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せっちん!  作者: 濱野乱
菊と刀編
4/97

Tiger in my love

ベッド脇のサイドテーブルに、小さなオルゴールが置いてある。オルゴールは小ぶりながら、精巧な作りをしていた。匠によるその造作は、世界に二つだけ現存する。

そのオルゴールからはありきたりで、控えめな楽曲が流れている。ベートーヴェン作曲のエリーゼのためにであった。

素肌を重ねた一組の男女がベッドの上で、その音色に耳を傾けている。一抹の寂しさは、酒と音楽でしか埋められない。彼らはそう信じて疑わなかった。

「ベートーヴェンって年下の女にばかり求婚したそうよ」

女は、やおらベッドから起きあがり、オルゴールに蓋をした。音楽が鳴りやみ、部屋に静寂の帳が下りる。

女は若く魅力的だった。スタンドの薄明かりに照らされた絹一つ纏わぬ裸身は、ほどよく肉付きがよく、艶めかしい。

傍らに寝ていた男が寝返りを打ち、女に背を向ける。嫌なことに耳を塞ぐ子供のように、女の声を遠ざけたかったのである。

女は眼鏡をかけると、裸のまま落ち着きなく部屋を歩き回った。

シーツの擦れる音がすると、女が我に返ったように振り返る。

「貴方ってずるい男ね」

女が責めるでもなく、呆れたように呟いた。

男は体を起こし、煙草をくゆらせていた。そして女が蓋をしたオルゴールを再び開いていた。

男はそれほど若いわけではなかった。髪には白いものが混じっていたし、浅黒い顔にも、年齢相応の疲れが見て取れた。だが、その瞳は野心に燃える少年のような活力に溢れていた。

「ベートーヴェンは本気だったじゃないか。俺も……」

男が苦々しくつぶやくと、女はベッドに這い上がり、男が咥えていた煙草を指で摘むと、自分で咥えた。そして男の顔に煙を吐きかける。

「そう、お馬鹿さん。ベートーヴェンと同じくらいのね」

男は卑屈に笑って、女の指から煙草を取り上げる。そして女の手を強引に引き、ベッドに押し倒した。

「今夜は帰らないわ」

「好きにしろ」

男の態度は素っ気なかったが、相手を本当に必要としていたのは男の方だった。握りしめた手の熱さが、それを物語っていた。



(*)


せっちんは、読んでいた本を閉じた。本の内容は、会社員の女が上司と不倫をする物語だ。

何故、彼女がそんなものを読んでいたかというと、美堂薫子の荷物から見つけたから。ただそれだけだ。

その小説ではフィアンセに捨てられた女が、妻子ある上司と不倫に走るのだが、せっちんにはこの小説の魅力が全く理解できなかった。

彼らは互いを失うことを極度に恐れていた。しょせんハードウェアに大差ないのだから、また別の個体を探せばいいだけなのに。個性などあってなきが如し。せっちんには大抵同じもののように見える。

目先の肉欲で物事の本質がまるで見えないのだろうか。嘆かわしい。どうして人は一人では生きられないのだろう。

と、せっちんは空の鍋を箸でかき回しながら不倫を考察しようとしていた。

三十人はゆうに入ることができる丸岡高校の寮の広い食堂には彼女だけしかいない。明かりも節電のため頭上の蛍光灯が一つ点灯している。テーブルの上には鍋と薫子の野菜が置いてあった。

たった一人。そう、せっちんは一つであり、十全である。本来は誰も必要としない。この概念は薫子も幸彦さえも理解できないであろう。それゆえ、彼女が人の繋がり、つまり愛の真似事を理解するのは困難だったのかもしれない。

「こら!」

いつの間にか食堂に入ってきた美堂薫子が、背後からせっちんの頭を小突いた。考えに没頭していたせっちんは、箸を手から落とした。ぼんやりとした顔で薫子の方に振り返る。

「おそかったの、わらわはくうふくじゃ」

せっちんは、ぺしゃんこのお腹を撫でて、薫子に食事の支度を機械的に催促した。

薫子は息を切らし、せっちんの言うことなど聞こえなかったように訊ねる。

「ちょっと大丈夫? 顔色悪いし。心配したんだからね」

薫子は、せっちんを背後から抱きしめた。薫子の温もりが不意にせっちんの忘れかけた感覚を刺激した。それも一瞬のことで、すぐにまた記憶の海原に飲み込まれて泡のように消えてしまった。

どうして薫子は動揺しているのだろう。理解に苦しむ。

十全であるが故の不足。やはり自分は孤独だ。



(*)


