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せっちん!  作者: 濱野乱
空蝉編
38/97

寂しいのはお前だけじゃない(前編)


烈風が吹き荒れ、青き血潮のような天空は泣き咽ぶ。

上空二千メートル。雲間に二つの点らしきものが、見え隠れする。

点の一つに数えられるのは、勇壮の志士のように太刀を構える、せっちんだ。彼女の遥か真下には、建築物がゴマのように乱立している。巻き髪は風に弄ばれても、形状を失わない。

彼女の視線の先には、一頭の獣がいる。獣としては野性味に欠け、まるで巨大な猫だ。

黒い虎が、くつろいだ体で手足を伸ばしている。雨上がりの地面のような熟れた毛並みが、光彩を放っていた。

何故、せっちん達は空に浮かび、まるで地を踏むように存在が可能なのか、降下せずにいられるのか。その答えはやがて明らかになるとしてひとまずは、

「いざ! まいる!」

乾坤一擲、裂帛の気合いの元、せっちんが足場を蹴る。空を裂きつつ、虎へと太刀を振りかぶる。

剛の者同士が対峙する緊張した一瞬は、無限とも、一滴の水滴の音とも判断つきかねた。

「フミャーァ・・・・・・」 

虎は顎を大きく下に落とし、猫のような手ぬるい鳴き声を上げた。それは破裂する間際の風船にも似た、終末を告げる音だった。

時を同じくして、せっちんの右側面が無惨にもえぐり取られ、頬から右手、大腿部から大量に失血した。慣性のまま倒れ込み、血が槍のように地上に線を投げかける。

虎は開けた口をしっかりと閉じ、機能不全を起こしたせっちんに、手を伸ばした。分厚い肉球で成果を確かめる。

猫が鼠を捕らえる本能に従うように、虎は新しい遊びを覚えたようだ。

 

 (1〜)


