つみ(後編)
薫子は、大股歩きで教室に向かっていた。丁度、彼女が職員室から出た時を同じくして一限目が終わり、五分間の休憩が生徒たちに与えられていた。
三階へと上がり、もはや校則とも呼べる壁へのはりつきを思い出した薫子は、壁に背をつけ移動を始める。
その間も湧き上がる教師たちへの恨み、憎しみ。無実の罪を着せられた屈辱から、堪えていた涙もこぼれそうであった。
同じように壁を背にした人間が薫子の反対側からやって来た。どちらかが道を譲らなければならない。
「ごきげんうるわしゅう、陽菜様」
薫子は迷わず壁から離れて、陽菜に道を譲った。
マスク姿の西野陽菜が目を丸くして近づいてきた。薫子の素顔を凝視する。
「誰かと思ったら美堂さんだ。どうしてすっぴんなの? カワイー」
陽菜に言われると嫌味にしか聞こえなくて、薫子は俯いた。今日の陽菜の装いは、ピンクのカーディガンにニーソックスである。例によって袖で手がほとんど見えない。
「色々と事情があったのよ・・・・・・」
薫子は突発的に陽菜に抱きつきたくなり、野菜をほうり投げてその胸に顔を埋めた。
「ああー、良い匂い。もっと嗅がせて、クンカクンカ」
陽菜は薫子の背に手を回し、耳元で囁く。
「あん、がっつきすぎ。嗅いでも良いけど、癖になっても知らないよ。くすっ・・・・・・」
陽菜の笑い声が想像以上に淫らに聞こえて、薫子ははっと我に返った。
「聞いて! 私、無実の罪で捕まったの」
そう言いながら薫子は陽菜を壁に押しつけ、彼女の太股をまさぐっていた。
「その手つきは捕まるね。いけないんだ、痴漢なんてしちゃ」
薫子は段々が落ち着いてきて、陽菜から離れた。
「ちょうどよかった。話したいことあるんだけど、いいかな、美堂さん」
薫子はためらいがちに頷いた。転校初日、二人で弁当を食べていた時、陽菜は薫子の正体を見破った。
「美堂さんって本当は十七歳じゃないでしょ? でも黙っててあげる。私やさしいから」
そう耳打ちされた時、薫子はミッションの継続を半ば断念した。皆にばらすと脅されれば、従うしかない。こんなにも早く正体がばれるのは計算外であった。
陽菜と一緒にベランダへと出る薫子は内心、ワクワクもとい、ドキドキしていた。
それほど広くはない三階のベランダからは、体育館の屋根が見下ろせた。西側からはせっちんのいたトイレへと続いている。
建物の中より、外の方が臭いがきつくないのか、陽菜はマスクを取った。
「幸彦君の様子がおかしいの。何か知らない? 美堂さん」
薫子は景色を眺めるふりをしていた。体育館の屋根の上にバトミントンの羽根が載っていた。
「あ、ああ、寺田君? まだよく話したことないからわかんないわー」
「嘘。昨日、体育の時間、二人が外で話してたの、私ちゃんと知ってるんだよ」
陽菜は薫子の面前に立ちふさがる。身長は薫子の方が高いのだが、威圧される。
扱いにくそうな娘だと、薫子は初日から思っていたが、やはりその直感は間違っていなかったのであろう。
「寺田君、学校生活に悩んでいるみたいだったわ。私より貴方の方が力になってあげられるんじゃないかしら」
「そんなこと、私にはあまり話さないのに」
陽菜は深刻そうに眉間に皺を寄せた。薫子はそれを見てしどろもどろになった。
「私たち、込み入った話をしたわけじゃないわ、ただ隣あったよしみで、ちょっと・・・・・・」
陽菜が笑っているのを見て、薫子はからかわれたのだと悟る。
「焦りすぎ、美堂さん。私怒ってないよ?」
「ほ、本当?」
「うん、だって幸彦君と仲良くしてって言ったの、私だし」
薫子は胸をなで下ろした。誤解から幸彦と陽菜の間を裂くことはしたくなかったのだ。
「美堂さん、私が嫉妬に狂って八つ当たりしてると思った?」
「思わない」
陽菜はくるりと背を向け、ベランダのフェンスの方に歩いていった。
「他の人たちはそうじゃないんだよ。私のこと、男にすり寄るしか能がないダニみたいな女だと思ってるの」
薫子はかける言葉が見つからなかった。陽菜もまた幸彦のような学内難民の一人なのだった。
「どうしてそんな言い方するのよ、貴方はそんな娘じゃないわ。そんな悪ぶって、似合わないわよ」
薫子が決然と否定すると、陽菜は驚きを満載にした顔で振り返った。薫子は自分の失言に辟易としてきた。
「ご、ごめんなさい。私、わかったようなこと言って」
陽菜は反発するかと思いきや、にやにやしていた。
「いいよ、美堂さんが誤魔化すために言ったわけじゃないのはわかっているから」
