの内の一柱、ハクアと申します。以後お見知りおきを」
帽子を脱ぎ、無防備にお辞儀までしたハクアに薫子は、面食らった。
「貴方の目的は何? 私を殺すこと?」
ハクアは薄く微笑む。薫子には見えていないが、伊藤にそっくりの曖昧な笑い方だった。
「まあ、そういきり立たず。吾輩、少々反省しているのです。聞いてもらえますか?」
「ふん、殊勝な心がけね」
夕刻が迫ろうとしていた。茜色から、憂鬱な夕闇に空が塗り変わる。頭上を大型航空機が光を瞬かせ通過した。
「吾輩、思い違いをしておりました。即効成果を上げるためには手を汚すことを躊躇してはいけなかったのです」
せっちんはハクアが手にしているものを視認し、薫子に告げる。
「きをつけろ、なにかしかけてくるぞ!」
ハクアは中庭でラジコンを操っていた時と同じタイプのコントローラーを握っていた。
「必殺必中! 初めからこうするべきだったのです。吾輩、チョコラテのような甘い考えは捨て、確実にお前を殺します。よろしいですね、美堂薫子!」
薫子が耳にしたのは、ゴムが地面をこするような聞いたこともない音だった。ただ何となく推察はできた。
「これは・・・・・・キャタピラ音?」
ハクアの足下に現れたのは、水色に塗られた小型戦車のラジコンである。全長三十センチほど、砲身が短く、全体的に寸足らずな印象である。
「おおかた、またばくだんでもしこんでおるのじゃろう」
せっちんの当て推量に、ハクアは吹き出した。
「言ったでしょう? 確実に殺すって。もう終わりですよ、美堂薫子」
戦車の砲身が薫子の頭部に狙いを定めていた。薫子は背筋に悪寒を感じ、しゃがみ込んだ。頭のすぐ上を、殴るような風が通過したように思った。
次の瞬間、風船が破裂したような音を立て、戦車の車体が反動で前後に揺れた。何かが射出されたようだが、誰の目にも映らなかった。
薫子は頭を押さえたまま、しゃがんで動かなかった。せっちんは目をぱちくりさせ、チープな戦車の挙動を窺っていた。
ハクアは胸を張ったまま動じる気配はない。風で揺れるおさげを手で押さえていた。
「な、何が起こったの?」
見目のきかない薫子がせっちんに様子を尋ねた。
「わ、わからぬ。あの”がんぐ”からたまがでたのやもしれぬ」
せっちんも訳が分からず、動揺するばかりであった。
ハクアは、二人の慌てふためく様子に内心ほくそ笑んでいた。
「せっちん、あれをご覧なさい」
ハクアは、屋上の壁を指さした。
せっちんは背中を向けないようにゆっくりと後ろに下がり、壁を調べた。
白塗りの壁に小さな穴らしきものがあいていた。直径一ミリにも満たない穿たれた穴にせっちんは困惑したように、ハクアを盗み見た。
「・・・・・・、秒速三百五十メートル」
ハクアの言葉に、薫子とせっちんは耳を疑う。
「もうおわかりですね? この戦車はただの玩具ではありません。直径0、5ミリの鉄球を秒速三百五十メートルの速度で射出します。音速に近い速さです。球が小さいからといって安心しないでくださいね? 一極に力は集中するわけですから、命中すれば即死確定です!」
薫子は親指のスナップで、則宗の鍔を弾き刀身を矢のようにハクアの手元に向けて飛ばした。目には目をというわけだった。
ハクアは解説中でも、油断しなかった。横っ飛びかわしつつ、ラジコンの操作も怠らない。けたたましいキャタピラ音を立てて、戦車は移動を開始した。キャタピラ走行とは思えない苛烈な移動スピードで、薫子の包囲を狭める戦車。
薫子は焦りを感じながら、戦車の位置を把握しようとするが、うまくいかず、屋上を無為に走り回った。
「せんしゃにきをとられるな! ほんたいをねらうんじゃ」
薫子は、せっちんの叫びに弾かれたようにハクアに向け走り出した。彼我の距離、八メートル。
「まあ、当然そうするでしょうね。では第二フェイズ開始ですぅ」
ハクアは冷静にコントローラーを操作し、戦車の砲身を回転させ、せっちんに狙いをつける。