薫子は、せっちんの異変に肝を冷やした。

寮に急いで戻ってきたのは、不吉な予感があったためだ。

せっちんが心ない仕打ちに晒されるのではないかと不安になった。そして自分もその心ない仕打ちをする可能性のある人間であると自覚し、足が早まったのかもしれない。

薫子は幾分気を取り直し、訊ねる。

「ごめんね、遅くなって。お腹へったでしょう?」

「じゃからそういうておる。はようしたくをせい」

偉そうなせっちんに苦笑し、薫子は胸をなで下ろした。自分は違う。利己的な目的でこの子を傷つけたりしない。

「あら、寺田君はどうしたの?」

せっちんは目をそらした。きっとまだ二人は仲直りしていないのだろう。まだ一仕事しなくてはいけないらしい。

「へやのかたづけをすると、いうておった」

「はあ? 何よそれ」

落ち着きかけた神経が、ふいにまた高ぶりる。部屋というのは薫子の部屋のことだろう。一言どころか言いたいことが山ほどある。

薫子は、食堂をつむじ風のように出ていった。

「せわしないおんなじゃ」

せっちんは、つぶやいて鍋をかき回す作業に戻った。

部屋に行くと、目を見張ることになった。散らかり放題だった部屋が整頓されている。教科書は棚に、脱ぎっぱなしの私服がハンガーにかけられていた。

部屋にいた幸彦は、ばつが悪そうにうつむいた。

「ちょっと、どういうことかな?」

薫子が片眉をつり上げ詰問すると、幸彦は口を開こうとして、一度やめた。うまい言い訳でも浮かんだのかまた口を開いた。

「せっちんが散らかしたから、悪いと思ったけど入らせてもらったんだ。怒るのも無理ないと思う、僕が君の立場なら、良い気持ちはしないだろうし」

「そおね、でも正直に話したから、許してあげる」

幸彦は嘘をついていないだろうし、いずれにしろ探られて困る秘密はそれほど持ってこなかった。幸彦の困り顔をながめ、溜飲が下がったのだった。

「そう言ってもらえると助かるよ、せっちんのことも怒らないであげて。退屈でしたんだと思う」

「それより貴方って、結構几帳面だったのね」

「うん、散らかってるの耐えられなくって。ちょっと神経質なのかもしれない」

「もしかしてA型?」

「そう。美堂さんはO型っぽいよね」

「残念、貴方と同じAよ。っていうか貴方ちょっと失礼よ」

たわいない会話に、彼らはお互いの存在を確認して安心したように笑いあった。

薫子は幸彦の背後にある机に目を留めた。そこには小さなオルゴールが置いてある。幸彦は手にとって薫子にそれを見せた。

「これ、すごく綺麗な音が出るね。せっちんが見つけたんだけど……」

「触らないで!」

薫子は必死の形相で、オルゴールを取り上げた。呆気にとられた幸彦に弁明するように引きつった笑みを浮かべる。

「このオルゴールは、大切な人にもらったものなの」

「そ、そうだったんだ。ごめん、配慮が足りなくて」

「世界に二つしかないの。だからあまり他人に触ってほしくないのよ。私の方こそ取り乱しちゃって、ごめんなさい。こんなの持っててガキっぽいわよね、あはは……」

薫子は、オルゴールを小物入れに仕舞って、いつものように明るく振る舞う。

「さ、お腹空いたし、夕飯にしましょ。寺田君は手を洗って食堂で待ってて。私も着替えたら行くから」

「うん、本当にごめんね」

「もういいわよ、それじゃ後で」

幸彦が出ていった後、薫子は眼鏡をはずした。小物入れからオルゴールを取り出し、ベッドに倒れ込んだ。

「何よ、こんなの」

投げつけようとした手が止まる。

オルゴールは決められた音楽を奏でる。容れものが壊れない限り音曲は流れ続ける。永遠に。



(*)

 


幸彦は抜かりなくご飯を炊いておいてくれた。

しかし、待望の鍋を前にしても薫子の表情は優れなかった。

食事での会話もあまり弾まない。せっちんは黙々と鍋に箸をつけていたし、幸彦はそれを助けていた。せっちんは箸の使い方があまり上手くない。よくこぼすので前掛けをつけて食事をした。

薫子は先ほどの部屋でのことで苛立ち、せっちんに文句をつけてばかりいた。

「ほら、野菜食べなさいよ、野菜」

そのたびに幸彦が白菜を、せっちんの取り皿に放り込む。

体は正直だ。運動したので、薫子の食欲は旺盛だった。結局炊飯器のお米をほとんど平らげたのは薫子だった。

幸彦は食後のデザートにリンゴを切ってくれた。それを食べて人心地つくと、 せっちんがにやにやしながら、椅子から下りた。

「ゆきひこ、よいものをみせてやろう。ほれ!」

せっちんは止める間もなく、自分の着物の裾を捲りあげた。せっちんは黒のTバックを穿いていた。薫子にはそれが見覚えのあるものだったので、顔を赤くして裾を戻してあげた。