陽菜は年下なのに、一緒にいると先ほどの教師たちより緊張する。感情の動きが読みづらいのだ。クールとはまた違った刃物のような鋭さを持っている。
「美堂さんって、良い人だね。何かイジメたくなっちゃうなぁ・・・・・・」
「どうしろって言うのよ!」
「うそうそ。ねえ、美堂さんのこと名前で呼んでも良い? 私のことも名前で呼んで欲しいな」
「それくらいなら構わないけど」
「えへへ、やった。よろしくね、薫子さん」
陽菜は薫子に心を開いてくれたように見えた。後にそれは間違いだったと判明するが、この時の薫子は知る由もない。
陽菜に今朝起こった出来事を話すと、陽菜は激怒した。
「ええー、それひどいよ! 裁判沙汰だよ、弁護士雇おうよ」
「本当よね、話も聞かずに犯人扱いされて、私のガラスのハートはボロボロよ」
「うんうん、つらかったね。よしよし」
陽菜は薫子の頭を撫でた。陽菜といると学生時代に戻って、薫子は感情を露わにすることができた。
「それにしても、あの未来さんが盗みをするとは思えないわ」
「来栖未来さんは、一見ヤンキーみたいに見えるけど、実は面倒見が良くて、学校では姉御と呼ばれて親しまれているんだよ」
「陽菜、知ってるの?」
「話したことはないけどね、でも彼女の悪い噂は聞いたことがないよ」
薫子は未来を信じている。それは今でも変わりない。畑荒らしは他にいるはずだ。
「これからどうするの? 薫子さん」
「うーん・・・・・・、犯人を捕まえたいけど、手がかりがないのよね」
陽菜は薫子の持つ野菜に目を向けた。
「ねえ、そのネギって九条ネギだよね?」
「九条?」
「関東で栽培されているネギと違って、関西では葉の部分が長いネギがあるんだよ、その名称の一つが九条ネギ」
「知らなかったわ・・・・・・、陽菜は物知りね」
今、薫子たちのいる場所は関東圏である。未来は京都から送ってもらったと言っていたし、せっちんが拾ったこのネギは、あの段ボールの中にあったものだろう。 同時にせっちんも、犯人の候補から外れる。
薫子の持っている野菜を教頭の畑から盗んだものではないと証明するには良い材料になると思えた。
「陽菜、教頭の畑ってどこにあるか知ってる?」
「うーん、聞いたことないな」
陽菜は首を捻った。手当たり次第に聞いていけば、いずれ辿りつくだろうと、薫子は特に深刻に考えなかった。
「ありがとう、助かったわ。後は自分でなんとかするから」
最後に余計なお世話かもしれなかったが、陽菜が気にしていることを言っておくことにした。
「寺田君のことだけど、やっぱり彼には貴方が必要だと思うわ」
陽菜は前髪をいじっていたが、聞こえなかったように薫子を見返す。
「ごめん、忘れて。ただ、今の私は彼のフォローに回る余裕がないから」
陽菜が不意に吹き出した。薫子は不思議に思う。
「そんな気を遣わなくていいのに。大人ってつらいね」
陽菜の皮肉めいた笑みに、薫子はまた今朝の夢ので味わった頭痛の予兆みたいなものを感じ、この場を離れる決意をした。
「それじゃ、お願いね」
陽菜を一人残して、薫子は一度教室に戻ることにした。体調が優れない。今朝の夢が原因か、冤罪が原因かはわからない。
薫子が教室に入ると中は無人であった。空気清浄機も電源が切られていた。黒板に美術室へと書かれていた。
「・・・・・・、うわっ!?」
薫子は飛び上がるほど驚いた。薫子の隣の席に幸彦が座っていたのだ。暗い教室で頬杖をついて太宰治のような顔をしていた。
「驚かさないでよ、次美術でしょう? 移動したら?」
幸彦は黙念として返事をしない。ずいぶん思い詰めているようである。だが彼は小声で何かつぶやいていた。薫子は耳を近づけてみた。
「美堂さん、人はどこから来てどこへ行くのかな」
「知らないわよ、そんなこと。ほら、立った立った」
薫子は幸彦を明るく促すと、自分も準備を始めた。慌ただしく出発したせいか美術の教科書、スケッチブックも寮に置き忘れていた。
「寺田君、今日も教科書貸してくれない?」
「いいけど・・・・・・、どうせ美堂さんは授業を受けに来た訳じゃないだろ。別にいらないじゃないか」
痛いところをついてくる。薫子は舌打ちした。真面目な学生でいることも任務の一つだ。派手に動き回っていたらますます怪しまれかねない。
「私、今日嫌なことあったんだ。ちょっとは協力してよ」
弱音を吐くつもりはなかった、自分より年下の男に情けない姿を晒したことを恥ずかしく思った。
