おっぱいと子供の地図
会議室に残った天狗とTの二人は窓辺に並び、外の林に目を向けていた。面は外して、テーブルに置いてある。
「全員、意見を変えなかったな」
天狗だった男は、Tをねぎらうように声を落とした。しかし、隣にいるTがほくそ笑んでいるのに気づき、驚きに打たれた。
「予想通りだ」
「何?」
新参者のカヲリに鞍替えする酔狂な者はいなかった。Tを小馬鹿にし、そのまま解散になったのは自然な流れといえる。
「あれで票を入れる馬鹿はいないさ。皆、西野を恨んでいるからね」
「では何故あんなことを言った?」
「彼らは口では馬鹿にしていても、カヲリ=ムシューダに大金をかける価値があるかどうか探ろうとするはずだ。その動きに乗じる。戦いはもう始まっているのさ」
Tは水面に石を投げ込んだのだ。波紋は確実に広がる。二極化するはずだった選挙に、誰も予想していなかった新しい波が起ころうとしていた。
その後Tは天狗と別れ、一人校舎に戻った。
廊下でカヲリとすれ違った。彼女は二人の友人に挟まれ、闊達に歩いている。
カヲリとTは顔見知りだが、Tに気づいても見て見ぬふりをした。席が隣あっただけの縁だ。何も不自然なことではない。
Tは美術室に行こうかためらい、足を止めた。西野陽菜に揺さぶりをかけるべきか。
しかし、カヲリがエトワールになれる保証は今もって定かではない。陽菜を利用するにしろ、後回しにするべきだった。
あきらめかけたその時、廊下をゆっくりと歩く女子生徒の後ろ姿が目に付く。すくっとした背中に一際長いスカート。時折、首を曲げTを盗み見ている。Tは早足でその女子生徒を追い越すと、彼女も後からついてくる。
廊下の突き当たりで、人気がなくなったのを見計らい、Tは急に立ち止まる。
「学校では、お互い近づかないようにしようって決めたよね」
Tが押し殺した声で言うと、後からついてきた来栖未来は小動物のように縮こまり、瞳を潤ませた。
「ご、ごめんなさい、ゆーくん。ゆーくんの後ろ姿が見えたから、つい」
未来は先輩の威厳などどこかに置き忘れ、媚びるような上目遣いをしていた。
「ここじゃ人目につくから、場所を変えよう」
「それならいい場所があるよ!」
すかさず未来はTの手を引き、無人の教室に誘った。Tの意を迎えるのはお手ものだ。
「人が来るかもしれないよ。大丈夫なの?」
「それなら平気。考えてあるから」
掃除用具箱を開けた未来に、悪態をつきたくなるものの、何とか堪えた。用具箱は中身が入っていない。どこかに未来が持ち出したのだろう。
棺桶に入る死人が二人に増えたら、死人は文句を言うだろうか。Tは文句を言うだろうと思う。そのくらい用具箱の中は狭く窮屈だった。元より人が入ることを考慮に入れていないため、二人は身を屈めて入り、手足が触れるのを避けられなかった。
「し、失敗だったかも……、狭いね」
未来のしっとりとした吐息が、Tの鼻にかかる。制服の上からは、その絶妙なサイズがわからない胸を、揺するように押し当てられた。汗とほこりっぽい臭いが混じりあう。
「未来姉ちゃん、もう少し向こうにいってくれないかな」
Tの思惑とは裏腹に、未来の白い素肌が間近に迫る。Tは半分目を閉じ、その誘惑を避けた。
「あと少しだね、エトワール選。あたしの任期ももうじき終わるよ。そうしたら、ゆーくんとも堂々と会えるね」
エトワールは男子との接触を禁じられる。破ればペナルティーがあるらしいが、歴代のエトワールたちも隠れて逢瀬を楽しんでいたという噂もある。
「やっぱり陽菜が選ばれると思う? それとも香澄かな。あたしは香澄になって欲しいけど」