せっちんは場を和ませようとしたのかもしれない。しかし、余計に気まずくなり、幸彦は食器を片づけにいそいそとキッチンに向かった。

「ゆきひこは、うぶじゃの」

「こら! 何してんの」

せっちんの小玉スイカくらいの大きさの頭を軽く小突いた。するすると足下にTバックが落ちた。サイズが大きかったのだろう。

「私の下着勝手に穿いてんじゃないわよ、どっから出したの?」

「だんぼーるに、はいっとった。あと、おるごーるも」

薫子は蒼白になった。

「あれを出したのは貴方だったのね。勝手に人のものにさわらないでよ」

「わらわは、だいじなことをおしえてやろうとしただけじゃ」

「貴方から傾聴する意見なんて何もないと思うけど」

せっちんの表情が突如怜悧なものになる。薫子は少したじろいだ。

「ひとりでいるということは、つよいということではない。そなたは、がんばりすぎじゃ」

頭に血が上って、衝動的にせっちんに手を挙げそうになった。それをこらえ、テーブルに手をついた。

「貴方みたいな子供に……、何がわかるのよ」

二人の剣呑な空気は、幸彦が帰るまで続いた。

「僕は帰るけど、本当に二人で大丈夫?」

反目し合う薫子とせっちんに、幸彦は不安を隠せないようだった。

時間が遅かったので、せっちんを寮に泊まらせることにした。幸彦も賛成してくれ、その日は別れた。

「ねえ、貴方の両親は?」

せっちんは返事をせずに、薫子の部屋の方に走っていった。

そのままベッドの下の段に潜りこもうとした所で、首根っこを捕らえた。

「こら、シャワーくらい浴びてから寝なさい」

「おっくうじゃ」

薫子は、せっちんの体を脇に抱え、浴場に連れていった。お湯を張るのは時間がかかるので、今日はシャワーで済ますことにした。寮に学生はいなくても業者が掃除しているのか浴場はピカピカだった。広々としたこの浴場を今日から自由に使えると思うと、薫子の機嫌も直る。

「シャンプーハットしなくても平気?」

からかうと、せっちんはむすっとした顔でシャワーを使おうとした。ところが、お湯が出ない。ノズルの回し方を知らないらしい。ここでもせっちんの世話を焼く。

「髪洗ってあげる。座って」

風呂桶を持ってきてせっちんを座らせた。せっちんの長い髪をすくと、絹のような手触りで枝毛一本たりとてない。体も起伏はないが、肌も水をはじく弾力があって、薫子に嫉妬を催すのに十分な材料であった。

「感謝しなさいよね、私の計らいで今夜泊まれるんだから」

せっちんは涼しい顔で受け流す。

「りょうは、そなたのものではなかろう。ぶがいしゃのわらわをとめたことがわかれば、こまるのはそなたじゃ」

「可愛くないわね、そんなに私のこと嫌い?」

「すかぬ」

せっちんの髪と体を洗い終えると、先に脱衣所に行かせた。薫子も一通り洗い終わると、浴場を出た。

せっちんが三つある鏡の中央前に座って、ドライヤーで髪を乾かしていた。一糸纏わぬ威容だが、 薫子もそれに倣い下着だけつけて、隣に座る。

「昨日笑ったのは謝るわよ、もう水に流しちゃいましょうよ。こうして裸も見せあったことだし」

せっちんの脇をくすぐると、身をよじって笑いをこらえているのがわかった。

薫子もドライヤーで髪を乾かし始めた。せっちんの髪と違い、少し痛みがある。ため息が出た。

「私ね、高校の卒業文集で将来の夢は、お嫁さんって書いたんだ」

せっちんは意地の悪い笑みを浮かべた。

「げんじつは、ひじょうじゃの。やじゅうのように、そだっておる」

薫子も笑った。事実に沿っていると思ったのだ。

「そこそこの大学出て、就職もして。我ながらうまくやれてると思ったんだけどな……」

せっちんの言う通り、現実は非情だった。薫子は心の傷から逃げるために、この学校にいるようなものだったから。

「お姫さまになれない女の子はどうすればいいと思う?」

せっちんにこんな問いは、無駄だとわかってはいたが、同時に明快な答えも示してくれるのではないかと、淡い期待をしてもいた。いつの間にかせっちんを、ただの子供ではなく、一人の自立した人間と見なすようになっている。

せっちんは髪をすいていたが、あっさり口を開いた。

「きぎょうせんしにでも、なるほかあるまい」

「それもいいかもね、仕事に生きるのも、ありかもしれないわ。しばらくは」

薫子の迷いをせっちんは見抜いている。だから幸彦のようになついてくれないのだろう。そう思うと複雑な思いがするのだった。

せっちんには、薫子とお揃いのピンクのスウェットを着せた。薫子のサイズなので、袖に指が隠れていたし、裾を踏んでいたが、それしかないので仕方ない。

せっちんの歯を磨いてあげて、トイレにも行かせた。本当に手の掛かる子供だ。少し期待したが、便は出なかったらしい。焦らせるのも可哀想なので励ますだけに留めておいた。

せっちんをベッドの上の段に寝かせてから、肝心なことを忘れていたことを思い出す。

「あっ! いけね」

寮の管理人も逃げてしまっているので、戸締まりも薫子一人でしないといけないのだった。

「戸締まりしてくるから、先に寝てて。おやすみ」

部屋の電気を消して、廊下に出る。明かりのない廊下は少し不気味だったが、薫子は夜目がきくため、悠々と進む。

今夜は猛烈な風が吹き、窓ガラスが大きく揺れた。木々のざわめきも明らかに普段と違っている。

薫子が使っている部屋は、二階の角部屋である。女子寮は三階建てで、各階に部屋は三つある。一階は食堂と浴場、談話室がある。

正面玄関の鍵をかけ、安堵していると玄関のガラスの向こうに何か蠢く気配がした。

目をこらしたが、濃い闇が広がるばかりだ。もっとよく調べたい、薫子の本能はそう囁いたが、同時に寮を決して出てはならないという経験則が惑わせた。

結局は経験を信じて、きびすを返した。ゴミが風にでも煽られたのだろう。見間違いだ。

寮の外には、動くものが確かにいた。黒い塊であった。粗雑でひどく粘着質な泥のような物体である。大きさは大人一人分をどろどろに溶かして山盛りにしたくらいだ。

ただ言えるのはその物体が、ひどく醜くく、いとわしいものであるということだけだろう。

その黒い塊は一つの塊だったがやがて、油が広がるようにいくつにも分裂した。

黒い塊は今や別の形態を取っていた。黒い四肢を持つ獣がアスファルトに爪を立てた。

「ヴ、ヴヴ……」

醜い獣が低いうなり声を放つ。

薫子の判断は、正しかったと言わざるをえない。

この時、もし外に出ていたら、直ちに好まざる状況に置かれたろうから。



(*)


