母という病
小林雪乃は両足の靴を脱ぎ、電車の座席に上っていた。膝立ちで暗い窓辺を臨むものの、どこか落ち着きなく足を揺すっている。親指の部分に穴が開いた白い靴下がはためいていた。
その傍らで、カヲリが膝に顔を埋めるように座っている。膝の震えを押さえきれず、手で押さえていた。
「おい、カヲリカヲリ。すげーぞ、見てみ」
雪乃が興奮を露わにし、カヲリの肩を揺さぶった。
電車は高架橋を通過しており、金属質の振動が耳鳴りを誘発する。
高架下は幅広の川が流れている。雪乃が目を輝かせたのは、別の事柄だった。
「月はでっけーのに、川に映ると小さくなっちまう。どっちが本当なんだろ」
子供らしい好奇心に大人は真摯になるべきだが、今のカヲリにそんな余裕はない。死地を脱したばかりだ。カヲリの心は激しく波打っていた。
謎の少女、”たいがーますく”にカヲリたちは救われ、命からがら逃げ延びることができた。人知を超えた怪物に襲われた原因は今もって不明だ。カヲリの心残りは、たいがーますくを一人残してきたことだった。強く引き留めたのだが、ますくは受け入れなかった。
そればかりか、
「そなたには、”かり”がある。いきのびてくれ。たのんだぞ」
謎めいた言葉を残し、彼女は消えた。月明かりに一瞬だけ照らされた横顔を、カヲリは忘れることができなかった。
「おいっ! おっぱい、聞いてんのか!」
電車内に、雪乃の怒号が轟く。先ほどまで生死の境をさまよっていたとは思えないやんちゃな姿である。
カヲリは青ざめた顔を上げ、弱々しく唇を動かした。
「な、何、雪乃、ちゃん、電車で大声ださないで・・・・・・」
カヲリの蚊の鳴くような声は、電車内の騒音にかき消され、雪乃の耳には届かなかったらしい。怪訝そうに片眉をつり上げられた。
「聞いてねーだろ! このおっぱい星人」
腹を立てた雪乃は、カヲリの服の上から胸を強く掴んだ。両手の平の面積を最大限に使い、重量のあるバストを上下にもみしだいたものの、カヲリは放心して相手にしない。
雪乃の怒りは頂点に達した。元より無視されるのが我慢ならない娘で、学校でそんな目に遭った日には、クラス全員を堂々と糾弾するほどの寂しがり屋である。
雪乃は背後に視線を感じ、素早く振り返る。
向かいの座席に、チェックシャツを着た大学生風の青年が座っていた。彼は週間少年マガジンを盾にしていたが、さきほどから雪乃の横暴を隠れて楽しんでいた。
「見せもんじゃないぞ! 何見てるんだ!」
雪乃が恫喝すると、青年はすごすごと退散した。その際、マガジンを座席に置き忘れていった。
「エロガキには、過ぎた本じゃ。私が読んでやる」
雪乃は得意顔で雑誌をもって、カヲリの隣に座った。
「読み終わったらどうしようかの。学校に持ってって、五百円で売りつけるか。新吉とか平太ならNOとは言わんじゃろ」
雪乃は小ずるい顔で、いひひと笑った。もうカヲリに対する怒りは忘れかけている。
「いや、待てよ。貸し出し制にして、一人五十円とったらどうかの。目標の五百円には、十人に貸さないといかんから・・・・・・、微妙か。やはり五百・・・・・・、八十が適正か」
雑誌の値段は新品でも、三百円に届かない。雪乃は金欠に陥った時、こういった手を頻繁に使った。生きるための知恵だが、それを教えたのは、兄の幸彦だった。
「雪乃ちゃん・・・・・・」
カヲリは幽鬼のような目で雪乃を見下ろした。独り言を聞かれたと思った雪乃は慌てふためく。
「ち、ちがうんじゃ。マンガ好きの友達に貸してやろうと・・・・・・」
雪乃の弁解をカヲリは聞いていなかった。雪乃の肩をねんごろに抱いた。
「寒くない?」
雪乃は安心に包まれ、目を細めた。
「かあちゃんのにおいがする・・・・・・」
乗っていた電車が終点についた時には、十九時を過ぎていた。行き先を確認せずに飛び乗ったため、見知らぬ駅のホームに降り立つと、二人の不安は募る。