「さあ。結果は最後までわからないね」
Tがわざとらしくとぼけると、未来は小さく笑う。
「ゆーくん、悪いこと考えてる。ダメだぞ、そんな顔したら」
未来は、Tの目元をほぐすようにやさしく撫でた。
「わかってる。二人を悪いようにはしないよ。所詮遊びなんだから」
「そ、そうだよねっ! 選挙なんてどうでもいいよね」
未来は、どこか屈託ありげな言い方をする。Tと陽菜の距離が曖昧なままなのが気に食わないようだ。Tが陽菜と縁を切れば、済む話なのだが、まだそれも先のことである。
「それから、来年のことなんだけど」
未来は、ほとんど唇が触れそうな距離まで顏を寄せた。あまりに近いため、Tの視界は彼女の高い鼻だけに占拠された。
「あたしが高校卒業したら、一緒に暮らそうって話。考えてくれた?」
Tは唇と唇が触れあわないように注意して、応える。
「もちろん、そうしたいよ。でもやっぱりまだ早いんじゃないかな、僕たち」
触れあう未来の体が激しく熱を帯びる。彼女の肌には汗がにじんでいた。
「そんなことないって。あたし就職するし、ゆーくんは大学に行けばいいから。何も心配することなんかないんだからね」
未来は甘美な生活を夢見るばかりで、今の状態に全く気がついていない。Tはそこに付け入る。
「でも先立つものがないとね」
冷静に考えれば、二人に温度差があると気づくはずだ。ところが未来は思い及ばず、Tとの幸せだけに頭が侵されていた。
「ゆーくん、お金、まだ足りない?」
「うん。何があるかわからないし、未来姉ちゃんだって将来のことは不安じゃない?」
未来はこつこつアルバイトをして、稼いだお金をTに預けている。将来、二人で暮らすための資金という名目だ。
「わかった。お金はなんとかするから。バイトも増やすから、ゆーくんも考えて」
「うん。僕も地道にコツコツお金を増やしたいと思ってる。だからもうちょっとがんばろう」
Tは未来のきゃしな腰に手を回す。未来は、それだけでとろけきったように身をゆだねてしまう。
「来年楽しみだなぁ……、ゆーくんといつもこうしていられるんだ」
「そうだね、楽しみだよ」
Tの楽しみは別にあるのだが、未来がそれを知ることはないだろう。彼はその前に彼女の前から姿を消すつもりだった。
(2~)
丸岡高校の屋上では、丑之森螺々が大の字で倒れていた。太陽に目がくらんだように、薄目だけを開けている。口からは一筋の血が垂れていた。
「まて……、こら」
虫の息で引き留める螺々を、ハクアが無表情で見下ろしていた。彼女は小脇に辞書のような分厚い書物を抱えている。
「こんな……、巫山戯た能力を隠し持っているとは人が悪いな、君」
螺々はハクアに決闘を挑んだ。理由は、ハクアの独断専行が目に余ったためだ。支配者に挑む道筋が見え始めたばかりで足並みを揃えないのは問題だ。言い争いになり、かなり熱くなってあげく螺々は返り討ちにあった。
ハクアは瀕死の螺々を顧みることなく、立ち去る。
「だが悪くない展開だ。私にもツキが巡ってきた」
螺々の不可解な言葉は、支配者の耳に届いただろうか。もしこの時、支配者が螺々の言葉をじっくり考えていたら、キャストを遣わし彼女を誅殺しただろう。だが幸か不幸か、そうはならなかった。
波乱のエトワール選が始まる。
(3~)
放課後、学校を後にしたカヲリは、アイコ、マイと最寄りの駅まで一緒に帰った。
陽菜の動向は、カヲリには知らされていない。聞けば、アイコたちは陽菜と高校一年からの仲であり、カヲリはしばらく外様のような扱いを避けられないであろうと忠告を受けた。元より陽菜と仲よくなりたくて、アイコたちとつるんでいるわけではない。この二人の友達でいられれば十分である。
