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せっちん!  作者: 濱野乱
澪標編
68/97

わんおぺ(前編)

美堂薫子の現在の業務は、コールセンターのオペレーターである。顧客からの製品の疑問、クレームに対応する。


営業と違って、顔と顔を突き合わせることはないが、理不尽な要求、こちらに落ち度がないにも関わらず、謝罪を要求されたりとストレスは甚大だ。長く続かず辞める者も少なくない。

 

「おたくの、消臭剤、うちのまさる君(犬)がエサと間違えて食べちゃったんだけど。慰謝料頂けます?」

 四十代主婦からの苦情。

 

 「芳香剤、こ、股間に入れておくと、ど、どんな臭いがするのかなっ!?」

 三十代無職男性からの質問(?)

 

 「君いくつ? 結婚しないの?」

 六十代自営業男性からの薫子に対するクレーム

 


 どいつもこいつも、

 

 「大変ご迷惑をおかけしております。お客様の貴重なご意見を参考に……、製品の改良に努めて参ります。あと私の彼氏は電通マンです(嘘)」

 

 死んでしまえ。


酒が切れたら、死ぬのだろうか。休肝日にするつもりだったが、怖くなる。まるで、燃料が切れたように体の芯が心許なくなった。


とりあえず酒を飲むために、薫子はバッグを掴み、昨日着ていたグレーのスーツ姿のまま自宅アパートの部屋の外に踏み出していた。


昨夜、化粧を落としていない。少し肌がひきつる感じがする。

階段を降りるとアパートの管理人と鉢合わせする。顔をよく見られないうちに素早く挨拶し、その場を離れた。


女としての矜恃が中途半端に残っていることに、薫子は内心驚いた。まずはネットカフェでシャワーを浴びることを決める。


六月の日差しは夏に引けを取らない。湿度も高く、不快な汗が肌を伝う。

 幾つかの角を曲がっ近所の寺の境内には、青々とした紫陽花の葉の陰に蝸牛が這っていた。

苦い記憶が舌先に蘇る。紫陽花は嫌いだ。


駅前のビル内にある漫画喫茶でシャワーを浴び、ネットサーフィンと少女漫画で時間を潰していると、十一時近くになった。酒が切れると手足が重く、気だるい。何も考えられなくなってくる。


