星の王女さま
「MARCHはぁ、明治、青山……、Rは、り、り?」
電車の優先席に、カヲリとマイが隣合って座っている。マイが落ち着きなく体を揺らすので、そのたびにカヲリは脇に押しやられた。
車窓の景色が見覚えのないものになっていくのを、カヲリは不安げに眺める。電車は都心に近い駅に向け走っていた。
同伴のアイコは尻の座りが悪いと言って、乗車口の手すりによりかかっている。三人は、学校から制服のまま移動している。
「Rは、立教大学じゃなかったっけ?」
カヲリがさりげなく小声で伝えると、マイが感嘆の声を上げる。
「おぉー、カオリン頭いいですな。立教かあ。あーと、は、マーチのチだからTかな」
アイコが肩をすくめ、カヲリが顔を綻ばせた。
そんなやり取りでくつろいでいると、杖をついたおばあさんが、電車の進行方向に逆らうように歩いてきた。重そうな風呂敷を背負って、苦しそうだった。
カヲリが思い立つより早く、真っ先に席を立ったのはマイであった。
「おばあちゃん、ここ座ってよ」
おばあさんは、マイの迅速な対応に初めは面食らったようだった。しかし、マイの理性や義務とかけ離れた脊椎反射の善行に気づいたようである。嬉嬉として頷いた。
「まあ、ありがとうね」
席を立ったマイとカヲリは、乗車口にいるアイコと合流した。
「マイちゃんって、やさしいんだね」
カヲリがほめそやすと、マイは照れたように頭をごしごし掻いた。
「ウチはぁ、みんなが笑ってる顔見るのすき。みんな楽しいとウチも楽しいにょ」
カヲリは、少し抜けているこのマイという娘に気を許し始めていた。陽菜もこの脳天気さに安らぎを感じて、側に置いているのかもしれない。
マイが電車の揺れでよろけると、アイコが倒れないように支えてやっていた。
アイコは体育会系で、一見、陽菜やマイとそりが合わないように思えるが、友達思いの性格はマイとのやり取りを見ても一目瞭然であった。陽菜を友達ではないと言っていたのも誇張ではないだろうか。
「次の駅で降りるよ。それからマイ、TじゃなくてCだからな」
「T? なあにそれ。アルファベッド?」
マイは不思議そうな顔で聞き返す。つい先ほどのやり取りは、もう忘れているらしい。
こんな緩んだ空気の中で、いつまでも不満たらしい顔をしているのは、無理な話である。カヲリは、二人の誘いに乗ってよかったと思った。
電車を降りてすぐ、マイが二人を呼び止めた。
「やべー」
「何? トイレならさっき行ったでしょ?」
「切符なくしたっぽい」
「はあ!?」
ホームには人があふれかえっている。三人は邪魔にならないように脇に退こうとするのだが、混み具合が尋常ではない。カヲリはくるくると体を回しながら、人をよける。アイコたちを見失った。
「カヲリン! ゴメーン、先行っててー」
その時、マイの声に混じって口笛が聞こえた。マイが吹いているのだろうか。ひょっこりひょうたん島のテーマだった。
「ねえ! どうして、ひょっこりひょうたん島なの?」
カヲリが大声で訊ねても、返事はない。洗濯機の中のようにもまれて、カヲリは耳を澄ます。口笛だけがはっきり聞きとれた。
一人で改札を抜け、駅構内にたどり着くと、あれだけ密度を保っていた人並みは消え、カヲリ一人が取り残された。すぐにアイコたちと合流できたものの、また不思議な出来事が起こる予兆に内心怯えた。
(2~)
待ち合わせ場所は、駅近くの銅像の前であった。待ち合わせに便利なのだろう。体が自由になった大学生くらいのカップルが、比較的よく見受けられた。待ち合わせ時刻は午後四時半。カヲリたちは、その十分前に到着していた。
「いいなあ」
マイが涎を垂らし、道行く人々を熱い視線で追い回していた。
「ほら、涎ふきなよ。ごちそうは、これから食べられるんだからさ」
マイにハンカチを渡したアイコの目が、一際ギラギラしている。 血気にはやろうとする気持ちは、皆同じだ。カヲリはゆっくり深呼吸を繰り返していた。