「これからどうするんじゃ、カヲリ」
駅のホームで雪乃が訊ねた。
アパートに帰る選択肢は考えていない。怪物がまだあの辺りにいる可能性もある。そして、たいがーますくも・・・・・・。
念のため母の安否を確かめるために、公衆電話をかけると母は無事であった。
アイコの名前を借り、彼女の家に泊まると嘘をついた。母は帰ってこいときつく言ったが、カヲリは事情を説明せず強引に電話を切った。未曾有の危機をどう語ればいいというのか。巻き込んでしまう恐れもあった。
「どこか・・・・・・、ホテルでも探そうか」
カヲリは財布を漁ったが、三千円程度しか入っていない。雪乃と二人で安全に潜伏できる場所も、未成年の彼女には心当たりがない。
丑之森螺々に助けを求めることも考えた。彼女からは、先ほどの化け物とはどこか違う感じを受けた。人間らしさのような自分との共通項である。たいがーますくにもそれは顕著で、やはり螺々ならなんとかしてくれるのではないかと期待したが、連絡方法に思い至らない。丸岡に行っても無駄足になる恐れがある。
考えあぐねていると、雪乃がカヲリの手を強く握っていた。
「カヲリ・・・・・・、うち来るか?」
ありがたい申し出であったが、先方の迷惑を鑑みるに即答はできなかった。
「お前、家出するんだろ。私が協力してやる」
雪乃は怪物のことも、自分がされたことも覚えていない。もちろんカヲリの事情も知らない。カヲリは黙っているつもりだ。
雪乃は強固な意志を秘めていた。何かあっても、自分が責任を持つという覚悟。小さな大人を自負している。
カヲリは、弱りきった精神を委ねるように頷いていた。 幸い、向かいのホームから出る急行電車に乗れば、二十分程度で雪乃の住居近くまで行けるらしかった。
橙色の電車がホームにやってくる。カヲリは雪乃と手をつなぎ、電車に乗り込んだ。
(2~)
カヲリと雪乃はぴったり寄り添い、駅を出た。駅前ロータリー付近にはまばらな人影が行き交うほか、タクシーが何台か止まっている。
カヲリには、見知らぬ景色も目に映らない。頼りない足取りである。雪乃は見かねて手を離そうとしない。小さくとも頼もしい先導者だった。
「腹へったな。近くにマックあるぞ・・・・・・、でも金ないな」
雪乃は、近くの進学塾から出てくる少年たちに目をつけた。
「塾通いとは、のんきな奴らよ。カツアゲでもしちゃるか」
カヲリの様子をそうっと伺うと、諫めるように見返され、下を向く。
「カツアゲは、やめとくか。家に行かんとな」
カヲリも少し平静を取り戻し、雪乃が問題児であり、一通りのやり方が通用しないことを改めて思い出したのである。目が離せない。この時ばかりは、そのことに感謝した。
雪乃のお腹がなった。それよりも大きな音でカヲリの腹の虫がなった。まるで牛が鳴くような低く長い音で、近くに立っていたタクシー運転手が吸っていたタバコを落とした。カヲリは顔を赤くして、歩く速度を上げた。
「あー、シチュー食いてー、鶏肉たっぷりのな」
「作ってあげようか?」
カヲリの何気ない一言で、雪乃は嬉しそうに何度も頷いた。
近くのスーパーが遅くまでやっており、クリームシチューのルーと、安い鶏肉、雪乃が嫌いなにんじんを買った。その他の食材は家にあるという。
「私は料理をやらないんじゃなくて、周りがやらせてくれんのだ。きっと高速の包丁さばきに恐れをなしているんじゃ。自分がさばかれるという幻覚に襲われるんじゃな、うん」
「不器用なだけじゃないの」
スーパーを出る際、カヲリが水を差すと、雪乃はおもしろくなさそうに舌打ちした。
雪乃の生活に入っていくことに不安を感じないといえば、嘘になる。雪乃と初めてあった時を思い出す。何日も服を変えず、お風呂にも入っていなかった。これから待ち受けるであろう光景は、カヲリの想像を超えるかもしれない。