「美堂薫子、今吾輩が何をしたかわかりますか? 教えて欲しいですか? 教えて欲しかったら止まりなさい」
薫子は止まらざるを得なかった。ハクアのしたことに思い至りながらも従うしかない。
ハクアは行動とは裏腹の、憐れを誘うような調子で言い訳めいたことを口にする。
「吾輩もこんなことしたくないんですよ? せっちんは生かして連れてこいと言われてますしぃ。でも吾輩のちっぽけな身の上を守るには仕方なく・・・・・・」
「もう降参するわ。何が望みなの?」
薫子は怒ったように言うと、両手を上げた。
ハクアは冷ややかにその姿を眺めていた。
「案外、根性のない女ですぅ。美しい友愛なんて言葉、吾輩が大嫌いな最たるものですのに」
薫子はせっちんが屋上から避難してくれることを望んだがそれも叶わなかった。逃げようとすればハクアは容赦なくせっちんを撃つだろう。
「でもこのような幕切れあまりに呆気ないですねぇ。実は吾輩、時間を持て余しているです。もう少し遊びましょうよ」
(*)
「なあに、簡単なゲームですぅ。耳の穴かっぽじって聞いてもらえば、一回で覚えられるです」
ハクアの提案は次のようなものだった。
薫子は現在、屋上のフェンスから約十メートルの位置に立っている。ハクアはラジコン戦車を薫子の一メートル離れた真横に隣接させている。薫子は、今いる位置からまっすぐフェンスに向かって歩く。同時にハクアは、目隠しをして戦車を操作し、フェンスに近づける。
一度動き出したら、足を止めてはならない。フェンスにより近づけた方が勝ち。
「つまりチキンレースね」
「その通りですぅ。お前があまりにふがいないから、お情けで遊んでやるです。感謝するですよ?」
「はいはい」
「吾輩に勝ったら、せっちんは解放してやるです。質問はありますか?」
薫子は挙手する。
「私は目が開かないから、貴方が目隠ししているかわからないわ」
「疑り深い女ですぅ。そう言うと思って考えてあるですよ。ほら、せっちんこっちに来なさい」
勝者の余裕からか、傲慢にせっちんを指で呼び寄せるハクア。せっちんは薫子のすぐ側を横切った。
「ほら、眼鏡取りますから、お前が手で目隠しするです。これで公平な勝負に相成りました。始めましょう」
せっちんはハクアの背後に回り、目を覆った。
合図を、せっちんにしてもらい、二人は同時に歩を進める。
ハクアの戦車は軽快な速度で、フェンスに向かっていく。まるで見えているかのように淀みない。だが、せっちんはしっかり目隠しの役を果たしている。
対して薫子は、薄氷を踏むように慎重に進む。その足音を聞いたハクアは、嘲笑する。
「あはは・・・・・・、そんなペースじゃ日が暮れますよ。チキンレースとはよく言ったものです」
「ちょっと口閉じてなさいよ」
ハクアの戦車がフェンスわずか一センチ程手前に横付けされた。砲身がぶつかるのを避けたのだ。
「んー・・・・・・、誤差一センチってとこですか。まあまあですぅ。ほらほら、吾輩は終了しましたよ」
ハクアの大声に薫子は否応なくプレッシャーをかけられた。それ以上前に進めなければ負けが決まる。
「なめんじゃないわよ・・・・・・」
薫子が戦車と並ぶ。結局力み過ぎた薫子はフェンスを手で掴んでしまった。
ハクアはいよいよ念願叶い、悪どい笑みを浮かべる。
「言い忘れてましたけど、敗者には罰が与えられるです」
ハクアはコントローラーについた赤いボタンを長押しした。途端、戦車が発火し、暴発した。中庭のものより威力が弱かったが、完全に油断した薫子を襲うのには十分であった。破片をよけるため、薫子はフェンスに力を入れ、飛びのこうとした。
「!?」
フェンスはゆっくりと薫子が押す方向へと倒れた。つまり宙空へと投げ出される格好になる。慣性の法則に逆らえず、薫子は火に包まれ、フェンスと共に屋上を落下した。
すぐに落下物がひしゃげる不吉な音がせっちんの耳に届いた。
「ば、ばかな・・・・・・」
せっちんは力なく膝を折った。
