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せっちん!  作者: 濱野乱
空蝉編
45/97

別れたら好きな人

幸彦、雪乃兄妹と回転寿司店で別れたカヲリは、まっすぐアパートに帰宅した。 道中も幸彦の煮え切らない態度に、やきもきし、我がことのように憤っていた。

「あー、もう嫌になっちゃう……、きゃっ!」

玄関で凶事に遭遇した。

絣の着物の子供が、うつ伏せで倒れている。右手の側の床に血文字がしたためられていた。

カヲリは、眼鏡の奥の瞳を瞬かせる。

「なになに……、しゃちほこ?」

思慮を巡らせたが、母もいる手前、玄関に長居はできない。倒れているせっちんの息づかいを感じ取ると、彼女を飛び越え、部屋に入った。

母に雪乃が帰ったことを伝え、リビングを抜ける。

剣呑なダイイングメッセージにも、どこ吹く風。ハクアは静かに端座していた。

「ねえ、あれ大丈夫なの?」

ハクアは悩ましそうに唇を尖らせる。

「大したことねえですよ。ちょっとした謎かけみたいなものです」

ハクアによると、以前相対した、憤怒のキャストに、名前がないのは不憫だと話題になったらしい。

そこで、ハクアがぴったりな四文字熟語を発見したのだが、その四文字熟語をど忘れして思い出せない。せっちんはそれを知っていて、謎かけによるヒントを提示しているのだ。

「ここら辺まで、でかかってるんですけどねえ」

ハクアは喉に手を置いた。

「ああ、あの土偶ね。でももうやっつけたんだし、いいんじゃないの、そんなの」 

「”な”は、たいをあらわす」

せっちんが、もったいぶった様子で現れた。すぐさまナスの寝袋にくるまってしまう。

「そっとしておいてやってくださいな。あいつは、あんまり活動できないんですぅ」

せっちんは、不死に近い能力を持っているが、それもニーナとの戦い以降、衰退しつつある。来るべき決戦に備え、体力を温存しているのだ。

「でも竹馬に乗ってる時は、元気そうだったけどな。雪乃ちゃんもあんな感じだったよ」

「あのヒヨコ、巣に帰ったですか。やーっと静かに過ごせるです」

口では悪しざまに言っているが、ハクアは雪乃の世話を嫌々引き受けたわけではなさそうだ。昨日、カヲリがいない間も、問題はなかった。雪乃の顔を見ればわかる。

「それはそうと、カヲリ。虎の様子はどうです?」

「うーん、あんまり心を開いてくれないわね」

キャストとゲストは一心同体。そもそもゲストから生まれたキャストが、意に添わないはずはないのだが、カヲリの場合、それは当てはまらないのだろうか。

「ぼちぼちやっていくわ。もうあんなことはこりごり」

「ふーん、お前も覚悟って奴ができてきたじゃありませんか」

カヲリは、この時、完全に理解していたわけではなかった。責任に付随する失うことの恐ろしさとその結末を。

一九九九年十二月十四日火曜日

翌日、カヲリはいつもより早い時間に、登校した。体調はすこぶるよく、道行く生徒を追い抜き追い越し、思いの外、早く着いてしまったのだ。  

虎のご機嫌をうかがってから、校舎に入る。廊下を歩む来栖未来と並んだ。

「おはようございます。先輩」

カヲリが立ち止まり、元気に挨拶すると、未来も足を止め、高い鼻梁を向けた。

「おー、カヲリ。聞いたぞ、クリスマス大使やってるんだって?」

「そうなんですよー、灰村先輩とマンツーマンで」