「さあ、ついたぞー」
駅前から五分くらいの場所で雪乃は立ち止まった。住宅街の一角である。そこは屋根の傾いた木造の一軒家だ。電気はついておらず、家の敷地には錆のういた自転車や、鍋などが散乱して、入り口を塞いでいる。窓ガラスが割れており、壁には赤いスプレーで落書きがしてあった。『blind alley』
想像以上の惨状に、カヲリは言葉を失った。雪乃は早急に保護されるべきなのではないか。そう危惧するほどの、荒れようだった。
「あー、電気ついてねーな。かあちゃんは帰っておらんか」
雪乃はカヲリとは真反対の方角を向いて、つぶやいた。
カヲリは、そっと包み込むように雪乃を背後から抱きしめた。
「おっぱい押しつけてんじゃねーよ。男にもそうやって取り入ってんのか」
雪乃は鼻をほじりながら暴言を吐いたが、満更でもなさそうにしていた。
「雪乃ちゃん、無理しなくていいからね。みんな貴方の味方だから」
不審に思った雪乃がカヲリをふりほどき、真顔で向き直る。
「前に言ったと思うが、私は同情されるのが嫌いだ。私は可哀想じゃない」
「わかってる。でも、人に頼るのは恥かしいことじゃないよ」
雪乃はうつむいた。堅固な鎧が少しずつはがれ落ちていく。
「・・・・・・、誰に頼れって言うんじゃ。どうせ誰も助けてくれん。兄ちゃんはそれは当たり前のことだって言ってた。人間は自分のことしか関心がない。遠くの国でテロが起きても、自分が蚊に刺されたことの方が気になるんじゃ」
カヲリには、幸彦の意図が理解できなかった。子供に対するにあまりに酷なのではないか。人は人と支えあうのが当たり前だと考えていたカヲリは暗い気持ちに襲われた。
「私もな、他人のことなんかどーでもいいんじゃ。法人向け弁護士になって、がっぽり稼いで金持ちになって、大きな家に暮らすんじゃ。英語も勉強してるし、怖いことなんかないんだ」
雪乃は明るい声で言い切ったが、下を向いたままだった。
カヲリはしゃがんで雪乃の目線に合わせる。
「じゃあ、未来の有能弁護士さんに依頼してもいい?」
「お、おう。この間のキザ野郎から慰謝料取るか? それともアパートの家賃の交渉か?」
「違うよ」
カヲリは雪乃の肩に手を置く。
「貴方自身の弁護。引き受けて」
「意味分からん」
雪乃はカヲリの手を払いのけようとしたが、カヲリは離さない。
「自分のことを大事にできない人が、誰かを守れるの?貴方は賢いけど、やっぱり子供だよ」
雪乃は目を見開き、つばきをとばす。
「うるせー! 子供だろうが、大人だろうが関係ないだろうが! そんな甘っチョロいこと言ってる奴は騙されんだよ! お前だってそうじゃないのかっ!」
カヲリは胸にチクリと痛みを覚えるが、ここで引くわけにはいかなかった。
「そうだよ、大人も子供も関係ないよ。騙されて泣いて、それで誰かに助けてもらって。強い人なんていないんだよ。貴方の依頼人だって、弱い人。その人に寄り添えない貴方に、弁護士になる資格はないと思うな」
雪乃は抗弁しようと、顔を真っ赤にして黙り込んだ。しかし言い返せずに、犬のようなうなり声が漏れただけだ。
「おっぱいのくせに・・・・・・、私より、バカのくせに、生意気だ。せっかく助けてやろうと思ったのに、バカ、バカ・・・・・・」
雪乃の目から宝石のような涙がこぼれ、地に垂れた。
「弱い奴が悪いんだ。努力が足りないから、捨てられる・・・・・・」
「ううん、貴方は十分がんばってる。私にはわかってるから。もうそんなこと言わないで」
カヲリは、雪乃をしかと抱きしめた。
雪乃は駄々をこねるように、カヲリの背中を叩いていた。叩くのに疲れると、しゃくりあげてカヲリの胸に顔を埋める。
冷たい風が吹き込んで、あばら屋を揺らした。
「ここにいると、冷えるね。家の中に入ろう、ね」
カヲリがあばら屋に入ろうと促すと、雪乃はぱっと体を離した。
