Another2
来栖未来は、些細な変化に敏感な性質である。それは恋愛にもっとも顕著だったと言える。それが彼女の最大の不幸だった。
いかなる物語も愛を謳い、世界は愛で出来ていると迫る。愛がなくとも生活はできるし、愛は高尚な消耗品なのだ。まるで化粧品のように、一度使えばやめられない劇薬なのである。
小学校四年生の学芸会で、かぐや姫を演じた美来は、ある疑問を持った。
なよ竹のかぐや姫はなぜ、かくも求婚され、愛されなければならなかったのだろうと。
生まれながらに頂にあることを運命づけられ、竹の牢獄に生きる女。
未来は、彼女が哀れだと思った。否、憎悪の念を抱いた。
幼なじみの寺田幸彦は未来がやる気をなくし、稽古をさぼろうとすると、変なことを言って笑わせてきた。
「僕、女だったらかぐや姫になりたいな。筍ご飯をお腹一杯食べられるから」
ボール紙で作った筍の帽子を被って、真顔で言う幸彦に癒された。彼はしっりしているようで、時に間の抜けたことを言う。
「あーあ、貴公子がゆーくんだったらなぁ」
筍は顔を赤くし、下を向く。
本当は貴公子は誰でもよかった。かぐや姫はそういうものだから。
「あたし、かぐや姫きらい。月に帰っちゃうから。本当はおじいさんとおばあさんと一緒にいたかったはずなのに」
未来はいつも黒っぽい服を着て、教室で一人、おはじきで遊ぶような子供であった。
快活さは微塵もなく、平均以上の背を丸めて、受け答えもおぼつかなかった。
目を見張るような現在の美貌の片鱗は微塵もなく、どこにでもいる内気な少女であった。かぐや姫に選ばれたのも、クジによるもので他薦ではない。
幼なじみの幸彦とは、住まいも近く小学校一年生からの付き合い。
未来は当初から彼に特別な感情を抱いていなかった。真面目で頼りになる弟のような存在と見なしていたのである。
その関係が劇的に変わったのは、未来が中学一年の時、二人で出かけた縁日での帰りのことだ。
未来は、なれない浴衣に非常に気鬱になった。今では考えられないことだが、未来はつまらないことで感情の波を閉ざしていた。
「未来姉ちゃん、浴衣似合ってるよ」
幸彦が心から誉めたたえても、未来はむすっとした顔で歩いていた。
夜道に人気はなく、肌にまとわりつく汗が不快感を加速させる。
「あのさ、ゆーくん」
「うん?」
「あたしもう中学生だし、二人で一緒に歩くのちょっと恥ずかしいよ」
幸彦は、きょとんとした顔で、立ち止まった。
「そうだよね、もうやめようか」
幸彦は取り繕うように笑ったきりで、未来を責めなかった。
「ゆーくんは、どうしてあたしといつも一緒にいてくれるの?」
幸彦は昔から未来を大事にしている。ただ、友人の誘いを蹴ってまで、時間を割いてくれる理由はわからなかった。
「未来姉ちゃんが、好きだから」
血が凝固したように息が止まる。
木訥な告白に、一人の異性として認められた経験のなかった未来は、困惑した。
「きもちわるい」
未来は言い捨て、走り去った。幸彦が何を考えているか分からず怖かった。
幸彦とは、それから一年ほど顔を合わせないようにしていた。年賀状のやりとりも停止した。
卓球に打ち込んで、幸彦のことを忘れようと努める。
その頃から、未来の容姿は花弁が開くかのように精彩を放つようになる。見知らぬ異性からの愛の告白もひっきりなしで、ストレスが募った。
告白に堪らない嫌悪を感じるたび、幸彦の切なそうな顔が頭をよぎる。他の男子に告白された時とは、あの時は違った。その差異がどこからくるのだろうと疑問であった。
未来が中学三年になった五月、幸彦と偶然近所の狭い道で出会う。
彼はばつがわるそうに、定型的な挨拶だけで脇を通り過ぎようとした。
待って、と美来は幸彦の袖を掴んだ。
