清州会議
雨が小降りになり、雷も怒りの矛を納めたようである。
寺田幸彦は大人しくなった空を見計らい、下校する所であった。
げた箱で靴を履き変えようとした時、背後から騒がしい足音が鳴った。
「あー、幸彦君はっけーん! 一緒に帰ろうよ」
西野陽菜に姦しい呼びかけに、幸彦はためらいがちに頷く。
「西野、絵はもういいの?」
「うん、今日は気分が乗らないから。私、雨嫌いなんだ」
幸彦が表で傘を広げると、陽菜が傘下に駆け込んでくる。
「えへへ・・・・・・、隣げっと。相合傘だね」
陽菜は屈託なく笑い、幸彦の右側にぴったり身を寄せる。幸彦は努めて前だけを向いた。
「歩きづらいんだけど。傘持ってきてないの?」
「あるよ、折りたたみ。でもいいじゃん、私好きなんだー、こうして相合傘するの」
陽菜は恍惚とした表情で、雨に唄えばを鼻歌う。
進行方向に水たまりがあり、幸彦は道をそれようとしたが陽菜はそのまま歩こうとする。仕方なく腕を引き、陽菜を誘導した。
「歌なんか歌ってないで、ちゃんと前見て」
陽菜のおふざけに付き合っていたら日が暮れてしまう。幸彦は粛々と歩いた。
「私がエトワールになったら、どうする? 幸彦君」
意図しない問いかけに幸彦は自然と足を止めた。陽菜は幸彦の顔を下からのぞき込む。
「エトワールって・・・・・・、何?」
幸彦が空とぼけることは、予想の範疇だったのか陽菜はあまり動じなかった。
「あ、そっか。YesもNoも言えないんだ。じゃあ質問を変えてあげる。私が手の届かない所に行ったらどうする?」
幸彦はしばし考える様子だったが、本当は何も考えていない。今でも十分、陽菜は遠く不確かな存在だからだ。
「迎えに行くよ」
幸彦は真に迫った表情で、陽菜の目をまっすぐに捉える。陽菜はくすっと笑い、顔を伏せた。
「うそつき」
「嘘じゃないよ、西野。僕は・・・・・・」
陽菜は幸彦の腕に自分の腕をからめた。
「幸彦君って、平気で嘘つくよね。怖い怖い」
「信用してくれないね、僕のこと。嫌い?」
陽菜はか弱く首を振り、面を上げた。星が燃えるような瞳に、幸彦が吸い寄せられる。
「幸彦君のそーいうとこ、好き。超好き。お願いだから、私を離さないで」
幸彦は傘を落とし、陽菜の小柄な体を抱きすくめた。
(2~)
カヲリはスカートの汚れをはたき、前かがみで卓球部屋に戻った。
部屋の時計は四時二十分を指していた。雨音が静まり、雨どいから落ちる雨水の方が耳についた。
「帰るぞ、カヲリ。雨もやんできたみたいだ」
「あの・・・・・・、来栖先輩」
「ん?」
未来はカヲリに背を向けていた。その背に慎重に問いかける。
「私が体育館にいる間、物音がしませんでしたか?」
外への扉に手をかける、未来の動作がぎこちない気がした。
「・・・・・・、いや。あたし、ここで筋トレしてたから、気づかなかった。何かやってたのか?」
虎は幻だったのだろうか。丑之森螺々や、ハクアも白昼夢に過ぎなかったのか。
螺々はカヲリの迷いを的確に見抜いた。憂鬱な気分は晴れない。外へ出ると、雨を吸い込んだ土の臭いが鼻についた。
1999年 12月4日
翌日、からっと晴れた空の下でもカヲリの気分は変わらなかった。
気もそぞろで生物の宿題を忘れたし、体育の時間もミスが目立った。
それでもお昼には、アイコたちの助けを借りて陽菜のグループの末席に加えられ、居場所を得たことに喜びを隠せなかった。クラスの中心で最大の面積を占め、陽菜を上座に据えた総勢七人の大所帯である。
机をつけて陽菜が席に着いたとたん、眉根を寄せた。一斉に緊張する面々。カヲリも何事かと困惑した。
「忘れてた。今日、灰村先輩に呼び出されてたんだ」
