鏡(前編)
薫子が獣に襲撃された早朝、伊藤嘉一郎はとあるトイレの壁を子細に調べていた。彼が今いるのは、校長が建設し、せっちんと幸彦が出会った場所でもある。壁の木の木目は滑らかで、柔軟性を兼ね備えていた。
伊藤は一切の衣服を纏っていなかった。時期は師走にもかかわらず、彼はわずかな身震いもしないできれいな姿勢を保っている。
「嘉一郎さまー」
伊藤は尻の筋肉をきゅっと上げて、トイレの外に出た。肌を刺すような一陣の風が吹いた。目を細め、肺腑に大きく空気を吸い込み、吐いた。
「良い朝です。そうは思いませんか、ハクア」
雑草茂る空き地にいたのは、四角い学帽を被った幼い少女だった。大きめのロイド眼鏡をかけ、長い銀髪を顔の両脇でおさげにしている。彼女は伊藤の姿を見た途端、地面を向いた。そのまま挨拶をする。
「おはようございます、嘉一郎さま」
「おはよう、ハクア」
二人は学校の敷地を散歩する。伊藤はハクアの持ってきた背広を着た。
「美堂薫子は死亡したようです。嘉一郎さまの読み通りですね」
ハクアは伊藤の一歩後ろ歩く。彼女の髪は陽光を反射してきらきらと瞬いていた。白いブラウスに紺のジャケット、膝丈より少し長いスカート、ローファーという姿は生真面目な学生のお手本のようだった。さらに小脇には、分厚い辞典のようなものを抱えている。表紙に楔形文字が金字で彫られていた。
「それはどうでしょうか」
ハクアは、抗議するように足を止めた。
「美堂薫子は己のキャストに喰い殺されたのです。吾輩、この目で確認しました故、間違いありません」
ハクアは早口でまくしたてたが、伊藤の顔を見上げて、興をそがれる。
「せっかちは、君の悪い癖です。その場に誰かいませんでしたか?」
ハクアは、大いにうろたえた。
「はうぅ……、せっちん、とかいう幼女がいましたけど」
「どうしてそれを早く言わないのです!」
伊藤は興奮した面もちで、ハクアの肩を強く掴んだ。
「か、関係ないと思ったです」
「その娘はキャストではないのですか?」
ハクアが首をひねる。
「キャストは基本的に本人と別行動することはできません。吾輩と嘉一郎さまのように一蓮托生なのです」
伊藤とハクアが離れて行動できるのは、約百メートル程度。他のキャストも同じルールが適用されていると二人は考えていた。
「せっちん某が、誰かのキャストだったとして、美堂薫子を助ける動機もなさそうですし、そもそもそんなことは絶対不可能です」
「理由は?」
ハクアは自慢げに胸を張る。
「キャストは本人の願望を反映した姿と能力を得ます。かといって、あまりに現実から剥離した能力は使えません。人を蘇らせる奇跡など起こせるはずがないのです」
果たしてそうだろうかと、伊藤は考えを巡らせた。キャストという霊のような存在自体、奇跡に等しい。
伊藤が知っているのは、ハクアが話したことと、ほぼ同じである。そしてキャストを発現するのは、何らかのトラウマを抱えていることが条件のようだ。
「嘉一郎さま、ずいぶんとご執心なようで」
ハクアが不服そうな目した。ハクアは従順で、おとなしい性格だが、嫉妬深い。
「少し興味が湧きました。ハクア、そのせっちんという娘を連れてきてくれませんか?」
ハクアはむっつりした顔をしたまま返事を渋った。頑固でへそを曲げると、始末に困る。変なところが自分と似ている。
伊藤は自分の気性を心得ていた。ハクアの耳元でそっとささやく。
「期待していますよ、僕の可愛いハクア」
ハクアは電流でも走ったように身を震わせた。
「はうぅ……、嘉一郎さま、吾輩、吾輩は……」
きゃー、と黄色い悲鳴を上げるとハクアはおさげを揺らして走り出した。しばらくして立ち止まり、元気に振り返る。
「吾輩が間違っておりました! 嘉一郎さまのご所望通り、空前絶後の作戦を展開し、せっちん某を生け捕りにして参ります。それでは!」
ハクアは小走りで、校舎の中へと入っていった。