「ははは、いい機会だから指導してもらえ」

「ひっどーい。私、不良じゃないですよ!」

カヲリは、ふざけて未来の背中を叩いてしまった。その際、力加減を誤り、未来は大きくよろめいた。小さな非難が漏れる。

「いたい……」

「す、すみません、大丈夫ですか?」

カヲリは大いにうろたえ、未来の体を支えた。

「この馬鹿力。他の奴にはやっちゃだめだぞ」

「本当にすみませんでした。気をつけます」

落ち込むカヲリを、未来は鷹揚に許してくれた。かえって、負い目に感じる。

静謐な廊下を再び歩き出すと、未来の長いスカートが時折、床を擦る。

「来栖先輩と灰村先輩って、タイプが全然違いますね」

未来は背中を自分でさすりながら、目を丸くした。 

「あいつとは高一からだけど、喧嘩したことないな。あたし、あんまり細かいことは気にしないから」

香澄と、未来は対照的だ。この二人はジグソーパズルのピースのように建設的な友情を育んだのだろう。少なくとも表面上は。

「昔からあんなに気丈だったんですか? 灰村先輩は」

「そうでもなかったぞ。結構、繊細でさ、あたしも相談受けたっけ」

「へー、どんな?」

「思春期の男女に適当な恋愛について」

カヲリは笑いを堪えたが、耐えきれずに吹き出した。

「恋愛は、在る程度適当にするものじゃないんですか?」

「それが一般論なんだけど、譲らない。どうにも、あいつは要領よくやるって考えが合わないみたいなんだ。やるからには、ちゃんとしないと駄目なんだってさ」

厳格な規律を求める香澄と、おおらかな未来のやり取りが思い浮かぶ。

「ちなみに、灰村先輩の、好みって」

カヲリは一言一言、言葉を区切って訊ねた。聞き返されたら、誤魔化すつもりでいた。

「そうだな、自分の言いなりになる従順な奴が好みって言ってたよ。それがどうかしたか?」

カヲリは大仰に首を振る。

「いえいえ、じゃあ来栖先輩は?」

「じゃあって、あたしはついでか。まあいいや。あたしは香澄とは逆かな。引っ張っていってくれる人がいい」

「ワイルドな人ですね! わかります」

カヲリは目を輝かせる。未来は頬をひきつらせた。

「そっかー、そういう意味でも、お二人は真逆なんですね」

「悪いか。あー、でも……」

未来は目を落とした。

「あたしもあいつと似たとこあるわ。一度決めたことは適当にできないよ」

擦り切れそうな未来の微笑みが、いつか見た誰かの泣き顔に重なり、カヲリを不安にさせた。

 

 (2~)

 

二限目、現代国語の授業が終わると、離れた席にいるマイが慌ただしく、カヲリの元にやってきた。

「ねね、カヲリン、聞いて聞いて」

ツインテールに、黒縁眼鏡のマイは、時にうっとおしいほどの元気を振りまく。

「どうしたの?」

「あのね、アイコちゃんが、中央大のオープンキャンパスに行くらしいよ。ウチらも行くベ!」

「それなんだけど……」

カヲリは、以前からひた隠しにしてきた考えを口にする。

「私、就職することに決めた」

「えっ!? この間まで明治に行きたいって言ってたじゃん。あきらめちゃうの?」

「うん。冷静に考えると難しいよ」

カヲリは責任を感じている。自分の過食が原因で、家計が逼迫しているのだ。

さらに父親は、家に帰らず、母親の収入だけでは生活も苦しい。四年制大学を卒業するには、高額の学費がかかる。翔に具体的な話を聞くにつれ、進学は、絵に描いた餅であると痛感した。