「あの時、恥ずかしくて、ひどいこと言っちゃったけど、あたしも、ゆーくんのこと好きだよ」
その時も、幸彦のことを異性として意識していなかった。それでも他の男とは違う。そう信じた。
幸彦は単純に、小躍りして喜んでいた。
一番身近で安心感を与えてくれる存在を未来は選んだ。愛してくれる対象が重要なのだ。未来は一応、恋愛という概念に無理に落とし所を見つけた。
付き合いに緊張感はなく、幸彦が満ち足りているのが不思議でならなかった。
単に、幼なじみから恋人になっただけなのに。
未来としては幸彦といられれば、考えなくてすむことが多くなるから一緒にいた。
幸彦は、未来の後を追うように同じ高校に進学する。その時驚くべきことが起こる。
西野陽菜と同じクラスになった幸彦が、未来を蔑ろにし始めたのだ。
未来は、焦りを感じる。
陽菜のような女の子らしい子が好みになったのか。
女らしく振る舞うべく人一倍努力するが、考えれば考えるほど、幸彦の目は冷たくなるばかりだった。
未来は打ち捨てられる不安を抱える日々を送る。
金を無心され、ありもしない将来のことを甘く語らうことで誤魔化すようになる。爪の痕を残し、自分を忘れさせないようにさせることがせいぜいだ。
未来は幸彦の隣にいたかった。それは異性としてよりも、家族に近いものだったに違いない。それを口にすれば多くのものを失う。
不実の代償はすぐそこまで迫っていた。
(2〜)
「別れよう」
青天の霹靂、ではなかった。
来栖未来は狭い卓球部屋で、意気揚々とタオルを畳んでいる。四つ折りにして膝の上に置いた。
未来には夢がある。
朝は、夫より早く起きて、お弁当を作り、夫を起こして、一緒に朝食を取る。テレビのニュースに、同じタイミングで頷き、笑って、目だけで会話がこと足りる。いや、目だけでは全然足りない。会話もないと駄目だ。
夫を仕事に送り出し、家事をこなして、ふと居眠りして目が覚める。洗濯物を取り込もうと、ベランダの日溜まりに踏み出す。
そんな浅はかな夢は、終わりを迎えようとしていた。
寺田幸彦は、未来の背後から首に腕を回している。睦み合うようにしていたが、彼の腕には力が込められていない。まるで、今にも離れていきそうだった。
「ねえ、ゆーくん。今年も初詣行こうね。あ、もう来年か。後ちょっとだね、あはは……」
幸彦の鼻がむずむずと鳴る。未来はティッシュを目で探した。彼の鼻をかむのは、未来の小さな楽しみだった。
「未来姉ちゃんは、いつもそうだね。僕が一番望んでいることをしてくれようとする。無理させてたね、ごめん」
未来の目に、流れ星のような涙が光った。
「どうして……、今なの?」
「今だからさ。もう終わりにするべきなんだ」
断固とした幸彦の言葉にも、未来はすぐさま反論する。
「陽菜のことなら、大丈夫だから。あたし、二番目でも」
「そういうのは、もういい」
幸彦は未来を遮り、静かな怒りを滲ませた。
「僕の言うこと何でも聞くのはもうしなくていいから」
「嫌じゃない! 全然そんな……」
未来は幸彦の怒りが理解できない。言うとおりにすれば、丸く収まると信じて疑わないらしい。
「昔は逆だったね。僕が、未来姉ちゃんの言いなりだった。僕はね、嫌じゃなかった。でも我慢はしていたよ。今の未来姉ちゃんはどう?」
「全然。あたし、ゆーくんのためならなんでもできるよ」
迷いなく言い切られると、幸彦は落胆したようにしなだれかかった。声を押し殺して未来を責める。
「それがおかしいって気づいてよ。じゃあ、僕が死ねって言ったら死ぬの?」
「それは、真面目に考える」
幸彦の苛立ちに未来は気づかずにいる。すなわち、核心部分に思いが届いていない。恋に浮かされているわけではないことを幸彦は見抜いていた。
「ゆーくんのこと愛してるの。あたしのこと、嫌いにならないで」
