エトワール
制服姿の西野陽菜の薔薇色の唇には、好奇の念があますところなく表現されていた。
予期せぬ遭遇に、一時カヲリは雪乃との諍いを忘れた。
陽菜は、柔らかそうな自分の頬に手をやって、カヲリと雪乃を交互に見比べる。
「その子、ムシューダの子供?」
「そんなわけないでしょ! なんでそんなこと言うのよ」
カヲリは金切り声で、陽菜を遮った。陽菜はそんなカヲリの姿を心底楽しむように肩を揺すっている。
「ねえ、何でムシューダってすぐムキになるの? こわーい」
「それは貴方が変なこと言うから……」
陽菜はカヲリの動揺など気にかけることもなく、雪乃の側にしゃがんでいた。
「こんばんは、可愛い格好してるね。お名前は?」
雪乃は、胸を張って腕組みしたまま答えない。虚勢を張っているのだ。大きく目を見開いているが、陽菜と目を合わせなかった。
「照れ屋さんなのかな……、かわいいんだ」
学校にいる時のような、奔放な陽菜の態度にカヲリは雪乃を遠ざけようとしたが遅かった。
「飴ちゃんあげる。お口開けてみて」
雪乃は陽菜の手のひらに乗ったあめ玉を、斜に見ていたが好奇心に負けた。包みを開いて、白いあめ玉を口に放り込んだ。
「んー」
暫く至福の表情で頬張っていたが、突然口を押さえ真っ赤な顔で苦しみだした。
「ど、どうしたの?」
「んー! うっんー……」
口をすぼめた雪乃は目に涙を溜めて、カヲリに苦痛を訴えた。踊るように足をじたばたさせ、身悶えしている。
「この子に何を食べさせたの?」
「薄荷の飴。私好きなんだけど。ムシューダも食べる?」
カヲリは雪乃の口から飴を吐き出させた。雪乃は唇をぎゅっと噛んで、カヲリの胴に抱きつく。よほど堪えたのか恨みがましく、陽菜を見上げていた。
弱者の視線など、陽菜にとっては自分を引き立てるコーデにしか過ぎないのだろう。大きな瞳が愉快に笑っている。
「ムシューダ、アイコたちは一緒じゃないの?」
「えっ」
陽菜には今日の合コンは秘密だ。耳に入れば間違いなくアイコたちに累が及ぶ。うまい言い訳を考えておけばよかった。まさか陽菜とその日のうちに出会うことになるとは一体誰が予想しえよう。
「いないなら別にいいや。ただ一緒に学校出るのを見たから。まあ、大体想像つくけどね」
陽菜はそっけなく言い捨てると、店の隅の席に座っていた男の所に駆け寄った。
細面のどこか陰のある美男だ。カヲリはこの男の顔に見覚えがあったが、すぐに思い出せなかった。
「あーっ!」
カヲリが店内に響く大声を上げると、男は暗い瞳を上げた。目と目が合うと、何となくそらせなくなった。
「どこかで、会ったような」
男が呟くと、陽菜が脇で言い添える。
「ムシューダだよ。この間、準備室で会ったでしょ」
男は得心いったように頷き、読んでいた洋書を閉じるとカヲリに向かってまっすぐ歩いてきた。
「こんなに遅くまでどうしました? あまり誉められたことではありませんね」
男の口調は初対面の時は打って変わり、教師然としていた。カヲリは居住まいを正し、答える。
「ごめんなさい。すぐ帰ります」
「もう遅いですし、僕が車で送りましょう。そちらの子も一緒に」
意味ありげな視線を避けるように、雪乃はカヲリの背に隠れていた。カヲリは困って陽菜に助けを求める。
「送ってもらえば? この人、一応先生だし。変なことされても責任持てないけど」
「西野さん」
男は陽菜を律するような厳しい声を発した。陽菜は、つまらなそうにぬいぐるみを抱く。
陽菜に意見できる人間に、カヲリは初めて対した。昨日のことを忘れて、彼を見直していた。
「自己紹介がまだでしたね。僕は、伊藤嘉一郎。丸岡高校で美術を教えています」
伊藤は、曖昧な笑みを浮かべた。カヲリには何となくそれが受け入れがたく、雪乃の手を握った。
「やっぱり電車で帰ります、私たち。行こう」
強引に雪乃の手を引き、カヲリは店を出た。
陽菜は、ぬいぐるみを伊藤に押しつけるように持たせ、外の駐車場までふらふらと歩いた。
目は何も映さず、夢を泳いでいるようだった。
「大丈夫ですか?」
伊藤に体を支えられても、それに気づかないようなおぼつかない足取りであった。