丸岡高校の昇降口を出ると、小さなスロープになっている。そこにも生徒がたむろしていたが、カヲリの姿を認めた途端、蜘蛛の子を散らすように退散した。

サンタどころか、まるで疫病神の扱いである。こんなことになるなら、安受けあいなどするべきではなかった。

自分で招いた結果とはいえ、卑屈になるのは避けがたい。そんな気持ちを腹のうちにおさめ、笑顔を奮い立たせる。

カヲリが健闘すれば、クリスマス会で笑顔になる人間の数も比例して増えるだろう。目標を定めれば戦えない戦はないのである。

「募金お願いしまーす」

もののふの意地を発揮し始めたカヲリの背後から、あわや迫る人影。なんと、力ずくで募金箱が奪取された。

「・・・・・・あっ!」

カヲリの手元に対する集中はおざなりで、この奇襲になす術がない。箱を奪われ、立ち尽くす。

箱を持って遠ざかる背中に、ランドセルが光る。カヲリは計画的な犯行を確信した。

「こらー! 雪乃ちゃん!」

小林雪乃は募金箱を持ったまま数メートル、スロープを駆け下りたが、制止の声に反応する。

カヲリはもくもくと後を追い、ランドセルごと彼女を捕獲した。

「ふん、小銭集めて何やってんだ。おっぱい」

雪乃は不遜に鼻を鳴らした。紺のパーカーに袖なしのダウンジャケット、ショートパンツという出で立ちだ。

子供の体温は大人と比べて高い。カヲリは寒さをやり過ごす良い手段を見つけた。

「みんなでクリスマス会をやるの。返してよ」

雪乃は箱を大事に抱えたまま、カヲリを無視する。

「もてねえ奴らが一丁前に思い出づくりか。傷のなめあいに反吐が出るわ」

「ひどいこと言うのね。でも余りもの同士がくっついたりして」

「お前もそういう魂胆か? おっぱい」

カヲリは確と首を横に振る。

「まあ、どっちでもええわ。それより今日は相談があってきたんじゃ、おっぱい」

雪乃の悩みは常にある一点を指しているように思える。カヲリは気を引き締めた。

「あのな、実はこの間のことなんじゃが」

「・・・・・・それって」

「土偶の、おばけ」

学校生活に気を取られ忘れていたが、雪乃も、あちら側に事情に巻き込まれていたのだ。てっきりまた母親がいなくなったのかと思った。

「あれから、お前のところに何もなかったか?」

「雪乃ちゃんの所にはあったの?」

「私は何もないけど。どうなんだ」

あの土偶の襲撃から、せっちんたちもカヲリから距離を取っている。ここ数日は平穏を享受していた。

「ありがとね、心配してくれて。でも私は平気よ」

「そうか・・・・・・」

雪乃は安堵したように鼻をかいた。

「おばけとか、ナンセンスじゃ。科学で解明されるまで私は信用せん」

「あら、意外と頭固いなあ。子供時分って、そういうのにはまったりしないの?」

「お前と一緒にすんな。私は論理を重んずる哲学ガールだぞ」

どちらかというと、パドスに振り回される少女だったが、カヲリは黙っていた。

それから二人で世間話に花を咲かせていると、灰村香澄が昇降口からつかつか歩み寄ってくる。

「そこの君! ここで何してるの?」

雪乃が生活圏に深く入り込んでいたために、油断していた。部外者が咎められるのも無理はない。

「あ、すみません。この子は・・・・・・」

香澄は感情のこもらない目で、雪乃を見下ろしていた。

雪乃は香澄と目を合わせようとせず、カヲリの背に身を隠している。陽菜の時もそうだったが、意外と人見知りする性質らしい。

「・・・・・・、今日はもういいわ。その子を連れて帰りなさい」

叱責されると身構えていたカヲリは、慎重に聞き返す。

「……、え? いいんですか」

「月曜日から、倍働いてくれればいいから」

雪乃から募金箱を受け取ると、香澄は校舎に戻っていった。

「ふー・・・・・・、びっくりした。良かったね、雪乃ちゃん、一緒に帰れるよ」

雪乃はカヲリの体にしがみついて離れない。香澄のことが余程恐ろしかったのか、震えが伝わってくる。

「もう大丈夫。あの人、少し怖いけど悪い人じゃないからね」

「あいつきらい」

子供の評価は残酷である。カヲリは責めずに、雪乃の頭を撫でた。

「ん?」

カヲリは撫でていた手を止めた。雪乃の頭頂部が少し腫れているのか、でっぱりがある。

「こぶ・・・・・・、できてるんじゃない。雪乃ちゃん」

雪乃は顔を紅潮させ、カヲリから身を離した。

「転んだ」

両手でがっちり頭を押さえて距離を取る雪乃は、カヲリの心をざわつかせた。

「・・・・・・、保健室すぐ近くにあるから診てもらおう。ね?」

「いい。行かない」

カヲリが手を伸ばそうとすると、雪乃は走り出し、校舎の裏手に滑り込む。

「ほっといて! いいって言ってるだろ!」 すぐさま追いかけるべきだが、カヲリの足は重くなる。真実もまた、子供のように残酷かもしれない。

「それでも・・・・・・、ほっとけるわけねえだろおおおおおおおおおお!!!」

雪乃に負けない大声上げながら、カヲリも後を追った。校舎の裏手には花壇があったが雪乃の姿はどこにもない。

闇雲に走った雪乃は、袋小路にたどり着いていた。カヲリの目を盗むことができたのは、小柄な体を隘路にすべりこませたためだ。

ススキが伸び放題の空き地は崖に面していて、陰気な風が吹いていた。

雪乃は短慮を少し後悔しながらも、空き地にしゃがんだ。もし誰も自分を探しにこなかったら、ここで朽ち果てるのかもしれない。

「そうなっても・・・・・・、まあいいか」

無風にもかかわらず、 ススキが大きく揺れ動いた。その音に雪乃が首を回す。

「だ、誰じゃ! おっぱいか」 

誰何に返事はなくススキは揺れ続け、予想しえないものが現れた。黒い毛並み、丸顔に、短い耳をした猫のような生き物。

「猫・・・・・・、やないな」

猫にして図体が立派過ぎた。雪乃の体重をはるかに超えるであろう巨体に緊張が走る。

「まさか、虎か? いや、まさかな」

黄色い目をまん丸にして、獣は雪乃の動向を探っている。どことなく愛嬌があり、雪乃は目を離すことができなくなった。

「ニャーゴ・・・・・・」

獣は猫が甘えるような声を出した。顎が外れたように、口が不格好に下がっている。

「あはっはは、こいつ、獅子舞みてえだ!」

雪乃は好奇心に抗えず、開けっ放しの口をのぞきこんだ。

 

 (2~)

 