ハクアは眼鏡をかけ直し、自身が思い描いた絵図が完成したのを見届けた。
「あーあ、ここまでうまくいくとかえってつまらないですぅ」
「どういうことじゃ?」
「あれ? まだ気づいてないですか? 吾輩の計略に」
得意げに笑うハクアにせっちんは肌が泡立つのを感じた。
「愚かですよねぇ、こんなとこまで追いかけてこなければよかったのに。音速の球なんか出るわけないでしょう?」
「じゃが、あなはたしかに・・・・・・」
「あんなものはここに来た時に開けておいたんですよ。 実際は結構危ないとこだったのです。吾輩の装備はスタンガンとスプレーと小型爆弾のみ。それで美堂薫子を殺そうと思ったら、罠にかけるしかないじゃないですか」
「い、いつから・・・・・・」
「ん? そうですねぇ、お前たちが階段であの木箱にひっかかったのを知った時ですぅ。音はここまで聞こえましたよ。怖かったでしょう? あんな速さで球が飛んでくるとお前たちは思いこんじまったんですぅ。錯覚とはいえ、その刷り込みは思いの外強いものなんですよ。美堂薫子は五感が馬鹿になった状態だったし、急拵えとはいえ、うまくいきました。あとあと、フェンスのねじをゆるめておいたのも吾輩ですぅ」
薫子たちはハクアの実力を見誤っていた。ハクアの恐ろしさは爆弾などの凶器ではなく、極限下でも冷徹に状況を分析し、綿密な計画を立てる執念であった。
「嘉一郎さまに色目をつかう淫乱な雌豚をこれで成敗できたです。気分良いですねえ、あはは!」
腹を抱えて笑うハクアと、呆然自失し立ち上がれないせっちんのコントラストは異様だった。
一通り笑い終えると、ハクアはせっちんの腕を乱暴に掴み、立ち上がらせた。
「それでは参りましょう、せっちん。ご安心なさいな、嘉一郎さまは女子には格別慈悲深いお方。不本意ですが、たっぷり可愛がってもらうといいですぅ」
せっちんは首を精一杯横に振った。ハクアが苛立ち、スタンガンを取り出そうと、ジャケットに手を入れた時だった。
「じゃあ、私も可愛がってもらえるのかしら?」
くぐもった声のする方にハクアは素早く振り返る。フェンスが無くなった焼け焦げた屋上の突端を凝視したものの、声の主は現れない。
「な、何だ・・・・・・、脅かすんじゃねえです。美堂薫子は吾輩の計略で今頃、カエルみたいにぺしゃんこに・・・・・・」
「それはどうかしらね」
薫子は崩れた屋上に手をかけ、ぶら下がっていた。そのまま腕の力だけで這いあがった。制服の袖がぼろぼろになっていたが、五体満足の状態であるのは一目瞭然だった。
ハクアは開いた口が塞がらないほど驚愕していた。
「やれやれ、危ないところだったわ」
薫子は、スカートをぽんぽんと叩くとハクアをねめつけた。
「な、何故です? こんなのありないです」 薫子は一歩前に進み出る。ハクアはびくっと身をすくめた。
「ハクア、貴方は大した役者だったわ。マジで音速なのかと少し信じそうになった。しかもフェンスが落ちるなんてね」
「お、お前、さては、目が見えてるですね?」
薫子がまっすぐ自分の方に歩いてくるので、ハクアはどんどん後退を余儀なくされ、反対のフェンスにぶつかった。
「いいえ、段々目が見えるようになったのは、フェンスが落下した時くらいからかしら。でもそれ以前から貴方の位置はずっと把握していた」
薫子は則宗を飛ばした後、ハクアが動いた気配をずっと追っていたのだ。
「音速なんてあるわけないとうすうすわかってたけど、もしものことがあるといけないからね。ずっと我慢してたわ。まあ最終的に爆弾を起爆してくれて助かったけど」
「し、しかし、何故落下しなかったですか?」
「秘密はこれよ」
薫子が取り出したのはピアノ線だ。それは階下でハクアの罠に使われていたものだった。
「チキンレースの時、貴方が何かするだろうって思ったからね。密かにせっちんに端を持っててもらったの。貴方が妙な動きをしたら、糸を引くようにってね。さすがの私も爆発してからじゃ対処できないわ」
