Another1
「きゃはー!」
ここは丸岡高校前。
西野陽菜が奇態な叫びを上げたのは、一九九九年 十二月九日、木曜日、八時二十七分のことだった。
生徒の人波は陽菜との関わり合いを避けて、校舎に吸い込まれていく。
陽菜はそんな蟻の行列に興味を示さず、朝の清廉な空気を吸い込む。青空が目に染みいるように広がっていた。
陽菜の奇行を見咎めた小豆色のジャージを着た体育教師が、駆け寄ってきて口を尖らせる。
「こら、西野。ホームルーム始まるぞ、さっさと教室に入らんか」
陽菜は大人を小馬鹿にするように、右手でひらひらとベージュのカーディガンの袖を振った。左手には、白いテッポウ百合を握っている。
「全く。スカートも短過ぎるんじゃないか。風紀が乱れる、直しなさい」
「いやです、きゃはは・・・・・・」
陽菜は、ふらふらと踊るように、道行く生徒の歩みを妨害したり、一人で口元をだらしなく緩めていた。
陽菜が情緒不安定な面があるという情報は、職員の間で共有されている。去年はリストカットして病院に運ばれたということも周知の事実だ。
そのため、教師には慎重な行動が求められた。体育教師は口調を和らげ、陽菜に歩み寄る。
「西野、教室に行くのがつらいなら、保健室に行く手もあるぞ。どうだ?」
夢見心地だった陽菜が、泣き出す前兆のように顔を歪める。口からは、絹を裂くような悲鳴が飛び出した。
「きゃあああああー、いやーっ! 助けてー!」
「お、おい、落ち着け・・・・・・、何もしてないだろ」
しゃがみこんだ陽菜が、壊れたサイレンのように猛り狂うのを、教師はこわごわと眺めるしかない。
陽菜の悲鳴を聞きつけ、通りがかりの生徒が足を止め、校舎の窓から首を出す者もいた。全く手に負えない。
「ち、ちょっと待ってろ、保健の先生を呼んでくるから、な?」
教師がすごすごと退散すると、陽菜は急に真顔になり、去りゆく背中をじっとにらんだ。
「あーあ、バッカじゃないの。ウケる」
スカートのポッケに右手を入れて校舎に背を向ける。その時、遅刻寸前でやってきたカヲリ=ムシューダと目があった。
「ムシューダじゃーん、元気?」
へらへらと陽菜が立ちはだかると、カヲリは怪訝そうに眉をひそめた。一刻も早く校舎に向かいたくて、足踏みする。
「西野さん、遅刻、遅刻するよ」
「知ってるし。ねーえ、学校サボろうよ」
「え? そんなことできるわけないじゃない」
陽菜が一瞬、カミソリの刃のような鋭い目つきをしたので、カヲリは血の気がひいた。
「サボろ、サボっちゃおうよ」
誘惑するように陽菜がしなだれかかってくる。百合の香りが間近に迫る。
「いや、それはさすがに」
誘いを断れば、何をされるかわかったものではない。都合よく陽菜のあしらい方のうまいマイが、通りがかってくれたらと期待するしかなかった。
「あっそ、じゃいいや。バイバーイ♪」
陽菜は突拍子もなくカヲリから離れると百合を振りながら坂を下り、道路に進入していく。危うく車が前を掠める。見過ごせなくて、カヲリは彼女の腕を掴んだ。
「お母さんに会いに行くの。お母さん、大好き。ふふっ・・・・・・」
陽菜が躁状態にあることに気づいたカヲリは、誰か助けを呼ぼうと目を走らせる。
「ヘイ、タクシー、カモーン!」
ところが陽菜がタクシーを呼び止めて、乗り込んでしまった。
「ちょっと西野さん、どこ行くの!」
「うっさいなぁ、病院行くって言ってるでしょうが!」
なし崩し的にカヲリもタクシーに乗る。今の陽菜を一人にするのはあまりに危険だ。