「つまんない」
陽菜の言葉は、夜の街に怜悧に響いた。学校で耳にする者があれば、震え上がったに違いない。
(2~)
雪乃と無言で別れた後、遅く帰宅したカヲリを、母は厳しく叱責した。
事情を説明することをしたくなかったカヲリは、適当な返事をして部屋に閉じこもった。 不発に終わったが、今夜の出来事は睦みごとにカウントしてもよさそうだった。ベッドに倒れて妄想に耽る。
「私だって、捨てたもんじゃないんだから」
誇らしげに戦果を反芻するうち、幸彦のことが頭に浮かび、慌てて打ち消した。
「寺田君なんて、もうどうだっていいのよ。ただのクラスメートなんだし」
カヲリは、自分一人が大人の仲間入りをしたように思っていた。
西暦一九九九年 十二月三日 朝来る。曇天の空は鼠色の雲に覆われていた。
カヲリは母と一言も口を聞かずに、アパートを出た。お弁当はテーブルの上にきちんと用意されており、普段より重く感じられた。
教室を見回しても、何だかクラスメートたちが子供っぽく見える。
幸彦は、相変わらず自分の世界に傾倒しているようで相手にならなかったし、陽菜のお姫さまぶりも今日は気にならない。
一日で世界が開闢したように眩しかった。そんな世界に誘ってくれた二人であるが、マイは遅刻ギリギリに現れ、泥のように机で眠っていた。アイコはお昼過ぎに堂々と登校し、皆の度肝を抜いた。
三人は秘密を共有する者の常として、余り目も合わせないようにしながら、誰ともなく示し合わせたように放課後、屋上に集まった。
「おつかれー」
死人のようだった授業中とは一転、三人は陽気な顔で缶ジュースで乾杯した。幸い、アイコもマイも昨夜のカヲリの醜態には触れずにいてくれた。
「マイ、昨日はあの後どうだったのよー」
「えー、ウチの話はいいよぉ。アイコちゃんしなよ」
アイコとマイは、肩を抱いて歌でも歌いだしそうであった。カヲリもその輪に加わろうと一生懸命に額を寄せる。
「ムシューダさんはどうだった? 翔さんとは」
アイコが、何の屈託もなく訊ねた。カヲリは多少気兼ねしていたが、本当は口を開く機会をずっと待っていたのだ。
「実は・・・・・・」
雪乃のことなど詳細は省いた。興奮してうまく話せた自信はなかったが、アイコとマイは神妙な顔で聞いていた。
「ねえ、翔さんとまた会えないかな。別に二人きりじゃなくてもいいの」
カヲリが縋りつくように言うと、アイコは器用に目線をそらしている。
「んー・・・・・・、今度話しといてあげるよ。翔さんもムシューダさんのこと気に入ってたんじゃない?」
舞い上がっていたカヲリは気づかなかったが、マイが梅干しを食べたように口をすぼめていた。
「そ、そうかな? でもいいの? アイコちゃん、翔さんのこと・・・・・・」
「いいのいいの。陽菜が自慢げに見せびらかしたからさ、奪ってやろうかなーって思っただけだし」
アイコは、晴れやかに笑ってカヲリの後押しをすると約束してくれた。
それからアイコの自慢が始まった。昨夜は宮本の住むアパートに泊まり、昼近くになってから車で高校まで送ってもらったそうだ。宮本は将来有望な法学部生らしい。アイコは、彼を絶対離さないと息巻いていた。
「おやー、カヲリンが耳まで真っ赤になってるぞー」
「な、なってないから。変なこと言わないでマイちゃん」
三人は声を揃えて笑った。望んでいた友達の輪に、カヲリはようやく加われた気がした。
マイだけが、決して口を割ろうとしなかった。余裕のある態度からひどい目に遭わされたわけではないということはわかったが、守秘義務があるからと以外な抜け道を使って切り抜けた。
話に熱中しているうち、雲行きが怪しくなった。幾層にも重なった雲が雨の訪れを予感させる。そろそろ帰ろうと三人は重い腰を上げた。
「カヲリン、がんばって。応援してるからね」
マイが、カヲリの肩を気安く二回叩いた。
先に屋上の扉を開けたアイコが、誰かと話していた。少し緊張しているのか、笑顔が堅い。相手は上級生のようだ。
「ちーす、来栖先輩、おつかれーっす」
マイが後から来て、明らかに礼を欠いた挨拶する。