「おい、どこに行くつもりだ」
真っ赤に腫らした目で、カヲリをにらみすえた。
「どこって、おうち。ここでしょ」
「ここ空き家じゃ! 何勘違いしてんだよ、おっぱい」
カヲリは狐につままれたように、雪乃とあばら屋を見比べた。
雪乃は馬鹿にされたと感じたのか、癇癪を起こす。
「なめやがって、どうせ変なパンツはいてんだろっ! 見せてみろよ」
「え、ちょ、やめてよ・・・・・・」
雪乃がカヲリのスカートを掴んでめくり上げた。抵抗するも、気迫負けする。
「うわっ、何だこれ・・・・・・、おい、やべーぞ、これ。何て、みだらな。大人ってこえー・・・・・・」
カヲリのスカートをのぞいた雪乃は、一人で意気消沈した。
「気は済んだでしょ、ほら今度こそおうちに案内して」
雪乃の住居は、あばら屋の真向かいにあった。
人家を見下ろす摩天楼、高層マンションである。登れるものなら登ってごらんという挑発するような威容がそこにはあった。
カヲリは見上げて、口をあんぐりあけた。
「いやいやいや、嘘つくにしてももっとましな嘘つこうよ。家賃いくらよ、これ」
「賃貸じゃねーよ、ばーか。3LDKで六千万くらい」
あっさりと言って、雪乃は先に立って歩きだした。通りを挟んだ向かい側。巨人が通っても問題なさそうな広い道がマンションへの道筋。
だだっ広いエントランスホールは、高級ホテルと遜色なくない装飾と絢爛具合でカヲリの度肝を抜いた。
受付で雪乃はコンシェルジュと何か話していた。堂々と振る舞う彼女を見て、カヲリもそれにならおうと胸を張る。しかし、服装のカジュアルさは否応にも立場というものを自覚させずにはおかなかった。
雪乃とエレベーターに乗り、高層へ。どうやら冗談ではないらしい。カヲリは唾を飲み込んだ。
「あはは、笑っちゃうわね」
「いいだろ? まだ誰も呼んだことないんだ。光栄に思えよ」
雪乃の暮らす部屋は最上階にあった。廊下は、シックな色合いの造りだが、少し冷たい感じがする。ドアは指紋認証で、鍵穴のないタイプだった。
玄関で電気をつけると、すぐにゴミ袋が目に付いた。点々と廊下に落ちている。現実味を帯びていて、カヲリを少し安堵させた。
「ちょっと前まで電気と水道も止まっちまっててな。兄ちゃんが何とかしてくれたけど」
雪乃は広い玄関でも、当たり前のように靴を脱ぎ散らかす。カヲリは無言で首根っこを掴み、直させた。
リビングは備え付けのキッチンと、テーブル。和室が隣接している。テレビはなかった。部屋のそこここに雪乃のものではない女性の衣服が散らばっていた。
「テレビ観たいけど、母ちゃんがまた今度ねって言うんじゃ」
唇を尖らせ、正面のカーテンに近づく雪乃。カーテンを取りのけ、夜景を見せつける。
眼下にあるのは人家なのであろうが、点となった光が蛍のように重なりあっている。蛍の絨毯は見渡す限りの地平を埋めつくしていた。
雪乃はカヲリの様子を伺った。カヲリがうらやましがると期待したのだが、そうはいかなかった。
「私、高所恐怖症なの。悪いけど、カーテン閉めてくれる?」
雪乃は、カーテンを引きちぎらんばかりの勢いでひっぱった。
「つまんねー奴だな。ほら、シチュー作れ」
カヲリの背中を押す力がたおやかになっている。狼藉が目に付くので、意外である。
キッチンには、いつのものかわからない洗い物が溜まっていた。雪乃は露骨に目をそらす。
「いつかやろうと思うんだけどな・・・・・・」
「お母さん帰ってきた時、綺麗だと喜ぶよ。一緒に片づけよう」
雪乃はこくんと、頷いた。
カヲリが皿を洗って、雪乃がふきんで拭いた。
シチューを作るには遅すぎる時間だが、雪乃の喜ぶ顔を見たくて、下拵えに取りかかる。
「雪乃ちゃん、包丁使える?」
「お、おう。任せろ」
雪乃の包丁さばきはお世辞にもうまいとは言えなかったが、じゃがいもの芽を取ったり、そこそこの働きを見せた。