「本当に可愛いなあ・・・・・・、扱いやすくて」
伊藤は微笑み、ハクアの背を見送った。
「キャストは本人を映す鏡。光と闇、表と裏。こう考えると、僕と彼女が出会ったのも必然だったのでしょうね」
(*)
この抱き枕は抱き心地がいい。
美堂薫子は、ベッドでせっちんの体を触ってそう思った。頬ずりすると、もちもちしていて吸いつくような肌をしている。首筋に鼻を近づけると、ほのかにお日様のような香りがする。かれこれ一時間はそうしていた。
せっちんは、何の反応も示さない。薫子はこれ幸いとばかり、嬉嬉としてイタズラを続けた。
「ああ・・・・・・、何て可愛い指してるのかしら。食べちゃお、えい!」
薫子は、せっちんの小指を口に含んだ。別に味はしなかったが、無性に落ち着いた。
薫子の体調は順調に回復していた。先ほど体温を計ったところ、平熱であったし、鏡で確認したところ、体に傷は見あたらなかった。
「本当、奇跡よね・・・・・・」
昨夜のことがまるで悪夢のようで、薫子は頭を整理するので精一杯であった。自分の肉体は一度死に、せっちんの力で生き返った。恐らくそれは間違いない。一体この小さな娘にどんな力が潜んでいるのか、薫子は畏怖を覚えると共にますます愛着も湧いていた。
時が過ぎるのも忘れて、薫子はベッドにいたが、時自体は彼女のことを忘れなかったようだ。
1999年、12月3日がいよいよ始まろうとしていた。
「大変だー!」
突然の怒号に、薫子は何事かと起きあがった。部屋の入り口にいたのは、来栖未来だった。何か話したくてうずうずしているようだ。していたマスクをうっとおしそうに取っている。
「何かあったの? 未来さん」
薫子はやけに落ち着き払って訊ねた。未来は息も整えるのも忘れたように急いで口を開いく。
「じ、事件だ、師匠」
「はあ、私はいつから名探偵になったのかな」
迎えが来たから、学校に行かなければならない。そういうものだ。
「あっ、未来さん、この娘を紹介するわ。せっちんよ」
薫子はベッドの隣を指したが、一人分のスペースが空いているだけだった。
未来は不思議そうな顔で、ベッドをのぞき込む。
「誰かそこにいるのか? 師匠」
「え? いや・・・・・・、えっと」
薫子がまごついていると、未来の背後にせっちんが立っているのに気づいた。一度無言で、ピースサインをすると、駆けていってしまった。
「あっ、待って・・・・・・!」
薫子はベッドから身を乗り出し落下した。未来が慌てて駆け寄り案じてくれた。
「大丈夫か? 師匠。具合でも悪いのか?」
「何でもないわ。未来さん、悪いけど廊下を見てきてくれる?」
未来は言われた通りに廊下に出たが、すぐに戻ってきた。
「誰もいなかったが、本当に大丈夫か? 師匠」
(*)
「伊藤嘉一郎が動き出したようだぜ」
ニーナとナノが、椅子に座って将棋を指していた。場所は丸岡高校の屋上のようだ。深い靄がかかり、視界はとことん悪い。
ニーナはボーダーのワンピースにパーカーを着てスニーカーを履いている。ナノは白い振り袖だった。
二人は学習机に将棋盤を置いていた。ニーナの番だが、熟考しているのか、盤面をにらんだまま動かない。旗色が悪いようだ。
ナノが急かすように、指で机を叩いた。ニーナはナノを一にらみしてから、将棋盤に目を戻す。
「うるせえよ、ナノ。気が散るだろ」
「伊藤が動いても、貴方が動かないんだもの。仕方ないでしょ」
ニーナはナノの顔色を伺いながら、駒を一つ動かした。
ナノの番になると、すかさず一手。眉一つ動かさない。
「王手」
「ま、待った・・・・・・」
ニーナは手で押しとどめようとしたが、ナノは受け入れない。
勝敗が決すると、二人は駒を再び並べなおした。将棋盤も駒も、使い込まれて変色している。
「伊藤がどう動こうが私たちに関係ない。あいつはあいつ」
ナノは話しながらでも、神経質なほどきれいに駒を並べた。