これまでなら、その一言で幸彦を黙らせることができた。しかし今回、幸彦の翻意を促すには至らなかった。
「今までありがとう。本当はもっと早く言えばよかった。お金はいつか必ず返すから」
幸彦が卓球部屋からいなくなっても、未来はタオルを畳み続けていた。
(3~)
カヲリは、午後四時半になり解放された。香澄が予備校に行くらしいので、監視の目が緩んだのだ。
せっちんと、ハクアは遊びの範囲をどこまで広げたのだろう。学校の敷地には見たあらない。放置していても、夕飯までには帰ってくるだろう。
虎のご機嫌を伺ったが、けんもほろろだ。雪解けが遠いことを予感させた。
校門付近まで来て、靴を履きかえていないことに気づく。慌ててげた箱に戻ると、幸彦と遭遇した。
彼はカヲリと対して、いつものように薄い反応をした。
「やあ、今帰り。大変だね」
「そう思うなら手伝って欲しい……」
幸彦は何故か逡巡する様子を見せた。カヲリの方が戸惑った。
「冗談のつもりだったんだけど。本当に頼める?」
「え?」
カヲリは幸彦の挙動不審ぶりを怪しみ、顔をのぞき込む。
「何よ、ぼーっとして。もしかして私と二人きりで緊張してる?」
「まさか。ムシューダさんといると結構気楽だよ」
カヲリは眉をひそめた。幸彦の場合、悪気がないのがなお悪い。
「陽菜みたいな可愛い子が側にいるもんね。私なんか箸にも棒にもかからないか」
「そんなことないって。僕もう行くよ」
「あ、待って。私も一緒に帰る」
外の冷たい風に当たり、カヲリの頭が平静を取り戻す。
同級生の男子と下校するという状況はかなり異質だ。どのくらい異質かというと、時間を盗む虎と戦うのと同じくらい。
「寒くなってきたな。コート着てくればよかった」
幸彦が手をすり合わせている。
「私の手袋、貸そっか?」
「いいよ。ムシューダさんがしなよ」
「うん、じゃあ」
カヲリは自分で手袋をはめた。
二人きりになると距離が近すぎて、心身ともにぎこちなくなる。教室にいる時は、クラスメートという便利な壁があったが、それも消失している。
「クリスマス大使、大変なんだね。おつかれさま」
「はあ……、灰村先輩怖い。全然笑わないし」
「あ、灰村先輩」
幸彦が木の陰を指すと、カヲリはのけぞった。陰影は件の少女の姿を浮かび上がらせはしなかった。
「もー、いないじゃない! 嘘つき」
「ごめんごめん、そんなに驚くと思わなくて」
ひとしきり笑うと、緊張も解けた。二人は並んで歩きだした。
「あの人にも可愛いところはあるんだ」
「へー、何か寺田君が言うと説得力あるね」
香澄から、幸彦との馴れ初めを聞き知っていただけに、言葉以上の威力があった。
「結構、緊張しいなんだぜ。今度の朝礼の時よく見てみなよ」
「はあ、よくねえ……」
カヲリは煙たがるように返事をすると、幸彦ははたと、笑うのをやめた。
「寺田君、灰村先輩の話してる時、すごい楽しそう」
「そう? 普通だよ」
「そういうの、なんて言うか知ってる?」
幸彦は首を振った。
「不潔」
カヲリは言い過ぎを内省しつつも、さらに詰め寄る。
「陽菜の気持ちに気づいておきながら、他の女の子の話を楽しそうにするなんて。灰村先輩と付き合ってるの?」
「いや」
「カノジョがいるんでしょう? はっきりしなさい」
「はっきりって、言われてもなあ。困るよ」
幸彦の煮えきらない態度に、カヲリは熱くなる。
「あんまりね、陽菜を泣かせたら承知しないから。わかった?」
「うん」
のれんに腕押しで手応えがなく、カヲリは落胆する。やはり陽菜に彼はふさわしくないと、奮起した。
「寺田君が何考えてるか全然わかんないよ。男の子ってそういうものなの?」
「そういうものなのかもね」
駅で分かれる際、雪乃の安否を伝えておく。