伊藤嘉一郎は、丸岡高校の教師である。

現在、三十一歳。慶応義塾大学法学部卒。身長百八十八センチ、体重六十七キロ。好きな作曲家シューベルト。

美術の授業を担当しており、絵の腕前は院展に入選するほど。とはいえ、筆は大学時代に半ば折っている。

大学卒業後、予備校講師を四年つとめ、西野陽菜の父親の誘いを受けると、丸岡高校に赴任した。

代議士を勤める陽菜の父親は、大学のOBで親交があった。嘉一郎が陽菜の家庭教師をさせてもらえたのも、信頼の証である。

嘉一郎は普段物静かで多くを語らないが、女子生徒の人気が高く、職員室に行列ができることもしばしばだ。

人気の理由は、個人的な相談に乗ったり、きめ細やかに対応するためというのもがあるが、やはり彼の容姿端麗な部分が大きいのではあるまいかと思われる。

第一印象で、陰のある部分はかいまみえるものの、どこか大人の余裕と受け取られる場合が多い。

加えて、人生経験の浅い女子生徒は、彼が教師であるという特別なステータスに酔いしれている。

ここまで、一狭い高校の退屈なトピックに行間を割き、恐縮の至りであるが、伊藤嘉一郎とは何ぞやと、忘却の彼方にある読者諸氏がおられても不思議ではない。

この世界における彼の存在など、そのようにありふれたものの一つである。ともすれば、美しい思い出に埋没してもおかしくはない退屈な男だ。

彼の印象がここまで薄い理由を研究するならば、研究と言わずとも、観察するならば、彼は自分を偽っていると結論せざるを得ない。

隠蔽された彼のもう一面、それこそが彼の本質であるとするならば、納得はいく。

納得せずとも、問題ない。忘れてくれても問題ない。

西野陽菜が存在すれば、それに付随するように彼が存在する。

今この時は、それだけの理解で十分である。

ゆえに、校内で陽菜の荷物を持ちながら、伊藤が彼女の後を歩いていても、奇異に思ってはいけない。

「もうここでいいから」

下駄箱で陽菜は足を止め、伊藤から黄色いリュックを受け取る。

「今日は幸彦君とデートだよ。悔しいでしょ」

「お帰りは何時頃になりますか」

彼が一人の生徒を主君のように仰ぐ姿は、公然と黙認されていた。

「別に嘉一郎君が気にすることじゃないでしょ」

陽菜はつっけどんに対応し、靴を取りだすために伊藤に背を向けた。

彼にとって陽菜は絶対的な存在であり、命令を違えることはないのだが、この時ばかりは違った。

きゃしゃな肩を掴んで強引に振り向かせると、伊藤は顔を近づける。

陽菜の不可解に彩られた大きな瞳孔や、半開きの唇。その全てを伊藤は貪ろうとする。

幾ばくかして伊藤が顔を離すと、陽菜は天真爛漫な微笑みを浮かべてこう言った。

「へたくそ。あんたとしても、ぜんぜん気持ちよくない。どいて」

伊藤を力の限り押し退け、陽菜はげた箱を後にした。 

取り残された伊藤は口元を押さえ、男子トイレに駆け込んだ。洗面所の水で口を執拗にすすいだ。何度も何度も、唇が擦り切れるまで。

「落ち着いた?」

伊藤の背後に美人姉妹の片割れ、ニーナがいた。鏡ごしに目が合う。

ニーナが明るい色をした赤毛をポニーテールにしているのはいつも通りだが、服装がだいぶ違っていた。丸岡のセーラー服に身を包み、膝丈のスカートと白のソックス、上履きまで持参している徹底仕様だ。

「こんなところで何をしているんです? 男子トイレですよ」

生徒を注意するように、伊藤が上から物を言うとニーナはふてくされたようにアヒル口を作る。

「あぁん? 関係ねーだろ。つーか、あたし”選挙委員”なんで、越権行為は許されるっていうか」

「それとこれとは話が別でしょう。それに支配者の側を離れるとは言語道断。その怠慢は見逃せませんね」

「チッ・・・・・・」

ニーナは舌打ちしたものの、倒れ込むように伊藤の背に額をぶつけた。

「キレんなよー、ポチ。あたしも今、手いっぱいなんだって」

相方の姿が見えないことに伊藤は疑問を持った。

「ナノはどうしました?」

「消えちゃった」

ニーナの声の方が消え入りそうだ。ますますわからない。

「マジなんだって。”消えちゃった”って言い方が一番しっくりくるんだ。ナノが死んだら、あたしも死ぬ。あたしがここで、変態教師に胸を押しつけて喜ばせてるってことは、ナノはまだ生きてるってことになるんだけど」