アイコと話していた来栖未来は、カヲリたちに目を向けた。八頭身のすらっとして、非の打ち所のないプロポーションをしている。しかし、その美貌とは裏腹に、口からでるのは、男勝りな言葉だった。
「マイ……、だっけ? お前。相変わらずだらしねえ格好してんな。上履きくらいちゃんと履けよ」
「先輩に言われたくないっすよー。その長いスカートの中身を男子は見たくてたまらないのに。嗚呼、なんてむごい仕打ちをなさるのか」
「うるせ、こうしてやる」
「きゃは、怒られたー」
マイは、未来に羽交い締めにされて喜んでいる。カヲリはその輪から少し遠い所で、眺めていた。
未来には、転校初日にお世話になっている。挨拶したいのだが、マイとじゃれあっててんで相手にしてもらえない。
「来栖先輩、もしかして男子から呼び出されたんですか?」
アイコが興味ありげに詰め寄ると、未来はうるさそうに眉根を寄せた。
「いや? あるわけないだろ、そんなこと。あたしに限って」
何故か、アイコとマイは目を見交わし、ほっとため息をついていた。
「で、ですよねー。来栖先輩は、”アレ”ですもんね」
カヲリだけが話に置いて行かれ、散会となった。帰り際、未来に会釈する。
未来は初めてカヲリに気づいたらしく、飛び上がるほど驚いた。
「カヲリじゃねえか。何で来ないんだよ、誘ったのに。あたしずっと待ってたんだぞ、お前のこと」
「そうだったんですか」
「そうだったんですかじゃねーよ。むかついた。今日はあたしにつき合ってもらうからな」
「えー!」
未来に腕を掴まれ、カヲリの肝が縮み上がる。
アイコたちは、「どうぞ、お好きなようにお使いください」と、喜んでカヲリを生け贄に捧げた。
低く垂れ込めた雲から、大粒の雨が降ってくるのに時間はかからなかった。
カヲリと未来は並んで、廊下を歩いた。校舎に人気はないようだったが、音楽室からは吹奏楽部の管楽器の調べが届いていた。
「合わねえな、お前ら」
未来の言っている意味が、カヲリには飲み込めなかった。頭の片隅で考えていたことを無闇やたらに掘り起こされようとする気配を察し、知らないふりをしたのだ。
「あいつら、男漁りにしか興味ないだろ。一緒にいて楽しいか?」
「楽しいですよ。出会いも広がったし」
カヲリが即答するのを、未来は胡散臭そうに見やった。
「お前もそっち側か。ちょっとがっかりだ」
「何もそこまで毛嫌いすることないじゃないですか。先輩も気になる人くらいいるでしょ?」
未来は、強かに降る雨粒に耐えるガラスに顔を向けた。まるでカヲリを視野に入れたくないかのようだった。
「それとこれとは別じゃねえか。何か、汚らわしい」
カヲリは立ち止まり、下を向いた。未来の端然とした佇まいに圧倒され、自分がひどい間違いを犯したと責められているように感じた。
カヲリが萎縮しているのに気づいた未来が、慌てて側に駆け寄る。
「何もお前のことを言ったんじゃないよ。ただ、あいつらと一緒にいるとよくない気がするんだ」
「・・・・・・、せっかくできた友達なんです。そっとしておいてもらえませんか」
カヲリの毅然とした態度を前に未来は肩を落とし、それ以上の勧告をやめた。
「雨、強くなってきた」
未来は独り言のように言った。
カヲリは傘を忘れたことを思い出した。出かける間際、母に注意されていたのに、無視してしまったのだ。
「そういや、部室に傘があったな。貸してやろうか」
カヲリは了承し、未来と体育館に向かった。
ぴちゃ、
第二校舎に繋がる一階の渡り廊下を歩く。第二校舎から直接体育館に入ることができるからだ。
雨足はかなりきつくなっていた。夕刻にも関わらず、煙に包まれたように暗くなっていた。
「あ・・・・・・」
カヲリは立ち止まり、口元を押さえた。
「どうした?」
「あの猫どうしてるんだろう。餌もらえてるのかな」
カヲリは、転校初日に出会った黒い小猫を思い出していた。野良猫だから自分が世話をする義理はないのだが、あの空き地で出会ったギャルに言われた言葉が引っかかっていた。
「その猫は、君のものだ。大事にしてやるんだな」
まともに受け取らなかったし、ギャルの姿もあれ以来、校内で見かけない。かなり目立つ容姿をしているから見逃すはずはないように思えるのだが。