「ウチら、ギャングみたいじゃね?」
「えっ、どういう意味? マイちゃん」
「ファミリーってこと。陽菜ちゃんがボスで、ウチらが手足」
三人は駅のホームで円陣を組んだ。ただその場のノリで盛り上がっただけだったが、カヲリは楽しくてたまらなかった。
上機嫌でアパートに戻ったカヲリだったが、ドアの鍵がかかっていない。母が帰ってくるにはまだ早い時間だ。ドアを少しだけ開け部屋をのぞくと、ピンクのニューバランスのスニーカーが揃えずに玄関に置かれている。テレビの音もかすかに漏れ聞こえていた。カヲリは身を固くし、中に足を踏み入れる。一応靴を並べ直し、カヲリは敷居に足をかけた。
四畳の居間のテーブルに雪乃がおり、黙々と書き物をしている。彼女の手元に「こどもにやさしくない算数」という本が開いたまま置いてある。本は使い込まれているのか折り目が目立った。
雪乃はカヲリが入ってきても、顔を上げない。だがカヲリに気づいていないわけではない。足音がした途端、シャープペンシルを床に落とした。拾おうとしないのでカヲリが拾って、テーブルに載せた。
「テレビ、観てないなら消してよ」
返事がないため、カヲリさテレビの電源を勝手に切った。
すると抗議するように、雪乃は鼻を鳴らした。
「ふん、関係ないじゃろ」
「あるわよ! どうして私の家に当たり前にいるのよ。全く、勝手に入ってきて。ダメでしょ」
カヲリは雪乃の細い髪をすいた。子供らしい若草のような柔らかさだ。
カヲリの機嫌が悪くないとと知るや、雪乃の態度もふてぶてしくなる。冷蔵庫を一人で開け、牛乳を飲み出した。
「鍵、どうやって開けたの?」
「ポストに入っとったぞ。不用心じゃな」
雪乃はまるで防犯上の不備を指摘したので表彰されてもいいという風に、胸を張る。
「はあ……、うちは託児所じゃないんだけどな。寺田君は雪乃ちゃんがここにいること知ってるの?」
「兄ちゃんは用事があるから、困ったことがあったら、カヲリを頼れと言うとったぞ」
カヲリは首をひねった。
「どうして寺田君が私を頼りにするのよ。どうせ嘘でしょ。怒らないから言ってごらん」
「おっぱい星人に嘘なんかつくか。文句あるなら、この間の男の所に行けばいいじゃろ」
雪乃は憎たらしく舌を出している。カヲリは子供相手にムキになる愚を侵したくない。以前の屈辱は忘れていなかった。
それにしても、幸彦はどういうつもりで雪乃を託したのだろう。一言あってもよさそうだが、カヲリに思い当たる節がなく、とりあえず雪乃の相手をすることにする。
「雪乃ちゃん、本当は私のこと好きなんじゃない? だからここに来たんでしょ」
雪乃はよそを向いて、シャープペンシルの芯を出している。カヲリの挑発を受け流す構えだ。
「おっぱいしか能がないおっぱい星人なんか知るか。私は、勉強してたんだ。じゃまするな」
勝手な理屈だが、暴れないだけまだましである。カヲリは隣接する自分の部屋に行き、ボーダーのシャツとカーディガン、下はスカートに着替えた。
着替えて戻ると、雪乃は参考書とにらめっこしている。半信半疑だったが、意外な一面に驚かされた。
「何の勉強してるの? 学校の宿題?」
雪乃はカヲリの質問に答えない。集中しているのか、口が少し開いていた。
手持ちぶさたになり、雪乃の背後から手元をぞき込む。雪乃の解いていた問題は二次関数の問題だったが、応用問題でカヲリの理解の範疇を超えていた。
「まだまだだね……」
カヲリは思わせぶりにつぶやいて、雪乃の脇を離れた。テーブルの上に赤いランドセルが載っている。間近で見ると、けっこう傷が目立った。ランドセルからクマのイラストが描かれた連絡手帳がのぞいていたので、カヲリは手にとってめくった。