ハクアの背後で得意げにピースサインをするせっちん。
薫子の獣の勘を使えば、ハクアを制することはもっと容易だったが、あくまで薫子は人間の能力で、ハクアを倒したかった。せっちんの約束を果たすことが何より重要と考えたのだ。
「認めんです、こんな勝負」
ハクアは吐き捨てるようにそう言うと、薫子に突進してきた。その手にスタンガンを握っている。
「遅いわ」
薫子はあっさりその手を払いのけると、スタンガンは宙を舞う。呆気に取られるハクアの鳩尾に、腰を深く落とした薫子の掌ていがたたき込まれた。乾いた音と共に肺から、空気が無理に追い出される。
「がはっ・・・・・・、吾輩が、こんな雌豚風情に・・・・・・」
ハクアは薫子の胸に倒れ込んだ。気を失っている。
「策士策に溺れるって感じかしら。ま、こんなとこね」
薫子は鼻で笑うと、ハクアの体を地面に横たえた。
せっちんは、いそいそと屋上のすみに落ちていた則宗を拾い、鞘に仕舞っていた。
「して、そやつのしょぶんはどうするのじゃ?」
薫子は夕闇に染まりつつある山々に感じ入っていた。自然の清澄さに心洗われるようであった。自分の胸に手をやった。
「争いはいけないわ、私は哀戦士。敗者に鞭打つ真似はしないつもりよ」
「ならば、わらわが」
せっちんが無表情で則宗を鞘から抜き、切っ先をハクアの白い喉元に突きつけた。
「ちょ、ちょっ・・・・・・、何してるのせっちん」
薫子は、慌ててせっちんの手から刀を奪い取る。
「ちゅうこくしておいてやるが、そっこくこの”はくあ”のくびをはねたほうがよい」
せっちんは断固たる決意を持ってそう口にした。
「何もそこまでしなくても・・・・・・」
笑って誤魔化すことのできない空気である。薫子はしゃがみ込み、せっちんの目を真正面から捉えた。
「貴方の言いたいこともわかるわ、ハクアはこの後も罪を重ねるかもしれない。それでも殺すことはしたくない」
薫子の矜恃であり、最後のボーダーを明確に示した。
せっちんは機嫌を損ねたようだ。もう貸さぬぞという風に則宗を胸で抱え込んでしまった。
「かってにせい。わらわはちゅうこくしたからな」
「うん、自分のケツくらい自分で持つわ。それに無罪放免にするつもりは初めからないし」
「ほう・・・・・・」
薫子はせっちんに素早く耳打ちした。そしてハクアを背負って、三人で屋上を後にした。
(*)
ハクアが目を覚ましたのは、屋内であった。すぐ頭の側にグランドピアノがあり、古色とした床に整然と机、椅子が並べられている。壁には古今の作曲家達の肖像画がずらっと並んでいる。音楽室のようだ。あれからまだそう時間は経過していないようだが、すっかり日も暮れかかり、薄暗かった。
「わ、吾輩は・・・・・・」
ハクアは自身の異変に気づき、飛び起きた。彼女はブラウスにスカートしか身につけていない。帽子、ジャケットはおろか靴下もローファーも目のつく範囲に見あたらない。眼鏡があるのが救いだ。彼女の視力はかなり悪い。
頭が段々鮮明になり、美堂薫子に気絶させられたことを思いだし、怒りでハクアの目の縁が真っ赤になった。
「あの雌豚、今度会ったらただじゃおかねえです。こうなったら、吾輩の”辞典”を使うです。人間相手にコケにされてキャストとして黙っていられますか」
一人息巻いていたハクアの背後の扉から、せっちんが音もなく登場した。隣接する準備室から、せっちんはトライアングルを持ち出していた。
そんなことを露とも知らないハクアの背後で、せっちんはトライアングルをちんと、一度鳴らす。それは静まった室内によく響いた。
「・・・・・・、ひいっ!」
ハクアは、へなへなと華奢な体を下げおろす。末期の悲鳴のような弱々しい音は、葬祭をイメージさせ、ハクアの力を奪ったのだ。
「な、なにしてるですか?」
せっちんは答えない。灰暗い部屋の片隅で、不気味に沈黙を守っている。
ハクアは焦燥を隠そうともせずに、大声を上げた。
「な、何か言うです、座敷童子! ええい、スタンガンの餌食になりたいですか!」