タクシー内でも陽菜は一人で鼻歌を口ずさんだり、シートベルトを外そうとして、カヲリの手を煩わせた。
陽菜が黒真珠のような目で、カヲリの目をのぞき込んでくる。
「カヲリ、私の匂い嗅ぎたがってたよね。ワンちゃんになりたいのかな?」
運転手が困ったような顔で運転している。カヲリは誤解を恐れて前が向けなかった。
「ワンちゃんは間に合ってまーす♪ 黒猫のカヲリはいらないよ」
カヲリはなすがまま、陽菜のしゃべるに任せた。普段から尋常でない陽菜だが、今日は輪をかけていた。
二十分ほどして、市内にある総合病院についた。そこそこの規模の病院である。陽菜がタクシーの支払いを済ませて、二人で白い建物に入る。陽菜は別人のようにきびきびと歩いていた。
ガラス張りの広々としたエントランスには年配の方の姿が目立った。注目を浴び、立ちすくむカヲリを放置し、陽菜がエレベーターに乗り込んだ。危うく置いて行かれそうになった。
五階につくと、陽菜はまっすぐ受付に向かった。手続きを済ますと、とある病室に花を振りながら歩いていった。
二人が向かう先にあった個室には、西野と書かれたプレートがついている。中の個室ではシルクのパジャマを着た一人の婦人が、ベッドでくつろいでいた。
「カヲリ、私、飲み物買ってくるから、お母さんの相手お願い」
陽菜は未練なさそうにきびすを返し、カヲリは病室の入り口に取り残される。
「そんなところにいないで、中にいらっしゃい」
柔和な物言いに、カヲリは遠慮がちに病室に足を踏み入れた。消毒液に混じり、かぐわしいフルーツの香りがカヲリの鼻腔を刺激した。テーブルを贈答品であろう品々が占拠している。
婦人は、カヲリが側に立っただけで、ころころと笑う。上品な容姿をした彼女は、確かに陽菜の面影を感じさせる。笑うと、目がつりあがって細くなった。不思議なことに、彼女は時間が止まったような隔絶した美しさを持っている。年齢が不詳で、皺も少ない。
「メロンがありますから、一緒に食べましょうよ」
「え、えーと、はい」
カヲリは思わず即答してしまった。
整った網目のマスクメロンを二人で分けた。頬が落ちるような甘みに顔が綻ぶ。
「貴方、陽菜のお友達?」
「そうです。カヲリ=ムシューダっていいます」
「まあ! おもしろいお名前。あ、ごめんなさい。私ったら。外国の方なのね」
陽菜のお母さんは、沈んだように顔をうつむかせた。
「お気になさらないでください。よくあることですから」
陽菜のお母さんが入院しているとは初耳だった。心の整理がまだつかない。陽菜が帰ってくる気配はないため、自分で間を持たせるしかない。
「陽菜さんは・・・・・・」
「ねえ! この絵、観てくださる? 私の娘が描いたものなんですよ」
話を遮られたが、カヲリは人見知りで初対面の相手をするのに不慣れだ。相手のペースに任せるのが無難だろう。
「へー、どれどれ・・・・・・」
カヲリはA4サイズの画用紙を受け取り、目をむいた。画用紙には、クレヨンで人の顔らしきものが描かれている。黒い稜線で囲った円の内側は、肌色でまだらに塗られている。口は真っ赤な波線。目を青い点で表している。まるで子供の絵だった。右下に拙い字で、おかあさんと、書かれている。
「親バカかもしれませんけど、うちの娘、陽菜は絵の才能があると思うんです。将来、有名になったらどうしましょう」
目を輝かせて夢を語る彼女に口を挟めるほど、カヲリは肝が座っていない。
陽菜はこんな幼稚な絵は描かないだろうし、違和感が膨らみ始めていた。
「まだ三歳なんですよ、でも言葉も覚えるのも早くて、一端の口をたたきますし、夫なんてもうたじたじ」