薫子は部屋に戻り、せっちんのベッドを覗いた。せっちんは、規則正しい寝息を立てていた。

薫子は微笑してから、そっと足音を忍ばせて自分のベッドに入った。

上司の報告をし忘れていたが、今夜はやめることにした。あの男の声を聞きたい気分ではなかった。

肉体は疲労していたが、なかなか寝付けなかった。風の音が耳障りだ。神経が高ぶる。酒でも煽りたい気分だったが、寮にそんなものはない。

「ねむれぬか?」

眠っていると思ったせっちんが、ふいに話しかけてきた。

「枕が違うとどうもね。貴方も眠れないの?」

せっちんが寝返りを打つ気配が伝わってくる。

「わらわは、かみゆえ、ねむるひつようがない」

「ふふっ……、そうだったわね」

薫子の高ぶっていた気持ちも、せっちんと話しているうちに不思議と落ち着いてきた。眠りに落ちる前にせっちんに訊いておきたいことがあったのを思い出した。

「貴方って、かみさまなのよね?」

「……、そうじゃ」

「じゃあ、私がこれからどうなるか知ってるの?」

せっちんの寝息が聞こえてくる。かみさまでも眠るのだ。薫子も眠気に勝てなくなり、意識を失った。

どれほど時間が経っただろう。突然、せっちんは目をぱっちり開き、体を起こした。ベッドを下りると、眠っている薫子を揺さぶった。

「何よ……?」

浅い眠りから覚めた薫子は目をこすりながら、枕元の時計に目を凝らした。深夜一時十五分。

「おしっこでも行きたくなったの? ちょっと待ってね……」

「ちがう!」

薫子は一瞬で意識を覚醒させられた。せっちんが必死の形相で手を握ってきた。

「……、恐い夢でも見たのね?」

せっちんは、今にも泣き出しそうな顔で首を横に振った。

「わかるように説明できる? そうじゃないとどうにもできないわ」

せっちんはそわそわと辺りをうかがった。まるで闇の中に何かが潜んでいるかのように警戒している。

「よくないものが……」

「ん?」

今やせっちんはベッドにもぐり込み、薫子に抱きついていた。ひどい怯えが伝わってくる。

薫子は少し乱れた髪を整え、せっちんの小さな体を抱いた。

「恐がることなんてないわ、私がいるから。何か物音でも聞いたの?」

せっちんは、こぎざみに頷いた。

「風の音かもしれないわよ? 人が侵入してきたら、私が気づくと思うし」

「人ではない」

せっちんの答えは要領を得ない。薫子は困惑してどうするべきか考えた。

「じゃあ私が見てくるわ。泥棒でもいたら倒してくるから」

薫子は自信に溢れた声で言うと、懐中電灯を持って、せっちんと一緒に廊下に出た。せっちんは胸の前に片手を当て、所在なさげにしていた。それでも一人でいるよりましらしい。