未だ事実の把握にはほど遠いが、異変が起こっていることはわかりかけてきた。

「それはキャストの能力が関係しているということですか」

「それ以外考えられねーだろ。支配者ルーラーはあの通りルンルンお花畑だし、お耳に入れるのはまずいと思ってここに来た」

ニーナが余計な気を回したおかげで、話がややこしくなったようだ。支配者がいれば、事態の収拾は容易だったろう。

「支配者を呼び戻しに行きます」

「よせよ。野暮な真似は」

ニーナは伊藤の銅に込める力を強める。

「あたしにはわかる。もう支配者に残された時間はあまり多くない。ユッキーと過ごす時間を邪魔しないであげて。それを邪魔するって言うなら、ポチ。あたしはあんたを許さない」

伊藤は諸手を上げて、意見を撤回する。仲違いをしている時間のロスが惜しい。

「・・・・・・、成長しましたね。ニーナ」

「あたしの尻を撫でながら言うんじゃねえ。ぶっ殺すぞ」

沈黙。

「失礼。頭を撫でられなかったので」

「どういう理屈だ。あんたは生徒をほめる時、尻を撫でるのか?」

「・・・・・・、ごくまれに」

「まれでもだめだろ! しかも間があったな。よくやってるな!」

伊藤は答えず、ニーナの柔らかい臀部から手を引いた。名残惜しそうに。

「ああこんなことしてる場合じゃなかった。なあ、ポチ。あたしにもしものことがあったら、支配者をよろしく頼むな」

ニーナらしくない気弱な言動だ。伊藤の知る彼女はサディスティックな面が強調されていたはず。一心同体の姉を見失い、気が動転しているのだろうか。

「落ち着いて。順序立てて話してください」

「う、うん」

ニーナたちが異変に気づいたのは、今朝、支配者に従って登校した時のことだ。

校舎の屋上で、虎を見かけた。

虎自体は珍しくない。暴食のキャスト、黒い虎が丸岡を住処にしていることを二人は知っている。知っていて放置していたのだ。唯一にして最大の問題点は、虎が檻の外に出歩いていたことだった。

