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せっちん!  作者: 濱野乱
空蝉編
40/97

寂しいのはお前だけじゃない(後編)


過去、現在、未来。いずれも共通する事柄がある。不可逆性を持ち、常に一方向にしか進まないという事実だ。

現在は、常に過去の死をもって現在となし、未来は現在の死の上に成り立っている。未来は死に、過去、現在、という堆積層を形成し、サイクルは永劫かと錯覚するほどだ。

時間の死とは何を意味するのだろうか。一体誰が、過去の死を認め、現在を認めるのだろう。

ほら、現在が死に、未来がやってくる。未来は死に……、我々に追い縋る!


 (!)


小林雪乃は、鼻炎である。鼻が詰まって夜も寝苦しい。


兄の幸彦も、同様の症状を患っており、乾燥する冬場は互いの不遇を慰めあった。


「兄ちゃん、私、息が苦しい」


「鼻うがいをしてごらん。兄ちゃんが手伝ってあげるよ」

幸彦は温めのお湯に塩を溶いて、雪乃と鼻うがいを実行した。


雪乃は、お湯を鼻に入れるのがおっかないので、こっそりやったふりをしてお湯を捨てた。

「雪乃」

幸彦は、そういった卑怯を絶対見逃さないのだ。粛粛と雪乃の鼻を掴んで上向かせ、お湯を注ごうとした。

「うわーっ、兄ちゃーん、許してー!」

あられもない悲鳴を上げて、飛び起きた。

お湯を注ごうとする幸彦の姿はどこにもない。

雪乃は、背もたれつきの黒革の大きな椅子に座っている。目の前に大きな鏡があり、ゆる巻き髪の自分が、寝ぼけ眼で収まっていた。

ぼんやりする頭を左右に振り、改めて見覚えのない場所に不安を覚える。夢見が悪い。

とりあえず椅子から下りようとすると、背もたれが急激に後ろに倒れ、雪乃の視界は仰向く。


「わっ、わっ、わー!」

鏡とは反対側の壁にアナログ時計がかかっていたが、倒れた雪乃にはその文字盤が読めなかった。


体を起こし、椅子から飛び降りると水色の壁際に駆け寄る。


どうした塩梅か見上げた時計の数字は、鏡で映したように反転して印字されていた。

雪乃は目をこすり、何度も時計を見直したが、反転した数字が元に戻ることはなかった。


「なんてこった……、これは鏡文字。私は平成のレオナルドダビンチになってもうた」


雪乃の座っていた椅子は並んで二つ置かれており、鏡も同様だ。


「ここは……、床屋か」

棚に銀色に光る細いハサミを発見し、息を飲む


床屋で居眠りしていた理由は不明だが、外に出るのはわけなさそうである。窓ガラスを透かして、通りが見える。

店の中に人の気配はないし、奥の扉には鍵がかかっていた。長居は無用だろう。

入り口側には、レジカウンターと待合い用のソファがあり、時間を潰すための漫画も用意されていた。雪乃は反射的に飛びついた。


「おっ! こち亀じゃ。読んだろ」


漫画もご多分に漏れず、ページを開く向きも、文字も反転しており、雪乃を落胆させた。ソファに浅く腰掛け、頭を抱える。


「あー、どうなっとるんじゃあ。思い出せ、私は確か、おっぱいから逃げて、変な空き地で虎に出会って、それから……」


自分が床屋にいる経緯がどうしても思い出せない。確かランドセルを背負っていたはずだが、それも見当たらない


ふと視線を感じて顔を上げると、表に面した窓に、面妖な生き物が張り付いていた。


水色の毛並みをしたクマの着ぐるみが、窓の外側から顔を押しつけるようにして床屋の店内をのぞき込んでいたのだ。目玉は飛び出るように突き出て、半開きの口からは鋭い牙が覗いている。


「わ、わあああああっ!?」

雪乃が驚いてソファから転げ落ちると、クマは窓から離れ、逃走した。 


「ま、待て!」

雪乃が不審なクマを呼び止めたのには、理由がある。雪乃はあのクマをCMで見て知っていた。


クマの名前は、ムッシュ熊五郎といって、とある企業のマスコットキャラクターである。歌って踊るマスコットとして、子供に大層人気がある。雪乃も、クマ五郎のイメージPVビデオをいくつか観て感銘を受けた一人であった。