「ウチも付いていこっか?」
如才なくマイが手を挙げる。
「さんきゅ、マイ。でも平気」
陽菜は機嫌よくマイの頭に触れた。席を立つと軽い足取りで一人、教室を出ていった。
カヲリは事情が飲み込めず、隣のアイコに訊ねた。
「ああ、灰村先輩は・・・・・・」
アイコたちは顔を見合わせ、苦笑する。
「この学校の女王陛下かな」
陽菜が廊下に出ると、海が断ち割れるように人が避けた。一つ階段を降り、二階の茶室に向かう。目的地の前で、未来が壁によりかかっていた。
「あ、未来ちゃんだ。未来ちゃんも呼び出されたの?」
未来は、じろりと陽菜を一瞥した。
「ちげーよ。お前が香澄に呼び出されたから、心配になってよ」
陽菜は顔を綻ばせた。
「やさしー、私のこと心配してくれたんだ」
「いやいや、お前じゃなくて、香澄の心配。ほら、早く中入れ」
六畳の茶室の中、三年生の灰村香澄が正座して、待ち構えていた。部屋の中央で茶釜が湯気を立てている。
「二分の遅刻よ、西野さん」
凛とした声に空気が張りつめる。天井は低く、未来は息がつまりそうだった。香澄の琥珀色の瞳が静かに見開かれている。
灰村香澄は、現役を退いたものの茶道部の元部長で生徒会副会長も兼務していた。曲がったことが大嫌いで融通が効かない。堅物だ。自他共に厳しい性格の反面、日本人形のような整った容姿と落ち着いた物腰にファンも多く、わざと失態を犯してまでしかられたがる生徒もいるらしい。
「わりーな、香澄。茶室の前で陽菜を呼び止めちまった。あたしも同席していいかな」
香澄は逡巡した様子だったが、重々しく頷いた。
「未来・・・・・・。まあいいでしょう。未来にも無関係な話ではないし」
未来と香澄は気の置けない友人同士である。話は通じやすい。
陽菜と未来は香澄の前に並んで正座し、もてなしを受けた。陽菜は幼少の頃、父のすすめで茶道をたしなんでいたし、未来も香澄の招待を受けるのは希なことではない。儀礼に乗っ取った茶の授受が行われた。器を干した後、香澄が本題に入った。
「単刀直入に言うけれど、西野陽菜さん。今年のエトワール選、大人しくしていてもらえないかしら」
陽菜は足を崩していた。痺れてきたのだ。
「えとわーる? って何ですか? 未来ちゃん知ってる?」
陽菜が他人の言に従わないのは、周知の通りだ。それでも香澄が陽菜を呼び出したのには理由がある。
昨年のエトワール選は、未来と香澄の事実上の一騎打ちであった。お互い私欲もないため流れに任せていたが、周りは当の本人たちよりも白熱していた。お互いのファンに不和が生じたのは、二人にとって予想外の展開であり、エトワールの魔力に呆れもした。
「とぼけたままでも構わないけど、無用の騒ぎで私の生活に波を立てないで欲しいのよ。来年は大学受験を控えているし、他の生徒に迷惑がかかる可能性もあるわ。男子のくだらないお遊びに付き合うゆとりはないの。この通りよ」
香澄は畳に手をつき、陽菜の前で頭を下げた。顔を上げた際、彼女が不敵に口元を歪めるのを、未来だけが気がついた。
「話は以上よ。わざわざ呼び出して悪かったわね」
未来と陽菜は異論を唱えず茶室を出た。
陽菜は変わった様子を見せず、普段と同じように階段に軽く足をかけた。
「なあ、陽菜。あたしからも頼む、派手な動きは慎んでくれ」
陽菜は横髪を乱雑に払った。耳には白いイヤホンをはめている。
「なーに? 未来ちゃん、何か言った?」
未来は絶句し、陽菜の耳からひきちぎるようにイヤホンを奪った。
「お、お前まさか、香澄の話を聞いてなかったのか?」
「聞かなくてもわかるよ。エトワールのことでしょ? いちいち回りくどいことするよねー」