足を投げ出し、漫画コーナーのソファに腰を沈めていると、通りがかった不特定多数の男の視線を幾度も感じた。薫子が手を振ると、どいつもこいつも目を逸らす。


雄をからかうのにも飽きると体に鞭をうち、立ち上がる。目の下にできたくまを隠すように化粧を済ませ、洞窟のような縦に細長い暗い店内から入り口へ。


受付の小さい女の子に、お愛想を言ってからエレベーターに乗り込む。


その子はきらびやかな銀髪を両脇おさげにし、大きめのロイド眼鏡の奥には、スミレ色のつぶらな瞳、色白の肌をした北欧妖精を絵に描いたような年端もいかない少女だ。


彼女は受付だけでなく客が去った後のブース席を手際よく清掃したり、簡単な料理を提供して小さな体を酷使していたのだった。


「はうぅ、ご利用ありがとうございました。またのお越しをお待ちしてるですぅ」


薫子は気持ちよくビルを出て、大きく腕を伸ばした。

 「さあ、酒飲もう」

精神の退行は容易に正されず、糸の切れた人形のように灰色の街を彷徨う。小腹も空いたので、ついでにしっかり食べておきたい。


行き先も決めずに新宿線の電車に乗り込む。平日ということもあり、座るのは難しくない。


高校生とおぼしき制服姿の男女が、薫子の向かいに座っていた。

「いいだろ? いいだろ?」

面長の少年が、少女に顔を近づけ言い寄っている。

「うん、うん」


少女は携帯電話に目を落としたまま、曖昧に頷いている。黒髪の清楚な子だ。

 薫子は、することもないので二人を観察していた。

 二駅通過し、少年の方が名残惜しそうに席を立った。少女は携帯を持ったまま反対の手を振って見送った。

 再び電車が軋み、発車する。

 「何で助けてくれなかったの? オバサン」

 少女が携帯から顔を上げ突如、薫子をにらんだ。

 「バカップルにしか見えなかったわよ。邪魔しちゃ悪いと思って」


少女はローファーを脱いで、長椅子にあぐらをかいた。


「冗談言わないでください。あんま冷たくして、学校で変な噂流されても困るじゃん。ちょっとやさしくしたらすぐ気があると思ってやんの。ほんとうぜー、男子」


いっぱしに毒をはく少女に、薫子は同意するように笑った。

「若い子も大変ね。男は馬鹿だからね、オバサンに免じて許してあげて」


少女は、ふんと、たくましく胸を張ると次の駅で降りた。人混みの中でも携帯を持ったまま人とぶつからずすいすい歩いている。薫子は感心していた。


ふと自分の学生時代を思いだし、慌てて記憶に蓋をした。思い出が慰めになるとは限らない。


新宿で降りて、飲み屋のありそうな路地を入る。ラブホ街では真っ昼間から、訳有りそうな男女が身を寄せあっている。 


年の差のあるカップル。特に男が年上の場合を見かけると反吐が出そうになる。


寂しいだけだろ。お前らは。愚かなつがいめ。


焼き鳥の匂いを風上から受け、まっすぐパンプスを振り下ろす。


古い店構えの焼き鳥屋は、店内で日本料理も出しているようだ。

対面式のカウンターで、薫子は豚の角煮とお冷を頼んだ。埃が少なからず舞っていたが、見て見ぬ振りをした。

まず水を出されたが口をつけず、酒で喉を潤す。


食道から、胃に活力がそそぎ込まれる。脳髄は冷え、冴え渡る。もちろん錯覚で、視界に靄のヴェールがかかっているのが状態化していた。


良い吟醸があると店主に勧められるまま薫子は杯を重ねる。会計も、帰りの足も考えない。野放図な飲酒。止める者はおらず、気ままな千鳥は羽を広げる。


「たのもう」

そんな折り、極楽気分の薫子を現実に引き戻すように、重々しく引き戸が開けられた。


ガーリーな巻き髪をした幼い女の子が日光を背にしている。格子柄の着物に身の丈に合わない金細工の凝った作りの大振りの太刀を下げている。

 「何にしやしょう」

 「ねぎま! まずは、さんぼん」

 「へい」

 鉢巻をした店主は、舌足らずな女の子の要求を遂行する。串に切った鶏肉とネギを差し、壷のタレにつけてから焼き始めた。

 食欲をそそる、醤油ベースの香りに薫子は唾を飲み込む。

 幼女は、薫子の隣に座った。椅子が高いので、雪駄を履いた足をぶらぶらさせている。刀は、床に置いてある。

