鏡(中編)
伊藤は、余裕の笑みを崩さなかった。薫子がいくら威圧しても、表情に全く変化がない。
だがこれはおかしい。訓練すれば感情を表面に出さないことは、ある程度可能だろう。しかし、いくら訓練を積もうとも人間である以上、完璧に感情を押さえ込むことは不可能だ。例えば毛穴から発する汗から、口からのぞく舌の動きから、如実に感情は漏れだしてしまう。
職業柄、どんな些細な機微だろうと見逃さないと自負していた薫子に動揺が走る。
「いい殺気です、美堂さん」
口を開くタイミングを見計らっていた薫子をあざ笑うように、伊藤は機先を制した。
「それが君の本当の顔でしたか。出会えて光栄です」
薫子は、胃の奥を鷲掴みにされたような奇妙な感覚に捕らわれた。ボールペンを握る手に力がこもる。
「私のことはどうでもいいんです。それより質問に答えてください」
「ええ、どうぞなんなりと」
自分に有利な状況は、依然変わらない。薫子は、鼓舞するように心の内で言い聞かせた。
「西野さんのスカートを覗いたのは本当ですか?」
今朝から何度もされた質問だったのだろう。伊藤は淀みなく答える。
「それは誤解ですよ、美堂さん。僕は西野さんとも、他の二人の被害者とされる女子生徒とも無関係です」
「三人が嘘をついていると?」
「そう思ってもらうしかありませんね。僕も困惑しているんですよ、この事態にね」
そう言う割に楽しんでいるように見えた。
薫子は、ボールペンを持つ手を伊藤から離した。この男は、脅しに屈しないと思ったのだ。
「美堂さん、君が気になっているのは僕と西野さんの個人的な関係では?」
主導権を握られるのはおもしろくなかったが、話を聞けるなら願ったりだ。好きにさせてやろう。
「西野さんの中学校時代、僕は彼女の家庭教師をしていました」
「・・・・・・家庭教師?」
「ええ。こう言っては何ですが、彼女はもっと偏差値の高い高校に進学したはずだったんですよ。僕は先月赴任したばかりで、この学校に彼女がいるとは夢にも思いませんでした」
伊藤の言い回しにひっかかりを覚えながらも、薫子は陽菜と伊藤の接点を知り、ますます気持ちが高ぶるのを感じた。
「西野さんは貴方と久しぶりに会った時、どういう反応を示しましたか?」
伊藤は瞳を少し上に動かした。
「あまり良い顔はされませんでしたよ。僕は彼女にとって、過去の汚点でしょうから」
「それはどういう意味ですか?」
薫子は、伊藤の情報を小出しにするやり方に苛立ちを募らせ、訊ねた。
「かつて西野さんは、僕に一方的な想いを寄せていたんです」
過去に何かあったと示唆するようにどこか誇らしげに語った。
にわかに信じがたい情報に薫子は、不審感を露わにする。
「それが事実なら、西野さんは何故貴方を陥れるような真似をするんですか?」
「さあ・・・・・・・、プライドの高い彼女のことですから、袖にされた相手の顔を見たくなかったのかもしれませんね。僕の方は彼女に生徒以上の感情を持ってないのですが」
次の質問をしようとしたが、伊藤に遮られる。
「美堂さん、もうよろしいですか? これでも嫌疑のかかった身ですので、君とトイレにいることが知られるのは好ましくありません」
「あっ・・・・・・、はい」
薫子は、すばやく身を引いた。
「まだ聞きたいことがあれば職員室まで来てください。僕は逃げも隠れもしません。それでは」
伊藤は、颯爽とトイレを後にする。薫子はしばらくそのまま立ち尽くしていた。
トイレを出た薫子はとぼとぼと廊下を移動した。
陽菜に関することで、伊藤が嘘をついていないとするならば、逆説的に陽菜の罪状が濃厚になってしまう気がする。