卓に着く頃には、二十一時時を過ぎていて雪乃よりカヲリの方が危機に陥っている。姑息な手段に打って出た。
「も、もう、限界・・・・・・、何か食べるものを」
冷蔵庫に赤赤とした林檎が一つだけあったので、息も絶え絶えそれを丸ごとかじった。
「あー! 何してんだよ、お前!」
雪乃が悲鳴を上げて、カヲリを指さした。
「ふぉってもおひい」
「何言ってるかわかんねんだよ! これ、母ちゃん帰ってきた時のために買っといた一個六百円もする林檎なんだぞ。返せよ!」
雪乃はカヲリの手から、林檎をもぎ取ろうとするが、既に芯しか残っていない。
「ご、ごめん・・・・・・」
うなだれる雪乃にかける言葉が見つからない。母への思慕を知っているだけに気に病んでしまう。
「シチュー、教えろ」
「え?」
「母ちゃんに食べさせたいんじゃ。作り方教えろ」
カヲリはシチューだけでなく、リーズナブルで簡単に作ることのできる料理のレシピのノートを作ることにした。後々、それは雪乃の生活を支えることになる。
大きな鍋でシチューが煮えている。匂いで二人の口中に涎がたまる。
「食べよ食べよ」
雪乃は、率先して皿を持ってきて盛りつける。野菜は食べやすいように小さくしたが、雪乃が担当したじゃがいもは不揃いで大きめだ。
カヲリの皿の方が大盛りになっている。雪乃の気遣いに顔がほころぶ。
静かな食卓。陶器のこすれる音だけが時折聞かれた。下界とは隔絶されているようで、カヲリはしばし様々なしがらみを忘れて、食事に集中することができた。
食事に没頭していると、ドアが開閉する音がした。反射的に雪乃が席を立つ。
リビングに半ば駆け込むように現れたのは、二人の男女だ。一人は茶髪で濃い化粧をした三十代半ばの女性、もう一人は、赤ら顔の太った中年男性。二人とも酒気を帯びて、ご機嫌な様子。
「ありゃー、雪乃ちゃんじゃありませんかー」
女性が雪乃の頭を乱暴になでる。雪乃はその勢いで倒れそうになった。
中年男性が、がははと笑いながらカヲリの作った鍋を遠慮なく開ける。
「おお、うまそうだ。どれどれ味見」
カヲリは混乱し、動けない。誰がどういう役割で、何と声をかけるべきか。雪乃はコアラのように抱っこされているし、男はシチューが気に入ったのかどんどん腹に収めてしまう。カヲリのことは一切触れられない。
「あの!」
一同の注目を集めることには、成功するものの後が続かない。
やがて、女性が大きな口を開け、あくびをした。
「眠くなってきたわ・・・・・・、雪乃おやすみ」
女性は雪乃の額にキスをし、床におろした。それからシチューに夢中になっている男性の手を強引に掴み、一室に入る。鍵がかけられた。
雪乃は憮然として、キスされた額を撫でている。カヲリはとりあえず落ち着くために食器を洗い始めた。
雪乃が照れくさそうに隣に立ち、目を泳がせる。
「あれ、かあちゃんと、新しい、おとうさん」
たとだしい経緯の説明に、カヲリのスポンジを持つ手に力がこもる。
その後、カヲリがシャワーを借り、床についたのは二十三時過ぎだった。物音をできるだけ立てないように雪乃の部屋に入る。
雪乃の部屋は薄いピンク色の壁紙で仕切られている。とはいうものの、いささか雑然としていた。本の虫というか、知識欲旺盛な性格を体言したような部屋だ。天蓋付きのベッドを中心に様々な本が散乱している。雪乃は、ベッドの上で地球儀の模型を抱いて船を漕いでいた。
「ごめんね、遅くなったね。さ、寝よう」
雪乃は薄目を開けて頷いたが、聞こえていないようである。電気スタンドを消し、カヲリは雪乃の脇で眠った。
翌早朝、あわただしい足音とドアが閉まる音がしたものの、カヲリは眠ったふりをしていた。雪乃は、カヲリの腕を枕にして熟睡している。身を起こすのもはばかられた。
昨夜はあまり眠れなかった。雪乃の母に対する思いと、自分の置かれた状況によるものだった。