「は、はあ・・・・・・、そうなんですか」
「女の子でよかったわ。もう少し大きくなったら、一緒に、お買い物に行くのが楽しみ」
この女性は、本当に陽菜の母親なのだろうか。話が噛み合わない。現在陽菜の年齢は、十七歳である。
カヲリが縛り付けられたように動けずにいると、陽菜が足音を立てずに病室に入ってきた。手には、ガラスの花瓶に入った白百合が握られている。花瓶をそっと窓辺に置き、母親と目も合わせず、そのまま病室を出ていった。
「百合・・・・・・」
陽菜の母がわなわなと、唇を震わせる。目尻に皺を寄せると、十歳は老けて見えた。
「私、百合の臭い苦手なんですの。下げてくださる?」
具合がすぐれないと言われ、カヲリは百合を片付けてから、辞去を申し出る。病室の扉を閉めた途端、安堵のため息がついてでた。
陽菜の姿を待合室で見つける。彼女はイヤホンをして、カヲリの反論を受け付けまいとしていた。
「お母さんに会いに来たんでしょ? 挨拶ぐらいしたら?」
陽菜は言葉を返さず、病院の出口に向かった。
「無駄なことくらいわかるでしょうに」
バスの停留所で二人並んで座る。陽菜と二人きりになるのは初めてだと気づく。それも立ち入った話をしているのだ。
「私には、姉がいたの」
その姉は、陽菜が生まれる前に亡くなった。入浴中、わずかに母が目を離した隙に、溺死したのだ。母はそれを悔い、新たに生まれた娘にも同じ名前をつけた。
「私じゃない”陽菜”は優秀だったらしいよ。神童だったって、呪文みたいに何度も聞かされた」
皮肉めいた笑みを浮かべる陽菜に、口を挟めるはずもない。真剣に話に聞き入る。
「そんなの知るか! じゃね? 私は私らしく自由に生きたいんだよ。もううんざり。そう言ったら・・・・・・、壊れちゃった」
普通の親なら、子離れの時期と受け止めるだろう。しかし、陽菜の母は、今の陽菜の存在そのものを抹消してしまった。思い通りにならない娘を放逐し、夢幻の中だけで生きる三歳の陽菜と、ずっと戯れている。
「私以外には、まともな口を利くんだよ。本当は入院する必要もないくらいしっかり、してるんだ。やんなっちゃう、あのクソババア」
陽菜は悔しげに唇を噛む。
「でも西野さん、お見舞いに何度も来てるじゃない。偉いよ」
自分が陽菜の立場に置かれたら、完全に絶縁してしまいかねない。それだけの深淵が一度こじれた親子の間に、広がっている。
「私がお見舞いに行くのはね、あの女の嫌がる顔を見るためよ。嫌いな花を持ってね」
キリスト教において百合は、聖母マリアに捧げられた花であるという。花言葉は、純潔。
あの花は、親子をつなぐ最後の絆なのかもしれない。反抗的になっても自分は変わらない。私を忘れないでという不器用な思慕に思えた。
バスに乗ると、陽菜は再び口を閉ざし、イヤホンで自分の世界に没入する。
「何聞いてるの?」
カヲリが訊ねると、煩わしそうに窓の方に首を向ける陽菜。
「うっさい」
「いいじゃない、教えてよ」
カヲリが肩を軽くぶつけると、小声で教えてくれた。
「・・・・・・、宇多田ヒカル」
「えー、うそ、私も好き」
意外な共通項にカヲリのテンションが上がる。陽菜もそれに合わせてくれた。
「今度カラオケで歌ってあげるから。マジうまいって、アイコたちも言ってた」
「あ、私も行きたかったな」
何気なくカヲリが言うと、陽菜はきょとんと首を傾げる。
「行きたいって言えばよかったじゃん」
「え? 言えば連れてってくれたの?」
「連れてかないかも」
「ほらね」