ニーナは場所だけあっていればと、ひょいひょいと置く。
「そんなことより、美堂薫子は何故死ななかったの? ニーナ」
「あの時、ぼろっちい着物のガキがいただろ。あいつは多分、キャストだったんだ。めんどくせえことしやがる」
ナノは眉間に皺を寄せた。
「私はそんなの聞いてない」
「イレギュラーな奴なんじゃないのー。次、あたしの先攻ね」
ニーナが駒を並べ終わり、髪をいじっていると、ナノが突然、将棋盤の駒を乱暴に払いのけた。駒は音を立てて、四方八方に散らばった。
「ニーナは何もわかってない! 私たちの城が崩されるかもしれないんだよ! どうしてそんなに暢気にしてられるんだよ」
「あっちゃー・・・・・・」
ヒステリックにわめき散らすナノを、ニーナは立ち上がり、呆れたように見下ろした。
「ビビりだなあ、ナノは。あたしたちの役目は何だっけ?」
ナノは息を整え、涙でにじんだ瞳で見上げる。
「・・・・・・、専守防衛」
「そうだよ。あたしたちは待つだけいい」
ナノは口元をゆがめた。
「虫は虫同士潰し合わせるってことよね? ニーナ」
「そういうこと。伊藤も、美堂薫子も壷の中の虫に変わりはない。今回もきれいに片づくさ」
ニーナはナノの手を取り、ダンスを踊った。ニーナのリードで、ナノはくるくると回った。二人の足下には将棋の駒が散乱していたが、構わずステップを踏む。
屋上には、机が縦に積み上げられていた。それはいびつに積み上げられており風が吹くと、不気味な音を立て軋んだ。てっぺんは曇天の空に消えていた。
(*)
薫子が身支度を終えて、未来と共に学校に着くと何となく校内は騒然としていた。普段は教室に篭もりがちな生徒たちが廊下に出ていたのだ。
薫子は寮で、未来から今日起こった出来事を聞いていたので、察しはついていた。
「スカートめくり?」
薫子はセーラー服に袖を通しながら、その話を聞いた。
「そう。しかもスカートの中の写真まで撮られたそうだ」
「まあ! 許しがたい卑劣な犯行だわ」
薫子はぷりぷりとしながらスカートを履いた。未来は神妙な面もちで薫子の着替えを眺めていた。
「しかし、被疑者はもうお縄についている」
薫子はずっこけそうになるのを耐えた。
「それじゃあ、私の出番ないじゃない。それでは皆さまごきげんよう・・・・・・」
ベッドに戻ろうとしたが、未来に羽交い締めにされて断念した。
「どうして今日はそんなに怠けたがるんだ、師匠! おかしいぞ、昨日はあんな熱いエナジーを交わしあったというのに」
「そう毎日、全力で生きられないわよぉ・・・・・・」
若さの特権に辟易とし、薫子は大きな口を開けて、あくびをした。せっちんの姿が消えてから、倦怠感がつきまとうようになっていた。
「この話、何かに似ていると思わないか?」 「何よぉ、イソップ童話か何か?」
「違うよ!」
未来は熱さは時にうっとおしくもある。未来の視線から逃れんと、薫子は顔を背ける。
「昨日の師匠の冤罪事件だ。言い忘れていたが、捕まったのは、伊藤先生なんだぞ!」
「ああそう」
ますます事件への興味を失い、軽く流す。
「あの男ならやりかねないわ、私も昨日セクハラされたし。伊藤に不利な証言ならいくらでもしていいけど、助ける義理なんてないわ・・・・・・」
薫子は昨日の美術の時間に密着した伊藤の不快な体温を思いだし、身震いした。
「見損なった!」
未来はやる気のない薫子に、やけに喰ってかかる。
「恩義を感じていないのか? 伊藤先生が助けてくれなかったら、師匠は今頃停学になっていたかもしれないんだぞ」
「まあそれはそれ、これはこれ。盗撮は犯罪じゃない」
「それは、そうだが・・・・・・」
肩を落とす未来を見ていられなくなり、渋々協力することにした。未来の頼みだと思えばやり遂げられそうな気がしたのだった。