「そうか? 香澄は辞退したようなもんだろ。あいつはこういうお祭りみたいなイベント好きじゃないからな」
「違うね」
陽菜は断言する。香澄は自分と同じ人種だ。口ではきれいごとを並べても、人の上に立つ妙味を忘れられない悲しい女。そこが未来とは決定的に違っている。
「灰村先輩は、私が票の操作をしなければ絶対に勝てると思ってる。さっきのは宣戦布告だよ」
「そりゃ、ありえないぜ。あいつ争いごととか嫌いなんだ。ダンゴ虫にも触れないんだぞ」
「抱える業は十人十色。未来ちゃんにはわかんないかな」
未来は、香澄が最後に浮かべた笑みの意味が理解できなかった。高校入学以来の友人なのに、まるで初対面のような気まずさを覚えた。もしや香澄は、昨年のエトワール選の結果を快く思っていないのではないか。公然と優劣をつけられ、あまつさえその機会が自分の預かりしれぬ場所で行われていれば、人間ができている香澄にしても、ストレスだったのかもしれない。その雪辱を今度は陽菜で晴らそうという腹づもりなのだろうか。
「陽菜、どうするつもりだ?」
「うーん・・・・・・、そうだね」
陽菜は顎に手をやった。新しく手に入れた玩具の使い方を思案するようだった。
「私、結構負けず嫌いだからさ、灰村先輩の悔しがる顔見たくなっちゃったかも。あくまで遊びだよ、お茶のお礼もしたいしね」
その時、未来は確信する。西野陽菜と灰村香澄は同じ世界の住人だ。爪と牙を使い、覇を競いあう。血は流れないにしても、諍いを楽しむ性癖を持っているのだ。
(3~)
丸岡高校には、体育館とは別に小規模の講堂がある。シンポジウムや、演奏会などに使われており、外部の人間も申請をすれば使用可能である。
放課後、その講堂の会議室に、四人の男子生徒が集っていた。丸岡の生徒なのだから、当然かもしれなかったが、彼らは様々なお面をつけ、正体を明らかにしなかった。
「そろそろ時間だ」
天狗の面をつけた男が丸テーブルの上座を占めた。残りの三人も各々それに倣った。
「Tがまだ来ていないようだ・・・・・・」
二回のノックと、一拍おいて強いノック。符丁だ。ひょっとこの面をした少年が遅まきに到着した。
「几帳面なお前らしくないな、同志T」
「・・・・・・、すまない。少し準備に手間取った」
「まあいい、座れ。会議を始めるぞ」
天狗に促され、Tは着席した。
「F組は態度を明らかにしなかった。我々だけで話を進めることにしたい」
進行役の天狗の声に一同は頷く。
「諸兄も知っての通り、今年のエトワール選の候補者が告知された」
天狗はテーブルの上に、一冊の黒いノートを置いた。
「候補者は、全部で六人。二年が四人、三年が二人。だが内容は、西野陽菜と灰村香澄の一騎打ちになると予想される」
彼らは順番に、ノートを回し読む。このノートは門外不出の秘密ノート。丸岡高校の女子のプロフィールが詳細に記されている。既に数多の男たちの汗と油を吸ったのだろう。表紙はぼろぼろだ。
「二年のクラス代表として集まってもらった諸兄に問おう。票の所在は如何?」
この会議は二年の男子の意見統一を目的としたものだった。票の集約は戦略の一つ。ルールに明記されていない以上、何の問題もない。
「A組は全員、西野陽菜に入れる」
「Cもだ」
集まったほぼ全てのクラスが陽菜に票を入れると意志表示をした。ひょっとこのTだけが最後まで腕を組んだまま黙っていた。
天狗が重々しく宣言をする。
「西野陽菜をエトワールにすることは我々の悲願だ。今年の選挙は確実に決める」
そうだそうだと、ときの声が上がる。
「西野の横暴を我慢できるか! ぶつかっても謝らないし」
