ありがとうは言わないで
「そりゃあ、お前が全面的に悪いね」
アパートに帰宅したカヲリが、母に雪乃の事情を説明したところ、けんもほろろな反応を受けた。
母なら味方してくれる。無条件でそう信じていたので反発は必至であった。
「どうして? あの母親は絶対家を空けるわ。雪乃ちゃん、また一人にされるのよ」
「でも住む家はあるんだろう? それに幸彦君っていうお兄さんもいる。今回のことに懲りて、お金の問題にも気を配るんじゃないかねぇ」
カヲリ母は、太い腕を胸の前で組んだ。台所で豚肉を捌いている最中だった。カヲリの朝食を用意してくれているのだ。
「ひどい! どうしてわかってくれないのよ。私間違ってないもの」
「そうだね、カヲリ。お前は間違っていないよ」
カヲリは、母がまともに相手にしてくれないのが不服だった。所詮赤の他人の雪乃のことなど、放っておけということなのだろうか。しかし、母がカヲリの真剣な問いをはぐらかしたことはこれまで一度もないことを思い出した。
「だが、お前が正しいと思ってることも、雪乃ちゃんには正しくないことかもしれない。あの娘にとって何が一番大事なことなのか、考えてみたことあるかい?」
カヲリは思い詰め、唇をかんだ。母の言いたいことはわかる。しかし、何かあってからでは遅いのだ。悪い想像ばかりが働く。
「だいたい、人様の家庭の問題に首突っ込むのは感心しないね。お前が知らない事情だってたくさんあるだろう?」
「それは・・・・・・、うー、だって、でも・・・・・・」
言い返せない自分に腹が立った。大人は卑怯だ。こうして問題を普遍化して、見えにくくしてしまう。虐待の犠牲になる子供が大勢いるのも、それが原因ではないのか。
「いや、でも、私やっぱり、雪乃ちゃんを放っておけないよ。知らんぷりはできない」
母の巨体がしずしずと、カヲリのいるテーブルに近づく。見下ろされると圧迫感がある。
「好きにしな、カヲリ。お前の代わりは誰にもできないんだ」
母はそれきり無口になり、食事作りに没頭する。
カヲリは母の目を盗むように、テーブルの上の新聞の朝刊をめくる。ほどなくしてアパート付近の公園の記事を見つけた。夕べ、ガス事故があり、ボヤ騒ぎに発展したらしい。幸い負傷者はおらず、火災も大した広がりは見せなかったようだ。記事の扱いも小さく、写真もなかった。
「負傷者、ゼロか・・・・・・」
カヲリは、夕べの怪物や、”たいがーますく”の安否が気になった。螺々に聞いてみよう。彼女に会う口実ができた。
「近所で、ボヤ騒ぎがあったんだ。お前が巻き込まれたんじゃないかって、気が気じゃなかったよ。全く人様の家庭の心配してる場合か」
「ごめんなさい・・・・・・」
母は背中を向けたまま、カヲリをしかる。高校を変えてから心配をかけ通しだ。反省する気分にやっとなった。
1999年、12月5日 日曜日。
カヲリは、一日家で過ごすことに決めていた。出かける気にもなれなかったし、心休まる間もなかったため、母の料理を食べると、ベッドで死んだように眠った。
目を覚ますと、夕刻であった。突然、雪乃ママに言われたことを思い出す。
「母親とうまくいっていなんじゃない?」
心ない言葉を否定するように、カヲリは従順な娘を演じようとする。学校のことや、友達のこと、母に詳らかな話をした。
カヲリが何かに脅かされるように話すのを、母はある寂しさをもって聞いていた。
(2~)
西野陽菜は椅子に背をもたせ、目を閉じていた。薄い肩が静かに上下している。その顔はサンタを待つ子供のように邪気がなかった。
寺田幸彦は、背後から壊れものを扱うように彼女の両肩に手を置き、マッサージを始めた。
