嫁入り支度
「ねえ、ねえ……、幸彦君!」
頬を紅潮させた西野陽菜が、しきりに幸彦の制服の袖をひっぱっている。
騒がしいゲームセンター内では、人声を拾うのも一苦労。しかも陽菜はわざと小声で幸彦を呼んで、聞き返させた。
幸彦は、クレーンゲームに挑戦する。偶然と計算が大事な要素とは言え、忍耐が何よりも求められるこのゲームは、陽菜の大のお気に入りである。それも人にやらせて、隣で眺めるのが好きときている。
幸彦は予期せぬ投資をせざるを得なくなり、懐が痛む予感を得た。
「あのクマが欲しいの? 西野」
「んーん、違ーう。あれがいい」
陽菜がカーディガンからわずかに伸びる指先で指したのは、小箱に入った指輪であった。
「あんな、オモチャ……、西野に合わないよ」
「えー。でもあれ欲しい。ペアだから」
幸彦はため息をついて、クレーンを操作し始め、仰せのままに遂行した。
ゲームセンターを出ると、十八時を過ぎている。ゲーセンの隣には大きめのカラオケ店がどぎついライトを放っていた。陽菜はそこの常連だが、幸彦と二人きりで入ったことはない。
「ん? どうかした? 幸彦君」
「いや、もう帰ろう。遅くなると家の人が心配するよ」
陽菜は不満そうに、幸彦の腕に自分の腕を絡めた。
幸彦が三千円近く散財して手に入れた指輪が、陽菜の中指に光っていた。
「もう片方、幸彦君に受け取って欲しいな」
幸彦は陽菜の顔を見ることができなかった。
「ごめん、今はまだ受け取れない」
陽菜は、誤魔化すように笑って幸彦の背中を叩いた。
「さっすがー、美来ちゃんもいるし、ゴメンね、変なこと言って。忘れて忘れて」
陽菜にとっては一大事だったこの機を境に、ニ人の関係は離れていく。
(2~)
一九九九年十二月十二日
新しい朝が来た。古い朝はもう来ない。今日は昨日と違うから。
カヲリ=ムシューダはベッドで身を起こし、あくびをしようと口を全開にした。
ベッド脇には大きななすびと、にんじんが転がっている。
にんじんの脇のジッパーが開き、ハクアが転がり出た。白ブラウスに包まれた両腕をうんと伸ばし、あくびをする。寝たりないのか、腫れぼったい目をし、眼鏡をせずにぼんやり座っていた。
カヲリは尻をかきながら、リビングに行く。小さい洗面台にある鏡の前で髪にブラシを当てた。隣ではハクアがおさげを作ろうと髪を撫でている。
母は気にせず、台所で朝食の準備をしていた。
「お前、ずいぶんのんびりですね。大丈夫なんですか?」
ハクアは身長が低いので、背伸びをしながら話している。鏡にキャストは映らないため、カヲリの目から見ると、ハクアの姿は反射していない。だが、ハクアはせっせと髪を整えているので気分を味わっているのか、キャスト自身は鏡に映る自分を視認しているのかもしれない。
「え、雪乃ちゃんのこと? もう少ししたら、電話してみようと思う」
昨夜、虎を退けたカヲリは雪乃の自宅に電話をしたのだが、雪乃ママは不在だった。無人のマンションに帰すのは酷だろうと考え、アパートに連れてきたのだった。
雪乃は至って健康で、ご飯をお代わりした。夕食を食べ終わると、これといった会話もなく死んだように三人は眠り今に至る。
「そうじゃありませんよ。お前、肝心なこと忘れてませんか?」
知らぬ間に、ハクアのおさげが片方完成している。カヲリの部屋でなすびが、みじろぎする。母がフライパンを素早く振り抜く。
「あああああああああああーっ!」
カヲリは絶叫し、壁に張ってあるカレンダーの元に這い寄る。カレンダーの当該日は、赤いハートマークで囲われている。
「き、きょ、きょ、にち、日曜……」
冷たい床に座り込み、目を見開く。眠気は一瞬で吹き飛んだ。
ハクアがカヲリの絶望をなめるように、顔をのぞき込んでくる。
「そうですぅ。Today is sunday。お前のデートの日なんですよ、カヲリ。まさかお前、本当に忘れてたですか?」
「だって、だって……、仕方ないじゃない。昨日あんなことがあったんだもん」
翔は、日曜日に迎えに来ると約束した。
心の準備も、身支度もできていない。時刻は八時半を過ぎた所だ。早ければ、九時にはやってくるかもしれない。
「あれ? でも翔さん、私の家を知らないんだわ」
翔とカヲリは、アパートから少し離れたコンビニで別れたのだ。
「電話してみるです」
「いや、それが……」
カヲリは翔の電話番号すら知らない。明治大学の学生証を見せてもらったが、それ以外知っていることは何も知らないのだ。
「あー、さてはお前、騙されてんじゃねえですか? 良いように遊ばれたです」
「違う! そんなことあるわけない」
カヲリは強く否定し、洗面台で顔を洗うとテーブルについた。
母は、何事もなかったように向かいに座ったが、カヲリの独り言はしっかり聞こえていた。
「デートだってね。この間の男かい?」
「そうよ」
カヲリは正直に答えた。
「だから言ったろ、ろくな男じゃないって」