ぴちゃ、ぴちゃ、
「野良猫? まあ野良だからな。何とか自力で生き抜くさ。気にすんな」
未来に励まされても、カヲリの不安は拭えなかった。
第二校舎から体育館に続く扉の前に辿りついた。横開きの鉄の扉に未来が手をかけたが、その表情は思わしくない。
「鍵がかかってる。この雨だから、他の部の連中も早めに切り上げたんだろ」
「じゃあどうしたら・・・・・・」
未来は、蛾眉を器用に持ち上げた。
「部室は外からも入れる。つまりダーッシュ!」
「えー!?」
カヲリに不平を言う暇を与えず、未来は韋駄天のように走り出した。
豪雨の中を、二人はひいひい言いながら走り、卓球部屋という体育館の隅からせり出した小部屋にたどり着く。
「ここに鍵はかかってないんですか」
「うん。だって部員あたし一人だし」
未来は邪気なく言って、サッシの扉を開けて中に入る。薄暗く、明かりがなくては物が判別できない。未来が電気をつけ、部屋の全容がわかる。年季の入った木の棚に卓球のラケットがおしこまれている。
部屋の中央に卓球の台が一つ置かれている。本当に申し訳程度の卓球部屋だ。
「卓球部のOBが校長に泣きついて作ってもらったらしいぜ。情けねーよな。はあ・・・・・・」
未来は、タオルかけにかかっていたタオルで髪を拭いていた。その際、白いうなじがあらわになり、カヲリは目をそらす。
「お前も拭いた方がいいよ。洗った奴だから汚くないから」
雨を避けるためにここまで来たのに、ずぶぬれになっては本末転倒である。
放られたタオルを受け取り、鼻を近づける。カヲリすんすんと夢中になって嗅いだ。
「ほんとだ。香ばしい匂いがします」
「あ、悪い間違えた。それ、昨日練習した後に使った奴だわ」
恥じらう未来にタオルを取り替えてもらい、カヲリは水気を取った。
「先輩、聞いてもいいですか?」
「恋人ならいない」
「はやっ、え? 何でわかったんですか」
未来は、うんざりしたように唇を曲げる。その顔すら、一幅の美人画のように様になっている。カヲリが男なら気が気でないだろう。
「あたしに質問してくる奴は、大体二つのことしか聞かない。男か、スリーサイズだ」
堂々と、宣う。カヲリはこの先輩の一挙手一投足に目が離せない。陽菜とはタイプが違うが、確実に彼女も人を惹きつきける才覚を持っていた。
「でももったいないですね。相手ならよりどりみどりでしょうに」
「全く、お前は」
未来は笑って全くとりあわず、使用したタオルを干していた。
「あっ、片思いの相手がいるんですね? そうなんですね」
調子に乗ったカヲリが詰め寄ると、未来は頬を朱に染めた。
「うるせーな。お前なんだよ、男にしか興味ないのか。あたしはそういうの疎いんだ。よしてくれよ」
「だって気になるじゃないですか。教えてくださいよ。せめてどんな人かだけでも」
カヲリは真顔になって、引き下がらない。この時、大まじめに華やかな世界に憧れていたのだ。それがどんな世界かも知らずに。
「ああ、そうか。お前確か転入生だったな。この学校のことまだ何も知らないのか」
未来は手櫛で、長い髪をすいていた。ため息をつきたくなるような徒っぽい仕草である。カヲリは見とれていた。
「あたしは恋人を作らないんじゃない。作れないんだ。あたしは、この学校のエトワールだから」
(3~)
「ロッキーってさ、何で戦うんだろうな」
ぽつりと呟いたのは、小麦色の肌をした少女、丑之森螺々であった。ぽてっとした唇に脱色した髪、セーラー服に重そうなルーズソックスを履いている。彼女は紫色のカーペットに体育座りしていた。
部屋の白い壁は小さい穴が無数に開いていて防音の役割を果たしていると思われる。
螺々の視線の先に、スクリーンがかけられており、プロジェクターが映像を映している。
それはスタローン主演の映画、ロッキーだった。ロッキーは元々、弱小ボクサーだったが、愛する女性、エイドリアンの支えと、トレーナーの鬼のしごきに耐え、華々しい勝利を上げる。正にアメリカンドリームの王道のような作品だ。