薫子の屈折した表情に、幸彦は我に返ったように顔を上げた。
「ごめん、僕は自分のことばっかりで。教科書貸すよ、一緒に美術室に行こう」
「ふ、ふん、最初っからそう言えばいいのよ」
幸彦と薫子は、誰もいない廊下の真ん中を歩いた。薫子が少し前を行く。
隣合った教室も人がいるのか怪しいほど静かだった。
幸彦は女性と二人きりなのが馴れないのか、居心地が悪そうに時々、薫子の様子を伺っていた。
「美堂さん、昨日と雰囲気違うよね」
「えっ?」
薫子はとっさに自分の髪を触った。寝癖でもついているのかと思ったのである。
「自然っていうか・・・・・・、間違ってたかな」
「ああ! メイクしてないからよ。変よね、やっぱり」
幸彦は首を強く振った。
「そんなことないよ、今日の方が良いと思う」
薫子は照れているのを見られるのが恥ずかしくなり、少し早足になった。
「貴方でもお世辞くらい言えるのね。私じゃなくて陽菜に言ってあげるべきよ」
幸彦は驚いて足を止めた。薫子も同じく立ち止まる。
「西野に? 美堂さん、もしかしてせっちんのこと話したの?」
「大丈夫、私の仕事のことは話してないから。でもあの娘、初日で私の正体見破ったわよ、ただ者じゃないわね」
薫子は笑ったが、幸彦はあまり嬉しそうではなかった。
「西野のこと、どう思った?」
「なかなかユニークな娘じゃない、私は気に入ったけど」
「そう、ならいいけど」
幸彦は陽菜が厄介なことに巻き込まれるのを心配しているのだろう。相思相愛ぶりに薫子は少し嫉妬した。
「今晩、予定空いてる? 寺田君」
幸彦は露骨に口元を歪めた。こちらの信頼関係も早急に築いていかなければならない。
「そんな顔しないでよー、単に野菜が手に入ったから、鍋をしようってだけよ。ちなみに、せっちんも誘ってあるから」
「せっちんを・・・・・・?」
幸彦の気持ちが揺れ動いている。せっちんを傷つけたことを悩んでいたのを薫子はお見通しだった。
「あの娘の便秘対策に良さそうでしょう? ついでに貴方も仲直りもしちゃえばいいわ」
「う、うん・・・・・・」
押しに弱い幸彦にyesと言わせるのは難しくない。願わくば、こんな小細工なしに幸彦が自発的に薫子に協力してくれればいいのだが。
(*)
美術室には半裸の男がいた。
薫子は扉をすごい勢いで閉め、眉間に手をやった。頭痛は少しずつ良くなっていたが、まだ尾を引いていた。
「私、欲求不満なのかもしれない。もう全て忘れて帰りたいわ」
幸彦は薫子に構うことなく、再び扉を開けた。薫子の前に先ほどと寸分違わぬ光景が広がる。
「美堂さん、寺田君。遅刻は罪、ですよ」
半裸の男は教壇の前で、白いシャツを肩までおろして二人を迎えた。
薫子は気が動転し、幸彦の陰に隠れた。幸彦は空いている席へとまっすぐに向かった。
薫子は取り残されてどうしようか迷ったが、女子のグループに誘われてそこに座る。
大きめの机を四人くらいで使うのだった。机は六つあり、皆が画用紙を広げてクロッキーを動かしていた。デッサンの授業らしい。
「ほら、美堂さんも伊藤先生描かないと」
「へっ?」
隣合った娘に促され、薫子が前を向くと半裸の男が視界に入る。
なんと半裸でモデルをしているのはさっきまで、職員室にいた伊藤である。伊藤が美術教師なのを薫子は今初めて知った。
誰もが真剣な表情でデッサンをしているので、もはや恒例となっている授業なのだろうか。薫子は馴れたくない。
クロッキーと画用紙を借りてきて薫子もデッサンは始めようとして、陽菜がどこにも見あたらないのに気づいた。
「西野さんはどこにいるのかしら」
「多分サボりじゃない? 気分屋だからあの娘」
そっけないクラスメートは、陽菜のことなんか知ったことないという風に伊藤の引き締まった体をうっとりと見つめている。
薫子はそのクラスメートのデッサンに目を剥いた。怖いくらいに精妙に肉体が描写されていた。
「あら、貴方絵うまいのね。写させてよ」
「駄目。自分で描いて」
薫子は試しにクロッキーで線を一本引いてみたが、納得いく絵に仕上げる自信がない。芸術に疎いことを薫子は自覚していた。
「おや、捗りませんね、美堂さん」
知らぬ間に薫子の背後に伊藤が立っていた。もちろんシャツをはだけさせたままである。
薫子は振り向く勇気がなく、デッサンに戻るふりをした。
この学校はパワハラ、セクハラが横行している。薫子が、もし普通の学生だったら、教育委員会に訴えている所だ。