トイレに行きたくなり、雪乃の頭をやさしくベッドに横たえる。
「かあちゃん・・・・・・」
寝言をつぶやく雪乃の目に、うっすらと涙が光る。
カヲリは雪乃の部屋を出て、トイレをすますと、リビングの方へ。
雪乃の母が、コーヒーメーカーでコーヒーを淹れている場面に出くわした。
タンクトップにすっぴんの彼女は、腫れぼったい目と薄い唇をしている。
「あんたも飲む? 今日のおすすめはキリマンジャロよん」
「・・・・・・、頂きます」
母はカヲリに名前はおろか身元も訊ねようとしない。見知らぬ他人が家にいれば嫌悪を感じるものだが、それもないようだった。それどころか、なれなれしく話しかけてくる。
「あたしさ、コーヒー好きなのよ。豆にもこだわってるんだ。お酒は実はあんまり好きじゃないの。仕事で飲むくらいでプライベートではあんまりね。飲むとお岩さんになっちゃうから」
そう言って、目を細めると顔に目が埋まって見えなくなりそうだった。
カヲリは少し笑って、表情を引き締めた。
「雪乃が世話になったみたいだね。あの子、暴れると手がつけられなくて大変だったでしょ?」
「雪乃ちゃんの・・・・・・、お母さんなんですよね? 本当に」
カヲリは自信なさげに訊ねた。
「そお、雪乃ママ。あんたもママって呼んでいいよ。雪乃はママって呼んでくれないしさ」
テーブルについても、ママの軽薄な態度は改まることはなかった。代わりにカヲリの顔はどんどん険しくなる。
「どうして雪乃ちゃんを放っておいたんですか? 彼女とても寂しがってます」
ママはコーヒーをすすった。鎖骨の浮いた胸が上下する。
「あの子が言ったの? 寂しいって」
「言ってないですけど、聞かなくてもわかります」
ママはカヲリをじっと見つめ、不意に笑いだした。
「何がおかしいんですか! こっちは真剣に・・・・・・」
「いやー、ごめんごめん。あんたさ」
ママは、にやにやと下品な笑みを浮かべるのをやめない。
「母親とうまくいってないでしょ」
カヲリは飲んでいたコーヒーにむせる。
「・・・・・・、私のことは今関係ありません」
「あるわよ。自分が寂しいからって、あの子に同情しちゃったんじゃない?」
カヲリは無闇に否定せず、雪乃の話に集中しようとする。自分の境遇は今は関係ない。
「大方、家出して、ふらふらしてる雪乃と会ったって感じ? 何かわかっちゃうのよねぇ、そういうの。あたしもそうだったからさ。こじれると面倒よね、母と娘って」
ママは知ったような口振りである。カヲリははぐらかされている話を元に戻そうと躍起になった。
「私は雪乃ちゃんの話をしているんです。親ならちゃんと責任を」
「えー、果たしてるわよ、ちゃんと。こんないいとこ住めるのは誰のおかげかしら」
「食べるものにも困ってました。電気とか水道も止まってたって」
ママは、瞳を上に動かした。
「ちょっとした手違いでねぇ・・・・・・、光熱費の支払いが遅れたのは事実だけど」
「どうして家を空けていたんですか?」
鷹揚なママも質問責めに、辟易したようだ。面倒そうに髪をかいた。
「あの人の出張が長引いたのは予定外だったけど、それは雪乃にも言ってあったことなのよ。お金だってちゃんと渡してたし」
「いくらですか?」
「ちょっと普通、そこまで聞く? ・・・・・・、まあいいけど、五千円くらいかな」
「どのくらい家を空けていたんですか?」
ママが言いづらそうにしているのが、はっきりとわかる。カヲリはいよいよいたたまれなくなってきた。
「一週間だっていうからついっていったら、思いの外、長引いてね。二ヶ月半・・・・・・」
ママはあまり悪びれる様子がない。九歳の子供が、本当にその期間生存できると思っていたのだろうか。
「雪乃ちゃん、自販機で小銭を漁ってました」
「あそー、恥ずかしいとこ見せたわね。後でしかっとくわ」