「雪乃ちゃん預かってます」
「ええ? じゃあこれから迎えにいくよ。迷惑ばっかりかけるね」
幸彦が、実母の不在を嘆くことはなかった。彼の諦観は、カヲリの胸を揺さぶった。
アパート前の道路では、雪乃が竹馬で遊んでいた。顔を真っ赤にして、打ち込んでいる。
幸彦に気づくと、うっかりバランスを崩しそうになりながらも、歓声を上げた。
「あー! 兄ちゃんじゃ!」
竹馬をよちよち操作して、幸彦の前までやってきた。
「僕を見下ろすなんて、立派になったな。嬉しいよ」
「あうう、ごめんよ。今下りるよ」
「いや。そのままでいいから。もっと歩くのを見せてくれ」
足下を注意深く睨みながら、雪乃は竹馬を一歩ずつ前へと進める。幸彦は脇について、見守っている。
カヲリは声をかけずに、アパートへと入った。
(4~)
芯から身も冷え、しんしんと雪でも降り出しそうな気配だった。
幸彦は気兼ねしたらしく、アパートには上がらずに、辞去を申し出た。
「雪乃を連れて帰るね。このお礼はいずれ」
雪乃は駄々をこねて、帰りを渋った。
「もっといたい。外人と遊ぶ」
幸彦は、雪乃の発言を訝る。
「ガイジン? 友達がいるのか」
「うん。竹馬作ってくれた。こーんな、四角い帽子を被ってな。眼鏡の・・・・・・」
カヲリは雪乃の脇に手を入れ、抱え上げた。
「な、何すんじゃい! おっぱい」
「雪乃ちゃん、お腹空かない? どっかで食べようか」
幸彦はやんわり拒絶したが、雪乃はお腹一杯食べられると思いこみ、快諾した。
「困るよー、勝手なことされちゃ」
「私が払うからいいでしょ。母さんも帰ってこないから、三人で行きましょ。さあさあ」
明暗分かれた顔色の兄妹の背中を押し、カヲリはその場を離れることに専心した。
繁華街にある回転寿司店を三人は訪れた。目の前には、皿の乗ったレーンが稼働しており、雪乃の目が奪われる。
「兄ちゃん、兄ちゃん!? 皿取っていい?」
「食べ過ぎるなよ。それと光りものは高いからやめてくれ」
幸彦が奢ると言って、譲らないためカヲリも相伴にあずかることになった。
本来の目的、幸彦にハクアの存在を勘ぐられるのを避けることは果たしたので、負い目を感じて皿が遠い。
「ムシューダさんは、好きなものを食べて良いからね」
幸彦の心配りに、カヲリはいたく感激した。
「何でおっぱいだけ。ずるいぞ」
「文句言うな。お前の面倒のお礼だよ」
「かーっ! 兄ちゃんの女好きにも困ったもんじゃ」
「ムシューダさんはお腹が空くと駄目なんだよ。お前はついでさ」
カヲリは伸ばしかけていた手を引っ込めていた。幸彦の言い分は正しいが、もう少し言葉を選んでほしいものである。まるで自分の空腹を雪乃をダシにして解消しようとしていると思われているのではないか。
「回転寿司っていっても、結構高いな」
「相変わらず金にもうるせーの。”カノジョ”といる時もそんなケチなんか?」
カヲリは思わず耳をそばだてていた。雪乃グッジョブ。
「お前がそんなこと気にする必要はない」
「あ! さてはうまくいってねえな。喧嘩したんなら、さっさと折れた方がいいぞ」
「その必要もない。別れたからね」
気づけば、三人とも皿を取ることなく居座っている。カヲリは、赤みまぐろの皿に食指が動いた。
「兄ちゃん、いつ?」
「ついさっき。円満に別れられた」
雪乃は湯呑み茶碗をすすり、神妙な顔で頷いた。
「そうか……、いや、あんな根暗な女、兄ちゃんには合わんと思っておったんじゃ」
「嬉しそうにするなよ。兄の初の失恋に」
幸彦は雪乃の頭を乱雑に撫でた。
「精算するのは良いことじゃ。で、新しい獲物は見つかったのかの?」
痛い質問を避けるように、幸彦は卵寿司の皿を雪乃の前に置いた。
「よせよ、そんな言い方」