「この辺が痛いの?」
幸彦が右の肩胛骨の辺りに手を置く。
「うーん・・・・・・、もうちょい右、か、左」
陽菜はあいまいに返事をして、幸彦を困らせた。それが彼女の何よりの楽しみだから仕方ない。
1999年 12月6日 月曜日 丸岡高校、昼休みの教室の一コマである。
朝から陽菜は、背中の痛みを訴えていた。
休み時間のたびに幸彦の席に来ては、マッサージをさせる。幸彦は嫌な顔をせず、さりとて欣喜雀躍することもなく、この小姫の願いを聞いた。
「寝ちがえちゃったみたい。もっと強く」
甘えるように、時に謹厳に幸彦に命令する。
クラスメートの他の男子は、遠巻きに羨望のまなざしを向けていた。女子は、また下僕に奉仕をさせているくらいにしかとらえなかった。
「つらかったら保健室連れていくよ」
「やーだ。幸彦君にマッサージしてもらえば治る気がするんだもん」
陽菜の具合は相当悪いと、幸彦は感づいていた。単なる怪我の類ともまた違う。もっと根深いものだ。
「はー、極楽極楽。もっとして」
陽菜の湿った声に幸彦は少し顔を赤くして、込める力を強めた。
その頃、カヲリはお手洗いをすませ、廊下を歩いていた。
一人の女子生徒の姿が、カヲリの目に留まった。その女子生徒は、複数の生徒に取り囲まれ歩きながら指示を飛ばしていた。そこだけがまるで証券取引所のような喧噪だったため、カヲリは興味を引かれ、一歩近づいた。
中心で指示を出しているのは、涼しい顔をした佳人だった。彼女は周りの熱気とは裏腹にどこまでも冷めた風情で、まるで歩く機械のようだった。
失礼な感想を抱きつつも、カヲリの足はじょじょにその彼女の側に寄る。
カヲリは首を伸ばし、鼻をひくつかせた。遠慮も何もあったものではない。少女の甘い香りを鼻腔で覚える。
「君」
突然足を止めた少女。カヲリも足を止める。周りを囲んでいた生徒が息を飲んでいた。
「そんなに鼻をひくつかせて、豚みたい。醜いわ、やめなさい」
感情を露わにしない平坦な声で、警告すると何事もなかったように歩いていってしまった。
カヲリはその場にとどまって、言われたことを反芻する。
「豚かあ・・・・・・、ぶひっ」
教室に戻ると、マイとアイコが談笑している。カヲリはそこに歩み寄った。
「ねえ、カヲリン、見てごらんよ」
黒縁眼鏡のマイが、楽しげに言う。目線の先には陽菜の世話を焼く幸彦の姿があった。
「あー、またやってるね。もう付き合っちゃえばいいのに」
カヲリは嫉妬の素振りを微塵も気取らせることなく、あしらった。
「でも、背中痛いって、ずっと言ってるけど何かあったのかな」
案じたのは、アイコだ。最近実生活がうまくいっていると見え、余裕を感じさせた。
「方便なんじゃないすかー、寺田に構って欲しいんだよ。陽菜ちゃんも物好きですな」
陽菜の気まぐれに、皆なれているのか深くとらえない。カヲリも例外ではなく、おしゃべりに加わる。
「ねえ、さっきそこですごい人と会っちゃった」
「どんな人? カヲリン」
カヲリが廊下の出来事を話すと、二人はすぐさま理解したようである。
「その人、たぶん灰村先輩だよ。てゆーかよく怖くないね、カヲリン」
「えー、怖かったけど美人だったし、匂い嗅ごうと思って」
「マジ? ムシューダって変わってんね。あたしとマイはあの人、苦手」
規律にうるさそうな香澄にかかっては、二人も奔放さを発揮できないようだ。
「美人って、いい匂いするよね。来栖先輩もそうだし」
「えー、いちいち匂い嗅いでんの? カヲリン変態っぽーい。ちなみにウチはどう?」
試みにマイの首筋を嗅いでみる。すんすん。
「マイちゃん、シャンプー変えた?」
「うそ、わかる? 犬みたーい。アイコちゃんも嗅いでもらいなよ」