二人は声を揃えて笑いあう。
「西野さんって、どうして私のこと嫌いなんだろうっていつも考えてるの」
初対面の時から、突っかかってきたし、気が合わないのかもしれないと少しあきらめている部分があるのだ。陽菜の答えは意外なものだった。
「別に嫌いじゃないし。一緒にお昼食べてるよね」
「そうだけど」
陽菜は他人を虐げている自覚がないようだ。スキンシップの一環のつもりらしい。
「じゃあ友達なのね、私と西野さん」
「何よ、不服なの? ムシューダのくせに。だったらぼっちでいれば」
へそを曲げる陽菜の左耳からイヤホンを奪い取り、自分の耳にはめた。宇多田ヒカルのFirst Loveがかかっている。
「うれしい。西野さんと友達になれて」
カヲリは本心から口にした。陽菜は目を大きく見開き、音量を上げた。
「うわっ・・・・・・、音高すぎるよ」
「うっさい、このくらいがちょうどいいの」
陽菜との距離が縮まるにつれ、カヲリも遠慮がなくなってくる。もうこの機会を逃してはいけないと、口を開く。
「西野さん、寺田君のことどう思ってるの?」
「友達以上恋人未満」
カヲリが聞きたいのは、優等生的解答ではなかった。陽菜の不器用な思いが知りたくて、詰め寄っているのだ。
「幸彦君、カノジョがいるの。中学からずっと付き合ってる、ね」
「あー・・・・・・」
カヲリは無念そうに首を後ろに倒した。幸彦の陽菜に対する微妙な反応も納得がいった。雪乃も確か幸彦に彼女がいると言っていた。それが陽菜だと思っていたが、違ったのだ。
「片想いなのね」
「・・・・・・、そーいうこと。納得した? 鈍感ムシューダ」
カヲリが異議を唱えようとすると、口にあめ玉を詰められた。
「略奪愛なんて柄じゃないしー。幸彦君を困らせて、かまってもらえればそれでいいんだ」
声を落とし、膝の上で拳を固める陽菜。
カヲリは彼女が全てを手にしていると錯覚していた。陽菜にも自分と同じように手が届かないものがたくさんあるのだ。
ほどなくしてバスが駅前に停車し、二人は学校への道を辿り始めた。日は既に、かなり高い位置にあった。
「寺田君も西野さんのこと好きだと思う」
「まだ言うか」
陽菜が煙たそうにしても、カヲリの熱を帯びた口調は止まらなかった。
「好きでもない女の子に、可愛いって言えるのかしら」
「あんたバカ? そんなの何とも思ってないから言えるんでしょ」
「そんなことない! あれは、本気だったわ」
陽菜は立ち止まり、思い詰めた顔をした。
「それでも、ダメなの。私は、幸彦君とずっと一緒にはいられない」
長い坂を上り、校門が視界の端にとらえられた。
校門の前に詰め襟の生徒がいる。陽菜が世界中の誰よりも早く、彼が寺田幸彦だと気づく。脇目も振らず、残りの坂を駆け上がった。
幸彦の五メートル手前で立ち止まり、息を整える。
「何してるの?」
カヲリと話していた時より一オクターブ高い声で、到着を告げた。
「美化運動。西野もやる?」
幸彦は薄く笑うと、ポリ袋を陽菜に手渡した。
「お母さんと会ってきた」
「そう」
幸彦は、しゃがんで黙々と空き缶を拾っていたが、ふいに陽菜を見上げる。
「おかえり。心配したよ」
陽菜は、ぽろぽろと涙をこぼし、幸彦の脇にしゃがんだ。
「ただいま」
カヲリは二人の邪魔にならないように、足音を忍ばせ校門を抜けた。
今日は美化運動の授業などない。幸彦は寒天の空の下、校門前でずっと陽菜を待ちわびていたのだろう。
「お熱いことで」
カヲリは苦笑し、二人の前途が開かれますようにと願わずにはいられなかった。