「悩んでいるようですね、もっと大胆になっていいのですよ」
伊藤が薫子の手を握り、画用紙に線を描かせる。瞬く間に人の輪郭が魔法のように浮かび上がる。
それは結構だが、薫子の背中に体を密着させた伊藤の体温がうっとおしい。
「点が線となり、線が面を作る。こうして境界が形作られていきます」
耳に伊藤の息がかかり、薫子の肌が総毛立つ。ふりほどきたいのに体が動かせなかった。
「さあ、後は自分でやってみてください」
伊藤が離れると、薫子はくたっと机に倒れ込んだ。生理的嫌悪。第一印象からしてあまり良くなかったが、もはや決定的に伊藤は薫子の中で許されざる敵と認定された。
「ああもう今日はろくなことないわ・・・・・・」
人生の理不尽を嘆く薫子だった。
授業が終わると同時に女子生徒が大勢、薫子に群がってきた。
「どんな感じ? 美堂さん」
「ええと・・・・・・、何が?」
困惑した薫子が聞き返すと、聴衆は食ってかかるような剣幕でまくしたてる。
「伊藤先生の感触よ! あんなに長く密着したんだから詳細に説明しないと承知しないからね!」
そうよ、とか周りが口々にわめいている。薫子は彼女らの気持ちが理解できない。
「よくわからなかったわ、耐えるのに必死で(気持ち悪いのを)」
「キーッ! 悔しい。こうしてやる!」
彼女らは、おしくらまんじゅうでもするように薫子を囲んでもみくちゃにした。もうなるようになれと薫子は抵抗しなかった。ラッシュ時の満員電車よりひどい荒れようだった。
伊藤は女子生徒に大層人気があるそうである。薫子は学校に来てから何度目かわからないカルチャーショックを受けることになった。
(*)
昼食は情報収集をかねて、女子のグループに合流した薫子だったが、めぼしい成果は出なかった。
その後、クラス全員に教頭の畑の場所を訊ねたが、誰一人として知るものは居なかった。
廊下に出て、片っ端から人を捕まえようとしたが、皆立ちどまらずに行ってしまうので、情報を得るのは至難であった。
教師たちに訊くのは死んでも御免だった。薫子のプライドが許さない。
二年の教室から五分しても誰も出てこないので、未来に詳しい話をして来ようとさらに上の階に上がった。
上の階も閑散としていた。こんなことなら未来のクラスを訊いておけば良かったのである。誰か出てきたら訊こう。
そして三年生の教室から初めて出てきた人間が未来だった。
これ幸いとばかりに薫子が一歩近づくと、未来は何かぎょっとしたように一歩下がった。
「未来さーん。ちょっと訊きたいことあるんだけど」
それが、よーいどんの合図になったように未来は背を向け走り出した。
「えっ・・・・・・?」
みるみる遠ざかる背中を大人しく見送る薫子ではない。後を追う。
校内を散々かけずり回った後、二階の女子トイレで未来を追いつめた。
「はあ、はあ・・・・・・、どうして逃げたのよ、未来さん」
未来は薫子以上に苦しそうに喘いでいた。呼吸が落ち着くまで薫子は待つことにした。
「だ、だって、師匠のギラギラした目を見たら、嗚呼あたしこの人に犯されるんだなって思ったら怖くって」
「ファッ!? 意味わかんないわよ!」
未来は命乞いするように手を合わせた。
「師匠、あたし初めての相手は男の子がいい! 勘弁してくれ」
何を思ったか薫子は一瞬で未来の腕をねじりあげ、体を壁に押しつけた。
「いいこと? 貴方みたいな小娘、私にかかれば五分でお嫁に行けない体にできるのよ。それを踏まえて、訊かれたことに素直に答えなさい」
息を荒くして薫子が脅すと未来は泣きべそをかきながら頷いた。
「未来さんは教頭の畑なんて知らないわよね? その畑から野菜を盗んで学校で売るなんてヤミ屋みたいなことをしてないわよね?」
未来は痛みに懸命に耐え、顔を真っ赤にして、何度も小刻みに頷いた。
薫子は心底安心した。例え自分が停学になり、上司に見捨てられて会社を辞めることになっても、恥じることはないように思えた。
「し、師匠・・・・・・」
「ん?」
「腕痛い」
「あら」
薫子が未来の拘束を解くと、未来は座り込んでしまった。
力の加減を考慮していなかったので未来にはさぞ苦痛であったろう。薫子は反省した。
「ごめんね、未来さん。これというのも貴方を思う故の行動だったと理解してもらいたいわ」
未来は潤んだ瞳で薫子を見上げていた。居たたまれない思いがして薫子は未来の顔から視線を外した。
「痛かったけど・・・・・・」