「人の名前は間違えるし」
「落とした消しゴムは拾ってくれないし」
「大体なんだ、あいつのグループ。態度でけーんだよ」
「俺たちをガキ扱いしやがって。ちょっと顔がいいからって・・・・・・」
全員が声を揃え、テーブルに拳を打ちつけた。
「調子乗ってんじゃねーよッッ!!!!!」
日頃の鬱憤を晴らすと、彼らは一息ついた。
「大人しいな、同志T。不満か」
天狗に水を向けられたTはゆっくりとノートをめくっている。彼は、椅子に深く腰掛けたまま一人落ち着きはらっていた。
「いや。うちのクラスでエトワールが誕生するのは恐悦至極。喜ばしいよ、本当」
「情が移ったわけじゃあるまいな」
一同に注視されても、Tがページをめくる動きは淀みなかった。
「疑うならここに呼ばないだろ?」
全員が一斉に笑い声を立てた。同志は血よりも堅い絆で結ばれている。天狗はTをからかったに過ぎない。
ここに集ったのは、西野陽菜に恨みを持つ者たちだ。エトワール選の結果として、陽菜は自分の意思とは無関係に男から遠ざかることになる。甘い汁を吸いたくて側にいる者たちも離れるに違いない。陽菜は男からも女からも孤立する。羽をもがれた蝶と同じだ。何も好きな女子に票を入れる必要はない。嫌いな女子に入れるという使い方もできるのだ。
二年の不動票がほぼ固まったかに見えたが、Tが突如爆弾を落とした。
「喜ばしいが、つまらないね」
水を打ったような静けさに、誰もが口を開くのをためらった。
「どういう意味だ、T。場合によっては・・・・・・」
「言葉通りの意味さ。当選確実の西野陽菜に票を入れてもリターンが少ない」
エトワール選には金銭を賭けることができる。強制ではないし、掛け金の多寡は個人の裁量に任されていた。
「勝ち馬に乗って何が悪い? 賭けはおまけみたいなもんだろ。大事なのは、西野陽菜をエトワールに・・・・・・」
猿の面を被った男の話を遮るように、Tがテーブルに封筒を叩きつけるように置いた。封筒は分厚く、巌のような存在感を放っている。
「三十七万二千九百八十七円」
Tが金額を読み上げるより早く、全員がTが本気であると悟った。
「T、T・・・・・・、その金は・・・・・・」
「出自の怪しい金じゃないよ、大体はね・・・・・・。アルバイトで稼いだ金だよ」
混乱が会議室を支配した。ある者は、隣の者と悪態をつき、ある者は席を今にも立とうと腰を浮かしていた。
「静粛に!」
厳然とした天狗の一声に、波が引くように議場は静まる。
「正気か、T。死に金にするつもりか」
「まさか。僕は冷静のつもりだけどな。これは生き金だ。そのために用意した」
Tに迷いは一切生じていなようだ。この場所に来る前に捨てたのだろう。Tの覚悟に彼らは、畏怖の念を禁じ得なかった。
「僕には、大金が必要だ。そのためには絶対にオッズの低い人間をエトワールにする必要がある」
「だが、灰村も西野とオッズはそんなに変わらないんだぞ。他の四人にしても大きく水を空けられているわけではない」
「ああ、この六人の中ではな」
天狗は、はっとして秘密ノートをめくった。
「T、まさか・・・・・・」
「ああ、そのまさかさ。候補者の推薦は各学年最低一人ずつ、最低三人の推薦人が必要だ。さっき準備と言ったのはその手続きをしてきたんだ」
天狗はノートの最後のページで手を止めた。そのページは他のページと違い、白い部分が目立った。最近、転入したためデータがほとんどない。写真もぼさぼさの髪にスウェット姿で、ごみ捨てに行く所を隠し撮りしたものだ。
「カヲリ=ムシューダ。僕は彼女に有り金全てを賭ける。皆の力を貸して欲してくれないか?」