ハクアは装備を全て奪われたことを改めて実感する。しかし、薫子の姿は見当たらない。せっちんは、恐らく丸腰のハクアと同程度の戦闘能力しか持っていない。隠された力があれば先ほど使っているはずだ。逃げきれる。ハクアはそう確信し、前方のドアへ素足のまま直行する。ドアが眼前に迫ったとき、あわや薫子が入ってきた。
薫子はハクアを見下ろして、ペットボトルを持ち上げた。
「あら、起きたの? お水買ってきたわよ、飲む?」
ハクアは二、三歩下がったが、もはや逃げきれないことを悟り、小さく頷いた。
薫子は何事もなかったように、せっちんと雑談を始めた。
ハクアは未だドアの前で、ペットボトルを持って立ったままだ。薫子はそれに気づくと手招きして、ピアノの椅子にハクアを座らせた。
「飲まないの? 毒なんて入ってないわよ」
ハクアの肩に手をやり、なれなれしく囁いた後、せっちんとの会話を再開する。
放置されたハクアは、ええいままよとばかりに豪快にペットボトルに口をつける。
その姿を薫子は横目で確認していた。
「味わって飲むといいわ。これから水分補給なんてできやしないんだから」
かなり動き回っていたためか、ハクアはペットボトルの水を喉を鳴らして、一気に飲み干していた。
薫子は拍手で、その健闘をたたえる。
「わー、良い飲みっぷり。ねえ、女子同士ハクアちゃんも一緒にお喋りしようよ」
「は? はあ・・・・・・」
薫子は床に足を伸ばして座り、ハクアに太股の上に座るように促した。人肌が苦手な彼女にはそれだけで拷問足り得た。
薫子の体は分厚い肉布団のようにハクアを包んだ。体温は高めで、背中には豊満な胸が当たっている。
「きゃー、ちっちゃ! ねえ、せっちんより細いんじゃないの?」
「わらわのほうが、”すれんだー”じゃ」
むくれるせっちんは、ハクアたちの正面に黒板を背に立っている。
「ねえ、ハクアちゃん。かいちろうって誰?」
「え?」
「うわごと呟いてたわよ、かいちろうさまー、助けてーって」
吹き出すせっちんを目だけで威嚇するものの、ハクアは口をつぐんでいた。
「もしかして、好きな人?」
薫子の質問にハクアは赤くなりうつむく。
「恥ずかしがることないじゃない。誰にも言ったりしないよ」
耳元で甲高い笑い声を立てられ、ハクアは顔をしかめる。これは体裁のいい尋問だ。これからは例え命落とすことになっても、一言も口にすまいと固く誓った。
「せっちんはやっぱり寺田君一択よね?」
「わらわのことなどどうでもよいではないか」
せっちんはもじもじと手をいじっている。会話の輪の外に置かれるのもなかなか苦しいものである。ハクアはじくじたる思いを隠そうと躍起になり、険しい表情で黒板をにらんでいた。
「やさしい男もいいけど、優柔不断なのはイヤよね。レストランでうだうだメニュー悩んでいる男見ると引くわー」
せっちんは頬を膨らませて反論する。
「ゆきひこはつよいおのこじゃ。わらわがほしょうする」
「ふふっ・・・・・、・寺田君も大変ねぇ。モテモテじゃない」
恋バナに花を咲かせる二人の間で、ハクアは所在なく座っていることしかできない。伊藤の自慢をしたくって仕方ない。水を向けられたら、うっかり喋ってしまいそうだ。
「私は年上かなー、経済力もあって余裕あるし、あっちの方もがっついてなくて、いたわってくれるもの」
「それでしっぱいしたくせに・・・・・・」
せっちんの一言に場は凍り付いた。ハクアは薫子の体温が上がったのを感じた。触らぬ神に祟りなし。
「いいの! 失敗は成功の母よ。次は失敗しないもの。ねえ、ハクアちゃんの”かいちろうさま”はどんな人?」
「ふえっ! ええと・・・・・・」
ハクアはしどろもどろになりながら、口を開いていた。
「か、嘉一郎さまは、吾輩のような不束者でも側に置いてくれる心の広い方です。背も高くて、吾輩いつも背伸びしないと顔も見ることができないですけど、それも苦になりません」
