人でなしの恋
男子中学生二人が、石塀の前で立ち止まっている。彼らは近所に住む少年たちで、日曜の朝、キャッチボールをしに行く途中だった。
「なあ……、F1の音しねえ?」
「はあ? 意味分からんし」
二人は両耳に手を当て、神経を研ぎすました。F1カーの魂を揺さぶるようなエンジン音は、露ほども聞きとれない。
「ほら、うぅんんんって」
「ははっ、しねーよ。だいたいこんな、狭い道……」
突如、地をひっぺがすような突風が、二人をひざまずかせた。遅れて、耳を聾するような爆音。アスファルトが焦げつき、煙が立ち上っている。
「ほら、ほら、言ったじゃん! 絶対F1カーだって」
「おお、おおっ!」
感激したように二人は手を取り合う。
「でもおかしいな」
二人の目線の先は、見通しのきく道路である。数十メートル先に、そんな目立つ車種は見あたらない。目端にすらひっかからないのは奇妙だった。
アスファルトに、くっきりと黒い靴跡がこびりついている。サイズは控え目で、女性のものらしかった。
コンビニ前でカヲリを待つ翔の耳にも、彼らと同じ異様な音が聞こえた。
道路を顧みると、信号待ちをするカヲリの姿を認める。
翔はひきつった笑みを浮かべ、手を振る。
髪を振り乱したカヲリが、満面の笑みで手を振り返していた。
「早かったな、電話切ってから三分も経ってないけど。家、ほんとに近いんだ」
カヲリが側に寄ると翔は何気ない手つきで彼女の髪を整えた。くすぐったそうに目を細める。
「そのネックレス、似合ってるよ。センスいいじゃん」
「そ、そうかな……」
カヲリは目を落とし、なかなか顔を上げられない。ほんの数日会っていなかっただけで、彼の声も手の感触も忘れていた。
ふと翔の顔を盗み見ると、彼はどこか上の空でカヲリの頭を撫でていた。
「どうかしました?」
「え? いや、何でもないよ。冷えるし、車乗んな。これでも飲んで」
翔から温かい紅茶の缶を受け取り、ワンボックスカーの後部座席のドアを開けた。助手席に乗るには、まだ覚悟が定まっていなかった。
カヲリはドアに手をかけたまま固まった。
後部座席には見慣れたショートボブのセーラー服女子が、しどけなく座っている。
カヲリは、静かにドアをスライドさせて閉めた。
間髪入れず、今度は内側からドアが開かれる。
「マジか!」
目を丸くして飛び出した西野陽菜が、カヲリの肩を叩いた。
「誰かと思ったら、やっぱカヲリだ。私服初めて見たー。ウケるー」
カヲリの心は氷点下まで冷え込む。思わず翔の脇を小突いてしまった。
翔は笑って誤魔化そうとする。
「いやー、これには訳があって」
「そうですか。西野さん、隣座っていい?」
「あいよ」
翔の弁解を半ば無視し、カヲリは車に乗り込んだ。シートにどっかりもたれこみ、翔が乗車するのを待つ。その間、陽菜と目を合わせずにいた。
翔が運転席に座る。
誰も言葉を交わさない。一分、二分、時間だけが無駄に過ぎていく。カヲリは唾を飲み込むのもためらった。
「あのさ」
陽菜が口火を切った。歌い出しそうに。
「私が悪いの、カヲリ。翔君に迎えにきてって頼んだから」
翔は鼻の頭に汗をかいている。彼の非を責めるように、カヲリは目つきを険しくした。
陽菜と翔は、カヲリよりも付き合いが長い。車に乗せるくらいなら許すことができる(本当はうれしくない)。
しかし、まがりなりにもデート当日に、他の女を先に乗せるのは、いかがなものだろう。翔の誠実さを疑った。
「ねえ、二人は付き合ってるの?」
翔も、カヲリも、揃って気まずそうに口を閉ざした。触れられたくないことにも陽菜は躊躇なく踏み込んでくる。
「別に私は、どっちでもいいんだけどさ。どうなのよ、カヲリ」
「えっと……」
時間を稼ぐように口ごもる。翔に、はっきり宣言して欲しかった。
煮えきらないカヲリを見放した陽菜は、翔に水を向ける。
「翔君は、どうなの……、おい、聞いてんのかよっ!」
何の前触れもなく激高した陽菜は、翔の座席を後ろから蹴った。翔もカヲリも震え上がる。
「ひ、陽菜ちゃん、少し落ち着こう。カヲリちゃん、怖がってる」
「ビビってんの、あんただろ? ねえ、なんで嘘つくの? チョームカつくし」
カヲリはぐったりとシートにもたれて、口をはんびらきにしていた。紅茶の缶を落としてしまった。楽しいはずのデートだったのに、台無しだ。
誰のせいだろう?