「あ、あたしは、いいよ。体育で汗かいてるし」
嫌がるアイコを逃がすまいとマイが腕を掴む。無理強いするのも可哀想で、カヲリはためらった。
「西野さんはどうかな。私やってくるよ」
軽い足取りで、カヲリは陽菜の背後に接近する。アイコたちは止めようとしたが間に合わない。ちょうど幸彦が別の生徒に呼ばれ、その場を離れていた時だった。
カヲリが背後に立っても、陽菜は目を閉じたまま正面を向いている。
陽菜の後頭部に鼻を近づける。どんなシャンプーを使っているのか興味しんしんだ。ところが不思議なことに陽菜からは、何の香りもしなかった。
「あれ・・・・・・、おかしいな」
カヲリが独り言をつぶやいたことで、陽菜が首ごと振り返る。その際、二人の鼻と鼻がこすれあうようにぶつかった。
カヲリは痛みでうずくまり、陽菜が甲高い悲鳴を上げる。
「いったーい! ちょっと何してんのよ、ムシューダ! もー、サイアクー」
「ひー、ごめんなさい・・・・・・」
陽菜は鼻を押さえてすごんだ。目には涙をためている。すぐ近くに幸彦がいて、すっとんできた。
「大声出すなよ、びっくりするじゃないか」
「だって、ムシューダが悪いんだもん。ねえ、私の鼻変になってない?」
「少し赤くなってるけど、大したことないよ」
陽菜は手鏡を取り出し、念入りに確認している。顔は女の生命線なのだ。わずかな傷でも落胆するのは当たり前である。カヲリは自分の不注意を恥じた。
「本当ごめんなさい。私のせいだわ」
「ふざけんなよ、ムシューダ。傷が残ったら、マジで学校来れなくさせるからな」
顔に似合わぬ辛辣な台詞に、ますますカヲリは居場所をなくした。それを救ったのは、幸彦であった。
「まあそう熱くならないで。保健室で診てもらおう、座ってるのつらいって言ってたし、丁度いいじゃないか」
「幸彦君がそう言うなら・・・・・・」
しおらしく頷いた陽菜だったが、カヲリを親の仇のようににらんでいた。
「ムシューダさん、西野を保健室まで連れていってあげて欲しいんだけど」
「えー、何でムシューダなの? 幸彦君がいい」
「僕、これから課題やらなくちゃいけないんだ。期限が今日の放課後までなんだよ」
陽菜は、幸彦に拒絶された事実に打ちひしがれた。自分より課題が大事と言われれば、それはへこむ。
「寺田君、それはひどいわ。課題と西野さん、どっちが大事なの?」
「課題」
平然と二人を突き放し、幸彦は課題に取り組むからと陽菜を席から追い出した。
雪乃ママは、幸彦のことがわからないと言っていたが、この時ばかりは同感だった。
うつむきがちの陽菜に付き添って、カヲリは教室を出た。
間が持たず、逃げ出したくなった。アイコたちにも来てもらえばよかった。取りなすように話しかける。
「て、寺田君、冷たかったね。でも課題も大事だもんね、しょうがないよ」
「ムシューダ」
陽菜が素早く腕を振り上げた。殴られる。目を閉じ身構えた。陽菜の平手はカヲリの頬すれすれで止まり、風を生むだけですんだ。
「あんた、何もわかってないね。幸彦君はあんたのために悪者になってくれたんだよ」
「えっ?」
「私があんたをいつまでも責めるから、代わりにバカを引き受けてくれたの。気づいてないの? バカなの?」
陽菜の言ったことは間違っていない。しかし、カヲリがそれを認めてしまうと、この二人が本当に深く結ばれているような気がして認めたくないのだった。
「単なるドSじゃない? 西野さんとはお似合いだね」
「そうだよ。私に冷たくしていいのは、世界で幸彦君だけ。それだけは・・・・・・本当のことなんだよ」