部屋は、黒いカーテンがかかって薄暗い。カーテンをそっと開けている幼女がいる。四角い学帽を被ったハクアだ。彼女はいかにも退屈そうにあくびを堪えていた。
「何で戦うかって、エイドリアンでしたっけ? 愛する女のためなんじゃないんですかね」
ハクアの意外にも素直な感想に、螺々は驚きを隠せないようであった。傍らに袋を置いて、つまんでいたポップコーンを落とした。
「愛だって? それは真なのかい? 正気なのかい? 戦わなくたってエイドリアンは愛してくれるかもしれないのに」
「お前の頭の方が正気じゃないです。大体、映画の筋書きに何文句言ってるですか。アホらしい」
ロッキーが何度も階段を登り降りして、体力づくりしているシーンが丁度流れた。
「私は思うんだよ。ロッキーは戦わなくてもいいんじゃないかって。痛い思いして勝っても、どうせいつかは負けるじゃないか。それなら真っ当なことをして、まっとうな暮らしを設計するのも悪くないんじゃないかね」
今度はハクアが驚く番であった。四つん這いで螺々に肉薄する。
「ね、熱でもあるですか? お薬いりますか?」
螺々は落ち着いてハクアに隣に座るよう促し、ポップコーンを勧めた。
「塩分は控えてますから」
ハクアは固く辞去した。螺々は酒を断られたように感じ、おもしろくなかった。
「君は嫌いなものばかりでできているのだね。まるでそれがアイデンティティーのようだ。”嫉妬”の象徴なのだからもっと欲しがれよ」
「風呂場の排水口みたいに余計なものばっかりひっかけてどうするっていうんですぅ? 掃除する身にもなれってんです」
涼しい顔でハクアがやっつけると、螺々はポップコーンを大きな口で頬張る。
「ああもう、ああ言えばこう言う。本当に可愛くない奴だ。確か人参も嫌いだったな。キャロットケーキでも持ってきてやろうか、小娘」
売り言葉に買い言葉。ハクアも興奮して怒鳴り返す。
「ああどうぞ、持ってきやがれです! 砂糖たっぷりで頼むですっ」
二人は取っ組み合いの喧嘩を始める。腕力は螺々の方が上なので、ハクアはすぐに根を上げた。
「ほら、どうだ! 私もロッキーのような剛の者ってわけだ。参ったか」
ハクアは組みしかれて、身動きしない。螺々の高笑いも寒々しく響いた。
「そろそろ、ふざけるのはやめにしませんか。螺々」
螺々が退くとハクアは体を起こし、真顔になった。
「お前、支配者に会ったんですよね。吾輩はその話が聞きたいのです。いつまでも映画で誤魔化してんじゃねえです」
螺々は、塩辛くなった唇をなめた。
ロッキーは映画で勝ち名乗りを受けていた。映画は一端終わるが、この後パートⅡ、Ⅲと制作され、ロッキーは戦い続けるのだった。
螺々が支配者と会ったのは、昨夜のことである。支配者の方から螺々に会いたいという旨が、伊藤を介して伝えられた。支配者の意図はわからなかったが、螺々はその誘いを受けた。
伊藤に連れていかれた場所で、支配者は数学の問題集を解いていた。そこはファーストフード店の一角であり、その他の学生と何ら遜色のない姿をした支配者に、螺々は伊藤に、たばかられているのかと疑った。
支配者は、学校の宿題がもうすぐ終わるから待ってほしいと螺々に断ってから、僕の伊藤の力を借りて問題に取り組んでいた。
支配者は利き腕である左手のカーディガンの袖をめくって、熱心に鉛筆を動かしている。鉛筆は小さくみみっちくなっていた。
「ギャルの格好似合ってるね。ちょっと時代錯誤だけど」
宿題から解放された支配者が、ニコチンが切れて今にも走り出しそうな螺々に向けて言った。
「おかげさまで。それで、今日は一体どういう用件でお招き頂いたのだ?」
支配者は伊藤に買ってこさせたコーラで、小さい喉をこくこくさせた。どこか頼りない印象を与えた。
「螺々が私に会いたいみたいだったから。私は別にどっちでもよかったんだけどね」
支配者は、これまで頑なにその正体を秘匿してきた。それがこうもあっさり目の前に現れて、螺々は肩すかしを食らった。
「なら私の用件はわかってるんだろうな。支配者」
「うん。でもやっぱり戦うのは、いやだなぁ。どうせ戦っても負けないし」
支配者の傍らで足を組み、洋書を読みふけっていた伊藤が目を上げる。螺々は彼を一にらみしてから、話を続ける。