「嘘なんてついてないだろ。人聞き悪いこと言うなよ、怒るよ」
翔が若手俳優のような臭い演技で、陽菜を咎める。
「えー、そーなんですかー? じゃあ、カヲリに良いこと教えちゃうよ」
陽菜がカヲリに耳打ちする。翔はこれまで見たことがないような焦りを浮かべた表情で振り返ったのを、カヲリは呆然と眺めていた。
「さ、行こうか、カヲリ」
陽菜に手を引かれ、車を出ると、行き先を決めずに歩きだした。翔もすぐさま車外に出た気配があったが、二人は一瞥することもなかった。
「……、どうしてあんなことを言ったの?」
弛緩した表情で、カヲリがつぶやいた。
「知りたかったんじゃないの? 本当のこと。傷は浅い方がいいよ」
拒絶を起こし、首を強く振る。陽菜の二の腕を掴んで、力一杯揺さぶった。
「どうして今日なのよ! 私はただ……、こんな余計なおせっかいひどいよ」
「ただ? 何? つーか、あんたも知ってたんじゃん。翔君にカノジョがいるってこと」
カヲリもそれとなく女の気配に気づいていた。翔のマンションに行った時、歯ブラシや、女物のヘアピンを発見していたのだ。
「それでもよかったの! 私だってデートしたり、楽しい思いをしたかったの。西野さんみたいに」
「それって、あの男が約束してくれたの? 私みたいに? カヲリを? それって思い上がりだよ」
陽菜にまた見下されていると感じたが、彼女は笑っていなかった。真摯に目と目を合わせてきた。
「カヲリがカヲリとして大事にされないと意味ないよ。私と比べたらだめなんだよ」
「っ……、そんなのわかんない、わかんないから!」
陽菜は、カヲリの頭をそっと、抱き寄せた。
「わかんないこと、無理にする必要ないよ。あんたは何も悪くない」
カヲリは小さく嗚咽を漏らす。やがてその感情は大きなうねりとなった。
(2~)
カヲリと陽菜は、歩きがてらソフトクリームを買い、近くの公園で食べた。
そこはかつて、せっちんと、ニーナが死闘を繰り広げた場所でもある。不自然に伐採された木々と、青いビニールシートで覆われた遊具が、非日常の名残を留めていた。
「少し落ち着いた?」
陽菜の問いに、おずおずと頷いた。気持ちの整理はまだついていない。翔とまた顔を合わせれば、再燃するのは目に見えている。だが、ひとまず踏みとどまることができたのは、陽菜のおかげだ。
「ありがとう、西野さん」
「いいってことよ。アイスおごってもらったし」
陽菜は鼻の下にクリームをつけて、言った。
「これからどうする、カヲリ」
母とハクアの手前、今すぐ自宅に戻るのはためらわれた。
「少し、ブラブラして帰ろうかな。西野さんは?」
「すぐ帰ろうと思ったけど、どうせ暇だしなー、翔君を運転手にしとけばよかったね」
二人は和やかに目を見交わす。
「ひょっとして西野さん、私のために来てくれたとか」
「バッカ、違うって。帰る足がなかったから、あいつを呼び出しただけ。カヲリのことはついで」
「ついででも嬉しかった。ありがとう」
陽菜は、袖で顔を覆った。カヲリは陽菜の格好が気にかかった。
「ねえ、西野さん、どうして制服なの? 今日休みよね」
「決まってんじゃん。私がセーラー服を着ると世界一、可愛いから」
「恥じらいを見せた来栖先輩の方が可愛いかな」
「あ? もっぺん言ってみろ」
帰る足がない場所にいたということは、昨日は家に帰っていないのかもしれない。
「そういえば昨日……、もしかして、寺田君と?」
陽菜は鼻で笑い飛ばした。
「そういう下世話な妄想している暇あったら、男を見る目を養え。また騙されるよ」
「も、もう、その話は……、ギブで」
「あ、すまん。まだ回復してないのね」
陽菜は、カヲリの肩に腕を回した。
「女は失恋した数だけ強くなるって、あれ嘘だよ」
「うそうそ、何で」
「だって勝てなかった恋の方は永遠に残るじゃん。手に入らなかったんだもん。そっちの方が価値あると思わん?」
「うーん、どうだろ。早く忘れた方が生産的だと思う。西野さんは違うんだね」
陽菜は、幼子のように頷いた。
「愛に孵化できなかった恋が、呪いみたいにからみつくの。それが人を駄目にする」
「それって弱さなの?」
「そうだよ。カヲリがどう思ってるか知らんけど、私は、年相応に傷つきやすい女の子なの」