「ここにちょうどよいのがおるぞ。な、おっぱい」
カヲリは、幾重にも重ねられた皿の前で喉を詰まらせた。兄妹の話は耳に入っていたものの、その渦中に巻き込まれるとは思わなかった。
「わ、私!?」
「こいつ、兄ちゃんのこと好きなんだぞ! それ。結婚、結婚、結婚!」
雪乃は手拍子しながら、茶化す。カヲリはいたたまれなくなり、下を向いた。
「いいかげんにしろ。店の中で騒ぐな」
幸彦は低い声でしかった。途端に、雪乃の意気がしぼむ。
「う、だって、おっぱいが……」
雪乃が涙ぐむと、カヲリも自分が責められたようで胸が痛み、口を挟んだ。
「寺田君、私気にしてないから。もうそのへんで」
「わかった。雪乃もいいな?」
念を押され、雪乃は小さく頷く。肩はこぎざみに揺れ続けている。
三人はもくもくと皿を重ねた。幸彦はあまり食べなかったが、カヲリだけは天井まで届くほど皿の山を築いた。
「だいたいね、ムシューダさんにはいい人がいるんだよ。そうだよね?」
「え? ああ、そうね」
上の空で返事をした。
カヲリが教室で、翔の話をしていたのを聞かれていたのだろう。蒸し返さなくてもいいのに。
「でも、その人とは付き合ってないけど」
「え? 何で」
幸彦は不思議そうにカヲリの目をのぞきこんだ。
「好きでも一緒にいられないことってあるでしょ」
雪乃は腹立ちまぎれなのか無理に、寿司を口に放り込んでいた。明らかに苦しそうに喘いでいる。
「一緒にいたって苦しいだけなのよ、胸が一杯になって。全然楽になんかならないんだから」
「うん」
翔のことを思い出しただけで、怒りや、嫉妬、穏やかではない感情に襲われる。
「でも、出会えてよかった。寺田君も、別れた相手に同じこと思ったりしない?」
「僕は……」
幸彦は図ったように顔を背けた。雪乃の散らかった皿を片づける。
「出会わなければよかった。出会わない方がいい出会いもきっとあるよ」
カヲリは同情した。幸彦ではなく、その恋仲だった相手に対してだ。カヲリも翔に過ごした時間を否定されたら、深く傷つくだろう
「寺田君はやっぱり不潔だよ。もう陽菜に近づかないでくれる?」
雪乃は二人の緊迫したやり取りを聞いていなかった。レーンにプリンが流れてきたのだ。これを締めにするつもりで、待ち構えている。
「それは西野が決めることさ。他人がとやかく言うことじゃない」
「そうやって! 寺田君ってなんかずるいよ。陽菜は本気で、貴方のこと……」
カヲリは思いを抑えきれず、椅子から立ち上がっていた。幸彦は感情を揺さぶられた様子もなく、湯呑みに口をつけた。
「君には関係ないだろ」
二人の間には、他人に預かりしれぬ深遠な思惑がある。そう釘を刺されたようだった。
最終決戦に臨むに当たり、雪乃は喉の通りをよくするためにお茶に口をつけた。レーンから、一瞬だけ目を離した。再び、目を戻すと、錯覚かと思われる事態に陥った。
「プリンが……、消えた」
座席はこうだ。雪乃、幸彦、カヲリと並んでいる。レーン左手から、皿が流れている。つまり、雪乃の手元に真っ先にプリンが届くはずである。雪乃の上流に客はおらず、カーブを曲がってくる所までは確認していた。
「どういうことだ、おかしいぞ。まるで時間がすっ飛ばされたみたいだ」
カヲリの手元で、からんと物音がした。空のカップの乗った皿がいつの間にか、カウンターに置かれていた。
雪乃は真っ先に嗅ぎつけ、カヲリに詰め寄る。
「おい! 何でプリンの皿がここにあんだよ。お前が食べたのか、おっぱい!」
「し、知らないわよ。プリンなんて」
身に覚えのないカヲリは、必死に頭を振る。
「この恨みは忘れないからな。わーん、兄ちゃん」
雪乃は幸彦に泣きつき、その場はことなきを得た。結局消えたプリンの行方は掴めずに終わった。