「君の目的は何だ? 何故私を巻き込む」
「秩序」
簡潔な答えは、螺々を絶句させた。
「ジグソーパズルってあるじゃない? あれって完成させたら、壊すの勿体なくなっちゃうよね。綺麗な画面があるんだから。ずっと額に入れて飾っておけばいいんじゃないかな」
「一人遊びというわけか。存外つまらん答えだね」
螺々はじょじょに苛立ちを隠せなくなっていた。ニコチンの欠乏だけでなく、目の前の年端もいかぬ小娘に手も足もでないのが何より屈辱であった。
「私がきれいに整えたピース。貴方もその一つなんだよ。強欲に魅入られたゲスト、螺々。貴方も私の元に来て欲しいんだけど」
螺々は、テーブルを力一杯叩いた。
「今更・・・・・・、何だ! その言いぐさは」
「怒んないでよ。楽しいよ、私の”モノ”になるのは。人は不自由の中でこそ、真の自由を謳歌できると思わない?」
支配者が伊藤に手を差し出すと、彼は恭しく口づけをした。
「私に従ってくれたら、”強欲”のキャストを返してあげる。あれ便利でしょ? 一度味わったらやめられないよね」
螺々の目の前に置かれていたカップの中のコーヒーが渦を巻いていた。美しい周期の円運動だ。規則に乗っ取った廻転。自然界にはまれにしか存在しないのだが。
「断る。話はそれだけか。帰らせてもらう」
「ふーん・・・・・・、そういう態度を取っちゃうんだ。ねえ、螺々って別のキャストと一緒にいるよね? これって、ルール違反じゃないかな」
「だとしたらなんだ? そこにいる変態野郎に熨斗付けて返してやろうか。なあ?」
今にも食ってかからんばかりの勢いにも関わらず、伊藤は素知らぬ顔で本に目を落としている。
「誘ってるんだね? 螺々。私を挑発してニーナ、ナノを引きずり出そうとしてるんだね。推察通り、あの娘たちはゲストとキャストが”支配者権限”に抵触した場合にしか動かない。これって大ヒントだよ、よかったねー」
螺々の目論見を支配者は見透かしている。だがこれは悪くない展開であった。
「おや、やはり神経質でけちくさい支配者らしいな。キャストとゲストの性質は常に一致しなければならないというわけか。では訊こう、カヲリ=ムシューダとは何者だ?」
本来、収まるべき場所に形の合わないピースが存在している。そこに必ず支配者に都合の悪い真実があるのだ。
「大した意味はないよ。単にスペースが空いてるから置いてるだけ」
歯切れの悪い答えだ。画面を気にするのなら、意味のない配置はしないはず。やはりカヲリに重要な意味が隠されていると螺々は睨んだ。
「そうか。ならばカヲリをどうしようと私の勝手なわけだ」
「・・・・・・、好きにすれば」
上機嫌だった支配者が、急に低い声を出した。伊藤が本を閉じて体をまっすぐに向けた。
そろそろ潮時のようだ。螺々はタバコに何気なく火をつけた。店員がこちらに注意を向ける。螺々は学生服を着ているから、目を離すことはないだろう。これで店内での最低限の安全は守られる。心許ないが、今の螺々にできる最大の自衛手段であった。
「今度こそ失礼する」
「待って待って」
支配者が螺々を呼び止める。まるで、友達を怒らせて慌てる平凡な学生のように近寄ってくる。
螺々は死を覚悟した。
「貴方ともっと遊びたくなっちゃった。ニーナ、ナノと戦いたいんだよね?」
忍び笑いを押し殺し、支配者が言った。
「残念なことに、現状はあの子たちがコントローラーを握ってるから、私にも操作が効かない。つまり鉄人二十八号が自分の意志で動いてるみたいなものなの」
「たとえが古いな。君はいくつだ」
螺々は苦笑混じりに言った。目の前のカウンターでは店員が客の注文を取っている。今何かされても、支配者は怪しまれないかもしれない。時間が無限に迫る長さに感じられた。
「白雪姫で王妃が一番嫌いなもの。なーんだ?」
「何?」
支配者は謎かけのようなことを口走り、伊藤の側に戻った。以降螺々に見向きもせず、この日の会合は唐突に終わった。
入れ違いでカヲリと雪乃が店を訪れたのは、螺々が店を出てほんの数分後のことであった。
(4~)