○月×日
雪乃ちゃんが、○○君の鉛筆を二本折りました。本人は力比べを挑まれたと言っています。
担任教師が保護者に向けて書いたものらしい。カヲリは次のページをめくる。
○月×日
○○ちゃんが雪乃ちゃんに泣かされました。動機ははっきりしませんが、○○ちゃんが別の子をいじめていたという証言もあり、慎重に対応します。
ページをいくらめくっても、似たような雪乃の行状が記されている。担任の疲れが反映しているのか、後のページの方が筆が乱れているように感じる。
雪乃の方からも担任に意見を書けるようになっており、よれよれの字で担任との交流が綴られている。
「全ての地図は、四色で塗り分けられると聞きました。本当ですか、教えてください」
迷いのない雪乃の字とは対照的に、担任の欄には何度も消しゴムで修正したような痕跡がある。
「先生の知り合いに、色の研究をしている人がいます。今度聞いてみるので、待っていてください」
担任教師は雪乃に手を焼いているが、見捨ててはいないようだ。心中察すれば、苦しいもののそれは救いになるはずだ。
最後のページをめくる。
「雪乃ちゃんは、とても賢いお子さんですが、尊大に振る舞って人の気をひこうとすることがあります。寂しいのかもしれません。もう少し一緒に過ごす時間を増やすことはできませんか」
カヲリは、連絡帳をランドセルにそっとしまった。
しばらくすると雪乃はシャーペンを置き、伸びをした。
「おう! おっぱい星人、この式あってるか? 確認してくれ」
カヲリは一歩身を退いたが、できないと言おうものならますますなめられる。何でもない風を装い、雪乃の側に立った。
「どれどれ……、ちょっと確認するから。私の部屋で漫画でも読んでて」
気をそらそうとすると、雪乃は盛大に吹き出した。
「こんな方程式、ちょろっと解けるじゃろ。今すぐやってみい」
「そ、そんなの、いいわ。やってやるわ」
こめかみに汗がにじむのを気取られないように、手で隠す。雪乃の担任の気持ちがわかった。ふるいにかけてられているという緊張感を初めて味わったのである。
「ほれ、ほれ。高校生なんじゃろ、私よりお姉さんなのに、そんなことも知らんのか?」
「う、うるさい。気が散るでしょ」
雪乃は横からのぞき込み、煽るのをやめない。ハメられた。雪乃を侮っていたのは、カヲリの方だったのかもしれない。
「だっせー、お前本当に兄ちゃんの同級生か?」
問題を解けなかったカヲリは肩を落とし、雪乃の向かいに座った。返す言葉もない。
「何でそんなに勉強できるのよ」
「兄ちゃんが、勉強だけはちゃんとしとけって。参考書買ってくれる」
「へえ、寺田君が」
「兄ちゃんの言う通りにしとけば間違いないんじゃ」
雪乃は幸彦に多大な信頼を寄せている。カヲリは一人っ子なので、うらやましく思う。
「でも、人のことを馬鹿にするのはよくないと思うな」
雪乃は、カヲリの忠告を聞くほど殊勝な性格はしていない。大きな音を立てて、鼻をかんでいた。カヲリの家のものではないティッシュ箱が置いてある。雪乃の私物のようだ。
「この世は所詮弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ」
大人びた顔で言って、牛乳をぐいぐい飲む。カヲリはパックを奪い取った。
「いや、そんなこと言ってもうちの牛乳だからね、これ。もう出ていって」
雪乃はテーブルの下の小さい足で、カヲリの足に蹴りをいれた。
「うるせー、おっぱい!」