学校に着いたのは、十時半を回った頃だった。廊下に出ていた女子生徒のほとんどは、スカートの上から自分の尻を押さえて歩いていた。どこか滑稽さも漂う光景だったが、皆真剣な表情をしている。
「ちょうど人が出ていて、都合がいいわ。被害者に話を聞いてみましょう」
未来に被害者を捜してきてもらい、事情を聞くことになった。被害者は全部で三人。一年から三年まで、まんべんなくいるらしい。
一人目の被害者は、一年生の荒巻妙子という少女だった。前髪をきれいにそろえた生真面目そうな娘だ。彼女は悔しさを滲ませてこう言った。
「私、後悔してます。下着をちゃんと選ばなかったことに」
「それはどうして?」
薫子が訊ねると、だってと、荒巻妙子は言葉を詰まらせる。
「伊藤先生に見ていただくなら、もっとちゃんとしたものがあったのに」
薫子は妙子のスカートをめくった。
「ちょっと失礼、ああなるほど・・・・・・これは男に見せちゃまずいやつね」
「でしょ?」
同意を求められ、薫子は笑顔で頷いた。
妙子がスカートをまくられた状況はこうだった。朝、妙子が登校し、校門で伊藤と出会った。彼女は歓喜し、元気よく挨拶した。その時イタズラな風が、彼女のスカートを捲り上げたという。そしてシャッター音がしたような気がしたらしい。その場にいたのは伊藤だけだった。
「それって単なる事故だったんじゃないの?」
薫子が疑わしそうに訊ねると、妙子は頑として譲らない。
「いいえ! 伊藤先生は私のスカートの中身に興味が湧いたに違いありません。先生だって男性ですから、劣情を抱いてしまう時もありますよ。でも先生を責めないであげてください、誰にも許される権利があるんですから」
荒巻妙子はこれから伊藤の嘆願書を作る予定だと言って、話を終えた。
薫子と未来は次の被害者の元に向かった。次の被害者は、三年生の日向明美。ふくよかな体型で、色白で目が細い女子である。彼女は喜んで調査に協力してくれた。
「昨日の夜ね、私どうかしてた。見せる予定もないのに、勝負下着なんて穿いちゃってさ」
薫子は明美のスカートをめくった。
「ああ・・・・・・、スパイシーガールって感じね。伊藤先生がどういう反応を示したか、覚えてる?」
明美は思いだそうと、しばし考えた。そして照れたように笑う。
「とっても嬉しそうだったと思う。私の下着も捨てたもんじゃないんだって自信ついちゃった」
「へえ・・・・・・」
薫子は明美のスカートをまためくって戻した。
明美は柔道部に所属しており、朝練のため早くに登校したらしい。体育館そばで、伊藤に遭遇し挨拶をして通り過ぎた途端、またしてもイタズラな風が彼女を襲った。
明美もまた、妙子と同じように伊藤を糾弾するつもりはないようだった。スキップで教室に戻っていった。
二人目の被害者の調査を終えた薫子は未来とベランダに出た。
「未来さんはどう思う? 伊藤はやっぱり犯人?」
「うーん・・・・・・、わからん!」
未来は真剣だったが、薫子はあまり気が乗らない。被害者たちが心証を害していたなら、話は別だが、彼女たちは一様に被害を受けたという印象を与えなかった。風と伊藤の因果関係も不明だ。たまたま伊藤がいた場所に風が起きたということで収まりがつくだろう。
「あの娘たちが、いいって言っているんだし、もう調査はやめにしない?」
薫子のやわな提案に、未来は硬い表情で、首を振った。
「実は最後の三人目だけが、強硬に被害を訴えているんだ。彼女の話を聞いてあげて欲しい」
未来はその三人目にこそ、重きを置いているようだった。知り合いなのだろうか。
「最後の被害者の名前は? 二年なのよね」
「師匠も彼女のことを知ってるんじゃないかな、同じクラスだから。名前は・・・・・・」
(*)
薫子は暗い顔で、自分の教室の前に立った。頬を叩き気合いを入れる。
教室内がしんと静まり返っている。席を立っているものは一人もいなかった。誰もが前を向いていたが、授業中というわけでもない。黒板には自習と書いてある。恐怖政治に怯える人々のように生気のない顔をしたクラスメートたちに目もくれず、薫子は背筋を伸ばし、陽菜の席に向かった。