 薫子は、コップの底に残る酒の残りかすを音を立てて啜った。意地汚いがどうせ誰も気に留めないだろう。


「ここは、子供の来るところじゃないわ」

幼女は待ちきれなくなったのかカウンターから首を伸ばして、焼き鳥の匂いに鼻を鳴らしている。


「それはちがうぞ。そなたが、ここにくるべきではないのじゃ」

 薫子は、コップを叩きつけるようにカウンターに置いた。

 「もうたくさんよ。貴女たち、一体なんなの? これ以上、私に付きまとわないで」

 幼女は、薄く笑う。

 「わらわには、そんなつもりはないがの。そなたが、のぞみ、”るーらー”がのぞんだ。それだけのこと」 

 薫子は、酒に手を伸ばそうとしてコップを床に落とした。

 ガラスが割れる音に、店主が小さく舌打ちする。

 「私が何をしたっていうのよ!」


幻影につきまとわれては、仕事もろくにこなせない。いくら酒に態勢があっても、螺々の言った通りいつかは破綻をきたすだろう。


「いいや。そなたは、なにをなすべきかしっておる。むろん、これまでなにをしたのかもな。かいしゃにいくがいい。まだしゅうぎょうじかんじゃぞ」

 せっちんは、正論を交えて煙に巻く。

もっと酒びたりにならなければと、瓶を振るが一滴も残っていなかった。

焼き鳥が並べられる頃には、せっちんの姿はなく、薫子が腹に収めた。こげついて苦い。

二人分の料金を支払い店を後にし、駅に向けて歩き出す。表通りを出た所、子供を乗せた母親に自転車で追い越される。


「うぐっ……!?」

薫子は片手で口元を覆い、もう片方の手を電柱についた。胸焼けと頭痛が交互に襲いかかってくる。立っているのも耐えがたく、手近なコンビニに駆け込んだ。


「いらっしゃいませぇ」


青と白の縞の制服を着た、銀髪おさげの幼女が愛想よく出迎える。薫子がカウンターに手をつくと、彼女は眼鏡を光らせた。

「ト、トイレ、借りたいんですけど……」

「こっちですぅ」


幼女に個室に案内されるやいなや、薫子は便器に顔を突っ込んだ。胃の中には焼き鳥以外入っていなかったらしく、何度かえずくと胸焼けはしだいに治まってきた。


鏡の前に立ち、苦笑いが漏れる。

化粧でごまかしても、肌の黄ばみは隠せなくなってきた。


「これじゃ、オバサンって言われるわけだわ」

現実逃避のために、店内で缶ビールとするめを掴み、カウンターへ向かう。


「いらっしゃいませぇ、三百四十七円になりますですぅ」

「え、っと……」


財布を漁るが目がぼやけ、小銭を取り出すのに手間取る。大きいのは一万円札しかない。できれば小銭で払いたかった。


「ちょっと、早くしてくれませんかぁ」

薫子の背後でスーツ姿の狐目の女がせき立てる。新卒なのか、まだメイクが派手であった。彼女の背後にさらに列ができている。店員のいるレジは一つしかないため、非難ごもっともであった。


「す、すみません」

焦れば、小銭を見つける手練が上達するわけでもなく、手が滑って、硬貨が散らばった。 

「どんくさいんだよ、オバサン」

硬貨を拾っていると、携帯のカメラで撮影された。フラッシュの光は、薫子に十分過ぎる屈辱を与えた。上体をゆらりと起こす。

「撮ってんじゃねえよ。何様だ」

「は? 人に迷惑かけてんのそっちでしょ」

「口の利き方に気をつけろ。来いよ、新人教育してやる」


薫子は携帯を持った女の肩を掴んで、軽々と床に引き倒した。尻餅をついた相手の顔は恐怖でひきつり、悲鳴を上げようとしたのか弱い吐息が漏れた。


「はうぅ……、店で騒ぎは困りますぅ。おまわりさんに電話ですぅ」


事の推移を静観していた店員が、固定電話の受話器に素早く飛びついた。

薫子は、公僕を匂わせる一言に振り上げた拳を下ろさざるを得なかった。


もう自分は公衆の目前で軽率な行動を取る学生気分の新人社員ではない。社会的責任を担う大人という自覚が、彼女の自制心を呼び覚ました。


「え、えっと、ごめんなさい!」

薫子は喧嘩相手の女にあたふたと頭を下げると、わき目も振らず店を飛び出した。


万一警察の取り調べを受ければ、解雇される可能性もある。欠勤している間に酒を飲み暴れていたとなれば、言い訳のしようがない。防犯カメラに暴行の一部始終も映っているだろうし、気が動転した。