馴れない場所に突然連れてこられて、不安を感じているのだろう。薫子の配慮が足りなかったのかもしれない。

「ほら、見て、せっちん」

薫子は指で狼を作り、壁に光りを当てて影絵を見せたが、せっちんの反応は薄かった。探索が終わったら一緒のベッドに寝てあげよう。

三階には何もいなかった。薫子はあくびをしながら、二階の踊り場まで戻ってきて、一階の探索をしようか考えた。

せっちんは、一階に通じる下り階段をじっと見つめていた。

薫子が探索は中止して、部屋に戻ろうと口を開きかけた時だ。

低い、獣のうなり声が聞こえた。

薫子は風の音がそう聞こえたのだろうと、気にもとめなかったが、せっちんは違った。

薫子の手を引き、後ろに下がった。その目は、吸いつけられたかのように階段の一点を凝視していた。

「ちょっと、どうしたの?」

せっちんは、歯の根の噛み合わないほど震えていた。

薫子は息を大きく吸い込んだ。

「そこに誰かいるんなら、今すぐ出てきなさい!」

静謐な建物内に、声はよく響いた。階下からは、衣擦れの音一つしなかった。気配もない。

恐らくせっちんは、子供らしい想像力で闇の中にありもしない幻想を視たに違いない。自分の体験に照らし合わせ、薫子はそう結論づけた。

「ヴ、ヴ、ヴ……」

再び獣のようなうなり声を耳にした。先ほどより、近くに感じた。

薫子にも不安は伝染し始めていた。氷点下の冷え込みのはずなのに、こめかみには汗がにじむ。

せっちんが後ろに下がろうとより強く、手を引いた。彼女の口から小さな悲鳴が漏れた。

薫子はせっちんが見つめる先に懐中電灯を当て、目を凝らした。初めは何もいないと思っていた。

しかし、それは薫子たちがこの場所に来る前からそこに存在していた。

階段を一段、一段、上る手足、ぴちゃぴちゃとまるで泥が跳ねるような音を立て、それは姿を現した。

獣のような四肢を持つ姿のそれが生物だと、薫子は認識できなかった。否、物質であるとも断定できなかった。その奇妙な誤謬が、彼女の鋭敏な知覚を惑わせたのは事実である。

あるいは、この学校に来る以前に、この獣に出会っていれば、薫子はすぐさま寮を脱出する選択肢を選べたかもしれない。

危険。

命の灯火が消える刹那、薫子の脳は、遅すぎる判断を下した。獣に出会ってわずか数秒のことだった。

「せっちん、逃げ……」

薫子が振り返るより早く、獣は一気に距離をつめていた。

無音の跳躍。薫子の首筋を狙って。

薫子は逃げるのをあきらめた。しかし命を捨てたわけではない。

懐中電灯を放り、獣に向き合うと、体を沈めた。獣の腹を抱え込むようにして両手で掴み、その勢いを利用して投げ飛ばした。獣は闇に吸い込まれるように廊下に消えた。衝突音はしなかった。

目視しても、悪夢のような印象は拭えない。あの獣は異質な何かだ。せっちんが、あれにおびえていたのをようやく理解した。

「今のうちに逃げるわよ」

手を強く引くと、せっちんはズボンの裾を踏んで膝をついた。

「……、ヴ、ヴ」

濃厚な殺気が薫子を包む。

恐らくせっちんを抱えて背を向けたタイミングで、自分は殺される。爪か、牙か。そんなものは一度も見ていないのに、そんな予感があった。

薫子は、せっちんを階段方向に力の限り突き飛ばした。これが自分にできる最善の行動。

獣が今さっき、せっちんがいた場所を通過する。

その瞬間、薫子は自分の肩の骨が砕け、肉の断ち切られる音を聞いた。



(*)


「どこまで話してたっけ? うちが父子家庭だったところまでよね」

薫子は壁を背に両足を投げだし、座っていた。

せっちんは、薫子の正面でぺしゃんこ座りをして、食堂のドアに目をやっている。

食堂のドアから二人がいるところまで、まだ乾いていない血痕で道ができていた。ドアの前にはテーブルを幾重にも重ねてバリケードが作られていた。そのドアは外側からゆっくりと押し広げられようとしている。力任せではない。あくまでこれからそちらに伺いますよという配慮でもあるかのようにじわじわと外から力が加えられているのだ。もちろん人間の力ではそんなことは不可能だった。

薫子のスウェットは、出血でピンクというより、どす黒くなっていた。左肩から胸にかけてがもっとも色が濃い。

薫子は声を出すのもやっとの弱々しい呼吸で、せっちんと話をしていた。

「けがのぐあいは、どうじゃ」

「聞かなくても、わかってるでしょうに。もう左腕は駄目みたい。やっと繋がっている感じよ」

肩に食いつかれた時、薫子をしめたと思った。あの獣は首を狙わなかったのだ。左肩はわざと食わせるつもりで差しだし、その隙にせっちんと食堂に逃げ込んだ。

出血は予想以上にひどい。だが臓器にまではダメージは及んでいないのは、不幸中の幸いだった。

薫子は昔語りを再開する。何か話さないと、意識が飛びそうだ。

「私のパパって、馬鹿だったわ。学歴がないとかそういうんじゃなくて、本当に愚直だったのね」

「ばかなら、おなじではないのか」

せっちんは、薫子の服の上からタオルを当てた。彼女はスウェット脱がそうとしたが、薫子が止めた。寒いからと。

「娘を世界一強い人間にしたいって言い出したのよ。それも競技レベルじゃなくて、どんな環境にも打ち勝てる新人類にしたかったらしいわ」

せっちんは、鼻を鳴らした。

「くだらぬ。じょうしゃひっすい、かたちあるものはいずれほろびる」

父はそう思っていなかったようだ。娘に対して苛烈な教育を施した。調教と言っても過言ではなかったらしい。子供の頃の写真を見ると、子供らしい表情は一つもない。まるで獣のようだった。

薫子は五歳の時、ろくな装備も持たされず、冬山に置き去りにされた。父は一週間迎えに来なかった。

十歳の時、アフリカのサバンナに裸のまま放置された。猛獣に襲われることも脅威だったが、それ以上の強烈な飢えを経験し、恐怖した。一ヶ月、泥水をすすり生き延びた。

小学校にもろくに通わせてもらえなかったため、他人とほとんど交わらずに育った薫子は、自分の存在に疑問を持つこともなかった。

アフリカから日本に帰国した薫子は、とある研究機関に協力することになった。この機関は父の考えに同調するどうしようもない大人の集まりだった。研究の名の下に薫子の体をオモチャにして、彼らはそれなりの成果を得たようだ。