陽菜は頬杖をついて座っていた。かつての幸彦のように不幸に酔っているように見受けられ、薫子の失笑を誘った。
「何? 薫子さん」
陽菜は座ったまま、虫でも潰しそうなささくれた眼差しを薫子に向けた。
「ごきげんななめね。まあ、無理もないでしょうけど」
「あっちいって」
陽菜の机の側に薫子はしゃがんだ。陽菜を見上げていると、また薫子の顔が綻ぶ。
「何笑ってんだよ!」
陽菜は、薫子の右肩を突き飛ばした。薫子は尻餅をつき、そのまま床に座った。
「安心した。結構元気じゃない。未来さんからヘコんでいるって聞いたから」
「意味わかんない、薫子さん、ウザい。あっちいって」
クラス中の人間がじっと下を向き、耐えていた。幸彦だけは今にも立ち上がろうと腰を浮かしかけていた。
興奮した陽菜が落ち着くように、薫子は立ち上がり、彼女の背中に手を回した。
陽菜は薫子から逃れようと暴れたが、暫くして大人しくなった。
「つらかったね」
薫子の一言に陽菜の体がびくんと震えた。薫子にできることは限られている。昨夜せっちんがしてくれたように、陽菜に寄り添いたかった。
とはいえ、陽菜の笑顔の一番の処方箋は幸彦だろう。薫子は陽菜が落ち着くのを待って、幸彦を呼んでバトンを渡した。幸彦と話すと陽菜の顔に段々と、彩りが戻ってくる。薫子はその場を離れた。
クラスメートたちも、沈黙を解き、いつもの騒々しい教室が戻ってきた。
薫子が教室を出ると、同じクラスの女子たちもマスクをして、その後に続いた。
「美堂さん、ヒヤヒヤさせないでよ。すげー暴れてたのやっと落ち着きかけたところだったのに」
皆、疲れた顔で、各々ストレッチするなどして、緊張をほぐしていた。
薫子が教室に来る以前、陽菜は椅子を振り回して大暴れしていたらしい。
「ほっとくわけにはいかないじゃない。陽菜は被害者なのよ」
陽菜は階段で伊藤がスカートを覗いたと言っているらしい。伊藤はその事実を認めていない。
「それなんだけどさ・・・・・・」
学級委員の長谷倉歩が声を潜める。そばかすの目立つ、細面の少女だ。
「西野さんってさ、虚言癖があるんだよね」
薫子の頭に血が昇る。
「陽菜が嘘をついてるって言いたいの?」
知らず薫子の声が大きくなっていた。 歩は人差し指を立てる。
「こんなこと言いたくないけど、前にもあったんだ。こういうこと」
陽菜が高校一年の時、担任に性的な行為を強要されたと、訴えを起こした。陽菜の父親は代議士で、一人娘を溺愛しているという。彼は学校に猛烈な抗議をした。
「で、その先生はどうなったの?」
「やめちゃったよ。結構良い先生だって評判だったみたいだけど、あっけないもんだよね」
歩は当てつけるみたいに、教室に顔を向けた。
「でも、陽菜がどうして嘘をついてるってことになるのよ。本当にそういうことされたかもしれないじゃない」
「そうね、私も同じクラスだったわけじゃないから、当時のことは何とも言えないけど、今の彼女のことなら言える。西野さんは、嘘つきだよ」
他のクラスメートも同意するように頷いた。
「嘘ってどんな?」
薫子は慎重に訊ねた。予断で判断を誤ることだけは避けたい。
「話を盛るっていうのかな。普段なら大した問題じゃない、誰でも見栄くらいはるからね。でも彼女の場合、その振れ幅が大きすぎるよ」
少しずつではあるが、陽菜の人となりを薫子は把握しようとしていた。あくまで歩の主観に基づくものだが、他のクラスメートも否定しない以上、このまま聞いていてもよさそうである。
「昨日は大親友って言われてた娘が、今日は不倶戴天の敵みたいに扱われることもある。ほんのささいなことが、きっかけらしいけど、西野さんには許せないことみたい」
歩は経験があるようで、苦い顔をしていた。
