フール・プルーフ(後編)
灰村香澄は喫茶店の窓ガラスに自身を映し、髪を整えた。
指通りの滑らかな髪には定評があり、香澄の美貌の大きな位置を占める。それだけでなく、理由もなく伏し目をすれば、男たちはそれだけで慌てふためいた。
だが、陽の来栖と、陰の灰村などという不名誉な評判まで囁かれては、自己の外貌を呪いたくなることもある。
時刻は十九時を回っており、彼女は予備校の帰りであった。昨夜から少し寝不足で、顔色はあまりよくない。それでも、同世代の女子に比べれば肌のくすみはほとんどなく、弾力に富んでいた。
喫茶店は、商店街の一角にこぢんまりと構えており、隣のラーメン店の盛況とは対照的に静かな明かりを放っていた。
白いペンキで塗られた扉を入り、落ち着きなく目を走らせる。店員が駆け寄り、声をかけた。おひとり様ですか?
「いいえ、待ち合わせです」
割合、大きな声ではっきりと告げる。待ち合わせの相手は既に店内で香澄を待っていた。
わざと気配をたぐらせるように、靴音を立て席に向かう。
「ごめんなさい、少し遅れたわ」
香澄は、いつものように平坦な声で待ち合わせの相手に到来を告げた。
「珍しいですね。時間にうるさい貴方らしくない。もしかして予備校でしたか」
学制服を着たTが顔を上げ、ほほえむ。香澄も学制服のため、目立つかもしれない。カップルに見えるのだろうか。
「知ってて聞いてるの? 嫌味な奴」
香澄は、パフェを注文した。Tはそれを知るや、驚いた顔つきになった。
「別にいいでしょう? 今食べたい気分なのよ」
香澄が頬を膨らませると、Tは降参するように諸手を上げた。
「お忙しいのにすみません」
「ええ、丁度終わったばかりよ。世界史の授業。少し瞼が重いわ」
愚痴を言った香澄は、鞄から参考書を取り出し、テーブルの向こうへ押しやった。
「私のお古だけど、これでいいかしら?」
「助かります」
Tは、付箋が満載の参考書をぱらぱらとめくっている。香澄はそれを斜に眺めた。
「妹さん、勉強熱心ね。君も見習ったら?」
「耳が痛いな。今は忙しいんで」
「エトワール選のことね」
Tは参考書を鞄に仕舞った。
「裏で画策しているようだけれど、何が目的? まさか一途な恋心を貫くためとは言わないでしょうね」
Tが陽菜と懇意であることを知らない人間は、校内にまずいない。香澄にも周知の事実であった。
「恋……、ですか。灰村先輩は今しているんですか? 恋」
「質問を質問で返さない。まじめに答えて」
香澄は、かっと頬に血が通うのを感じた。Tはそれに気づかないように話を続ける。
「西野は恋をしていると思いますよ。でもそれは違う相手です。僕じゃない」
「よくわからないわ。それとも私をからかってる?」
「いいえ、きっと彼女のことは、誰にもわからないんです。これからもきっと、ね」
「謙虚になったのね。それとも私に対する当てつけかしら」
香澄は長い足を組み、Tをねめつける。
「もうよしませんか? 西野の話をするのは。灰村先輩が聞きたいのは、別のことでしょう」
香澄ははぐらかされて、屈辱に震えた。学内ならまずそんな非礼は許しはしない。だが、Tの前ではどうしても強く出ることはできないのだ。
「未来を弄ぶのは、もうやめて」
未来がTの口車に乗って、お金を巻き上げられていることを、香澄は心苦しく思っている。Tとは何度もそのことで話合っていた。
「弄ぶ? おかしなことをおっしゃいますね。彼女は自分の意志で僕と一緒にいたいと思っているんです。それを第三者が邪魔できますか?」
「これ以上、未来が傷つくのを見るのは耐えられないわ」
香澄は、か細い声でTの非を責めた。
「本当にそうでしょうか?」
「え?」
香澄の目があからさまに泳ぐ。Tはその迷いが手に取るようにわかっていた。
「貴方がその気になれば、僕の自由を奪うのは簡単でしょう。西野以上の勢力を持つ、女王と呼ばれる貴方がどうしてそうしないのか」
「そ、それは、君の買いかぶり過ぎよ。私にそんな力はない」