未来が壊れそうな笑みを作ると、目から一筋の涙が頬を伝っていた。
「師匠の愛撫だって考えたら、痛いのも悪くないのかもな」
薫子は飛びのくように未来の側を離れた。どうもこの学校には非常識な人間が多すぎる。せっちんを初め、陽菜、幸彦、伊藤、そして未来までもが不思議な生き物に思えてきた。
「どうかしたのか? 師匠」
「何でもないわ、そうね、愛じゃないかしら、やっぱり」
「愛かあ・・・・・良い響きだー」
うっとりと胸の前で手を合わせ、乙女モードに突入している未来に引きずられるように薫子も少し照れを含んでいた。
「それにしてもひどいよ、あたしが泥棒なんてさ」
「信じてたからここまで来たんじゃない。さあ立って汚れるから」
未来を立たせてトイレから一緒に出た。ベランダまで連れていき、少しでもマシな空気を吸い込んでもらう。
「はー、少し楽になったぞ」
薫子は金輪際、未来に暴力を振るうことを禁止しようと思う。
未来は暴力を振るわれても、相手を非難しないかもしれない。ということは将来、パートナーに暴力を振るわれても泣き寝入りしかねない。それだけ彼女がやさしいのか、気が弱いのか。
未来の想い人がまともな人間であることを願うばかりである。そうでないなら自分の手を汚すことも厭わない薫子であった。
「あっ!」
未来が突然何かに気づいたようにベランダから身を乗り出して、声を上げた。薫子もベランダの下をのぞき込んだ。
二階のベランダのちょうど真下にせっちんの銅像があるのだ。
未来はせっちんの銅像を指さした。
「何だあれ、可愛いな。あたし初めて見たぞ」
「え? 未来さん、あれを知らないの?」
薫子は自分の知る限りの事を未来に教えてあげた。と言っても、校長が建てたことぐらいしか知らないが。
「へー、あたしの方が師匠より長くいるのに全然気がつかなかった。校長も物好きだな、ロリコンだったのかな」
「さあね、ところで未来さん、本当に教頭の畑は知らないのよね?」
未来は非難するように薫子をにらんだ。薫子も同じ立場なら似たような顔をするだろう。
「畑は・・・・・・、知ってる」
「え?」
薫子は身を乗り出して未来の肩を掴んだ。
「今の一、二年は知らないだろうけど、あたしが一年の時は野外学習って言って、畑で農作業したりしたんだよ」
「そこが教頭の畑なのね!」
薫子は勢い込んで尋ねたが、未来の声のトーンはあまり弾まない。
「それがあまり自信ないんだ。場所も良く思い出せない」
「そんな・・・・・・」
唯一の道を絶たれて、薫子は座り込んだ。
「このままじゃ私、上司に捨てられるわ、もう終わりよ」
薫子は顔を覆って泣くような仕草を見せた。未来がしゃがんで慰めてくれた。
「大丈夫だよ、だって停学なんだろ? 謝れば済むじゃないか。あたしも一緒に謝るよ。元はといえば悪いのはあたしなんだから」
「未来さんは上司の怖さを知らないのよ、使えない道具はすぐに処分されるの。今までだってそうだったんだから」
未来は薫子が不憫になったのか、ぐっと口元に力を入れていた。
「畑の場所は他の奴も知ってるかもしれない。あたしも思い出してみるから、師匠もがんばって、希望を捨てないで」
「未来さん・・・・・・」
薫子は涙ぐみ未来に抱きついた。年下に縋るなんて少し前ならみっともないと考えられなかったことだ。薫子も変わり始めていたのだった。
(*)
「すまん、力になれなくて」
放課後、廊下で未来にそう言われて、薫子は精も根も尽き果ててしまい、だらしなく口元を緩めていた。
「いいのよもう、こうなったら戦争よ。頭数そろえるだけそろえて討ち入りしてやるわ、教師どもをひんむいてやるから」
「落ち着け、早まるな師匠。まだ策はある」
未来は根気よく説得する。これではどちらが年上かわかったものではない。
「だって畑の場所もわからないし、それとも犯人の心当たりでもあるの? 未来さん」
「いいや、そういうんじゃないけどさ。とにかく、あたしが畑の場所を知っているのは間違いないんだ」
「知ってても思い出せなきゃ意味ないじゃない!」
薫子の悲鳴にも似た声は廊下を歩く者たちを震え上がらせた。
未来は固い意志を秘めたような目をして、低い声でこう言った。
「・・・・・・師匠、ジャージに着替えて体育館に集合だ」
「へ?」
薫子が聞き返す前に未来は背中を向けてしまった。もう従うしかない。
薫子が着替えて体育館に着いた時には、未来は一人で柔軟をしていた。マスクはしていない。ポニーテールを揺らして白いうなじが露わになっていた。彼女の他には人がおらず、ボール一つ転がっていない。