陽菜はカヲリを突き飛ばすと、早足で保健室に向かった。後を追う気力も湧かず、カヲリは教室に戻った。
幸彦は、席に座ってあくびをしている。とても逼迫した状況下の人間の姿ではなかった。
「寺田君が何考えてるか、私にはわからない」
「そうかな。ありのままで生きているつもりだけど」
「私、一昨日、雪乃ちゃんの家に泊まったわ」
幸彦が横目で、一瞬だけカヲリを見やった。
「お母さん、帰ってきたわ。もう大丈夫だと思う」
「・・・・・・、わざわざありがとう。それから色々面倒をかけてすまなかった」
「謝るなら私じゃなくて、雪乃ちゃんにして。あの子、ずいぶん無理してたから」
雪乃が一人で生き抜くためには、仕方のないこととはいえ、幸彦は彼女に酷な思想を植え込んだように思える。カヲリにはそれが耐えがたい。
「人の家の事情に首突っ込むのはよくないってわかってるけど、雪乃ちゃんをもっと子供らしく扱って欲しいの。じゃないとあの子・・・・・・・」
カヲリが幸彦の様子を盗み見ると、彼はノートを広げている。考え込んだ姿が雪乃と酷似しており、兄妹であるとまざまざと思い知らされた。
(3~)
丑之森螺々はクラスで浮いている。それもそのはず、小麦色に焼けた肌に、濃いアイメイク、脱色した髪は、どれだけ品行よく振る舞おうとも、目立ってしまう。周囲は腫れ物を扱うように彼女を遠ざけた。
「吾輩はギャルである。名前は丑之森螺々」
細いたばこを口にくわえ、学校の中庭で一人寝ころんでいた。中庭にはソメイヨシノの木が植えてあるが、今は丸裸で寒々しい。そのすぐ真下で螺々は紫色のシートをひいて寝ていた。
ヘビースモーカーの螺々は、一日で最低でも三箱は消費している。さすがに教室で吸うことはしないものの、あとはところかまうことなく煙をまき散らしていた。
彼女はキャラクターを演じることはあっても、演じさせられる経験はこれまでなかった。今の姿は待ち望んだ次の形態ではなく、仮の姿。つまり羽化する前の状態なのだ。羽化する姿は自分で決める。しかし、他の生徒たちはどうなのだろう。羽ばたく蝶になれるのか、それとも・・・・・・
寝ころぶ螺々の側に、小走りで近づく者がいた。
「やっと・・・・・・、見つけた。ゴホッ・・・・・・」
近づいた者は息を整えようとして、せきこんだ。紫煙が障ったのだろう。
「私に何か用か? パンツは履いてないから見たけりゃいくらでも見ていいぞ」
螺々は相手の顔を知らないまま、両足を広げた。その足は力ずくで引き戻される。
「丑之森さん、私です。カヲリです。聞きたいことがあって来ました」
螺々はやっと体を起こし、あぐらをかいて座った。カヲリが緊張した面もちで見下ろしている。
「ああ、君か。どうした、恋愛相談か? 残念ながら私は思春期に適切な異性との交友がなかった。というか、忘れたというのが正しいな。何分半世紀前のことだから」
「何言ってるんですか? 違いますよ」
螺々は、以前とは別人のように毒気のない女になってしまった。まるで、二浪した受験生が志望校に落ちたような淀んだ目をしている。
「丑之森さん、何かあったんですか?」
「まあ色々あるよ、人生は」
「しっかりしてください! こっちは色々あったんですよ」
カヲリは昨日の出来事を早口で説明した。螺々は再び大の字で倒れてしまった。聞いていようがいまいが関係ない。カヲリの今の境遇を知ってほしくて、放課後かけずり回っていたのだから。
「”たいがーますく”とは知り合いですか? 螺々さん」
螺々は目を瞬かせた。
「誰だ? そいつは。ハクアの悪ふざけじゃないのか。あの幼女ならやりかねん」
「全然違いますよ。もっとちゃんとした子です。それに・・・・・・」