子供の頃、母に連れられ行ったデパートのセール売場でも、アイコたちのような人たちがたくさんいた。幼子のカヲリは、見るに耐えない光景だと判じていたが、いざ自分がそうなってみると、まんざらでもないのであった。
交差点の反対側にずっと目を注いでいたマイが、アイコの腕を引っぱる。
「アイコちゃん、あの人たちずっとこっち見てね?」
「えっ? どこどこ?」
三人は目を皿のようにして、人ごみを探した。
マイが誰を示したのか、カヲリにはわからなかった。
「マイちゃん、さっきはどうして口笛吹いてたの?」
「口笛? ウチ楽器類は弾けないよ。それがどうしたの?」
「いや、ひょっこりひょうたん島が」
「ひょうたん? カヲリンがムツカシイこと言って、ウチを惑わせようとする。お口チャック!」
マイは、喋ろうとするカヲリの口を手で塞いだ。確かに些末な事かもしれない。口笛なんて気にする方がどうかしている。だが、カヲリが丸岡に入学してから起こった不思議な出来事は、脈絡なく始まるのだ。警戒してもし過ぎるということはないだろう。
「アイコちゃんしか、向こうの顔知らないんだからさ。ちゃんと見てよ、もう」
「うるせーよ、押すなってば」
電車の中で聞いたところによると、アイコと大学生は陽菜を通じて知り合ったそうだ。
「西野さんはどこで知り合うの、そういう人たちと」
「出会いなんてどこにでもあるじゃん。陽菜は美術館で知り合ったって言ってたよ」
カヲリが息荒く訊ねると、アイコは何でもなさそうに言った。
陽菜の顔あっての合コンにも関わらず、本人が不在なのは、アイコが陽菜を介さずに大学生と約束したためだ。気むずかしい陽菜がこの事実をどう捉えるか、想像するだけでカヲリは胃が絞られるような痛みに襲われる。
「だ、大丈夫かな」
「平気よ、多分……」
そうは言いつつアイコが不安げな吐息をついているのを、カヲリは見逃さなかった。
ともあれ、そんな心配など手近な興奮の前にかき消されつつある。三人の視野は、一様にこれから訪れるであろう新しい刺激に狭くなるばかりだ。
三人は辛抱強く待った。十分、十五分、誰も時計を見なかったが、時計の針は重たらしく感じられた。
「ねー、本当に来るの?」
待つのに耐えきれなくなったマイが、アイコの肩をつつく。アイコは苦々しい顔をして唇を噛んだ。
こういう場合、八つ当たりされる確率はカヲリが一番高い。そーっと、二人から距離を取った。
見知らぬ場所で一人心許なく立っていると、長身の若い男がまっすぐ近寄ってきた。カヲリはまさか自分が声をかけられるとは思っていなかったので、下を向いてやり過ごすつもりだった。
「君、ちょっといいかな」
カヲリは、おずおずと顔を上げた。
男は二十代前半、テラードジャケットを着ていた。痩せ型で、短髪黒髪の絵に描いたような爽やかな男だった。
「私……、ですか」
「そう。ちょっと聞きたいんだけど、駅ってどっちかわかる?」
カヲリは、困惑した。今自分のいるのは駅前だし、ここから線路や電車の音も聞き取れる。道を尋ねる振りをしたナンパかもしれない。
「あの、駅はすぐそこです」
「えっ!」
男は本当に知らなかったように、大仰に驚いた。それから線路と駅の建物に気づいた。自分でも呆れたようだ。
「翔さん!」
小走りでやってきたアイコが、カヲリを押し退けるようにして男の前に立った。
「アイコちゃん! よかったー。間に合ったんだね」
男が安堵のため息をつくと、アイコはあざとく膨れ面をした。少し陽菜を彷彿とさせる媚態である。
「間に合ってませんよ。遅刻! あたしたちすごい待ったんですから。この埋め合わせはしてもらいますからね」
アイコの声は、学校では聞いたことがないほど華やいでいてカヲリを驚かせた。
「車でこようとかと思ったけど近いから、歩いて迎えに来た。でも俺って方向音痴なのな。今気づいた」
「もう、やだー。翔さん」
アイコは、翔の腕に軽々しく触れる。
カヲリは置いてけぼりにされたような気がして、おもしろくなかった。アイコのすぐ後からマイがやってきた。
「あー、どもども。マイでーす。本日はお招き感謝っす」