むっつりした顔で話を聞いていたハクアが立ち上がり、部屋の入り口に足を向けた。
「どこへ行く」
「支配者のところです」
剣呑な声からも、これから修羅場に突入するつもりであることは明白だった。
「勝算は? それに支配者がどこにいるのかわかっているのか?」
ハクアは獅子舞のように頭を振って、おさげを揺らした。その際、帽子が床に落ちた。
「むざむざ接近しておきながら、何で支配者を殺さなかったんですか! そしたら今頃・・・・・・」
ハクアは今にも泣きだしそうな顔で拳を握っている。
螺々は彼女を諭すために、落ち着いた態度を崩すまいとした。
「支配者の側には、伊藤嘉一郎がいる」
ハクアの体が大きく震えた。
「あの男は、化け物だ。ニーナ、ナノの相手もまともにできないのに、支配者に一矢報いるのは無謀だと思わないか?」
ハクアは肩を落とし、ため息をついた。彼女は馬鹿ではない。螺々が言わずとも、わかっていたはずだ。
「各個撃破だ、ハクア。そのためには、まず一番ハードルの低い支配者のキャストを狙うんだ」
ハクアは、二体の殺戮能力の高さを反芻し、戦慄する。勝機はあるが、おぞけは止まらない。
「・・・・・・、あいつらが最低ライン。骨が折れるですぅ」
「だがキャストがいなくなれば、支配者に隙ができる。そこからが本当の勝負だ」
螺々は、ハクアと向き合う。二人は元々手を取り合う間柄ではない。利害の一致から協力しているに過ぎない。
「私は支配者の描いた絵図を壊したい。君は嘉一郎を取り戻したい。お互い協力するのは悪くないだろう?」
ハクアは差し出された手を払いのけた。
「ふん、勘違いすんじゃねえです。敵の敵は所詮敵ですぅ。手を取り合うのは支配者の息の根を止めるまでにしくださいよ」
螺々はヒョウ柄のパーカーを着て、出かける準備をした。激しい雨が降っているが、済ませるべき用事があるのだ。
「いいのか、ハクア」
「何がです」
ハクアは座って、持ち物の点検をしていた。手榴弾に、コンバットナイフ、スタンガンに、小銃なんかもある。
「支配者を倒したら、君たちキャストは・・・・・・」
ハクアの表情は揺るがない。自身の死生観に疑問を持っているのは、もしや自分だけなのか。螺々は口に出して後悔しかけた。
「それは、考えないようにしています。吾輩は、ただあの方を支配者から救いたいだけなんです。それだけが望みです」
(5~)
「白雪姫って憧れますよね!」
カヲリはなし崩し的に、未来と卓球をするはめに陥っていた。
情けないヒョロサーブが未来のコートに、ふわっと落ちる。
「毒リンゴ食わされてんじゃねーかよっ!」
手心は加えられているのだが、鋭いレシーブが返ってくる。カヲリはラケットを豪快に空振りして、照れ笑い。
「でも、数年間年取らないでいられるじゃないですか」
「仮死状態って奴か。だけどお前のお目当ては王子さまなんだろ?」
カヲリは頷く。
未来は自分の秘密をカヲリに打ち明けていた。
曰く、エトワールとは学校の七不思議のようなものらしい。
年に一回、校内の男子の間で密かに総選挙が行われ、一人の女子が選ばれる。選ばれる女子は容姿だけではなく、性格、学力なども考慮されるが、やっぱり容姿が優先されるらしい。
その選ばれたたった一人がエトワールと呼ばれる存在だ。エトワールは一年間、男子と交際してはならない。だからと言って、女子と交際してもならない。
「それって結構きつくないですか?」
「まあ、単なる噂だしな。あたしも、人づてに聞いただけだし。エトワールになったよって」
だがエトワールになったと思われる去年の暮れから、男子が未来のことを避けるようになったらしい。
「あたし、男子と話すの苦手だからさ。よかったんだけどな」
「他には何かあったんですか?」
カヲリは夢中になって訊ねた。
「別に何も。ただ・・・・・・」
未来は言いよどんで、一度大きく咳払いをした。
「エ、エトワールになった奴は、一年間の任期の後、意中の相手と、絶対結ばれるんだって! きゃっ、言っちゃった」
カヲリは、しれっとした顔で、未来のぷりぷり女子道を見つめた。
「それって、当たり前なんじゃないですかね」
「な、何!?」