陽菜は、昨日の美術の授業をサボタージュした。伊藤の話を聞いた今だからこそ、彼女がよからぬ想いを彼に抱いていたという風に捉えられなくもない。
陽菜が伊藤の冤罪を仕立て上げたと仮定すると、しっくりくるように思えてならないのだ。
だとすると、後の被害者の二人はどうなのか。彼女たちは共犯だったのか。だが、あの二人は、同じ手口でスカートをめくられている。陽菜だけは違う。手口を共通にしない理由はなんなのか。真実は果たして詳らかにされるべきなのだろうか。
考えれば考えるほど、薫子の足は重くなっていく。陽菜に話を聞きたいが、今度こそ彼女との関係に決定的な亀裂を及ぼすのではないかと、踏み切れない。
中庭に戻ると、ラジコンで遊んでいた少女がいなくなっていた。代わりに中庭のベンチに座っていたのは、幸彦とせっちんであった。
せっちんは幸彦の膝の上に乗って、たこ焼きを食べていた。薫子が近づくと、口をもごもごさせていた。
「あ・・・・・・、美堂さん。平気だった?」
薫子は黙って幸彦の背後から首に手を回す。そのまま顎を幸彦の頭に乗せた。
「美堂さん?」
幸彦はうわずった声を上げる。せっちんはしかつめらしい顔つきをした。
ややあって、
「ごめん、美堂さん」
「どうして貴方が謝るの?」
幸彦は申し訳なさそうに肩を丸める。
「西野のこと。怒ってるよね?」
「ん、まあ、反抗期って誰にでもあるわよ」
反抗期と呼ぶべきものかわからないが、便宜的にそう呼ぶことにした。陽菜の反抗期。
「寺田君は、陽菜と一緒にいて疲れない?」
せっちんは、一人でたこ焼きをほおばっている。幸彦はその様子を目を細めて眺めていた。
「僕、思うんだ。他人同士が一緒にいるって、すごい奇跡なんじゃないかな」
「はいはい、お熱いこって。ごちそうさま」
薫子のやっかみに対し、幸彦は寂しそうに笑う。
「僕と西野はそういうんじゃないから」
薫子は幸彦の煮えきらない態度に反発しようかと思ったが、彼の真摯な話し方にその思いも萎んだ。
たこ焼きを食べ終わったせっちんが振り返る。口をソースで真っ黒にしている。幸彦はその口をハンカチで拭いていてあげた。
二人の仲むつまじい姿に後押しされるように、薫子は気持ちを固めた。
「私、やっぱり陽菜と話してみる。後悔しないために」
幸彦はほっとしたように頷いた。
「そうした方がいいよ。西野もきっと気にしてると思うから」
話の輪に加わらなかったせっちんが幸彦の膝から下りて、中庭を走り回る。
その姿に、先ほどのラジコン少女の面影が重なった。
「ねえ、寺田君。話は変わるけれど、ここにせっちんくらいの女の子いなかった?」
「いや、僕らがここに来た時は誰もいなかったけど。その子がどうかしたの?」
「いえ・・・・・・、見てないならいいの。大したことじゃないから」
その時、せっちんが何かを抱えて薫子たちのいるベンチに戻ってきた。見ると、先ほどの銀髪の少女が遊んでいたラジコンカーである。
「せっちん、どうしたの? それ」
幸彦が訊ねると背後を指すせっちん。
「あっちに、おちとった」
薫子はせっちんの側まで歩いて行き、ラジコンカーを取り上げる。
「これの持ち主知ってるわ。私が返しといてあげる」
「ああっ・・・・・・! かえせー」
せっちんのことだから落とし物は自分のものにしてしまうに違いない。持ち主が不憫だ。
「かえせって貴方のものじゃないでしょう? どうせ壊しちゃうんだから、私が預かって・・・・・・」
薫子は耳を澄ませた。時計の針が動く音がわずかにする。薫子の腕時計の音ではない。幸彦のものかもしれないが、せっちんが近づいてきたタイミングで、鳴ったということから導き出される結論は何だ?