「なによ、やるの?」
血気にはやったカヲリは立ち上がり、雪乃の脇に手を入れ、高く持ち上げた。
「離せ、離せ」
「軽いわねー、雪乃ちゃん。自由落下の法則試してみる?」
「い、いい……、やらない」
青ざめた雪乃を床に下ろすやいなや、すねを蹴られた。
「いたっ!」
「ざまあみろ、おっぱい。兄ちゃんに言いつけるからな。おぼえてろ!」
負け惜しみを言って、カヲリの部屋に籠城する。子供らしい反抗心に、カヲリはへとへとになった。
雪乃が散らかしたテーブルを片づけ、時計を見上げる。五時に近くなっていた。夕飯の買い物用のメモが冷蔵庫の脇に貼りつけられているのに気がつく。
「ねー、雪乃ちゃん。私夕飯の買い物行くけど、一緒に出ない? 送っていくよ」
雪乃の返事はない。面と向かっているとつい感情的になるが、冷静になれば仲直りのチャンスかもしれない。
一昨日のことは、カヲリの中でまだ尾を引いている。雪乃はもうあまり気にしていないようだが、この際腹のうちを聞いておきたくなった。
「この間はごめんね、私も悪かったわ。舞い上がってたのよ」
勝手に謝ってすっきりすると、襖を開け中をのぞいた。
雪乃は、部屋にある段ボール箱を漁っていた。
「すげー! 高校生はこんなパンツはくんだ!」
「雪乃ちゃんっ!」
カヲリは自分でも信じられないほど太い声で雪乃を叱り、下着をひったくって段ボールにしまった。
雪乃はあっけにとられていたが、すぐに腹を抱えて笑い転げた。
(4~)
冬の日暮れは早い。街灯から伸びる光がくっきりと、影を作る。
カヲリと雪乃は人気のない通りを、身を寄せあうようにして歩いた。雪乃は、グレーのプルオーバーのパーカーの上にスタジャンを着ている。
買い物を口実に家に帰そうとしたが、はぐらかされた。また夕飯をごちそうすることになりそうだ。
カヲリが車道側を歩いて、雪乃と手を繋いだ。安全には結構注意を払っているつもりだ。もし雪乃に万が一のことがあれば、幸彦に申し訳が立たない。
「ねえ、雪乃ちゃん」
「何じゃ」
「お兄ちゃん、私のこと何か言ってた?」
雪乃に弱みを見せるのは怖かったが、懐に飛び込んだことで、以外な作用を及ぼすことになった。
「お前、兄ちゃんのこと好きなんか?」
「ち、ちが……」
雪乃は笑うことをせず、カヲリの顔を見上げていた。雪乃は常に真剣だ。本気で人と向き合うから、軋轢が絶えないのかもしれない。
「雪乃ちゃんって、しっかりしてるね」
「そうでもないぞ、兄ちゃんにいつもしかられとる」
「でもすごいよ、私より」
雪乃のように自立した精神を持っているかと問われたら、自信がない。学校でアイコたちに依存しているし、素敵な男性が現れたら、自分を幸せにしてくれるような夢が頭から離れない。
「私も強くならなくちゃ」
カヲリは口に出したつもりはなかったのだが、雪乃には聞こえていた。
「おいっ! おっぱい!」
「わっ、何、大声出さないでよ。それにお外でその呼び方はやめて」
何を言うかとカヲリは待ったが、雪乃は口を開くことはなかった。
アパートを出て、五分ほど歩いた所に小さな公園がある。その脇を通りががった時、雪乃はカヲリの手を離して、公園内に駆け込んだ。
「あっ、こら。どうしたの?」
「遊ぶ遊ぶ!」
制止する間もなく、雪乃は小猿のように遊具に飛びついていた。
象の形をした滑り台と、砂場、ブランコ、鉄棒くらいしかない寂しい所だが、雪乃は滑り台に楽しげに上っている。
「見て見てー」
雪乃は年相応の子供のように、滑り台の上でカヲリを呼ぶ。その時、連絡帳ノートの内容を思い出した。寂しいのかもしれません。
「ようし! 私も遊ぶぞー」