床屋の扉をこじあけるようにして開け、雪乃は通りを駆ける。


「待ってくれ、クマ五郎! 私、お前のファンなんだ」


雪乃が声を振り絞ると、クマ五郎は十メートルほど両腕をふりふり走ってから、立ち止まった。


「宇宙に行ったの観たぞ。すごいなあ、私も行ってみたいなあ」


クマ五郎は横目で、雪乃の挙動を伺っている。言葉は通じているのか判然としない。


雪乃は根気強く、クマ五郎を引き留めようと、ダンスを踊った。両腕を上下に振り、腰をクイッと持ち上げる。


「ほら、CMのダンスだ。うまいだろ」

雪乃の熱意が伝わったのか、クマ五郎は慎重な摺り足で近くに寄ってきた。


公式プロフィールによると、クマ五郎の背丈は、百七十五センチと記載されている。雪乃は実際、相対してみて、それより大きく感じた。へその所から綿毛がはみ出ている。雪乃が引っ張ろうとすると、控えめに拒否反応を示された。


「ここはどこなんだ」


雪乃は当たりの景色に愕然とした。

通りを挟んだ床屋の真向かいに木造の家屋がある。その隣は空き地であった。空は低い雲がたれこみ、肌寒い。


クマ五郎は雪乃のパーカーの裾を引っ張った。


「あっ! 何だ、何か言いたいことがあるんか」


期待を込めてクマ五郎を見守るが、両手を振り回すジェスチャーばかりで、要領を得ない。どこか切羽つまる様子に、雪乃はどうにかして寄り添えないか考えた。


「すまん。力になれそうにないのう。私は家に帰る途中じゃが、行けるところまで一緒にどうじゃ?」


クマ五郎は一度大きく頷いた。二人は手を繋いで、寂しい通りを歩きだした。

 

 (!!)

 

クマ五郎は着ぐるみという性質上、内部に人が入って演技をしている。


雪乃は、その程度の分別がつかないほど子供ではない。しかし、道中を共にしたクマ五郎に、正体を訊ねることをしなかった。あたかも手品師の手練を公衆の面前で暴くような無粋な真似をするのは、忍びなかったのである。