「去年、セクハラで訴えられた先生もさ、最初の頃、西野さんと仲が良かったらしいんだよね。でも、一度、生活態度のことで、西野さんをこっぴどく叱ったらしい。それがいけなかったんじゃないかって話だよ」
二年の担任も陽菜を恐れて、あまり注意はしないらしい。それで陽菜が増長するかと思いきやそうでもないようだ。
「寺田君といる時って、西野さん、すごくご機嫌なんだよね」
「ほほう・・・・・・」
薫子は身を乗り出し、もっと聞かせろとばかりに歩に近寄った。幾つになっても恋バナは大好物だ。
「ほら、寺田君って意外とズバズバもの言うじゃない。それなのにどうして側に置いてるのか謎なんだけどね、美堂さんはどう思う?」
歩を始め、クラスの女子は困惑していたが、薫子は年の功で、明快な回答を所持している。自信満々に断言する。
「恋は人を変えるのよ。きっと陽菜も大人の階段を登ったんじゃない?」
「いや、それはないと思う」
あっさりと歩に否定され、動揺する。確かに陽菜は幸彦は友達だと言っていたが、二人は両思いなのだと勝手に思い込んでいたのだ。
さらに歩から聞かされた衝撃の事実に、薫子は耳を疑う。
「西野さん、彼氏いるらしいよ。何でも年上の人だとか」
これ以上、個人的な問題に踏み込むのは、危険だ。必要以上に感情移入すれば、泥沼に引きずり込まれる。自分は陽菜を救いに来たわけでも、学校秩序を再生をしにきたわけでもない。異変を調査し、可能ならそれを取り除くことが目的だ。幸彦と陽菜の問題や、きんのおまるのことは、あくまで後回しにするべきだ。と、以前の会社員美堂薫子ならそう結論付けて二人から距離を置いただろう。
薫子が教室に入ると、教壇の前に幸彦と陽菜がいた。
幸彦は膝を九十度近く曲げ、右腕を真横にぴんと伸ばした不自然なポーズをしていた。それはロバートキャパの撮った写真、「崩れ落ちる兵士」の真似だと、薫子は気づいた。
陽菜がぱちぱちと拍手すると、幸彦は力なく座り込む。
「幸彦君、上手ー。じゃあ次の偉人モノマネ百連発いってみよー、次はねぇ・・・・・・長宗我部元親!」
「え? 誰それ?」
幸彦はきょとんとして固まった。陽菜の無茶振りに幸彦は明らかに疲弊していた。
「えー? 知らないの? 土佐の大名だよ。ほら、やってはやくぅー」
「はいはい・・・・・・」
陽菜につま先でつつかれて、幸彦は大儀そうに立ち上がる。その時、薫子と目があう。
幸彦は全く見返りを求めていないようだった。ただ陽菜を喜ばせるためだけにそこにいるようで、薫子は目頭が熱くなるのを感じた。教壇に駆けていって、幸彦を押し退けるように立つ。
「やるわ、長宗我部元親」
幸彦は首を横に振ったが、無理をしているのが明白だった。
「美堂さん、いいから・・・・・・、僕平気だから」
「別にいいよ、薫子さんがやっても」
陽菜がつんと顎を上げ、薫子を挑発するように笑う。
「でも私が気に入らなかったら、何度でもやらせるから。そのつもりでね」
「ふん、望むところよ。宴会で鍛えられし我がフォース、今解き放つ・・・・・・美堂薫子、推して参る!」
(*)
陽菜のストレス解消は予想を上回り、過酷だった。宣言通り百まで続き、最後はクラス全員と教師を巻き込み、美輪明宏の「ヨイトマケの唄」を合唱させられた。
「薫子さん、お疲れさま。よくやるねえ、あはは」
教室で死んだ魚のように横たわる薫子を見下ろし、陽菜が上機嫌に笑う。
「貴方がやれって言ったんじゃない。このつむじ曲がりが」
「そうだけど、本当にやるとは思わなかったんだよね」
「私が途中であきらめるとでも? あんまり大人をなめないことね」
陽菜は肩をすくめた。相手が誰だろうとなめきった態度を変えるつもりはないようだ。
「怒んないでよ、そういう意味じゃないから。幸彦君が苦しむ姿を見るのが目的だったけど、結果オーライって感じなの。あー、楽しかった」