Tは香澄を嘲るような笑みを浮かべる。
「ではそう仮定しましょう。貴方に大した影響力はない。ですが、個人としての力はあります。人権という奴が。もちろん、未来姉ちゃんにもね」
Tはそこで言葉を区切り、香澄の表情を伺った。香澄は震える指でグラスの水に口をつけていた。
「僕にお願いをしてください。そうすれば未来姉ちゃんと別れます」
「できない」
「どうしてです。一言でいいんです。何なら命令でも構いません。さっきみたいに居丈高に、一言。さあどうぞ」
香澄はどうしても、その一言が言えずにいる。こうして、Tと隠れて会っているのも、未来は知らない。
「心配せずとも、鶏に傷なんてつけません。保証します」
「君、最低だわ」
香澄は吐き捨てるように言い、うつむいた。最低の人間は誰なのか。それを一番わかっていたのは彼女だった。
香澄の注文したパフェが運ばれてきた。小山のようにうず高く積まれたクリームとフルーツを前に、二人は思わず苦笑した。
「それはそうと、妹さんの猫は見つかりそう?」
二人はパフェに同時にスプーンを入れた。互いの顔は見えない。
「いえ、手がかりがないので」
Tの手が不自然に止まる。
「早く見つけて、妹さんをお家に帰してあげなさいね」
香澄は、厄介ごとを忘れようとクリームを口いっぱいに頬張る。嗚呼何と甘美な味だろう。Tと、こうしてスイーツを食すと舌先に広がる味がまるで違う。
香澄の未来に対する屈折した想いを受け止めてくれるのは、彼だけだ。それを責めずに、こうして分かちあってくれる。今日も香澄の方から誘ったのだった。
「甘いですね。食べきれるかな」
「そうかしら……? 私にはこの蜜が丁度いいのだわ」
(2~)
ニーナは口を真一文字に結んで、こぎざみに震えていた。アスファルトから首だけを出し、涙の痕は乾いていない。顔を拭う慈悲すら、与えられなかった。
「どんな拷問をされようが、支配者のこともナノのことも話さないぞ」
ますくは、ニーナの口の堅さに辟易としてきた。ニーナを地面に閉じこめてから、かれこれ二十分は経過している。その間、頭にお灸をすえたり、目の下にからしを塗ったり、色々な辱めを行ったのだが、肝心な情報は聞き出せない。
「きはすすまぬが、やりかたをかえるか」
ますくは、一メートル大の薄い鋸を取り出した。自身の細胞から作成したものだ。
さすがのニーナも蒼白になり、声を震わせる。
「や、やれるもんなら、やってみろ! ナノが飛んでくるぞ」
ニーナの精一杯の強がりであった。相方のナノは確実に姿を現さないという確信があったからこそ、ニーナと全力で戦うことができたますくには、はったりは通用しない。
たいがーますくには、協力者がいる。ナノは、そちらに釘付けになっているはずだ。
ニーナたちは、ますくを尾行しているつもりで、二重尾行されていた。しかし、罠にかかることを見越して彼女たちが別行動していたとしたら。やはり彼女たちは、支配者のキャストである。
鋸が突如、細雪のように砕け散った。
ますくは敵の姿を視認する前に、戦闘態勢に入る。
小太刀を青眼に構え、下駄の音のする方に体を向ける。
黒い振り袖姿のナノが、公園内にいた。朱塗りの高下駄を重そうに引きずり、闊歩している。
ますくの小太刀が、激しく前後左右にきしみ不吉な音を立てた。一度、二度、三度目で、小さくない亀裂が刀身を襲った。何らかの攻撃を受けているが、ますくには全く感知できていなかった。
ナノは袖で口元を覆っているだけ。それでもナノが遠距離から攻撃を加えている。静かな怒りが彼女の目元を険しくしていた。
ナノが公園の外に出てこようとしていた。少しの段差にまごついている。
ますくは、二十メートルの距離を一息に疾走した。
全身のバネをフルに使った渾身の一撃は、ナノに届くことはなかった。間合いで振り上げた途端、小太刀が真ん中で折れたのだ。
「あはっ、中折れ」
ナノはくすくす笑いながら、両手の指にガラス片をはさみこむ。