「へー、そうなんだー、イケメン? 紹介してよー」
薫子はハクアのわき腹を軽くくすぐった。すっかり打ち解けた空気になり、ハクアのガードも緩くなっていた。
「ひゃっ! ・・・・・・って、お前も会ったことある人ですよ、伊藤嘉一郎さま・・・・・・」
ハクアは自分の不手際を呪った。せっちんが、隠しきれない悦びの色をたたえて一歩前に体を乗り出している。
薫子たちは本当に伊藤とハクアが繋がっていることを知らなかった。ハクアはがっくりとうなだれた。
「・・・・・・、せっちんを狙ったのは、嘉一郎さまのお下知です。しかし、お前たちが嘉一郎さまに報復するのであれば、吾輩は今度こそ本気でお前たちを殺します」
薫子はハクアを抱く力を強めた。ハクアは目をつむり、それに耐えた。
「そんなに大事なのね、伊藤のことが」
「はい・・・・・・、キャストにとって”ゲスト”は命より大事な存在。ゆるがせにはできないです」
せっちんは、ハクアの目をじっとのぞきこんでいた。自身も思うところがあるのであろう。普段の不遜な態度はなりをひそめていた。
「最後に一つわからないことがあるんだけど、どうして私を執拗に狙ったの?」
ハクアは振り向きざま、大きな声で答える。 「お前が嘉一郎さまを、そ、そのデカパイで誘惑したのは知ってるです。とぼけたって無駄です」
薫子は、心当たりがなく返答に困った。
「あの、ハクアちゃん? 何かの誤解じゃないかしら、私、あの男のことはこれっぽちも好きじゃないわ」
「嘘です! そうやって雌豚はみんなすっとぼけるです。だから吾輩、現実を教えて差し上げようとがんばったですのに・・・・・・」
ハクアはじたばたと暴れた。薫子はゆりかごのように体を揺すって、ハクアの怒りを受け止める。
「みんなって、もしかして私以外にも何かしたの?」
「は、はじめはスカートめくりです。でもこれは効果が薄いとわかったので、爆弾の脅しに切り替えたですぅ。そしたら、だんだん歯止めがきかなくなって・・・・・・」
「あっちゃー・・・・・・」
遠回りしたが、今日の事件の真相には辿りついた。ハクアは嫉妬心からスカートめくりを繰り返していた。気持ちの暴走を抑えきれないことは誰にでもあるが、果たしてキャストはその規模が大きいのだろうか。
「ねえ、ターゲットはどうやって選んだの?」
薫子の質問にハクアは目を泳がせた。せっちんはそれを見逃さなかった。
「・・・・・・たまたま、嘉一郎さまの前に立った雌豚を処刑しただけですよ。お前の場合、男にパンツ見られるくらい何でもねえ痴女みたいですから、吾輩もヒートアップしたんですぅ。つまり吾輩は悪くないのです!」
ついに開き直るハクアに薫子はあきれかえったが、不明だった動機がわかり、少し胸のつかえが取れた。
「もう私の命を狙わないでって言っても、無駄なんでしょうね」
ハクアは首だけで振り返り、無邪気に笑う。 「当たり前ですぅ。今後、嘉一郎さまの前でメスのフェロモン振りまいて発情しやがったら、ミンチにしてやるから覚えておくですよ。それから、せっちん。吾輩、お前をあきらめたわけではありません。理由はわかっていると思いますが、キャストの責任ゆめゆめ忘れぬように」
せっちんは痛い部分を突かれて、体を背けた。
ハクアはぴょんと立ち上がり振り返ると、薫子に指を突きつける。
「次は華麗にリベンジしてやるです。今回は吾輩から矛を納めてやるですよ、感謝するです」
上からの譲歩に薫子は吹き出していた。
預かっていた衣装をハクアに返し、音楽室から解放した。
死闘を演じたとは思えないような、あどけないハクアの後ろ姿を見送った後。
「どういうつもりじゃ?」
せっちんが固い表情で、薫子を見下ろした。
薫子は正座に座り直していた。
「このおんがくしつをえらんだのは、ひめいがそとにもれないためだったのじゃろう?」
当初の予定では懲罰の意味も込め、ハクアを軽く拷問するつもりだった。ハクアのしたことは、度を過ぎて悪辣だったためだ。