カヲリが含みをもたせると、螺々は興味を引かれたようで、起きあがった。
「ふむ・・・・・・、まあ命びろいできて何よりだ。命は大事だよ」
「そんな一言で片づけないでください。私を襲ったあの炎を出す娘は何者なんですか?」
「さあな。ハクアなら知ってるかもしれんが、奴も行方不明だ。案外その辺でくたばってたりしてな。アハハ・・・・・・」
螺々の緊張感のなさに、カヲリは苛立つ。もっと真摯に請け負ってくれると信じていたのだ。
「あの、もしかして私のことどうでもよくなってませんか?」
「いやいやいや、君は大切な存在だよ。ヴェルターズオリジナルのようにね」
はぐらかされてばかりでうんざりした。事情通のハクアを探すほかないのだろうか。そちらは螺々より遙かに危険な相手に思えた。
「そうだ、カヲリ」
立ち去ろうとしたカヲリを、螺々がふいに引き留める。
「君、人前に出るのは好きか?」
「いいえ? あがり症ですし、できれば遠慮したいです。それがどうしましたか?」
螺々は苦い顔で首を振った。
「何でもない。おかしなことに巻き込まれる前に、早く家に帰るんだな」
カヲリは挨拶もせず、中庭を離れた。
螺々の口から疲れたようにため息が漏れる。
「本当にあいつにエトワールがつとまるのか? Tは一体何を考えている」
(4~)
螺々に脅され、疑心暗鬼になったカヲリは小走りで昇降口に向かった。その背後から追いすがるように何者かが接近してきた。カヲリは後ろを振り向く勇気がなく、そのまま逃げきることを考えた。しかし、廊下に人の波は絶えないので、覚悟を決め後ろを振り向いた。
「カヲリ、今帰りか」
カヲリを追いかけてきたのは、来栖未来であった。高い背を縮めるようにして前かがみになっている。
「先輩! 最近は物騒ですから早めに帰った方がいいですよ、くんくん」
カヲリは未来の二の腕の当たりの匂いを嗅ぐ。挨拶代わりだ。
「ひゃっ! な、何するんだ、やめろ」
未来の可愛い悲鳴を聞いて、カヲリは満足した。香澄の匂いは香に近かったけれど、未来のは果物のようなおいしそうな匂いだ。カヲリのお気に入りで、隙あれば嗅ぎたいと思っている。
「それはさておき、私に何か用ですか?」
未来の長い指がカヲリの手をからめとる。指と指が吸いついて離れない。蛸の吸盤のような吸引力があるらしかった。
「卓球、しよ?」
媚態を込めた上目遣いのおまけつき。カヲリは雰囲気に流され、手をしっかり握り返してしまった。
「あや(感)。そんなこと言ってはいけません。卓球部には入らないと言ったじゃないですか」
「仮でもいいから。卓球部員(仮)でいいから、一緒にやろーよ」
執拗に迫られ、カヲリは困惑する。カヲリは運動に向いていないと、未来も知っているはずなのだが、あきらめてくれない。
「そういえば、来栖先輩、普段一人で何されているんですか?」
「ふぇっ・・・・・・!」
未来はわざとらしいほど狼狽え、目をそらした。部室に使用済みのタオルがあったので、筋トレでもしているのかと思ったのだが、それにしては怪しい反応である。
「そ、掃除とかだよ。他に誰もいないし」
「もしかして”ゆーくん”ですか?」
未来は観念したようにうつむく。カヲリは一応、耳目を引かないように廊下の隅に移動した。
「安心してください! 誰にも言ったりしませんから。彼氏なんですよね」
「違う・・・・・・、幼なじみ。もうこの話終わり。無理強いして悪かった。もういいよ」
寂しそうな未来を前にして、つれない態度は貫けなかった。
「卓球、今度でもいいですか? 今日は用事があって」
未来を妙な事件に巻き込みたくない。カヲリの精一杯の心配りだ。未来だけでなく、他の知り合いも守らなければという責任感が湧いた。