カヲリは奨学金を得るほど優秀な学力を持っているわけではない。つい、今まで母の大丈夫という言葉に甘えてしまっていた。

「でもなんで急に?」

「最近、結構色々あって、周りに目を配ることの大切さがわかってきたからかな」

マイは拡大解釈して、次のようなことを大声で言った。

「そうかそうか、カヲリンは男を知って成長したんですな! あっぱれ!」

「しーっ、マイちゃん、声が大きい!」

隣の席の幸彦に聞かれてしまった。妙な焦燥感にとらわれる。

「話はわかったよ、カヲリン。でも進路が変わっても、ウチと、アイコちゃんは、カヲリンのマブダチだぜ。それはずっと変わらないんだぜ」

「マイちゃん……」

マイの力強い言葉に、カヲリは思わず涙ぐんだ。 

友人たちの展望を聞いて羨みつつ、体育の授業のため、着替えて体育館に向かう。

途中、カヲリは一人トイレに寄ってから、後を追った。

途上、気が急いていて、廊下で既知の相手を見過ごしそうになる。

壁に寄りかかっていたのは、小麦色の肌に、金髪の少女。厚い唇は不機嫌そうに曲げられている。

カヲリは目を白黒させる。

「え、えーと……、誰でしたっけ」

「私の名前を忘れたというのか」

少女は怒りに身を震わせたように見えた。

カヲリはとっさに、前言を翻す。

「冗談ですよ、螺々さん。お久しぶりですね」

半分忘れかけていたというのが本音であった。寝食を共にするせっちんたちとは違い、彼女との結びつきはあまりに細い。

「いい度胸だな。私は君の命の恩人だぞ」

「それは言い過ぎでしょ。”憤怒”の時も、虎が暴れた時も、出てこなかったじゃないですか」

螺々は苦い顔でうつむいた。

「”今回”の私は、裏方だからな。せっちんと、ハクアを遣わしただろう。あいつらは私の指示で動いている。感謝するなら私にするんだな」

「えー、でも」

カヲリは体育の授業が差し迫っていることを思い出した。螺々の相手をしている時間が惜しくなる。

「螺々さんって、ヤマンバみたいで、インパクトありますけど、戦うわけでもないし、影薄いですよね。それに、私をエトワールにしてやるって息巻いてた割に、役に立ってないっていうか。どうしてゲストになったんだろうって……、あっ、ごめんなさい。もう行きます」

螺々は、雷に打たれたようにひっくり返った。死にかけのカエルのように痙攣している。

カヲリはその脇を走り抜けた。

「オノレ……、小娘。私の出番は、まだ少し先なのだ」

螺々の恨み言など、馬耳東風、カヲリは体育館に直行した。

扉に手をかけ、すかさず引っ込める。刺すような痛みが指先に残っていた。

「静電気かな」

冬場は乾燥しているために、頻繁に起こる現象である。だが、カヲリの痛みはそれとは違っていた。まるで、燃え盛る火中に、手をかざした時のような強烈な痛みだ。

幸い、外傷もなく痛みもすぐに引いたため、カヲリは何事もなかったように、授業に合流した。

チームに分かれて、バレーボールの試合を行う。

カヲリのチームは、マイのへぼサーブを、打ち返されて大量失点した。アイコが声を出せと、檄を飛ばす。

カヲリがネット際でブロックに精を出し、せこせこポイントを稼いだが、結局負けてしまった。

試合を終え、体育館の片隅に向かう。

「陽菜、具合どう?」 

西野陽菜は、体調が優れず、体育の授業を見学していた。マフラーを巻き、寒さにじっと耐えている。

「別に。大したことないし」

日曜の蕎麦店での一件以来、陽菜と疎遠になっている。アイコとマイはサーブの特訓をしているため、仲直りに絶好の機会だ。

「あんた、大学あきらめるんだって?」

カヲリは陽菜の隣に腰を下ろした。

「うん。 陽菜はどうするんだっけ? 美大いくとか?」

陽菜の目は男子のいるコートに注がれている。大きな黒目がせわしなく揺れていた。

「ナイショ」

「寺田君はどうするんだろうね」

途端に、陽菜から肩を殴られる。

「痛いよ。やっぱり気にしてるんだ」

「ウザ。あんたに関係ないじゃん」

余計なお世話焼いて、殴られて、損か得かといえば、損だろう。だが、友達だから、苦にならない。

「ねえ、どうして寺田君のこと好きになったの?」

「私を見てくれるから」

幸彦に甘えているのかと、カヲリは早合点しかける。

「私、好きになった相手のこと試しちゃうんだ。意地悪しちゃうの。だいたいすぐ、離れていくか、私を責める。嗚呼、私への好きはその程度なんだって、がっかりしてばっか」

カヲリは思い当たる節があり、苦笑する。

「でも幸彦君は違った。哀れんでくれたの」

陽菜は定点にずっと目を置いていた。

「私がちっぽけで、つまんない女の子だって見抜いてくれた。本当の私を見てくれたんだ」 

幸彦は嘘をつけない性質なのかもしれない。ある種の誠実さが陽菜のお気に召したのだろう。

「哀れんだって、ことは、対等じゃないと思うけど。それでもいいの?」

「いいよ。一緒にいられるなら」

カヲリは承服できない。陽菜は自分を過小評価している。もしも、恋が実ったとしても、堅実は将来は期待できそうにない。恋は優しいだけでなく、苦い現実を分かち合うことにも繋がるからだ。

「カヲリ、あんた、いつから人のことに口出せるほど偉くなったのよ」

「そう言われると、そうね。ごめん」

反対すればするほど燃える恋もあると聞くし、この場は潔く退いた。

「私のことだけじゃなくて、あんたのこともそうよ」

「私……?」

突然の指摘に、我が身を省みる。

「将来のこと、よく考えて決めたの?」

「だって、お金が」

「あんた、目的地についてから何するか決めるの? 普通違くね? 目的地で何をするか決めてから、歩き出すんでしょうが」

意外な反撃に、言葉を失う。周りに流され、ただ目的地に向かうことだけが目的になっていた。手段と目的を混同していたことは否めない。

「それは、陽菜が恵まれてるから言えるのよ。私、やりたいことないし」

「いいや、ある。探してもいないのに何がわかるっていうの? ちゃんと探した?」

将来の選択は、すぐそこに迫っている。尻込みしそうだったが、自分は一人ではないのだと実感を得た。

「カヲリ、今考えないと後悔するよ。私みたいに……」

陽菜は将来を悲観しているのだろうか。カヲリには、どうしてもその理由が思い至らなかった。

 