「おおきたきた」
未来は薫子に気づくとキュッキュッと靴音を立てて走ってきた。
「わざわざすまないな、師匠」
「いいけど、どういうつもりなの? 未来さん」
未来は誰もいない体育館をぐるりと見回した。
「寂しいもんだろ、学校がこうなってから部活をする酔狂な奴はいなくなっちまった。教師すら日が暮れる前に逃げ帰る始末さ」
「悪いけど部活の話はまたにしてもらえる? 今それどころじゃ・・・・・・」
未来は薫子の喉元に何かを突きつけた。そして不適に笑う。
「勝負しようぜ、師匠。あたしに勝ったら畑の場所を教えてやるよ」
薫子は取り乱すことなく目を落として何があるのか確認した。未来が持っているのは卓球のラケットだった。
「・・・・・・冗談じゃ済まされないわよ?」
「もちろん。約束は守るよ、ついてきな」
逞しい口調で未来が案内したのは体育館にある卓球室という小部屋だった。卓球台が三つあるだけの殺風景な部屋だった。
「二セット先取だ。ラケットは・・・・・・これを使ってくれ」
未来は部屋の隅に置いてあった青い籠からシェイクハンドのラケットを取り出し、薫子に投げて寄越した。
「未来さんは卓球部だったの」
「意外かい?」
「いや、背が高いから、バスケ部か何かかと思ってたわ」
「バスケも強いけど卓球はもっと強いぜ、覚悟しな」
その言葉に偽りはなかった。薫子は一セット目を大差で敗北した。薫子は思わず膝をついた。
「どうした、師匠。師匠の覚悟はそんなもんか?」
薫子はゆっくりと立ち上がった。その背から覇気が立ち上る。それからおもむろに眼鏡を外し、隣の卓球台の上に置いた。
「自棄になったのかい?」
「いいえ、だってこれ伊達眼鏡だったの。私の視力は3、0よ」
「何でわざわざそんなことを?」
「だって転校初日のキャラづけって大事じゃない!」
薫子は不意にサーブをお見舞いする。ネットすれすれの低い打点で放たれたサーブは峻烈な勢いで未来のコートを急襲した。
「げっ、きたね・・・・・・、だが甘い!」
容易に球のコースを見切る動体視力を持つ未来に不意打ちは生ぬるい策だった。危うげなくレシーブを返すかと思われた。
「あっ・・・・・・!?」
未来のラケットに触れた球は予想を外れて卓球台の脇に落ちていた。コンコンとバウンドする球には反時計回りに強力な回転がかかっていた。この回転が未来のレシーブを狂わせたのだ。
「味な真似を・・・・・・」
だが同じ手は二度も通じない。二セット目も苦しい戦いになることがお互いに予想された。
薫子のしぶとい球ひろいに左右に動き回った未来の体力は削られていき、僅差で薫子が二セット目を制した。
「次で」
「終わりよ!」
最早何のために戦うかわからなくなった二人の女たち。
未来がスマッシュを決めると、薫子は垂直に壁を走り球をリカバー。未来は薫子の運動能力に完全に圧倒された。
「くそっ・・・・・・まだだ、まだ終わらんよ、師匠」
薫子が十点、未来が八点、勝負が決しようとしていた。
未来の渾身のスマッシュ! 薫子の苦手なコースを読み、これまで点数を稼いできたのだ。
しかし薫子は打球を見切っていた、今までの試合で未来が苦しくなると薫子の苦手なコースを狙ってくると知っていたからだ。球が来る場所がわかれば必殺の一撃を叩き込むことはたやすい。
「パワーを、メテオに・・・・・・」
薫子は力を溜めている。
未来は返しのスマッシュを警戒し、少し台から下がった。
そこが、勝負の分かれ目になった。薫子は絶妙な力加減で未来のコートのネット際に落としたのだ。未来は急いで手を伸ばしたが既に球はツーバウンド。勝敗は決した。
「どうしてこんな勝負を・・・・・・? 未来さん」
二人はラケットを放って、大の字で寝ころんでいた。
「八つ当たりかな」
「八つ当たり・・・・・・」
薫子は鸚鵡返しにするまでもなく、本当はわかっていた。未来を疑い、傷つけた腹いせに違いない。
「ごめんなさい、私が悪かったわ。貴方の都合も考えずに当たり散らして」
「別に。あたしも人間だからな、怒ったりもするさ。でもこれでチャラにしよう」
未来は起き上がり、薫子の側に歩いてきて手を差し出した。二人の間に確かな友情の萌芽が誕生した。
「行こうぜ、畑」
薫子は目を輝かせて飛び起きると、未来に抱きついた。
「大好き。抱いて!」
(*)