当時のことはあまり記憶にない。脳波を測定されたのはぼんやりと覚えている。

研究者曰く、

「薫子君、君は特別な存在なんだよ。凡人は脳の力をほんのわずかしか使えない。君はその忌まわしい制約を断ち切る可能性を握っているんだ」

「モテモテになる?」

当時の薫子はモテモテという単語を繰り返し使っていた。心の奥底で捨てられるのではないかという不安を持っていたのかもしれない。

「そうだね、天国のその先に行けるよ。私が保証しよう」

研究者は薫子のスペックを過大に評価していた。身体能力が上がるにつれ、感情の減退、言語能力の低下が見られた。意味のある文章を話すことができなくなり、単語の意味を忘れる。人の顔と名前が一致しなくなったが、父親の顔だけは忘れなかった。一点を見つめる、指さしをする、幼児退行のような症状。食事、排便も一人では行えなくなった。研究者は何とかその退行を止める方法を探すのに躍起になっていた。

特殊な合金製の檻の中で這い蹲り、皿に口をつけて食事をする薫子を前にしても、父だけは満足そうだったという。それが彼の望んだことだった。

娘が獣に堕ちるのを望んでいた父は非難されるべきだろうか。薫子は、しかし恨んでいない。

今でも時々、幼い頃の夢を見る。研究所ではなく、サバンナにいた頃の夢だ。十歳の薫子は、広大なサバンナで父を待っている。幾日も飽きることなく。結局夢の中で、父は現れない。

いつか必ず父は迎えに来てくれる。薫子は父の愛を信じていた。

結局、実験は失敗し、研究機関はひっそりと解体された。父親は失踪し、薫子は施設への入院生活の後、北海道に住む母方の伯母に預けられた。

伯母は薫子を普通の女の子に育ててくれた。伯母はよく耐えてくれたと思う。

獣となった薫子が人間の生活に戻れるまで、三年を要した。薫子は十六歳になり、高校生になった。

それまでの遅れを取り戻そうと薫子は、貪欲に学習した。生まれて初めての同年代の人間との共同生活。うまくいかないことが殆どで、たくさん泣いた。だが、高校を卒業する頃には、人並みの女性へと成長していた。

大学へと進学し、将来を誓う相手にも巡り会うことができた。

順風満帆な生活の中にも、薫子の脳裏にふと父親の面影がよぎることがある。果たして自分の人生はこれでいいのだろうか。自分が生きる場所は本当にここなのだろうか。あのサバンナの乾いた風が懐かしい。アイデンティティーの喪失。薫子はやはり不完全な人間だった。

エゾテーに就職した後もそれは変わらなかった。仕事の多忙を理由に恋人を避け始めたのは、平凡な家庭を持つことに恐れを抱いたからかもしれない。

「ざまあないわ、恋人を大学の後輩に寝取られたのよ。そんなもんなんだろうって、納得してたつもりだったわ」

その後、薫子は逃げるように上司との不倫に走り、秘密はすぐに露見した。

この学校の調査とは名ばかりで、やっかい払いだろう。おいそれと解雇できないため、不可能ごとを押しつけられた。

そして今に至る。

「利用されたなんて可愛いこと言うほど若くないわ。私も彼を利用したの。だからこれはその罪滅ぼしってわけよ」

薫子は乾いた笑い声を上げた。傷口に響く。

せっちんは、薫子の血で汚れた自分の手のひらを見つめて言う。

「そなたは、とくべつなにんげんではない。そなたのちちも」

「知ってるわよ、そんなこと。だからここで」

死ぬ。

死は恐ろしいものだと以前は考えていた。しかし、もう戦わなくてすむと思うと、安堵もした。

「”し”をかんじゅした、にんげんがそんなかおをするかえ?」

せっちんは袖で薫子の顔をごしごし拭いた。

「ねえ、教えて? 私今どんな顔してる?」

「ないておる」

薫子の命が流れ出すように、瞳から涙が止めどなく流れ落ちていた。唇が最後の言葉を紡ぎだした。

「迎えに、来て、パパ、私、ここにいるよ……」

せっちんは薄笑いを浮かべた。

薫子の死に際にやっと笑うなんて。この子はきっと死神だったのだ。助けて損したかもしれない。しかし、せっちんが死神だったとしても、死に際に笑顔を見ることができた。悪くない生涯だった。

「やっと、そなたの”まこと”がきけた」

せっちんは、おもむろに立ち上がり、とことこと薫子の視界から消えた。といっても食堂から出たわけではなかった。

それから、

「……、ふんっ!」

せっちんのものとは思えぬ野太い声がしたと思うと、床が振動した。何か重量のある物体が床に落下したようだ。

せっちんが、再び薫子の前に姿を現した時、彼女は一振りの太刀を重そうにひきずっていた。介錯でもしてくれるのか、せっちんにしては気が利くと思っていたら、太刀は薫子の膝の上に落とされた。刀は以外と軽かった。まるで質量を感じさせない。

「どういうつもりよ、もう自殺するだけの気力なんてないわ」

「はやとちりするな。そなたは、この”きくいちもんじ”でたたかうのじゃ」



(*)


 