 (3~)


カヲリは、お昼ご飯を、たらふく食べた。

グループで楽しく談笑していると、ふと離れた机にある幸彦の弁当箱が目に留まる。

「その弁当箱可愛いね」

一人静かに箸を動かしていた幸彦が、カヲリに顔を向けた。

「人からもらった奴だよ。京都のお土産だってさ」

幸彦の弁当は黒塗りの、小さな二段重ねである。食べ盛りの男子の食事としては、心許ない量しか入らない。まるで女性用のような仕様だ。

カヲリは、意図的に声を落とす。

「もしかして、元カノから?」 

「豊かな想像力があって羨ましいよ。残念ながら違うけどね」

幸彦は、落ち着いてポットのお茶を注いだ。

「未練がましく持ってるかと思った」

「ムシューダさん、僕に遠慮なくなってるね。親しき仲にも礼儀ありだよ」

ぴしゃりと、はねつけられ、カヲリは自分の席に戻る。

かまを掛けても動じない。敵もさるもの。

放課後、サンタ大使、ペテロに早変わりしたカヲリは、ポスター貼りを手伝った。

脚立に乗る香澄の足下で訊ねる。

「これでいいんですかね? 灰村先輩」

「曲がってないと思うけど。少し下がって確認してみてくれる?」

クリスマス会のポスターは、A4サイズで一面を黒く塗られており、中央に顔の上半分を覆うようなマスクのイラストが描かれている。意図はカヲリに知らされていない。

「少し離れてわかることもありますものね」

「奥歯にものが挟まったような言い方は好かないわ。何が言いたいか知らないけど、相手になってあげる」

香澄は学内のカフェにカヲリを誘った。

白黒チェックの床に、ガラス張りのカフェには、放課後であっても、生徒が残っていた。三時半には閉まるため、間際に訪れたことになる。

「紅茶でいいかしら。奢るわ」

「あわわ、いいんですか」

「黙って奢られなさい。それが後輩の礼儀よ」

カヲリは恐縮しながら着席し、紅茶のカップに口をつける。ダージリンのコクか喉に広がる。

香澄は、角砂糖数個とミルクを入れ、甘みを付加するのに夢中らしかった。

「黙ったままで何か言うことないの?」

「ありがとうございます。おいしいです」

ため息をつくと、香澄は細長い親指と人差し指で、カップをもてあそんだ。

「違うわよ。私に言いたいことがあるんでしょう? 時間がないの。早くして」

時間を首かせにし、カヲリの発言を引き出す目算だ。カフェに連れてきたのは、そういう意図だったのだろう。

「では、不躾ながら」

カヲリはテーブルを勢いよく叩き、香澄の端正な顔に肉薄した。

「このままでいいんですか? 灰村先輩」

香澄は顔色一つ変えない。カヲリは根負けし、おずおずと、身を引いた。

「貴女、何を焦ってるの?」

「いえ、あの……」

香澄の心にどこまで踏み入っていいか、二の足を踏んだ。

「ああ、あれね。”選挙”のことでしょう?」

香澄は何故か、含み笑いをし、カヲリの焦りを理解した素振りを見せた。

「自分の人気が気になるのね? わかるわ、その気持ち。貴女、結構人気あるらしいわよ」

「本当ですか!」

本来の目的を忘れかける。男子からの心証は普段聞けない領域である。怖いがやはり好奇心には勝てない。

香澄は、四つ折りにしてあったハンカチ大の一枚の紙を広げ、楽しげにカヲリの評価を語り始めた。

  

 一 責任感がある。

 これはサンタ大使の仕事振りを見ての感想ね。

 

 二 おいしそうに食べる姿が可愛い。結構、観察されているようよ。けど太り過ぎに注意ね。

 

 三 男女分け隔てなく接している。男子はこういうの弱いのよね。


 四 時々、誰もいない所で一人で喋ってる。不思議系なのかしら。あんまり霊感とか吹聴しない方がいいわ。周りはどん引きよ。

 