カヲリの曖昧な返事にもかかわらず、未来のこわばった表情が若干ながら和らいだ。唯一の救いであった。
未来と別れたカヲリは尾行を警戒しながら、アパートに帰宅した。
たいがーますくがいるような気がして、公園に行くことを考えたが、公園へ至る道は封鎖され、近づくことはできなかった。
もはや自分の生命は自分で守らなければならない。雪乃のような、覚悟が芽生え始めていた。
アパートの部屋には、しっかりと鍵がかかっていた。鍵の隠し場所は、雪乃が来た時のために変えていない。
安堵と落胆が同時にのしかかる。雪乃は平穏な家庭で過ごしているのだろうか。今は彼女を信じることしかできそうにない。
静かなアパートの一室で、レシピノートを書き始めた。雪乃に細かな間違いを指摘されないように一字一句、正確に記述するのを怠らない。
カヲリは私服に着替えず、制服のままである。それには理由があった。
カヲリの部屋とリビングは、襖一枚隔てたきりである。その襖の向こうから、人の気配がするのだ。息づかいと、身を動かす音は聞き間違いようがない。
侵入者が何者かという疑念と恐怖に、脅かされた。今はカヲリが侵入者に気づいたということを勘づかれてはならない。隙を見て逃げ出すべきだ。
潜んでいるのが昨夜のニーナだとしたら、どうしてカヲリを一息に殺さないのだろう。カヲリは眼中にないという印象を受けたのは、楽観論に過ぎるだろうか。もし襖の向こうにいるのが、別の者だとしたら。
カヲリは物音を立てないように細心の注意を払って、襖の前に立った。迷うことなく一息で開く。どうせニーナがいたら確実に殺される。不意をついた方がまだましだと思えたのだ。カヲリも肝が据わってきた。
カヲリの部屋は空であった。サッシの窓が開いていて、カーテンを揺らしている。開けた覚えはなかったが、母が掃除のついでに喚起して、締め忘れたのかもしれない。
ざっと目を通したが、部屋に荒らされた痕跡はない。押入の戸が数センチだけ開いていたことだけは見落としていた。
窓を締め、一息ついた。少し神経質になっているのかもしれない。着替えようと、一度振り返る。
気配は薄かったが、部屋のすみに絣の着物を着た子供が体育座りをしていた。カヲリが気づいた時も、置物のようにじっと黙り込んでいた。
「え?」
カヲリは声を出すのをためらった。子供は雪乃に酷似しており、雪乃がまた勝手に入ってきたのかと思った。髪型といい、線の細さといいうり二つなのだ。
「雪乃・・・・・・、ちゃん? じゃないの?」
カヲリがにじりよっても、子供は膝を抱えて動かない。
顔をのぞき込むと、土気色の肌をした幼女が浅い呼吸を繰り返していた。おこりにかかったように震えがやまない。
「もしかして、貴方、たいがーますくさん?」
幼女はぷいと、そっぽをむいたが、その弾みで真横に倒れた。外傷はわからないが、だいぶ衰弱している。
「だ、大丈夫? あいつにやられたのね。こんなになって・・・・・・」
カヲリは幼女を抱き抱え、ベッドに寝かせた。彼女の体重は雪乃より軽いようだった。力は全く入らないらしく、ベッドまで運ぶのに苦労した。
「私のせいでこんなことになってて、言っていいのかわからないけど・・・・・・」
幼女の頬に、涙の粒が数滴落ちる。
「生きててくれてありがとう」
幼女は気を失った。カヲリは名も名乗らぬこの戦士の面倒を見ると決め、慌ただしく部屋を後にした。
カヲリがいなくなった後、押入の闇に猫の眼のような光がちらついた。
カヲリは、これからキャストと呼ばれる彼らと踊り戯れることになる。逃れられぬゲストとしての宿命は、すぐ側まで迫っていた。