「寺田君! 校舎に走って! 急いで!」
必死の形相で薫子は叫ぶと、ラジコンカーを地面に置いた。せっちんを小脇に抱えて、校舎まで猛烈な勢いで走り出した。やや遅れて、幸彦が続く。
次の瞬間、ラジコンカーが膨張したかと思うと破裂し、火を吹き、破片をばらまいた。生じた高熱は辺り一帯を焼き払った。
それから一瞬遅れて、窓ガラスが震える轟音と爆風。衝撃に煽られて、幸彦はうつ伏せに倒れた。
「寺田君!」
薫子が駆け寄ると、幸彦は肘で起き上がり、健全をアピールした。
薫子は奥歯を噛みしめ、辺りを素早くうかがったが、複数の人間が集まってくる気配がするばかりで、索敵はあきらめざるを得なかった。
「寺田君、悪いけれど、私とせっちんは事情を探られるとまずい立場にあるわ。私たちは、ここにいなかったことにしてくれる?」
「う、うん・・・・・・」
薫子は早口で伝えると、せっちんを抱き人目につかないように移動した。
取り残された幸彦は、原型を留めないベンチの燃えカスを眺め、呆然としていた。
その幸彦の姿を、二階女子トイレの窓から見下ろす人物がいた。
「はぅぅ、残念・・・・・・、爆殺失敗ですぅ」
ハクアは小さなリモコンスイッチを手でもてあそびながら、己の失敗を嘆いた。ラジコンカーに爆弾を仕込んだのは彼女だった。
「計画の邪魔になる美堂薫子を排除し、不慮の事故としてついでに、せっちんを消そうと思ったのに・・・・・・。吾輩の計略に気づくとは、いやはや野生の勘って奴ですかね」
ハクアは鼻を鳴らすと、窓から離れてトイレの出口に向かった。
「二人一遍に片づけるのはやはり無理がありますね。それでは本末転倒になりかねません。約束通りせっちんは生かして連れていくことにしましょう。美堂薫子は、さて、どうしてやりましょうか」
眼鏡の奥の瞳が妖しく光る。彼女は伊藤の前では決してしない嗜虐的な笑みを浮かべた。
「天罰覿面。嘉一郎さまに近づく女は、一人残らず吾輩が駆除するのです。ふふふ・・・・・・」
(*)
三十分もしないうちに地元警察が到着し、実況検分を開始した。
薫子とせっちんは、うまく逃げおおせた。爆弾の音に混乱した状況で薫子は何食わぬ顔でクラスにとけ込み、せっちんは姿を隠した。
幸彦は事情を聞かれたらしいが、本当に何も知らないのですぐに解放された。
午後の授業は当然、全て延期され生徒たちは一斉に帰宅を余儀なくされた。犯行声明などは出されておらず、不気味な事件だった。
幸彦と薫子は、せっちんのトイレに来たが肝心のせっちんの姿は見あたらない。幸彦が呼びかけるが、一向に出てこない。
薫子は、せっちん像の隅にかけていた眼鏡を置いた。
「私は学校に残るわ」
「どうして!?」
薫子の迷いのない態度を非難するように、幸彦は声を荒らげる。
「駄目だよ、美堂さん! どうしてそうやって面倒事に首を突っ込みたがるんだよ。犯人がまだ学校にいるかわからないし、会社の命令だからって命まで賭けることないじゃないか!」
「ううん、そういうことじゃないの」
薫子は校舎を見上げた。犯人は恐らくまだ校内のどこかにいる。爆発の瞬間、薫子はありありと自分に対する敵意を感じ取った。薫子が犯人を捜せば、必ずまたアクションを起こしてくるだろう。
丸岡高校の校舎は、聞けば建てられて、まだ十年あまりだという。異臭だけではなく、爆弾まで仕掛けられるとは、不遇ここに極まれりといった感じだ。
「個人的な・・・・・・、問題よ。貴方に関係ないわ」
「そういう言い方はないよ。美堂さん」
幸彦も頑として譲らない。薫子は時間の無駄を避けるべく歩きだそうとした。
「僕たち協力者じゃなかったのかよ!」
薫子はびっくりして立ち止まった。幸彦は薫子の両肩を強く掴んだ。意外と力がある。
「美堂さんはいつもそうだ。勝手に一人で何でもやろうとする」
薫子もムキになって、反論する。
「だって! 仕方ないじゃない。私なら犯人を捕まえられるもの」
「それが無理だって言ってるんだよ! 爆弾持っている相手に立ち向かうなんて無茶だ」