「ここはどの辺りなんじゃろ。もしかしたらカヲリの家の近くかもな」


二人は細い路地に折れた。雪乃は通りをまっすぐ進みたかったのだが、クマ五郎が譲らなかったのだ。


当たりには白い靄が立ちこめ、視界を阻んだ。見通しが立たず、疲労は普段の比ではなかった。


「はあ、こんなことになるなら、おっぱいの言うこと聞いとくんじゃった」


クマ五郎が雪乃の頭頂部のこぶに手で触れた。壊れものを扱うようで、痛みは感じない。ふかふかの手の感触に、気持ちが和む。


「なあ、クマ五郎、お前」


雪乃が疑問を口にしようとした時、クマ五郎が一件の家の前で立ち止まった。

 突き当たりにあったのは、瓦屋根の平屋で、庭に柿の木が植えられている。表札は黒く塗りつぶされ、読むことができない。番地は3ー10となっていた。

クマ五郎が敷地に首を伸ばしている。

「この家に用があるんか? クマ五郎」

強く顎を引くクマ五郎。

二人は家の表玄関に立つと、耳をそばたてた。家屋の中から物音一つしない。留守と判断した雪乃の側で、クマ五郎が引き戸を開けていた。

「あっ、こら、何してるんじゃ!」

雪乃の制止のかいなくクマ五郎は、土足のまま家の中に上がり込んでしまった。

置いてけぼりを食い、雪乃は戸惑う。クマ五郎は我が家のように遠慮なく木の廊下を歩いて、奥に進む。

意を決し、雪乃は家の中に入って後ろ手で戸を閉めた。

げた箱の上には、赤べこが置かれていた。

明かりがないので、廊下の奥は見通せない。

玄関を上がってすぐの所に襖があり、そこから咳払いが漏れてきた。

雪乃は足音を殺して襖に指を入れ、数センチだけ開いた。

四畳の部屋に布団が敷かれ、そこに妙齢の女性が上体を起こして座っている。藍染の着物に、どてらを肩にかけて、背を丸めている。

「あの葉が、落ちたら」

紅を引いた唇が震える。

庭に面したガラス戸が、女性の目線の先にある。庭の柿の木の枝には、一枚の葉が頼りなく揺れていた。

「私の命は、後わずかだわ」

「あほくせ!」

雪乃は黙っていられなくなり、部屋に押し入った。

「そんなことあるわけねえだろ。しっかりしろよ」

雪乃は後先考えず女性の部屋に入ったことを後悔した。警察に通報されても仕方ない。

女性は火照った顔で、雪乃を見るともなく見た。鎖骨が目立ち、手首は細く、握ったら折れてしまいそうだった。

「貴女……、ごほっ」

女性は苦しそうに空咳をした。雪乃は彼女の背中をさする。

「ありがとう」

「気にするな。それより勝手に入ってごめんなさい」 

火鉢を布団の近くに持ってきて、二人で暖を取った。

そのまま無為に時間を過ごしていると、クマ五郎が湯呑み茶碗の載った盆を持って現れた。

女性は、クマ五郎が持ってきた白湯と粉薬をなれた作法で飲み干した。

「体、悪いのか?」

「そうらしいわ。余命がないのは事実よ」

雪乃はがっくりと肩を落とした。

女性が雪乃を肩に手を回して抱き寄せる。熱っぽく、吹けば飛ぶような弱々しい体なのに、着物の上に盛り上がった胸が雪乃の注意を引いた。

「おっぱいでけえな、おばさん」

「まあ、なんてこと言うの、この子は。それとおばさんじゃないの。こう見えて、二十代なんだから」

やつれた頬に無理して笑みをこさえるのが、痛々しい。雪乃は目をそらしていた。

「貴女が、クマ五郎を連れてきてくれたの?」

「私が床屋にいたら、中を覗いてたぞ、クマ五郎」


「そうだったの。ごめんね、びっくりしたでしょう」


女性は雪乃を膝の上に座らせ、頭を撫でた。

「お礼をしたいけど、こんなものしか用意できないわ」

女性が手を軽く二度叩くと、クマ五郎が煮えたぎる鍋を持って部屋に現れた。ピンク色のミトンをして、二人の前に鍋を置くと、部屋の隅で体育座りした。

雪乃はすかさず鍋をのぞき込む。鍋の中には、ボリューミーな牛肉と、瑞々しい白菜、しらたき、焼き豆腐が、濃いタレにつかってグツグツ湯気を立てていた。


「やった、すき焼きじゃ!」


「喜んでもらえてよかった。一杯食べてね」

腰を落ち着けたクマ五郎だったが、諸々の準備のために一人大儀そうに立ち上がり、襖を開けて廊下に走り出た。


「なあ、あのクマ五郎、初号機だろ? どうしてこんなところにいるんだ?」


「あれは、私のパパよ」


「えっ!?」

雪乃は目を剥いた。女性は目尻に小さな皺を寄せる。


「冗談よ。パパがあれを置いていったの」


「ふーん」

部屋に格式高い仏壇があるのを、雪乃は気づいていたが見て見ぬ振りをしていた。


クマ五郎がちゃぶ台、炊飯ジャーと、箸、卵などの準備を整えてくれ、雪乃と女性は、鍋をつつき始めた。

「肉食べなさい、若いんだから」

「わかった」

雪乃はあまり箸が進まなかった。女性は病床の身だし、がっついて引かれるのは嫌だった。