「じゃあもう壊れちゃいなよ……、踊れ!」
獲物をついばむハゲタカのように大量のガラス片が一斉に舞い、ますくを襲う。そこからは攻防とは呼べない一方的な殺戮。ニーナとの戦いで力を消耗していたますくは、嵐に巻き込まれた粉塵さながら、なす術なく吹き飛んだ。
「す、すげー……」
ニーナが嘆息するのも無理からぬ話であった。ナノが攻撃に移る瞬間も、いつ動作を終了させたのかも定かではない。気づけばますくが血塗れで倒れている。
能力の質が、違う。
ナノは息一つ乱さず、相変わらずゆったりとニーナの前に歩いてきた。
「ナ、ナノ。助けてくれ」
首だけでわめくニーナを、ナノは冷たい目で見下ろした。
「そんなところで何してるの? ニーナ。出ておいでよ」
「アスファルトが固まって出られないんだよ。あ、ほんのちょっと油断しただけなんだぜ。やっぱナノは強いなあ。あはは……」
ニーナの空々しい笑いにも、ナノの反応は薄かった。
「ニーナ、私、足が疲れちゃった」
「え」
ニーナが疑義を差し挟む前に、ナノの分厚い下駄が頭部を踏みにじった。
「どうしてそんなにお馬鹿さんなのかな? ねえ、ニーナ。私たちが他のキャストに敗北するなんて許されないんだよ」
「わ、わかってる! ごめん、ごめんって」
ニーナは必死で謝るが、踏まれるたびに頭がめりこんでいった。顎が地面に押しつけられた。
「わかってないよ。ただ見張れって言ったのにこのざまは何? ねえ、ごめんなさいしか言葉知らないの? ねえ、ねえ、ねえ!」
げしげしと、頭部をサッカーボールのように扱われ、ニーナはたまらず涙をこぼした。
「ごめ、ごめんなさい。もうしないから、負けないから、ゆるして……、お姉ちゃん」
しゃくりあげながらのニーナの嘆願は、ようやくナノの心を動かした。足での暴行をやめ、不気味なオブジェになった、ますくを振り返る。
「小林雪乃と、あいつはやっぱりつながっていたんだね」
どういうわけか、支配者はキャストを完全にコントロールしようとしない。キャストそれぞれに自分の意志を持たせ、得手勝手な振る舞いを許していた。たいがーますくはそれをいいことに支配者の命をねらっていたのだ。
「どうして私たちは、人間じゃないんだろう。でもわら人形でもない」
ナノが考えに沈むと、ニーナは置物のように黙っているのが辛くなり、恐る恐る声をかける。
「ナノ、難しいことはいいからさ。とりあえずここから出してよ」
ナノはむっつりして、ニーナ改め足おきから足をどけた。
「ニーナは気にならないの? どうして私たちに頭がついているのか」
「わかんないよ、そんなの考えてるのナノだけだよ。どうせあたしバカだもん」
一卵性双生児を模した二体でも、はっきりと個性が別れている。効率を考えれば、ありえない所業であった。
「とりあえず”選挙委員”の初仕事終わったんだからいいじゃん。イレギュラーをやっつけたし、これでエトワール選に集中できるよね。よかったー」
ニーナはナノに許されると、すっかり元の楽観論に戻っている。ナノはそうはいかない。恐らく支配者の思考をもっとも忠実にトレースしているのは、彼女なのだ。
支配者権限に触れない限り、ニーナたちは動けないと支配者は言っていたが、直接命令するれば、自由に動かせる。今夜二人が動いたのは、よほど支配者にとって重大なことだったのだろう。
「私たちは、フール=プルーフなんだよ。支配者にとっての最後の良心」
「はいはい。さいですね」
ニーナはまともに受けあおうとしない。ナノには不満の種の妹である。
二人の背後のますくの亡骸には、ガラス片が針山のように、突き刺さっていた。ニーナを傷つけられたナノの怒りの発露を如実に物語っているようだ。
その体積が先ほどから少しずつ、膨らんでいる。ナノは背を向けていたため、反応が遅れた。
「ナ、ナノ、何か変だぞ」
ニーナが、強張った面持ちで異変を告げる。