「無茶でもやるのよ、ぐずぐずしてたらまた被害が出るかもしれないわ」
薫子も恐ろしくないと言えば嘘になる。平気で爆弾を使い、関係もない人間を巻き込む相手とどう戦えばいいのか見当もつかない。
「わかった。僕も一緒に行く」
幸彦の思い切りのよさに、唖然とする薫子。
「どうしてそういう結論になるのよ。貴方は足手まといになるわ、ついてこないで」
「いやだ」
薫子は幸彦のことを全く理解しきれなかった。言葉が通じていないような感覚だった。彼がこうまで融通がきかない男だとは思わなかったのである。
幸彦は絞り出すようにこう言った。
「目の前から大切な人がいなくなるのは、もうたくさんなんだ」
その時、薫子の脳裏に浮かんだのは、寮で言われたせっちんの言葉だった。
「ひとりでいることはつよいということではない。そなたは、がんばりすぎじゃ」
あの時は冷静に受け止めることができなかったが、今なら理解することができた。
薫子は肩に乗せられた幸彦の手に手を重ねた。
「ありがとう、寺田君。貴方の気持ちは伝わったわ」
幸彦は要求が受け入れられたと思い、安堵の表情を浮かべた。しかし、
「でも私、学校に残る。せっちんを一人にしておくのは危険だわ」
「っ・・・・・・!? せっちんは僕が探しに行くよ、それでいいだろ?」
いいえと薫子は首を横に振る。
「貴方があの時、中庭にいたこと警察は不審に思ってるわ。余計なことはしない方がいい」
「余計なことなんて・・・・・・」
「せっちんを探してくるだけだから、無茶なことはしないわ」
薫子の決意に抗えないと悟ったのか、幸彦は小さい声で聞き返す。
「本当? 本当だね?」
「ええ、私を信じて。必ずせっちんを連れて戻ってくるから」
(*)
校内は警察官が巡回している。当然ながら彼らを避けて進まなければならない。
薫子は昇降口で柱の陰から石を投げた。注意をそらした警官の死角を縫うように校舎に入ると、靴を脱ぎ靴下のまま、廊下を走った。
当てがあったわけではない。ただ動いていれば気持ちが落ち着いた。本能のまま行動しているが、向こう見ずな気持ちはなかった。幸彦との約束は薫子に不思議な効果を及ぼしていた。生きて帰るという楔は彼女をより強くした。
一階階段で薫子は立ち止まった。しゃがみ込み四つん這いになると、階段の一段目隅に鼻を近づけた。かすかだが、化学薬品の臭いがする。
薫子は表情を引き締め階段を上るか考えた。これは犯人が意図せず残した痕跡なのか、それとも罠なのか。
考えたところで、進むしか選択肢はない。薫子は一気に階段を駆け上がった。二階に着くと汗を拭った。
ここまで何も起こらなかったのが、不気味に思えてきた。もしや自分の考え過ぎだったのだろうか。犯人がとっくに学校を出ていたとしたら。犯人の標的が例えば誰でもよかったとしたら。
しかし、中庭で感じた明確な殺意は薫子の足を動かすのに十分であった。
二階の探索をするべく曲がり角から顔を少しだけ出した薫子は、奇妙な場面を目撃した。 伊藤と、一人の女子生徒が美術室の前にいた。女子生徒の方は、伊藤の陰になり足しか見えない。二人はすぐに美術室に入って鍵をかけてしまった。
普段なら、大して気にも留めないようなことが奇異に感じられ、薫子はしばし爆弾のことを忘れ、縛られたようにその場から動けなかった。
「あのぉ・・・・・・」
背後に気配を感じ、素早く振り返る。そこにいたのは四角い学帽の少女であった。心底困りきったように眉を八の字にしていた。
「はうぅ・・・・・・、よかったですぅ!」
少女は薫子の胸に勢いよく飛び込んできた。何が起こったのかわからず、少女に押し倒されるように廊下に倒れた。
「お、お嬢ちゃん。どうしたの? こんなところにいたら危険じゃない」
「だ、だって、吾輩は・・・・・・」
少女は目に涙を浮かべて口ごもる。薫子は怖がらせないように笑顔を作る。
「私は美堂薫子。お嬢ちゃん、お名前は?」
「わ、吾輩の名前はハクアです・・・・・・迷子ですぅ」