陽菜は立ち上がり、カヲリもそれに続いた。手を繋いで、公園の出口に走り出た。
「ね、カヲリ」
「うん、陽菜」
「蕎麦、食べに行こう」
(2~)
二人の女子が降り立ったのは、無人駅だった。沿線の終点で、田畑が目の前にあった。物置みたい、と、カヲリは感想を漏らした。
待合いに利用客が使用するノートがある。カヲリと陽菜は、そこに名前をサインした。深い意味はないが、連帯感と遠出の解放感で、カヲリの塞いだ気分も一新した。
「本当に、おいしいお蕎麦屋さんなんてあるの?」
「昔、お父さんと一緒に来たことあるんだ。ついてきなよ」
威勢良く請け負った陽菜だったが、田畑の他、これといった目印もないため、道を聞くはめになった。
「カヲリが道、訊いてよ。私、知らない人に話しかけるの苦手なんだよ」
腰の曲がった老婆が通り過ぎるのを横目に、陽菜がカヲリをけしかける。
カヲリが声をかけると、懇切丁寧に教えてくれた。若い人が来てくれて嬉しいという。蜜柑をもらった。
畦道を抜け、低い山の麓に水車つきの民家を見いだす。
「あれだ!」
陽菜は髪を揺らして、飛び跳ねる。駅から三十分くらい歩いただろう。カヲリは歩きながら蜜柑を皮ごと平らげていた。
店舗に改装された民家は、土間にテーブル席が四つ、満席だった。
「いらっしゃいませ、あらあ……」
色の白い、四十代半ばの女性が愛想よく出迎えてくれる。陽菜の顔に見覚えがあるのか、表情が一層綻んでいる。
「ひさしぶり、真央さん」
陽菜が顔を隠しながら、一歩前に出る。
店員の真央さんは、陽菜を抱きしめた。
「大っきくなったねえ。高校入った時、一度来てくれたからそれ以来か。今日は先生は一緒じゃないのね」
「あはは、残念、お父さんはまた今度連れてきてあげる」
「お願いねえ。うちの旦那寂しがり屋だから。そっちの子、友達? ごめんね、席空いてないから、二階の座敷にどうぞ、何だっけ、えーと」
「ざる蕎麦、二つ」
「はい、二名様ご案内!」
せわしなく二階に追いやられた二人は、座敷に靴を脱いで上がった。
「裏の畑で有機栽培してるの。そば粉も……」
陽菜の説明が耳に入ってこない。
カヲリにとって、食膳を待つ時間は何よりの苦痛だ。胃がきりりと痛むし、頭痛もひどくなる。
「今日、眼鏡してないの?」
陽菜に言われるまで気づかなかったが、普段かけている赤いフレームの眼鏡を家に置き忘れていた。
「急いでたから」
陽菜は卓上で腕を組んだ。
「それだけ今日のデートが楽しみだったわけね」
カヲリは陽菜の左手の薬指に目を留める。チープなリングが光っていた。
「それ、可愛いね。どうしたの?」
陽菜はとっさに反対側の手で指を隠す。
階下から、蕎麦と天ぷらが運ばれてきた。
さくさくの野菜天ぷらに、カヲリの目は奪われた。茄子、ししとう、シンプルだがそれがいい。
蕎麦は黙ってすするべし。
つゆとのコンビネーションは抜群だった。カヲリの喉にすさまじい勢いで蕎麦が吸い込まれる。
「あれ? もう食べちゃったの? 早くね?」
陽菜の蕎麦はまだ半分以上残っている。食が細いのではなく、カヲリの食べるペースが早すぎるのだ。
かといって、上体を伸ばして品位を崩さず、淡々と箸を運ぶ姿は、一種のエレガントさを醸している。陽菜はその姿に感服した。
「ここ、お父さんの同級生がやってる店なの。まだ誰も連れてきたことない。アイコも、マイも、他の娘も」
カヲリは、少しもの足りない腹をさすり聞いた。
「そんな特別な場所に、どうして私を」
「さあ、何でだろうね。わかんないや」
陽菜が他人を世話できる性質だとは、カヲリは思わなかった。一種の気まぐれだろう。振り回されないように気を張る。
「ねえ、カヲリ。翔君とはヤッたの?」
「ぶっ……!?」
カヲリの右側の鼻の穴から、蕎麦が一本垂れた。容赦の無い不意打ちに、なす術なく揺さぶられる。
「そういうことは、こういう場所で言うことじゃ……」
「えー、聞きたい聞きたい。ちゃんと教えないと駄目なんだよ」
幸彦を困らせる時のような、あざとい上目遣いでカヲリを催促する。
「ヤッてない」
「うそー、マジ? 翔君、手が早くて有名だから、とっくに食べられたと思ってた」
「私が悪いの。そういう状況には、なったけど、どうしても気持ちが固まらなくて。翔さんは、無理強いしなかったよ。私が大丈夫な時でいいって」