死体の体積がポンプで空気を入れたように膨張している。今にも破裂しかねない勢いであった。ゴム風船のように限界まで張りつめ、一端停止した。
ナノは死体を顧みることなく、ニーナの頭の前にしゃがみこむ。
「ニーナ、あいつに刺したガラス片の数、幾つかわかる?」
問答している場合ではない。ニーナが目を瞬かせ、唾を飲み込んだ。
「百四十、いや、四十二?」
ナノは首を軽く振った。
「百五十一。ほんと、ニーナは駄目な妹だなぁ」
サボテンのようなグロテスクな死体が、内側に大きくへこんだと思うと、限界を迎えた。
破裂した肉体から、百五十一の破片が四方八方に弾丸のごとく散る。
それだけではない。石榴がはぜるようにちぎれた赤黒い肉片と共に、能力で強化された骨が細かな礫となり、すさまじい勢いではじけ飛んだ。
目倉滅法な最後っ屁。普段のナノならものともしない。しかし、光子に変化し避ければ、ニーナは確実に逃げ遅れる。ニーナは前述の通り、能力の使い方が不得手だ。まず間に合わない。
ナノはニーナの頭に覆い被さるように身を臥せた。自身の保身は考えなかった。
ナノとニーナの手元から完全に離れたガラス片は、物質としての存在定義を持つ。能力で生み出されたとはいえ、ガラスとして扱われる。しかし、ガラスの複製とはまた違っている。
ガラス(ナノ、ニーナ)=現実のガラス、という定義が適用される。
ゆえに、一度手元から離れたガラスはただのガラスに過ぎず、操作はできない。
生き残るためには、新たにガラス片を同数飛ばし、相殺するか、ガラス片で盾をこさえるしかない。
後者は選べない。ニーナたちは攻撃にのみ特化したキャストだ。防御はかなり手薄で、それが大きな矛盾をはらんでいる。支配者の側に常に控える必要があるのに、守りは手薄なのだ。
必然的に前者の方策を取る。しかし、百五十一の破片に加え、細かく砕かれた骨の軌跡を全て読むのは、ナノにしても困難。決死の覚悟で迎えるも、果たして生存は可能か。
「自分の体を爆弾に作り替えるなんて、ほんと往生際の悪い奴」
血の驟雨が二人に降り注いだ。
数十秒後、ナノはニーナの頭を自分の体で守りきった。静かな夜が帰ってくる。二人の四囲を月がやわらかく包んだ。
公園の木には、ちぎれた直腸が蚯蚓のようにぶら下がっていたが、すぐに土くれのように崩れさる。
視野が開けた途端、ニーナは絶句する。
「ナノ……、ナノ、どうして」
ナノは髪を振り乱し、紙のように白い顔で、歯を見せ笑った。
「ばーか、決まってんじゃん。妹を守るのは姉のつとめだろ」
ナノの背中には、黒いしみが油のように広がっている。下駄の片方が公園の中ほどあたりに転がっていた。手の五指にもガラス片がくまなく突き刺さっている。
周囲はそれ以上に深刻な地獄絵図と化していた。炎上した車や民家のガラスはほぼ全壊。通報があったのか、消防車のけたたましいサイレンが近づいてくる。
ナノは深刻そうにつぶやく。目の焦点が怪しかった。
「あー、ヤバいよ、ニーナ」
「もしかして、怪我がひどいのか。あたしのせいだ」
ニーナは歯がみし、己の未熟を呪った。ナノのスペックは、キャストの中でも抜きんでており、このような失態はまず起こり得ないはずだった。ナノも同様にさぞ屈辱に震えているのだろうと、目を上げた。
ナノは振り袖の破れをくまなく点検して、おどけたように言う。
「支配者の私物こんなにしちゃった。オシオキされちゃうね、私たち」
二人はぷっと、同時に吹き出した。
支配者は、自分の私物でニーナたちを飾るのが趣味なのである。以前、ニーナが帽子を台無しにした時は激しい折檻を受けた。
「一緒に受けよう、オシオキ。あたしが謝るから」
「あれれ、うまいこと責任転嫁したね。元はと言えば、ニーナがそんなところにいるからでしょ」
「うー、悪かったってば」
二人は一蓮托生。どちらかが滅べばもう片方も滅びる。姉妹であると同時に、光であり、媒体でもある。特殊な性質を持つが故に、二人の絆は他のキャストの比ではないのである。