未来は、体育館に着く前に畑の場所を教師から訊いて知っていたそうだ。薫子に怒られるのが嫌で黙っていたのだ。卓球勝負をすることで、薫子の機嫌が和らいだので話してくれた。
「私、そんなに怖かった?」
「うん、だからあの卓球は師匠のガス抜きでもあり、あたしの八つ当たりでもあった。まあ単にあたしが卓球したかったってのが大きいけどな」
「そんなの後でいくらでも付き合ってあげるわよ、部員いないんでしょう?」
未来は小さく頷いていたが、喜びを隠しきれずに眩しい笑顔がこぼれた。
二人はジャージ姿のまま学校を出ると、曲がりくねった道を歩きだした。道は舗装されておらず、風が吹くと、埃が舞い上がり視界を塞いだ。
目についたのは、錆びて読めなくなったバスの停留所の目印、カキ氷アリ〼の大きな看板、しかし肝心の店はどこにも見あたらなかった。
「どのくらいで着くの?」
「さあ? 日暮れまでには着くと思うけど」
やがて道が舗装されたものに切り替わり、歩きやすくなった。
進行方向の右手、五メートルほど下には川が流れており、左側は斜面になっていた。
川幅はあったが、底にある石が透けて見えるほど、浅いものである。上流か一艘の笹舟が流れてきた。薫子は立ち止まって笹舟を眺めた。
「誰か作って流してるのかしら? ねえ、未来さん・・・・・・」
薫子が振り向いた時、未来の姿は忽然と消えていた。
さっきまで歩いてきた道は気温が下がり、靄が出てきて見えなくなっていた。薫子の今いる場所も靄に包まれつつある。
未来の方が地理に慣れているはずた。探して迷子になるより、先に進んだ方が良さそうである。薫子は一人で歩きだした。
暫くすると靄も晴れ、遠目に民家もちらついた。近くにビニールハウスのある畑があったので、薫子はそこまで下りて行った。
暗くなってきて、人の気配がないので、畑を勝手に散策させてもらう。果たせるかな、ネギ畑を発見した。薫子はしゃがんでネギを観察した。畑に生えているのは、葉の長いネギではなかった。九条ネギではないことは素人でもわかる。後は教頭の畑かどうか確認するだけだ。
「君、私の畑に何か用かね?」
薫子が振り返ると、六十代くらいの肌の黒い老人が立っていた。彼は菅原文太似で、薫子の好みの男性だった。
「あ、あの、もしかして教頭先生ですか?」
老人の表情を読みとることはできなかったし、何も言ってくれないので、薫子は少し慌てていた。
「私、美堂薫子っていいます。畑が見たくて来ちゃいました」
薫子は上目遣いで精一杯の媚びを売った。やりすぎを意識し、少し嫌な汗をかいた。
「そうか、好きなだけ見ていきなさい」
老人はそっけなく言い残すと、薫子を置いて歩きだそうとしていた。
「待ってください、ここに九条ネギはありますか? あるなら見せて欲しいんですけど」
老人はネギの畑を無造作に指した。
「ウチでやってるのはこれだけだ。欲しいなら好きなだけ持っていけ」
「あの、違くて・・・・・・、できれば欲しいですけど」
老人はうるさそうに手を払った。ネギを持って早く行けということらしい。
薫子がネギを一本掘りだしていると、老人が側で見守っていた。
きゃー、かたーい、ぬけなーいと、か弱い乙女アピールをしてみたが老人が手伝ってくれる様子はない。
「君くらいの娘を見ると孫を思い出す」
「え? お孫さんいらっしゃるんですかー、可愛がってらっしゃるんでしょうね」
「亡くなったよ、もう十年になる」
雁の鳴き声と羽音が闇を切り裂くように聞こえてきた。薫子が土を払い、立ち上がった時には老人の後ろ姿は遠くなっていた。
老人と別れた薫子はネギを持って、学校へ戻る道を急いだ。夜道に焦燥を感じながら、夢中で走った。
途中で未来と合流できた。未来は、薫子と別れた当たりで律儀に待っていてくれたのだ。くしゃみをしていたのですぐにわかった。
「帰ってもよかったのに、待っててくれたの?」
「一応責任あるしな。さみーよ、早く帰ろうぜ」
二人そろえば百人力、足取りも軽くなる。
学校に着いて職員室に向かうと、伊藤が真っ先に出迎えてくれた。
「どうやら、証拠は見つかったようですね。よかった」
教室の中には教師の多くが残っているようだった。薫子の無罪を信じていたいうわけではなく、単なる見せ物を待っているようであった。煙草臭い部屋に入ると薫子は大きな声で呼びかける。
「お待たせしました。教頭先生の畑から野菜をお持ちしました」
被告人、美堂薫子、証人は来栖未来、弁護人は何故か伊藤が引き受けてくれた。