「そういうことじゃないでしょっ!」
カヲリは顔を真っ赤にし、テーブルをたたいた。ママは目を白黒させている。
「貴方、雪乃ちゃんにただいまって言いましたか? 一人にしてごめんねって言いましたか? 言ってないですよね。どうして言わないんですか? どうしてそんな風に平気でいられるんですか?」
カヲリは息をはいた。ママはというと、特段うろたえる様子もなく、コーヒーのお代わりをしに席を立った。
カヲリのはらわたは煮えくり返っていた。まるでママの方が正しくて、雪乃は強いから大丈夫とか、信頼関係で成り立つ、他人に預かり知れぬ親子の絆です(全米が涙)とでも彼女が言っているような気がしてくるのだった。
納得がいかない。カヲリは徹底抗戦を決めている。
「困ったら幸彦のとこに行きなね、って言っておいたからそんなに心配してなかったのよ」
「幸彦君はまだ高校生です。信頼しすぎです」
「あんた、幸彦とも知り合い?」
「クラスメートです」
そっけなく言い添えるも、ママはその微妙な反応を見逃さない。
「雪乃は頑固だけど、幸彦は何考えてんだかわからないから薄気味悪かったなぁ。誰に似たんだろ。モテるとこぐらしか、あたしに似てないわ。あんたもそうは思わない?」
当初、痛いところを突かれたくなくて、話をそらそうとしているのかと勘ぐったが、彼女は雪乃のことを深刻に受け止めていないのだ。それゆえ、平気で脱線してくる。
「お願いだから虐待とか騒がないでね。今回はたまたま悪い偶然が重なったのよ。何とかなったんだし、それでいいじゃない。あんたもコーヒーのお代わりどう?」
「結構です。雪乃ちゃんに謝ってください」
「はいはーい、お洋服とか買ってあげるわよ。あの子、難しい本ばかり読んで、ファッションに興味ないみたいなのよ。もう年頃だし、覚えさせていかないとね」
上機嫌に鼻歌を歌い、コーヒーを淹れるママ。恐らくこの人は再び、雪乃を一人にしても罪悪感を抱くことはないだろう。
カヲリは自分の言葉のいたらなさが、疎ましくなった。もしくは子供だからと軽く侮られているのか。いずれにしろこの人を説得するのは、容易ではない。殊、雪乃がママを欲している間は。
「かあちゃん!」
いつの間にか起きてきた雪乃が、嬉しそうにママの足下に駆け寄ってきた。ママはコーヒーを淹れるのに夢中で顔を向けようとはしなかった。
「ごめーん、雪乃。ママね、今コーヒー淹れてるから、後にして」
「やだ! だっこだっこ」
雪乃が幼子のように駄々をこねている。普段のませた態度が嘘のようである。実年齢より幼く見えた。
「もー、赤ちゃんじゃないでしょう? だっこは後で」
「やだやだっ」
雪乃はカヲリがいることを忘れているようだった。床に転がって手足をばたつかせた。
ママが観念して、雪乃を抱き上げる。途端、雪乃はだらしなく笑う。
「あのな、かあちゃんいない間に私一杯勉強したんじゃ、英単語も覚えたし、漢字も書けるし・・・・・・」
「そうなのー、えらいわね。雪乃。がんばったのね」
「がんばったんじゃ。兄ちゃんもほめてくれたし、学校の勉強なんかつまらん」
「そろそろ、塾に行かせるかあ。やっぱ入るなら私立よね」
ママと雪乃のやりとりを聞いていたカヲリは、吐き気を催し、無言で部屋を後にした。
カヲリは何の力にもなれなかった。ママを説得できなかったし、雪乃は何度裏切られても自分が必要な子供だと訴えるのをやめないだろう。
一体、何ができると錯覚して、あのテーブルについたのだ。カヲリは十七歳の小娘で、雪乃のためにできることと言えば、遊び相手くらいしかない。責任を持つこともできなければ、一緒に逃げる度量もない。
ママには初めから勝てなかった。勝てるつもりでいたのがそもそもの間違いであった。
苦い後悔を胸にマンションを後にした。カヲリの胸の内とは裏腹に、澄み渡った空が目にしみた。