「檻がないのが、そんなに問題なのですか?」

「そりゃそうだろ。獣は人の住処に近づかないものなんだよ。あんたも町中で獣を見かけたら、来る場所を間違えたと思うだろ」

「この場合、虎が来る場所を間違えたと言うべきでは?」

「いいや。あんたが間違えたんだ。獣は本能に従っているだけだから、間違えるってことはないよ。常に間違っているのは本能の衰えた人間だけなんだぜ」

キャストと動物を同列で語る当たり、ニーナは思慮の浅さが露呈されてしまっていた。

「あの虎は確か・・・・・・」

「そう、”美堂薫子”の忘れ形見。張り合いのあるオバサンだったなー。肌の張りはなかったけど」

昔を懐かしんでいる場合ではなかったが、二人はかつての強敵を偲んだ。

「それで、ナノが消えた状況はどうだったんですか」

「わからん。だから不気味なんだ。出会い頭にあの虎が鳴いて、いなくなった」

暴食の能力を把握していなかった二人の失態だったが、責めるには及ばない。もはや何が起こってもおかしくないのだ。

「今は、屋上で”傲慢”と”嫉妬”が相手をしてる。助けに行きたい?」

「まさか」

”彼女”に対して、とっくに未練などなくなっている。伊藤は笑って聞き流した。

「それで、僕にその虎退治をお願いしにきたというのですか?」

「それこそまさかだ。あんたなら、確かに問題なく制圧できるだろうよ。支配者も忌み嫌うその”チカラ”を使えばね」

話を聞いている間も伊藤は、未知の能力を持つ虎に微塵も脅威を感じていない。高い山を登った人間が、それより下の山を視野に入れないように、彼は一顧だにしなかった。

「支配者権限を覚えてるだろ? キャストはゲストを直接攻撃してはならない。虎があんたを攻撃したら、そのルールに引っかかる」

「君はよく破っていませんか」

「う・・・・・・、あたしはいいんだよ。後でナノとか、支配者にオシオキしてもらってるんだから」

まるで子供が考えるローカルルール並の緩さだった。

「では、どうします? あの二人に任せきりでいいのですか?」

「それはしたくない。今考えられる最悪の事態ってわかる? ポチ」

「ナノと君が死亡し、虎の能力を奪ったせっちんが、支配者を襲う」

「ぶぶー。ポチがいるからそれは心配ない」

彼女たちいずれも、支配者のためなら自分達の命は省みない。ポチと蔑む男の命より軽いと信じて疑わない。

「最悪は、虎が本来の役目を全うせず消滅することだ。支配者はあれのために檻を作って、格別気に入っていたみたいだし、あの能力を何かに使うのかもしれない」 

「つまり虎を殺さず、行動不能にすればいいわけですか」

「あたしが本気出せば、倒すのはわけないんだけどさー、万が一ってこともあるからね」

ニーナの声が心持ち小さくなる。自信のなさの現れだろう。

「そもそも虎は、何故君たちを攻撃しているのですか?」

せっちんたちが戦っているということは、無差別に襲っている可能性はある。未だ法則性が見えない。

「攻撃っていうか? じゃれてるって感じだな。猫だけに」 

虎に言語は通じず、事態の複雑さに拍車をかけているようだった。

「僕にどうしろと?」

「ん? ポチにできることは何も・・・・・・、あるか」

ニーナは初めからそのつもりで伊藤を訪ねて来たのだろう。妙なぎこちなさがあった。頼むのが癪なのだ。

「カヲリ=ムシューダを探して来てくれ。あいつならなんとかなるかもしれない」

「”契約”させるのですか? 彼女に」

「本当はさせたくなかったけど、この際仕方ない。支配者に聞いてる暇もないし」

伊藤はカヲリを探すことを快諾し、ニーナを不審がらせた。

「今日のポチはやけに素直だなー、あたし惚れちゃいそうだなー」

「君は身を潜めなさい。君に何かあればナノも無事ではすまないのでしょう」

避難を促されても、ニーナは額を伊藤の筋肉質な背中に押しつけている。

「ポチ、さっき支配者にひどいこと言われてたね。気にしてるの?」

「そんなことは」

「あたし知ってるよ。ポチは本当は女の子が大嫌いだってこと」

鏡に映る伊藤の表情は、図星を突かれ歪んでいた。

「あたしが・・・・・・・、慰めてあげようか」

湿り気のある声で言いながら、ニーナは自分のスカートを数センチたくしあげた。

伊藤が思わず掴みかからんばかりの勢いで振り返った時、そこには誰もいなかった。誘惑する少女は幻のようにトイレから消えていた。

「ぷっ・・・・・・、きゃははは。何マジになってんだよ、変態教師。あたしに欲情したの? ポチのくせに、奴隷のくせに。てめーなんかに触らせるわけねーだろ。ばーか」

嘲る声が耳の奥底で鳴り響く。耳を塞ごうにも意味はない。

「じゃ、頼んだことお願いね。あ、発情したら生徒にお願いすれば? 足くらいなら舐めさせてもらえるかもよ?年下の女の子は従順で可愛いものだからな」  

ニーナの声が完全に途絶えてから、伊藤は洗面台の蛇口を締め、ため息をついた。

「悪態をつけるということは、まだ余裕がありますね」

小娘の挑発を一笑に付し、伊藤はトイレを出る。そのまま職員室に向かうつもりだ。

ニーナの頼みを聞くつもりは初めからない。話は聞かせてもらったが、ナノが死亡していない以上、緊急性はなさそうだった。

ニーナはやはり詰めが甘い。光の速さで支配者に意向を訊ねるだけでよかったのだ。これは嫉妬ではなく、現実的な案である。

ニーナの提示した案は、支配者の意向に沿う内容に達しておらず、逆に支配者の足をひっぱる恐れが大きかった。

ゆえに伊藤は何もしない。淡々と教師の役を演じるだけだ。

仮に事態が今より悪化しても、責めを負うのはニーナが順当だろう。伊藤に責任を丸投げし、怠慢に耽っていれば、支配者の逆鱗に触れる。オシオキは免れない。

伊藤ももちろん責められるが、それはそれで身を切られるような不謹慎な楽しみがある。

気の強いニーナがのたうち回り、涎と鼻水をまき散らしながら許しを請う姿は見物だ。

それを拝めるならば、自分も喜んで支配者の足下に身を投げ出そう。あの従順で可愛い支配者に。

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