 五 お尻が大きい。


カヲリは香澄のコメント付きの評価を聞いて、それを腹の内に納めた。

「私って、人からそういう風に見られてるんですね。思ったより悪いものがなくてよかったですけど」

「お尻が大きい」

「……」

カヲリは用心深く辺りを窺った。残りの生徒は退出したようだ。

「Your hip is bigger than mine」

「あああああああああああゅ!」

頭を激しく振り乱し、おぞましい内容を忘れようとする。

「貴女、お尻が大きいの?」

「いやいや、灰村先輩が言ったんじゃないですか」

「男子がいやらしい目で見たものとは違うかもしれないわ。私に見せてごらんなさい」

カヲリは椅子を立って、テーブルに手をついた。

「あら、やっぱり巨大ね。尻拓を作るといいかもしれない」

「しりたく?」

「魚拓みたいなものよ。貴女、もしかして作ってないの?」

常識を疑うような目つきをされた。

「作ってるんですか? 先輩」

「そんな恥知らずな真似するわけないでしょう」

「じゃあなんで勧めたんですか」

「話を鵜呑みにして、尻拓を趣味にするといいと思って」

この間、全て真顔である。どこまで本気か判然としない。

「そしていつか、家族か何かに発見されて、貴女は真実を知るの。やはり自分の尻は大きいってね」

「どうせ……、太ってますよ。放っておいてください」

投げやりになると、香澄がやさしく寄り添った。

「生きていれば辛いことはたくさんあるわ。これから先もずっと」

「ええそうでしょうとも」

「お尻に規格はないわ。ただ私より大きいってだけよ」

「嫌みですか」

「……、私より小さくはないわ」

「言い直さなくっても、わかってますから! さっきから先輩、私をからかってますか」

香澄はきょとんとした顔で、固まった。

「気づいてなかったの! お尻が一大事だったのね」

「もう私のお尻をいじるのはやめてください」

「お尻をいじる? 私がいつそんな破廉恥したと?」

「さっきからいじってますよ! 執拗に」

「そう? たとえば、こんな風に……」

香澄は、カヲリの尻をひとなでした。そよ風のような愛撫がもどかしく、えもいわれぬ快感を与えた。全身に力が入らなくなり、床に座り込んで、吐息を漏らす。

「ふふ、ごめんなさい。貴女みたいな、畜生……、間違えた、可愛い後輩を見ると意地悪したくなってしまって」

「さらっとひどいこと言いましたね。人権侵害です。生徒会に訴えます」

「果たしてそううまくいくかしら。生徒会は私の息のかかった連中ばかり。川に飛び込めと言えば、喜んで飛び込むような奴らよ。もみ消すのはたやすい」

「そこまで支配が及んでいたなんて」

「これが現実。貴女は私の足下にも及ばない」

「好きな相手も、その支配下に置くんですか」

香澄の顔から笑みが消える。カヲリは構わず続けた。

「男の人ってそういうの嫌うんじゃないでしょうか」

「どういう意味よ」

「寺田君のこと、このまま放って置いていいんですか? 西野さんに取られちゃいますよ」

言い終わるかしないうちに、カヲリの頭に熱い液体が注がれた。びしゃびしゃと、耳の内奥まで、侵入してくる。

香澄がカップを傾け、カヲリに紅茶を浴びせたのである。

その時、ちょうど、すゞやかなチャイムの音が鳴り響いた。

「時間ぴったりね、よかった」

香澄は、カップをソーサーに置き、くるりと背を向けた。

「これ以上、躾のなってない子を視界に入れたくないの。ごきげんよう」

カヲリは慇懃に一礼し、カフェを退出した。

幸彦の名前を出した時、香澄の動揺を肌で感じた。別れた相手は、香澄ではないかと推測する。

勝手に人の恋路を邪魔しようとしていることは重々承知だ。それでも陽菜の隣に、幸彦がいて欲しくない。香澄が未練を残していれば、幸彦と復縁する可能性もある。

「ごめんね、陽菜。でも貴女のためだから」

カヲリの頭は罪悪感の芽で占められ、注意が散漫だ。廊下の曲がり角で、人と激しい衝突をしてしまう。

カヲリは小さくない尻から倒れた。

「おおっと、すまない」

聞き覚えのない落ち着いた男性の声のする方に、カヲリは顔を向けた。

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