カヲリは壁に向かってラケットの素振りを始める。まるで敵を見定めたロッキーのようだ。
「だって元がいいんだから。いいなあ、白雪姫は気楽で」
カヲリの恨み節に、未来は狼狽した。
「あ、あたしだって、悩みくらいあるわい」
「へー、それはどういった?」
面接官のような淡々とした口調で、カヲリは問いただす。
「あ、足太いし、本当は、天パだから髪整えるの大変だし」
「おみ足拝見」
カヲリは未来の長いスカートの裾をめくって、頭を突っ込み、ふんふんとうなずいた。
「これは洗い立ての大根のような色をした瑞々しい足です。かといって大根のような太さは絶無。謙遜でもちょっとひどいんじゃないですかね。男子が見たら発狂します。もう一度言いますよ、発狂するんですよ。この足見たら」
カヲリは未来の引き締まったふくらはぎを、人差し指で、つっーとなぞる。
「ひゃっ! 何だよ、お前。おかしいぞ」
「おかしいのは来栖先輩の方です」
カヲリは立ち上がり、未来とまっすぐ向き合う。
「貴方は姉御を気取って、親しみやすいふりをしていますが、内心自分の容姿を誇っているんじゃないですか? だからエトワールなんてあやふやな噂に踊らされて喜んでいるんです。違いますか?」
「ち、がう」
未来は壁際に後退し、悲痛なうめきをあげた。
「違いませんよ。ジオングみたいなスカート履いて、自身の付加価値を高めているのが見え見えです。出し惜しみして、パーフェクト未来を想像させて男子を悶々とさせるのが楽しくてたまらないんですよね。先輩は」
カヲリには、被虐にうち震える未来がたまらなく魅力的に思えた。人の手にかかって運命を変えられてしまうウサギを想起させたからかもしれない。
「認めてください。先輩だって女の子なんです。そこから逃げてはいけません。積極的に攻めるべきです」
「せ、攻める?」
未来は幼さの残るうわめづかいで訊ねた。
カヲリはこぼれんばかりの笑顔をうかべ、答える。
「ミニスカート履きましょう」
「それだけは、いやっ!」
ぱちんと、未来はカヲリの頬を打った。
「あ、ごめん。カヲリが怖かったからつい・・・・・・」
カヲリの鼻から、血が垂れた。目を瞬かせ、辺りを見回す。魂が抜けたように顔の筋肉が弛緩している。
「私は一体・・・・・・、来栖先輩、どうしたんですか? スカートを押さえて」
未来は壁際で、か弱く震えている。普段の威風堂々たる面影は微塵もない。
「お、覚えてないのか。お前、別人みたいになってたぞ」
「おかしいなあ。記憶が曖昧です」
カヲリは頭を捻った。まるで一瞬の隙をついて別の魂がカヲリを操縦したかのようだった。
「雨、やみませんね」
カヲリは、戸外の豪雨を嘆いた。
未来はびくびくしながら、道具を片づけている。
「エトワールはいるんだからな」
「はいはい」
カヲリが見くびってると、未来は精一杯強がろうとして、興味深いことを口走った。
「あたし絶対、ゆーくんのお嫁さんにしてもらうんだから。笑ったら許さないからな」
カヲリはにやにやしながら、この可愛い先輩をどう料理してやろうかと考えた。未来はこのように威厳を失い、後輩になめられていくのだった。
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、
「先輩」
「な、何だよ」
未来は卓球台の陰に隠れている。
「雨漏りしてませんか? さっきから音が・・・・・・」
二人は手分けして、雨漏り箇所を探したが、卓球部屋のコンクリートの天井には該当個所は見つからなかった。
「気のせいじゃないのか。あたしにはわからなかった」
「そうですかね・・・・・・」
カヲリは、何気なく卓球部屋についたスリ硝子の扉を開けた。
ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ
扉の外は当然、体育館の中であり、カヲリはひんやりした床を靴下のままふらふら歩き回った。薄暗く、深閑として別世界のように寒々しい。バスケットのゴールがやけに高くにあるように感じる。
遠雷が低く轟く。
コートの真ん中についた時、足下に堅い何かが触れた。