カヲリは袖を捲り、雪乃の後に続いた。
砂場で相撲を取ったり、鬼ごっこをして疲れた二人は並んでブランコに乗った。
「なかなかやるやないか、おっぱい」
「それはどうも。その言い方やめてって言ってるでしょ」
「おっぱいでっけーからええやろ、わかりやすくて」
「そういう問題じゃない」
体を動かした二人は、すっかり打ち解けた。昔からの知り合いだったように、悪態をついても気にならなくなってきた。
「ねえ、雪乃ちゃんって今いくつ?」
「九。来年の二月で十歳になる」
「一桁かあ……」
カヲリは急に自分が年経たように感じた。現在十七だが、二十歳になる日は遠くない。時計の針は止まってくれないのだ。
「将来の夢とかあるの?」
「弁護士になりたい」
雪乃の明快な口調に改めて、舌を巻く。本当にませた子供だ。幸彦の教育のたまものかもしれない。その分、母親の存在は気になってくる。
「暗くなってきたね。雪乃ちゃん、お母さん心配するよ。もう帰った方がいいんじゃない?」
楽しそうにブランコをこいでいた雪乃の動きが鈍くなり、やがて止まった。
「かあちゃん、帰ってこん……」
「それって……」
カヲリは雪乃の気持ちをそん度し口を閉ざすが、聡い雪乃はそれだけで動揺した。唇をわななかせる。
「帰ってくるもん……、絶対帰ってくるって言ったし、昨日は電話もあったんだ!」
感情を爆発させた雪乃はブランコを下り、公園の外に飛び出した。
失言だった。カヲリは後を追い、首を巡らす。すると、公園脇の自販機前に雪乃がうつ伏せで倒れているのを見いだした。抱き起こすが意識がない。目立った外傷はないが、呼吸が不規則に止まり、苦しそうに喘いでいる。
「どうしたの! 雪乃ちゃん」
目を離したのは、数十秒にも満たない時間だった。一体何が起きたのか。
公園の柵の所にカヲリと同い年くらいの少女が腰掛けていた。赤みががった長い髪をポニーテールにして、トップスは白シャツの上に黒のライダースジャケット、ボトムスはスキニーパンツにショートブーツを履いている。険のある表情をしているが、よく見ればあどけない少女らしさが見て取れる。
それだけなら無関係な第三者と見間違う可能性もあった。しかし、暗闇の中で光る彼女の鋭い目には、カヲリに対する敵意が感じられた。
「何見てんだよ、ブス。やんのかコラ」
低い声が、げんこつのようにカヲリにぶつけられる。因縁のつけ方が堂に入っていて、カヲリは雪乃を置いて逃げ出しそうになった。だが奥歯を噛みしめ、気を強く持つ。
「この子、どうして倒れてるんですか? 貴女、目の前で見てたんでしょう?」
「は? しらねーし。転んだんじゃね? つーか、もう行っていい?」
「あ、はい……」
少女は軽やかに柵を飛び降り、カヲリの側を離れた。自販機の前を横切る。明かりで彼女のブーツの裏が一瞬、照らされた。
「ちょっと待ってください」
カヲリが呼び止めると、少女は背中を向けたまま立ち止まった。
「んだよ」
「貴女のブーツ、土がついてますね? もしかして公園側を見てたんじゃないですか? どうして私が来たとき、道路側を向いていたんですか?」
「……、めんどくせー」
少女は髪をかきあげた。振り返りざま、空気が一変する。少女の体から紅色の光が漏れでるようにあふれる。カヲリは手をかざし、光をよけた。光はカーテンのような層を作り、周期的に辺りを照らした。
「余計な詮索しなきゃ、見逃してやったのに」
少女の左手に、拳大のガラス片が光った。
「お前もそこのガキと一緒に始末してやろうか? どうせ遅かれ早かれ死ぬんだからな。めんどくせーから殺っちまおっと♡」