「きく、いちもんじ……、どこかで聞いたことあるような」

薫子は首を傾げた。頭は霧が晴れたようにすっきりしており、痛みは嘘のように引いていた。膝の上の刀が力を与えてくれるようだ。

「ああ! 思い出した。司馬遼太郎の小説に出てきたわ。確か幻の名刀、菊一文字則宗……」

「それは”しば”のそうさくじゃ」

せっちんは即座に否定した。

「夢がない子ね。まあいいわ、どうせ本物かどうかわかったものじゃないし」

今は刀の来歴なんてどうでもいい。この菊一文字なら戦える気がする。

鍔のない反りのある刀身は白い鞘で守られていた。

左手の感覚は相変わらずなかったが、立ち上がることはできた。体が運動した後のように温まる。

口で鞘を噛み、刀を抜いた。月光のような青みある輝きを放つ刀身が現れた。

一連の研究で刀を使ったことはあるが、薫子の腕力が発達しすぎて、皆折ってしまったことを思い出した。だが、これは紛れもない業物だ。薫子は悟った。

バリケードが崩され、ゆっくりと扉が開かれる。

「私が倒れないように、祈ってて」

薫子は鞘を口から離し、入り口に向かってゆっくり歩きだした。

鞘が落ちると同時に獣は食堂に内部に吶喊し、壁際に立っていたせっちんに肉薄した。

しかし、

「不思議ね、さっきは目で追えても、体がついていかなかったっていうのに」

薫子は獣の背後から、頸つい当たりに狙いをつけて、菊一文字を突き立てていた。

獣は一声も上げることなく、絶命した。体は、炭くずのようにぼろぼろに崩れ消える。

薫子はそれを待つことなく、刀を口にくわえ、せっちんを持ち上げ、頭上に放り投げた。

獣が二体、左右から薫子たちのいた場所を挟み撃ちした。せっちんは、その様を地上から三メートル当たりから、見下ろした。

薫子は獣の一体を袈裟切りに、もう一体も同じ末路をたどった。

せっちんは胎児のように体を丸め、落下する。

獣を始末した薫子が菊一文字を床に突き立て、ちょうど落下してきたせっちんを右腕に載せた。

薫子は肩で息をしていた。瀕死の重傷を負ってなお、人間の限界を超えた動きをしてみせたのだ。

せっちんを床に下ろすと、薫子は大の字に倒れた。

左肩からの夥しい出血が水たまりを作る。しかしその顔は、満足そうな笑みをかたどっていた。

「いくのか?」

せっちんが無感情に訊ねた。

「それが摂理みたいよ」

「さようか……」

「私、わかった気がするの。パパが何を求めていたのか」

父親はあの獣を探し求めていた。薫子もまた父の望みを叶えたかったのだと思う。

「あの獣は、私の内にいたのよ。だからパパは……」

己に住む獣を飼い慣らすこと。結局、薫子にそれができただろうか。せっちんに手助けしてもらってやっとだったし、こうして死に瀕している。

「貴方の望みを叶えてあげられなくてごめんなさい。きんのおまるは、寺田君に見つけてもらって」

せっちんは、寂しそうに首を振った。

「きんのおまるは、ゆきひこ、ひとりではみつけられぬ」

「そうなの……?」

「そなたも、じぶんじしんをひとりでみつけられなかった」

薫子は一人ではなかった。父の愛に包まれて今日まで生きてきた。せっちんもまた、薫子を必要としているのではないか。この体が動かないのが悔やまれた。

「バッカじゃねーの!」

声のする方向に、薫子は首をなんとか持ち上げた。知らぬ間に崩れたバリケードの上に二人の人間が座っていた。

一人は赤毛のポニーテールの少女だった。チューブトップに黒のレザージャケット、デニムのショートパンツ、ブーツを履いていた。獰猛そうに笑っている彼女が声の主らしい。

もう一人は青髪に白い振り袖の少女だった。裾からは、雪のように白い素足が覗いていた。頭に白百合の花弁を挿している。こちらは、薫子たちに目もくれず、明後日の方を向いていた。