「母さん、翔さんと会ったことないじゃない。すごくやさしいのよ。今日だって迎えに来てくれるって言ったし」
カヲリはテーブルをにらんだ。翔を信じる気持ちに変わりはないが、時計の針がやけに早く感じる。まだ九時だと思っていたが、もう九時に近づいている。
「母さん、あのね」
「今度、うちに連れてきなさい。約束できるなら、今日は行ってもいい」
鷹揚な母のお許しに、カヲリは椅子から飛び上がった。
「い、いいの?」
「そこまで燃えてるなら、縄で縛っても出ていくんだろ? わかってるよ」
カヲリは母に感謝し、喜び勇んで着替えに向かった。その後ろをハクアが興味津々の体でついていく。
「ただし、門限は五時だからね。破ったら承知しないよ」
(3~)
「ハクアちゃん、お願いがあるんですが」
カヲリは正座で、ハクアと向き合う。
「聞かなくてもだいたいわかりますが、一応聞いておきます」
「雪乃ちゃんのこと頼めない?」
母は日曜日もお店があるので、雪乃は一人取り残されることになる。マンションに送る時間もないし、雪乃ママが戻っている保証もない。
「あれもしたい、これもしたい。要するに、てめえのワガママじゃねえですか。あのチビと吾輩を巻き込まないで欲しいですぅ」
「わかってるけどさあ……」
雪乃は、なすび型の寝袋で、未だ眠りほうけている。いびきがかすかに聞こえてきた。
「雪乃ちゃんを一人にしたくないの。昨日も寂しくて私の所に来たんだと思う」
カヲリは、雪乃の頭のこぶを忘れていない。できれば、あのマンションに帰すのを遅らせたいのだった。
「はうぅ……、全く。誰かのせいで、くたくたですぅ。今日は骨休みに充てたいんですけどねえ」
ハクアは、せっせと眼鏡を拭き始めた。
雪乃と、せっちんは同時に存在できないという。それは何か合った時の備えが薄くなることを意味していた。
「本当に感謝しているわ。だからさ、ハクアしか頼みがいないのよ。この通り!」
カヲリが額を畳につけても、ハクアは見向きもせず、眼鏡を拭いている。
「お前の誠意は、その程度です? カヲリ」
はっ、として、面を上げる。意地悪に細められたスミレ色の瞳を凝視する。
「望みがあるのね……? それで引き受けてもらえるのね? 言って。早くしないと」
カヲリは着替えたくてうずうずしている。もし今、翔が自分の姿を見たら、幻滅するに違いない。
「労働には、それに見合うだけの対価が必要ですぅ。吾輩、ブッシュ•ド•ノエル、一台を要求しまあす!」
カヲリは涙を飲んで、頷いた。
「お願いしまああす!」
カヲリが奇声を上げて騒ぐのに耐えられなくなった母が部屋に踏み込もうとすると、固定電話が鳴った。手を伸ばせば届く距離だが、先に受話器を取ったのは部屋の奥にいたカヲリだった。
「はいっ! もしもし、カヲリでございまーす!」
語尾を不要に伸ばし、カヲリはワンコールで電話に出た。
「あっ、カヲリちゃん? よかった。すぐ出てくれて。俺だよ、翔」
翔の安堵のため息が、カヲリの耳をくすぐった。
「聞こえてる? カヲリ」
「はい! 申し訳ありません。お言葉拝聴いたしております」
カヲリの背後では、母が目を光らせている。色っぽい話はできそうにない。
「どうした、もしかして俺のこと忘れた?」
「いえいえ、滅相もない」
「まあいいや。すぐ出てこれる? 今、この間のコンビニからかけてるんだけど」
胸が熱くなった。やはり翔は自分のことを忘れたわけではなかったのだ。
「五分で向かいます。待っててください」
「気をつけてな」
受話器を置くのももどかしく、朝食を五秒で平らげ、血が出るほど歯を磨いてから、部屋に駆け込む。
ハクアが、カヲリのデート用の服をきれいに畳んで準備してくれていた。
カヲリは感激で目を潤ませる。
「なんて気のきく幼女なんでしょう! ずっとうちにいてもらいたいわ」
「くせーこと言ってないで、早く乳くりあいに行ったらどうです?」
「いっけね」
カヲリはブラウンのニットワンピース、首には先日買ったネックレスをし、玄関に向かった。黒のブーツを履き、母から財布を受け取る。
「無駄遣いするなよ。腹八分目」
「イエスマムッ!」
カヲリは威勢良く返事をし、玄関を飛び出した。鉄筋を打つような音を立てて、階段を駆け下りる。
ハクアは、一人部屋でほくそ笑む。
「ガキの子守の手間賃としては悪くないですね。ヒッヒッヒ」
なすびが向きを変え、雪乃の丸い顔が現れた。
「戦争みたいな騒がしさだな。なんかあったんか?」
「べっつにー。お前は何も心配せず、そこに転がってるといいですぅ」
ハクアに相手にされず、雪乃はしかめ面をする。
「おい、外人、この寝袋、内側にジッパーがないから、出られないぞ」
ハクアは寝転がって、漫画をめくっている。
カヲリの姿が見あたらないので、雪乃は心細くてたまらなくなった。
「ト、トイレ、行きたい……」
雪乃が身をよじって懇願すると、ハクアは寝袋ごと転がして居間に追いやった。
「わあー、何すんだ、このー、覚えてろよ!」