幸彦も疲労が限界を超え、机に突っ伏している。薫子は体を起こし、陽菜を睨む。
「陽菜、こういうのはよくないわ」
「何が?」
陽菜のとぼけた顔に、油を注がれるように薫子は、口を開いていた。
「寺田君のことよ、貴方は彼の気持ちを弄んでるじゃないの?」
「弄ぶ? 人聞き悪いなあ、誰かから余計なこと聞いたのかな」
陽菜が教室をへいげいすると、女子全員が一斉に顔を背ける。
「わがままも大概になさい。寺田君もいつか愛想を尽かすわよ」
幸彦のことが話題に上ると、陽菜の目がつり上がり、頬が一気に朱に染まる。
「何よ、エラそうに。オバサンが」
「貴方よりオバサンだから言ってるの。彼がいなくなってから後悔しても遅いのよ」
激高した陽菜が薫子の左肩を突き飛ばした。クラスの空気が一瞬で凍り付いた。
「私のこと何も知らないくせに、知ったような口たたかないでよ!」
陽菜は吐き捨てるように言うと、近くのドアから走って出ていった。
「ぐっ・・・・・・、痛っ・・・・・・」
薫子は追いかけるどころではなかった。左肩に刃物で傷口を抉られたような激痛が走り、立っていることもままならなくなった。たまらずうずくまる。惨めな悲鳴を上げそうになるのを歯を食いしばり、堪える。陽菜は非力なはずなのに、どうしてこんなに痛むのだろうか。
保健委員に肩を借り、保健室に行く道すがら、昨夜の傷が開いたのではないかと、危惧した。今度こそ死を覚悟した。
保健医に背中を診てもらったが、薫子の背中はきれいなままだった。その他、外傷一つなく、熱が少しある程度で、特に変調はないようだった。
少し休んでから保健室を出る。右手には、保健室からくすねたボールペンが握られていた。カチッカチッと、芯を出したり引っ込めたりした。
「あーあ、らしくないことしちゃったわ。ガキのお守りなんてもうこりごり」
切り替えるような口振りだったが、その表情はすぐれない。肩のことよりも、陽菜のことばかりが気にかかっていた。
「でもほっとけないんだよな・・・・・・」
薫子は我が事のように陽菜の問題を受け止めていた。自分はかつて失敗してしまったから、彼女にはそうなって欲しくないのだ。
廊下を抜け、中庭に出た時である。一人の少女が目に留まった。中庭に一人でいたその少女は、銀髪を顔の両脇でおさげにして、四角い学帽を被っていた。年齢は、せっちんと同じくらいだろうか、小学校高学年くらいに見受けられる。黒いコントローラーのような機械を手に持ち、レバーをいじっている。
「いけー、ブラックハヤテ号!」
少女の弾んだ声に合わせるように電動音がしたと思うと、黒いラジコンカーが、中庭をところ狭しと駆け回っていた。
薫子はその様子を少し離れた場所から、眺めていた。
「変な子・・・・・・」
キテレツな少女に薫子は面食らった。この学校のセキュリティーは結構緩いために、少女はどこからか進入したらしい。教師に報告しようと思ったが、少女のはしゃぐ姿が愛らしいのでやめた。彼女が何となくせっちんに似ていたからかもしれない。
足音を立てないようにきびすを返し、元来た道を引き返した。
保健室と同じ並びに職員室があり、背の高い男性が出てくるところだった。伊藤だ。
薫子は口元を真一文字に結び、気配を消して伊藤の後をつけた。
伊藤は男子トイレに入った。用を足し、手を洗うために洗面台の前に立った彼の背後に、薫子がゆうゆうと近づいてきた。
「ここは男性用ですよ、美堂さん」
やんわり注意したが、薫子は伊藤の背中にぴったりと張り付いた。
「知ってますよ。少しお時間いいですか? 伊藤先生」
薫子は、自身の豊かな胸をおしつけるようにさらに伊藤に密着した。
伊藤が気をそらした一瞬の隙に、薫子は右手に持ったボールペンを彼の右耳の穴にぬうっと近づけた。カチカチと音をならす。
「お聞きしたいことがあるんです。いいですよね?」
伊藤は鏡に向けて微笑む。薫子の目は笑っていなかった。