「教えといてやるけどさあ」

ポニーテールを揺らして、少女は立ち上がった。

「あんたの父親はあんたを愛してなんかいなかったぜ。ただただ、道具としての利用価値を求めていたんだ。だから使えないとわかって、すぐにポイしたんだろ?」

薫子は反射的に身構える。

「貴方誰よ? パパの何がわかるって言うの」

薫子は刀を杖にして立ち上がったが、歩くことは到底無理だった。

「おお、こわ……」

そう言いつつ、赤毛の少女は軽い足取りで、薫子の顔スレスレまで、歩み寄った。

「威勢は良いけど、もう死相出てるよ? オバサン」

衰退しかけた薫子の命の火が、再び燃え上がる。

「私はまだ二十代だ!!!!」

激高した薫子は菊一文字で、横薙ぎに素早く斬り払った。赤毛の少女は、危なげなく身をかわした。一足飛びで刀の攻撃範囲から逃れる。

「うっひゃー、まだそんな元気あんの? 信じらんなーい。ヤバーイ」

少女が哄笑する声を聞いているうちに、薫子の意識も遠くなってきた。ついに膝をついたが、この二人は普通の人間ではない気がする。まだ倒れるわけにはいかない。

「ほうっておきなさいよ」

口を開いたのは、白い振り袖の少女だった。ぼそぼそと活気のない話し方だった。

「どうせその人は死ぬのだから、美しい思い出を冥途の土産にしてあげたら?」

「それウケる」

「オバサンを悲劇のヒロインとして死なせてあげるの。クスクス」

ジャケットの方が、ニーナ。振り袖の方が、ナノ。

立ち上がって二人は手を繋ぎ、頬をくっつけた。こうしていると、対照的に見えた二人は、まるで双子のようにうりふたつの顔だちをしていた。

「貴方たちは、何者よ?」

満身創痍で刀を構える薫子に、二人は気味の悪いほど声を揃えて返答する。

「私たちは、混沌の守護者。キャストだよ」

薫子は右手だけで刀を構えるのに疲弊し始めている。剣先を下げまいと必死に耐えた。

「答えになってないわ。ちゃんと答えないと、ひどいわよ」

せっちんは薫子の後ろで、ことの成り行きを静観している。獣に対峙した時より、動揺は少ないらしい。

「あたしたちが言えるのはそれだけなんだってばー。ちなみに、あんたの命を奪う気はないぜ」

「そうそう。それはルール違反だから。私たちは貴方の死を見届けにきただけ」

二人が言っている内容がまるで理解できない。見知らぬゲームの仕組みを語られている気分だ。

「わけわかんないわよ。ルールだとか、キャストとか、ディズニーランドじゃあるまいし……」

「鋭い!」

ニーナが明るく指を鳴らすと、ナノが不機嫌そうに舌打ちした。

「……、ニーナ、喋りすぎ。もう帰ろ」

「そういや、もう夜が明けそうだな。じゃーね、オバサン、地獄で会ったらまた遊ぼうね」

二人は手を繋ぎ、食堂の入り口から出ていった。

「……、待ちなさい……、くっ」

薫子は刀を握ったまま、うつぶせで倒れた。熱いくらいだった体温が急激に下がった。二、三度痙攣した後、薫子は完全に動かなくなった。



(*)



上も下もない世界。サバンナでも、研究所でも、北海道でも、丸岡高校でもない世界。 光も届かない闇の中、薫子は胎児に戻っていた。薫子の肩の部分は欠けており、闇に塗りつぶされてなくなっていた。

鼻から息を吸う。心臓が血液を送り出し、全身をかけめぐる。薫子は人体が当たり前に行う営みを忘れていた。脳も活動を停止していた。小さな女の子が懸命にそれを思い出させようと薫子の周囲をぐるぐる回っていた。

小さな女の子のへそから赤い糸が伸びて薫子のへそと直結している。

そこから栄養をもらうように、呼吸を開始した薫子の体がじょじょに年齢を取り戻し始めていた。髪が伸び、歯が生えそろい、身長が成人女性のそれになる。

小さな女の子が薫子の体を抱きしめると、薫子は産声を上げた。

そんな夢を見た……

朝日が目に沁みる。目覚めた薫子は薄目で、周囲の様子をうかがった。

薫子はベッドに仰向きで横たわっていた。体が硬直して、指一本動かすのも難儀であった。

せっちんが、ベッド脇にスエットのままうつ伏せで倒れている。背中がわずかに上下に動いているので、生きてはいるらしい。

「せ、せっちん……」

声を出すのが、もどかしい。何度も何度も呼びかけて、やっとせっちんは顔を上げた。はれぼったい目をして、髪もカールしていない。

「んあ……、もどったか。だいじないか?」

「わ、たし、死んだの……」

「あやういとこじゃった」

薫子は体を起こそうとしたが、筋肉痛のような激痛で起きあがる所ではなかった。

「どうして、死なせてくれなかったのよ」

「そなたは、まだしぬべきではない」

せっちんは、きっぱりと言った。

薫子は唇を痛々しく噛み、ベッドの天井のシミをにらんだ。悔しかった。

「これ!」

せっちんは薫子の頭を小突いた。頭が激しく揺れる。

「はやまってはならぬ。いのちは、ゆういぎにつかえ」

薫子は自嘲ぎみ笑うことしかできなかった。

「貴方にそんなこと言われるなんてね。ぐうの音もでないわ、ほんと」

「なんじゃ、ふふくか?」

「いいえ、ただ貴方にとって有意義な使い方でも、私にはまだそういう心構えができてないって話よ」

薫子の心は、ひどく冷えていた。せっちんが自分の目的のために薫子を蘇生させたのではないかという邪推があったのだ。

せっちんは、這ってベッドまで来ると、薫子の上にのしかかってきた。

「重い……、どいて」

せっちんは、薫子の体を抱きしめた。今まで感じたことのない温もりに、薫子は言葉を失った。温泉に入っている時とはまた違っている。抜けてしまった生命のガソリンを注がれているようだ。血色もよくなってきた。

人心地して、自分の態度を反省する。

「忘れてたわ、貴方は私をこうして守ってくれたわね」

動くようになった左手で、せっちんの頭を撫でた。

「ありがとう、せっちん。貴方は見返りなんて求めてないのよね」

せっちんは、薫子の体の上で再び眠りについていた。起こさないように、そっと自分の脇に寝かせた。

薫子は、せっちんの強さに触れ、そして同時に寂しさにも触れた。間違っていたのは自分だった。利己的な思考が体に染みついていた。せっちんはそうではない。

せっちんは、本当にかみさまなのかもしれないけれど、薫子にとっては大切な温もりになった。

薫子は瞳を閉じた。

ありがとう。



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