遠くに逃げるつもりが、走れば吐き気がぶり返してくる。

歩いて五分ほどの公園が限界だった。ベンチに座り、頭を抱える。


「やべー、バッグ忘れた……高いのに」

枝だけになったやせっぽっち桜の陰で、薫子は嘆いた。


会社を休んだことを今更ながら後悔した。普段通り宇田ちゃんたちと適当にクレーム処理をし、ランチに興じるべきだったのだ。

 「ほい、忘れ物!」


薫子の膝に、見慣れた黒のブランドバッグが放り投げられた。


バッグを投げたのは、セーラー服姿の少女だった。ついでとばかりにペットボトルの水を押しつけられる。


「一応礼を言うわ。でも、酒以外受け付けないから」

「真昼間からひでえ顔色だな。休肝日にするんじゃなかったのか」


「別に貴女に約束したわけじゃない」

公園の前を走り抜ける救急車のサイレンに身をすくめた。


「相手も大事にするつもりはなかったらしい。警察は来ないよ」

 胸をなで下ろす。最後の砦を失う危機はとりあえず去った。

「それはともかく何で私についてくるのよ」

「君に張り付いていれば、何か起きると思ってね」


薫子は一度気持ちを落ち着けようと、深呼吸した。


「せっちんに会ったわ。あの子はいわゆるキャラクターじゃないの? それが一人歩きしているのはおかしいわ」 

「ほう、早速収穫があったみたいだな。だから昨日言っただろう。フィクションがリアルを凌駕したと」


それが薫子には、理解できない。たがが芝居、あの男は確かにそう言った。


「今回の場合、キャストがリアルで、君がフィクションになっているみたいだ」

「ごめん、何言ってるかわからない」

 螺々は根強く薫子を説こうとするが、真意が伝わらず、歯がゆそうだった。 

 「ハクアを覚えているだろう」

 忘れようとしても、あの食わせもの娘を忘れることはできない。薫子は頷いた。

 「あいつが一度死んでも、世界を跨ぐと復活していたのを覚えているか?」

 「ああ、ええ。ゲームのリトライみたいなものよ」

 ふと、人生のやり直しがきくなら、何をするか想像する。婚約者とよりを戻すか、それとも不倫を回避できたか。だが、どの選択肢を選んでもここに至るような気がした。

 「でもここは、芝居でもゲームでもない。やり直しはきかないわ」

 「できるとしたら?」

螺々は切迫した表情で薫子に詰め寄る。


「それこそが、支配者の真の目的かもしれん。これまでのことが真実を闇に葬るための布石だとしたら」


薫子は取り合わず、ベンチを立った。

「どっちでもいいわよ。現実でも芝居でも。今日の次は明日が来る。私にとっては、それで十分だから」


「そうか。ならお前、試しに死んでみるか?」

唐突に、螺々はペットボトルを薫子の顔面に向けて投げた。ペットボトルの内側では水が渦潮を巻いており、圧力差で容器が破裂した。

 「……っ!」

顔に破片が刺さることは避けられたが、頭から冷たい水を被った。


「一つ実験に付き合ってもらおうか、美堂薫子。私が学究の徒であることは知っているだろう。気になったことは確かめずにはいられない性分でね」

あの娘と見まがう可憐さと強引さで、螺々はにじりよる。


「ま、待ってよ。あんた、キャスト能力を使う気? あんなのペテンだわ。ここは現実……」


薫子の鼻先に風圧。廻転を加えられた空き缶が真正面から迫る。

横っ飛びでかわし、木の陰に身を潜めた。

「ハラショー。アル中にしては動くじゃないか。だが、次は外さない」


子気味よく笑った螺々は小石を拾い、狙いを定める。


薫子は迷わず木から飛び出し、パンプスを片方ずつ螺々に投げつけ前進した。飛び道具の威力を何倍にも高める廻転能力なら距離を取るだけ不利になる。

パンプスは、弾幕の代わりにはなったものの、見えない壁に弾かれる。

薫子は、構わず突進する。靴を脱いで、地面を踏みしめる感触に知らず順応し始めていた。


「そうこなくっちゃ。久しぶりに暴れるかな」

心底楽しそうに螺々は拳に力を込めた。

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