「私のことやけに気にしてくれるのね。今日初めて会ったのに。優しい子なんだ」

雪乃は茶碗を持つ手に力を込めていた。

「おばさんとは初めて会った気がしないっていうか」

「奇遇ね。私も」 

女性は静かに箸を置いた。あまりに食が細かった。

「ここでクマ五郎と暮らしてるの?」

「そうよ。この家から出ることはできないの」

雪乃は想像を巡らせた。この隠れ家のような場所で、病に蝕まれ、満足に動くこともできない。過去の時間は果たして彼女を慰めているのだろうか。

「寂しくない?」

「クマ五郎がいてくれるからね。寂しく、ないわ」

クマ五郎は壁を向いて、体育座りをしていた。

女性はおもむろに首を横に振る。

「嘘ね。寂しかったのかもしれない。寂しいのは私だけじゃないのに」

雪乃も孤独に耐えきれなくなることがある。そんな時は、家族の思い出をなぞったり、兄やカヲリに会いに行く。女性にはそんな小さなワガママも許されないのだ。

「おばさんの寂しさは、私の寂しさは違うと思う。比べるものじゃないぞ」

「比べられないからつらいのよ。幸福も不幸も本当に比較できたら、あきらめもつくでしょうに」

柿の最後の葉はいつの間にかなくなっていた。風に耐えられなかったのだろう。

「時間は止まってくれないのね。平等だわ」

女性は脱力したのか、肩からどてらが滑り落ちた。

「おばさんは、私とこうしてる時間を大切だと思う?」

「え? ええ」 

「確かに時間は止まってくれない。平等だ。でも、おばさんの過ごしてきた時間は私とは違う」

雪乃は以前、人は独立して存在していると考え、奮起してきた。それは幸彦の教えでもあったし、福沢諭吉の本に書かれているように、独立自尊を目標としていたためだ。

自分より精神年齢の低い同級生に囲まれる時間は、無駄に感じられた。どこへ行っても軋轢は絶えなかった。解決策は、どんな書物にも記されていなかった。

カヲリと偶然出会った頃は、心がささくれだっていた時期でもある。母が帰ってこなくなり、気は張りつめていた。

カヲリは年上だが頼りなく、雪乃は当初見くびっていた。

カヲリは雪乃の心に踏み込んでくる。楽しい時は、一緒に笑い、つらい時は、一緒に泣いてくれる。認められている実感が、いつしか雪乃にも伝わっていた。

雪乃は同級生たちが苛立つわけが理解できた。彼らは同じ場所にいるのに、雪乃と同じ時間を共有できないことに苛立っていたのだ。

「時間は平等に流れないこともある。悲しいことも一杯ある。でも、楽しい時間は共有できる。そこは、平等でいいと思うぞ。私はおばさんに会えて本当に良かった」


白黒のブラウン管テレビをつけると、人形劇が放送されている。ひょっこりひょうたん島だ。雪乃はこの人形劇が物心つく前から好きだった。


二人は競うようにすき焼き鍋を平らげた。一度、箸を置いた女性も嘘のような食欲を見せた。

女性は茶柱の立った湯呑み茶碗を握る。

「もう帰りなさい。貴女を待ってくれている人がいるから」


計ったようなタイミングで、クマ五郎が襖を開けた。冷気が吹き込んでくる。

女性を一人残すのは、薄情な気がした。クマ五郎だけではあまりに頼りない。

「また来てもいい?」

「私たちは、違う電車の乗客。たまたますれちがっただけなの。もうここには来ないほうがいいわ」


女性は苦悶に満ちた表情で、口元を覆った。まるで自分の命運を見失うまいとしているようだった。

「一つ、いいかしら」

「うん、なに? おばさん」

「お父さんにあまり心配かけちゃ駄目よ」


念を押すように顔を近づけられる。

女性の迫真の形相に気圧され、雪乃は頷いた。


「私も会えて良かったわ、雪乃ちゃん。さよなら」


廊下を出ると、クマ五郎によって襖は閉められた。クマ五郎は頑として部屋に入れてくれない。


「あの、おばさん。誰かに似てたな。誰やろ」

雪乃は名残惜しそうに首を曲げた。

クマ五郎に付き添われ、廊下にある木戸の前までやってきた。

「ここになんかあるんか、クマ五郎」

クマ五郎は木戸を開けた。一畳ほどのスペースに、黄金色に光るアヒルのおまるが置かれている。純金なのか、小さい明かり窓から差し込む細い光を反射し、まぶしい。

「おえええっ! 何じゃこりゃあ。これがこの家のおもてなしかぁ! 馬鹿にするにもほどがあんぞ!」

クマ五郎によって木戸は閉められ、雪乃はうろたえた。

「見えないところに気を配るの! それが一番大事」

女性のはつらつとした声が外から聞こえた。

「いや、限度ってものがあるじゃろ」

冷静なつっこみをしているうちに、催してきた。

「う、うう……、私は大人じゃ。お姉さんじゃ。こんな”おまる”なんか使えるか」

戸は外側から押さえられていたが、突然支えが取れたように開く。雪乃は踏ん張り切れずに倒れ、気を失った。


 (!!?)