ハクアからはほのかににフローラルの香りがした。香水のようだ。最近、薫子はどこかでこの匂いを嗅いだ気がしたが、思い出せなかった。
薫子はハクアを立ち上がらせ、目線の高さに腰を屈めた。
「貴方、さっきラジコンで遊んでた子でしょ?」
ハクアは、びっくりしたように目を大きく見開いた。
「え、ええ・・・・・・、近所に走らせる所がなかったものですから。黙って学校に入って申し訳ないです!」
ハクアは深く頭を下げた。薫子は得心し、その肩に手を置いた。
「今度から気をつけるようにね。迷子になったの? お姉ちゃんが外まで送ってあげる。一緒に行きましょうね」
「は、はいですぅ!」
ハクアは元気よく手を挙げた。
薫子は美術室を一瞥してから、元来た階段をハクアと下りた。
一階に人気はない。警官も捜査を終えて引き上げたのだろうか。
「ねえ、ハクアちゃん?」
「何ですぅ?」
ハクアは薫子の背後でジャケットの内ポケットに手を入れていた。
「警察のおじさんたちがたくさんいたのに、どうして助けを求めなかったのかしら?」
薫子が振り向くと、ハクアはジャケットから手を出し、何かを押しつけようとした。ナイフだろうが何だろうが体格が違いすぎる。いなして、戦闘不能にするつもりだった。
「がっ・・・・・・!?」
意識が消し飛びそうなほどの光の剣戟。薫子の腕に押し当てられたのはスタンガンである。ほんのわずか腕に触れただけで、体の自由が効かなくなる。すさまじい電圧。
意識が明滅した薫子だったが、何とかバックステップで、ハクアから距離をとった。
痺れの残る頭にハクアの冷たい声が響く。
「まだ意識があるですか? 象でも気絶する電圧ですのに、しぶとい女ですねぇ」
「な、なんで・・・・・・」
拳を握ろうとするが、指が曲がらない。視界も白んできた。ハクアがゆっくりと近づいてくる。
「しいて理由をあげるなら、お前が色気づいていたからですぅ」
ハクアは薫子の背後に回り込み、首筋に直接スタンガンを当てようとしたが、思いとどまった。
階段から、誰かが走り下りてくる音がしたのだ。それは薫子の耳にも届いていた。
「つくづく悪運の強い女ですね、でも吾輩良いことを思いつきました。はい、これどうぞ」
「?」
ハクアが薫子の手に握らせたものは、黒いリモコン。それは中庭で爆弾を起動させたスイッチだった。
「これでお前は、爆弾魔確定です。ついでにエゾテーのスパイであることもバレて社会的に抹殺されるといいですぅ」
「ま、待てこら・・・・・・」
感覚の戻りかけた左手でハクアの肩を掴む。ハクアはジャケットの内ポケットから小さなスプレー缶を出し、薫子の顔にまんべんなく吹きかけた。
「うぎゃああああああああ!?」
薫子は顔を押さえて、床をのたうち回った。毛穴の一つ一つを灼けつくような痛みが襲う。先ほどの電流など生やさしいほどの地獄。 「吾輩特製のハバネロスプレーです。その様子だと気に入ってもらえてなによりですぅ。それじゃ吾輩は失礼させてもらうのです」
ハクアのローファーの音が遠ざかり、階段を下りる足音が近づいてきた。
薫子は顔を押さえ、体を丸めることしかできなかった。終わった。自身の油断が招いた結果とはいえ、心が折れそうだった。
「ぶざまじゃの」
聞き覚えのある声が、薫子の真上で響いた。せっちんが鼻を押さえながら、階段から現れた。
薫子は、寝そべったまま嗚咽を漏らした。
「私もう、お嫁にいけないよー・・・・・・」
せっちんは黙って薫子の背をなで続けた。
(*)
一階西側奥の女子トイレに薫子はいた。顔を水で十分ほど冷やし、胃の中のものを全て吐き出して便器の側でぐったりと座り込んでいた。
薫子の顔は1、5倍ほど真っ赤に腫れ上がり元の人相がわからなくなっている。
手の届く範囲のものもほとんど見えず、嗅覚も麻痺してしまっていた。外気にさらされた肌はぴりぴりと痛む。
「やばいわ、これ。感覚がバカになっちゃった」
側にいるであろうせっちんに向けて、薫子は言った。声もしわがれていて、自分の声とは信じられなかった。