「あらー、大事にされてたんだ。じゃあ悪いことしたかな。案外、カヲリに夢中だったのかもね」
「ちなみに、翔さんのカノジョさんってどんな人?」
カヲリは興奮気味に陽菜に詰め寄っていた。
「巨乳」
「もういい、だいたいわかった。ありがと」
体をまっすぐに戻し、そそくさと話を打ち切る。翔は良い思い出を提供してくれた。人並みの女子としてエスコートしてくれたし、嫌な思いをさせられたことがない。感謝で胸が満たされていた。
「もういいの? カヲリ」
「母さんから、腹八分目って言われてるから」
「違うよ、翔君のこと」
カヲリは少し、むっとした。半ば強引に別れさせたのは、陽菜ではないか。
「私、別れろなんて言ってないでしょ。あんたの気持ちはどうなの」
「あの人のことはもういいわ。きっぱりあきらめる。やっぱり、道ならぬ恋は、生い先暗いもの」
陽菜は薬指にはめたリングを手でいじっていた。
「カヲリ、もし、道ならぬ恋が、手の届かない恋だけが、本物だったとしたら、どうする?」
カヲリは陽菜の言葉に反発するように、胸を張る。
「それでも、私は手を伸ばそうと思わない。だって私は、つまらない人間、ちっぽけな人間で、この先も悪い男にひっかかって泣きをみて、それで強くなったと錯覚するような弱い人間だもの。本物なんて、身分不相応だよ」
本物が似つかわしい、眼前の少女は、偽物のリングにご執心だ。何が彼女をそこまで引きつけたのか、カヲリは遠からず知ることになる。
「だよねー、カヲリと翔君じゃ不釣り合いだよ。もっと手じかな対象に目を向けるべきだと思うね」
「でも、好みのタイプって側にいないんだ」
「いるじゃん、側に。たとえば」
陽菜はにんまりとする。
「寺田幸彦君」
カヲリは陽菜の悪質な冗談を笑い飛ばす。
「そういうジョークは笑えないよ」
「あんた転校してきた当初、幸彦君に色目使ってたでしょ。だからムカついてたんだ」
自分が他人に与える印象を深く考える余裕は、その当時なかった。心細さで幸彦に縋ろうとした姿が、媚びていると受け取られていたのかもしれない。
「そんなつもりじゃ……、本当に」
「つもりがなくても、私はそう思ったの。嫉妬の理由としてはそれで十分」
嫉妬。自分は、陽菜に嫉妬を受けるような対象だっただろうか。路傍の石なのに。首をかしげる。
「カヲリは私にびびって、距離を置いた」
傲慢。蝶は蟻の気持ちがわからない。蟻は蝶の気持ちがわからない。距離が永遠に縮むことはない。
「そのくせ私が知らないうちに、幸彦君と仲良くなった。怒りたかった」
憤怒。怒りを覚えるのは、視界に入るから。蝶の羽ばたきが弱まる。
「でも怒るのめんどい。なんであんたなんかに」
怠慢。それは言い換えると、恐れを意味する。現状を壊して事態がよくなるとは限らない。
「あんたは私の日常をめちゃくちゃにした自覚なんてないんでしょう? 私は、このままでよかったのに」
暴食。いつものものをいつものように食べるのが健康の秘訣。過食は体を蝕む。
「私は、他人が私にないものを持つのが許せない。あんたはそれを持っていた」
強欲。過ぎたる欲は、物の価値を危うくする。どれだけ集めても同じなら、あらゆる物は無価値に成り下がる。
「人でなし。あんたは、恋の味を知るべきだ。何も持ってないのに、全てを持っているカヲリ=ムシューダ。私はあんたが、心底憎い」
色欲。勝手知ったる恋の味。毒より苦い恋の味。カヲリの知らない恋の病。
そう、西野陽菜は、全てを持っていた。まるで支配者のように君臨していた。だが、今やカヲリが憎いと言っている。とるに足らない少女に対抗心を燃やしている。
「陽菜は、本当に寺田君が好きなんだね」
陽菜が目に涙をため、歯を食いしばる様をカヲリは冷静に受け止めた。
「それなのに、私に押しつけて、あきらめきれる? 陽菜はさっき、言ってくれたよね。自分が自分のまま愛されないと意味がないって。陽菜の代わりも、私の代わりも誰にも務まらないよ」
陽菜も頭では理解している。だからこそ、納得のいく決着を模索して苦しんでいるのだろう。カヲリは胸が痛んだ。
「……、やっぱりあんたには、私の気持ちはわからない。もういいよ」
陽菜は匙を投げた。人でなしの恋の行く先は、定まらぬままだ。