月下。

四肢で地面を力強く踏みしめ、弱々しく吠える一頭の虎。

口から伸びる白い息は、ようよう薄くなる。心の臓は激しく波打ち、光沢のある毛皮もそれに合わせ律動する。

丸岡高校では、野放しになった虎を捕らえるべく奮闘する者たちがいた。

せっちんは、早々と虎に戦闘不能にされ、中庭に転がされていた。

虎は、存在と時間を奪わなくなった。それもそのはず、現時刻、十九時三十七分。

不毛な諍いも長い膠着の末、終わりを迎えようとしていたのである。

カヲリ=ムシューダは、ハクアと共に、テニスコートで虎と対峙した。

「ここまでよ。雪乃ちゃんを返しなさい!」

ネットを挟んで、カヲリは虎にすごむ。

隣のハクアは帽子をなくし、おさげは片方がほどけている。意識もうろうとしながらも、前を向いていた。

「ググルゥウウ・・・・・・!?」

虎は目を細め、カヲリを視野に捉える。何かを訴えかけるようにわなないた。

と思うと、前のめりになり、虎はネットに倒れ込んだ。それから、ゆっくりと地面にくずれ落ちる。

「え・・・・・・?」

カヲリは、駆け寄ろうか迷う。虎が雪乃の時間を奪ったことは、ハクアたちから聞いて知っている。

今回の件は、虎を飼い慣らさなかった自分に責任の一端がある。そう考えていたカヲリは、積極的に虎を追いかけていた。

しかし、虎は今や同情を誘うような声を上げ、カヲリの進出を拒んだ。それは虎が、まだ子猫だった頃の鳴き声に似ていた。 

「私は、どうすればいいの? ハクア」

ハクアは、うろんげにカヲリを見上げる。

「そんなの吾輩に訊くんじゃねえです。あのガキを取り戻したかったら、自ずと答えは出ているじゃありませんか」

カヲリは右手に握っている、鍔のない八尺ばかりの太刀を胸の高さに持ち上げた。今は白塗りに鞘に納められたそりのある刀身は、人心を乱す化生の美。

この太刀は、せっちんが持たせてくれたもので、虎を確実に倒すことができる代物らしかった。カヲリの腕力では長くは持ち上げられず、すぐに地面に下ろさざるを得ない。

虎を斬ることで、雪乃は解放されると、せっちんは断言した。

これまでは時間経過で、キャストは解放されていたが、雪乃はいっかな戻る気配がない。ゲストとキャストでは能力を受ける影響にも差が出るのではないかと推測される。まして、雪乃は事情を知らない子供のため、一刻も早い救出が待たれた。 

カヲリの戸惑いに呼応するように、虎は太い声で人鳴きすると、突如、姿を消した。後に残されるようにして、小柄な人体がまろびでた。

「雪乃ちゃん!」

カヲリは太刀を放り捨て、ネット際に駆け寄る。ハクアは力が抜け、その場にへたりこんだ。

「大丈夫!? 返事をして、雪乃ちゃん」

雪乃の体を抱き起こし、懸命に名前を呼んだ。不思議なことに雪乃の寝顔は穏やかで、外傷はない。後は意識が戻れば安心だ。

「・・・・・・、肉まだ食べられるよぉ」

拍子抜けするような寝言に、カヲリは雪乃を抱いて倒れた。

虎を巡る物語は、これにて幕引きとしたい。それはカヲリの願望であって、第三者には関わりのないことである。虎はまだ死んだわけではない。カヲリは先送りすることを選んだ。それもまた彼女の時間との向き合い方である。

カヲリは雪乃を背負い、ハクアと校舎に向かって歩きだした。歩いているうちに、雪乃は意識を取り戻し、ハクアと会話していた。

「おい・・・・・・、外人。お前のおさげ、ほどけてるじゃねえか。直してやろうか」

「何で、お前にそんなことしてもらわなくちゃならないんですぅ」

「いいだろ。そうしたい気分なんじゃ」

「ふん、勝手にするといいです」

ハクアは衰弱しており、応えるのも面倒そうだ。

カヲリは雪乃の母に連絡を取るために、職員室の電話を借りた。夜遅くなったため、心配しているかもしれない。呼び出し音が早く途切れるように祈る。

「はい、小林です」

ほどなくして、電話口からあの母親のいけすかない猫なで声がした。

「あ、夜分遅くに申し訳ありません。私、先日、お宅にお邪魔しました、カヲリ=ムシュー・・・・・・」

次の瞬間、祈りを唾棄するような、事務的な音声が流れた。

「ただいま留守にしております。御用のある方は、発信音の後に・・・・・・」

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