「てったいするのか?」
せっちんのもっともな提案に、薫子は弱々しい動きで首を横に振る。
「犯人の顔見ちゃったし、私が生きてるとわかれば、寮に爆弾を仕掛けられるわ。それならいっそここでケリをつけた方がいいと思う」
ハクアは、既に校内を脱した後かもしれない。捕らえるなら、一刻も早く動かなければならない。
立ち上がろうとしたが、よろけてせっちんに支えてもらう。
「じゃが、そのじょうたいで、たたかえるあいてか?」
「無理でしょうね。あの子は強い」
油断したとはいえ、薫子を簡単にあしらう相手だ。一筋縄ではいかない。満身創痍の状態で接触すれば今度こそ命はないだろう。
「ねえ、せっちん、あのハクアって子は”キャスト”なの?」
「さあて・・・・・・、わらわは、たんなる”わらべ”ゆえなにもしらぬ」
せっちんの声がかすかに上擦ったように感じた。
「あっそ・・・・・・」
昨夜遭遇した、ニーナとナノ。彼女たちの浮き世離れした雰囲気はハクアと共通していた。そしてせっちんとも。
今はまだ聞くべき時ではないのだろう。せっちんはいつかきっと話してくれる。薫子はせっちんを信じていた。
「ハクアは、私が色気づいてるのが気に食わないって言ってたわ、どういう意味なのかしら」
せっちんは、薫子のスカートをめくってまじまじと見つめた。生唾を飲み込む。
「ふしだらなおんなじゃとおもうたのかも」
「私が? ・・・・・・まあ匂いたつ色気は否定しないけどね」
冗談はさておき、ハクアの残したヒントを無視することはできない。彼女は愉快犯ではなかった。爆弾を始めとした凶器をふんだんに使い、薫子を確実に殺そうとしてきた。そこに感情のもつれがある以上、動機も限られてくる。
「私がエゾテーに勤めていることも知ってたけど、それが理由じゃない気がするわ」
「こじんてきなうらみではないのか? そなたがあやつになにかしたとか」
「うーん・・・・・・、今日初めて会ったし、話してすぐ、バトルになったし・・・・・・、ダメ! わからん」
話している時間が惜しくなり、薫子は話を打ち切った。そろそろと歩いてみたが、壁にぶつかるばかりで埒があかない。普段の生活で、視覚にどれほど頼っているか痛感させられた。
「わらわが”め”になろう」
薫子は、一メートルくらい背後からの声を頼もしく受け取った。せっちんを巻き込むことに良心の呵責を感じたが、彼女になら背中を任せることができそうだった。
「何かスイミーみたいね」
「すいみー?」
せっちんが薫子の手をしっかり握る。薫子も握り返す。
「魚を描いた絵本よ。今度読んであげる。多分図書室にあるから」
トイレを出た二人は壁に沿って、進んだ。校舎は警官はおろか、教師も出払ったかのような静けさである。美術室に伊藤はまだいるのだろうか。そしてあの女子生徒も。
「とりあえず、上に行ってみましょう。最上階まで連れてってくれる?」
「うむ」
初めは何もないところで躓きそうになったり、階段を上がるのにも時間を要した。
徐々になれてせっちんの手を借りずに歩くことができるようになった。
「にかいについたぞ」
薫子は苦い顔をしたが、せっちんには気づかれなかった。腫れ上がった顔に表情は目立たない。
「ここは・・・・・・、探さなくてもいいわ。上に行きましょう」
二階から三階に上がる階段を半分を過ぎた当たりで、薫子は突然足を止めた。
せっちんは、罠を警戒し気を張り巡らせた。
「大丈夫、せっちん。罠は仕掛けられてないわ」
薫子は薄く微笑んでいた。そして、せっちんの足下を指す。
「貴方の足下に画鋲が落ちてる。踏まないように気をつけて」
「う、うむ・・・・・・」
せっちんは驚愕して、足下の画鋲を拾った。
この時、薫子の視力は全くといっていいほど働いていなかった。逆に見ようとしないことで、新たな世界を貪欲に感じ取ろうとしていた。ハクアはあの時、薫子を殺せなかったことを後悔することになるだろう。薫子の中で、恐るべき怪物が目を覚まそうとしていたのだ。