「仕方ないじゃない。シリアルキラーとかならともかく、嫉妬が原因だったんだもの。同じ女として気持ちがわからなくもないかなあって・・・・・・」
せっちんは、黒板に拳を叩きつけた。薫子はびくっと首を縮めた。
「そなたはどこまでおろかなのじゃ? しにかけたのじゃぞ? しかもきのうのきょうで」
返す言葉もない。本来ならもっと怒りをぶつけるべきだったのかもしれない。しかし、デコレートされていない感情むき出しのハクアを責めることがどうしてもできなかった。まるで自身の恥部を鏡でのぞくような後ろめたさを感じた。
そればかりでなく、薫子には別の言い分もあった。
「・・・・・・あの娘、全然本気を出してなかったわ。あれ以上追いつめてたら、私も貴方も殺されてた。あれが落としどころだったのよ。わかってるでしょう?」
謎の存在、キャスト。彼らは人知を超えた力を秘めている。増え続ける謎を前にして、薫子は自分に出来ることを決断する。
「次にするべきことは決まったわ。伊藤の所に向かいましょう」
(*)
ハクアは音楽室を出て、そのままの足で伊藤のいる美術室に向かった。ノックせずに持っていた合い鍵で鍵を開け、中に入る。
「嘉一郎さまー、吾輩今日も身を粉にして働きました。お褒め遊ばせ!」
美術室には人っ子一人いなかった。ハクアはしかめ面をして、美術準備室の扉を開いた。
まずハクアの目に飛び込んできたのは女の裸体。床に広げたシーツの上で背を向け横座りしていた。処女を思わせるような白い背中は見るものに禁忌を呼び起こさせた。伊藤はその女の手前で、イーゼルを立てかけ絵筆を握っていた。部屋は、ロウソクの明かりで照らされ、神秘的な雰囲気を醸していた。
「ハクア、お帰り。もうすぐ済みますから少し待っていてください」
程なくして筆を置いた伊藤はモデルとなっていた女の側にしゃがみ込み、一分ほど小声で懇ろに会話をしていた。その間、伊藤と女はずっと手を重ねている。
女が制服を着て部屋を出ていっても、伊藤はハクアの存在を忘れたかのように、道具を片づけていた。
「あ、あの嘉一郎さま?」
放置されたハクアは不安に耐えられなくなり、伊藤の背中に恐る恐る声をかける。
「首尾はどうでしたか? ハクア」
ハクアは喉を鳴らした。伊藤の低い声には怒りが滲んでいる。
伊藤は全てを把握していると確信したハクアは、取り繕うことを忘れ、ありのままを報告する。
「一旦、せっちんを捕捉いたしましたものの、美堂薫子の予想外の妨害にあい・・・・・・」
「”辞典”は使わなかったでしょうね?」
伊藤は、石膏像の側の机の上に置いてある、表紙に楔型文字の彫られた辞典に目をやった。
「と、当然ですぅ! 人間相手にキャストの能力使うなんて恥知らずも甚だしいです。あはは・・・・・・」
すんでの所で本気を出そうとした等と言えるはずもなく、ハクアは誤魔化すことに専念する。
「つ、次こそ必ずやせっちんを捕らえてみせます」
「それはいいのですがハクア・・・・・・」
その時、伊藤が振り向いた。ハクアは彼のガラス玉のような瞳に射すくめられ、汗が吹き出すのを感じた。
「僕は美堂薫子を殺せと命じた覚えはありませんが?」
命令をないがしろにしてまで薫子殺害を強硬したのは、ハクアの独断だ。薫子はニーナ、ナノと接触し、いよいよ学校の深奥に足を踏み入れつつある。野放しにすれば、伊藤の妨げになると考えたのだ。などと、立派な建前は用意していたものの、彼女を突き動かすのはやはり嫉妬というドス黒い感情だったのは言うまでもない。
「お言葉ですが嘉一郎さま、あの女は危険です。あれはまるで見境のない獣。放置すればその牙、嘉一郎さまに届きかねません」
伊藤はハクアとは対照的に落ち着いた様子だった。やわらかく微笑む。
「だからこそいいんじゃありませんか。手綱を握れば実に頼もしい」
「はぅぅ・・・・・・、それはまさか・・・・・・」
ハクアの悪い予感を裏書きするように、伊藤は完成した絵を愛しそうに眺めていた。