未来は薫子に野菜を渡したこと、自分が畑の場所を教えるまで、薫子が畑の場所を知らず、色々な人間に聞いて回っていたと証言した。
伊藤は畑のネギと未来の野菜は別物だと主張した。決定的な物証が出たことで、職員たちは動揺したが、初めから薫子を疑ってかかっていた沼田教諭だけは信じようとしない。
「では畑荒らしは一体誰なんだね?」
伊藤は粛然と挙手をした。
「意義あり! 本件と犯人の立証に関連はないように思えます。美堂薫子さんに犯行の動機もない以上、ありもしない罪で糾弾するのはいかがなものでしょう? これ以上、彼女を拘束するのは不当ではありませんか、皆さん」
教師たちは一様に押し黙った。
こうして世にも奇妙な学内裁判はひっそりと幕を下ろした。
その後、未来と名残惜しいお別れをして、薫子が着替えてから、教頭のネギを片手に廊下を歩いていると進行方向から伊藤が歩いてきた。一応の礼儀で薫子は挨拶をした。
「今日はありがとうございました、伊藤先生。さよなら」
「ああそうそう、さっき君を捜している子と会いましたよ」
伊藤の脇をすり抜けようとした薫子の足が止まる。真っ先に頭に浮かんだのは、せっちんだ。何故かせっちんの存在をこの男に知られてはまずいという予感がある。
薫子は動揺を悟らせまいと、笑顔を作った。
「何か言ってましたか? 彼は」
薫子は伊藤の反応を窺った。伊藤が会ったのが、幸彦なら表情に変化はないはず。少しでもおかしな素振りを見せれば、口を封じる覚悟が薫子にはあった。
「ええ、先に寮に行っていると。確か、寺田君でしたね」
「そうですか・・・・・・」
伊藤におかしな素振りは見られなかった。薫子の考え過ぎだったのかもしれない。
「つかぬことを訊きますが、彼とはどういう関係ですか?」
「ただのクラスメートですよ。いやん、何考えてるんですか、先生のえっち」
薫子は結構強めな力で、伊藤の腕を拳骨で殴ったが、伊藤は微笑んだまま微動だにしなかった。
「失礼、無粋なことを訊きましたね。気をつけて寮にお戻りなさい。何せこの学校には・・・・・・」
伊藤は声を落とした。
「悪霊がいるそうですから」
薫子は一層の興味をかき立てられた。しかし、その態度がにじみ出てしまうのは避けたかった。単なる噂を聞いた時のように関心がなさそうにしていた。
「先生、スピリチュアルな分野もお話されるんですね。意外です」
薫子の皮肉が聞こえなかったのか、伊藤は窓の外に目をやった。
「何でも悪霊は着物姿の子供らしいです。ほら、例えばあのような」
薫子はぎょっとしつつ、窓にはりつくように外を凝視した。伊藤が指していたのは暗がりに浮かぶせっちんの銅像である。薫子は唾を飲み込んだ。
「・・・・・・、先生はご覧になったことがあるんですか、悪霊」
「いいえ、どうやら僕には霊感がないようです。何人かの生徒は目撃したそうですが。どうしました? 恐い顔をして」
「こう見えて私、恐がりなんです。なんだか気分が・・・・・・」
薫子は、わざとよろめいて伊藤の懐に入った。伊藤はせっちんの情報を知っているのかもしれない。詳しく聞きたいが怪しまれる可能性もある。最悪の場合、荒事になるかもしれない。そうすれば今日の苦労も水の泡。疲れていたし、今日のところは伊藤を締めあげるのをあきらめることにした。
「大丈夫ですか、気分が優れないなら僕の車で送っていきましょう。ちょうど帰るところでしたから」
伊藤は薫子の肩をさりげなく抱いた。その手つきが女の扱いになれていると感じさせた。
薫子は伊藤の手を指一本ずつ丁寧に払いのけた。
「一人で大丈夫です。今日はいろんな先生とお話ができて大変勉強になりました。失礼します」
薫子は早足で、せっちんのトイレに向かった。念のため、頭上を確認したが、廊下の窓に伊藤の姿はなかった。
「・・・・・・せっちん! ごはんよ、出ておいで」
犬にでも呼びかけるように手を叩き、うろついたが、風で草がざわつく音しかしない。
トイレの中も空っぽで、嫌な感じがした。どうすべきか考えながら銅像まで戻ってくると、先ほどは気づかなかったものを見つけた。銅像の台座の上に紙が置いてある。風で飛ばされないように重石がしてあった。 明るいところに持って行き、薫子は紙に書かれたメモを読む。
『五時になっても美堂さんと会えないので、せっちんを連れて先に寮で待っています。追伸、野菜は持っていきました』
薫子は深いため息をつき、思わず地面に座り込んだ。今日初めてついた安堵のため息だった。