マイが元気に手を振り、挨拶する。
「初めまして。俺、日比谷翔。日比谷線の日比谷に、翔ぶが如くの翔。よろしくね」
「やっべー、全然わかんねーけど高学歴の自己紹介だ。カヲリンもやってみ。電車になぞらえて」
「えっ!?」
マイの暴走気味の振りに、カヲリはうろたえる。翔の小さい顔をできるだけ見て、なんとか好印象を与えようと努力した。
「カヲリです。アイコさんたちとは、クラスメートです。よろしくお願いします」
翔の顔から、感情は読めなかった。彼からは、新聞の小見出しを読む時のような無関心さを感じた。
「こんなところで立ち話もなんだな。行こっか」
アイコとマイ、翔は並んで歩きだした。
カヲリの足は重かった。来る場所を間違えたのかもしれない。先ほどまでの興奮が嘘のように、暗澹たる気持ちが大勢を占めた。
「何してんの」
アイコたちと先に行ったはずの翔が、カヲリの元にわざわざ戻ってきた。
「すみません、私」
「怒ってんの? 俺遅れたから」
カヲリは、どう答えてよいかわからず懸命に頭を振った。
「さっき、自己紹介の時ずっと睨んでたからさ。怒ってんのかなーって」
「怒ってないです。睨んでないです、ごめんなさい」
カヲリは必死に抗弁しようとするが、翔はそれほど深刻に受け止めていないようだ。涼しい顔をしている。
「怒ってないならいいや。ほら、早く行こう」
翔はカヲリの手を握り、歩きだした。乱暴さは微塵もなく、カヲリの歩くペースに合わせてくれた。
アイコたちが交差点の向かいで、今や遅しと待ちかまえている。
「おそーい」
合流するやいなや、アイコが非難の声を上げた。翔はひたすら平謝りした。
「カヲリン、カヲリン」
歩き始めてからすぐ、マイが肘でつついてきた。アイコと翔は少し前を並んで歩いている。
「カヲリンは、ハンバーガー好き?」
「う、うん。太るとわかっててもつい食べちゃうかな」
これからの予定の話をしているのかと思い、軽く返事をした。
「じゃあ、レタスのないハンバーガーは好き?」
「それってお肉しか入ってないよね」
「そうだよ。メインはお肉だけど、レタスも重要なにょ。今日のウチらは、レタスだよ。アイコちゃんは、お肉。添え物は大人しくしてようね」
マイの目は笑っていなかった。今日初めて話したのだが、マイはただの間の抜けた娘ではないのかもしれない。そう思わせる彼女の警告に、カヲリの心は冷水を浴びせられたように縮みあがる。
徒歩で十分もしないうちに、繁華街の一角にたどりついた。
辺りはすっかり暗くなり、夜の街のネオンがどきつくカヲリの目を抉る。
「こっちだよ」
四人は、とあるビルに着いた。四階建ての雑居ビルでは、一階に花屋、二階はテナント募集、三階は韓国料理店が営まれている。
「ウチ、辛いの苦手ー。お肉一杯食べちゃお」
マイを含め、三人は韓国料理を食べると思ったのだが、翔は意味ありげな微笑でその考えを吹き消した。
「残念。韓国料理はまた今度な。今日は静かなところでお話しよう」
そう言って翔は、カヲリの肩を軽くたたいた。アイコが険しい顔でその光景に見入っている。
ビルの一階の花屋に翔は入った。三人も怪訝に思いながらその後に続く。
花屋の奥に、二十代くらいの女性店員がいた。翔が黒いカードのようなものを見せると、店員は一度店の外を用心のためか目で確認して、奥にあるstuff onlyの扉を親指で指した。
扉を開けると、コンクリートの壁に囲まれた狭い通路になっている。薄暗く、大人二人がやっと通れる場所だ。翔はどこに連れていくつもりなのだろう。旧知のアイコも見当がつかず戸惑っている。
「あのー、翔さん? あとの二人はどこにいるんですか」
「この先にいるよ。長々と歩き回らせて悪かったね。すぐそこだから」
突き当たりにエレベーターがあり四人はさらに地下に進んだ。
エレベーターを出ると、煌々とした明かりに照らされた室の中だった。部屋の広さは
部屋には、ビリヤード台とピアノ。テーブルには、ビュッフェ形式の料理がふんだんに用意されていた。
革張りのソファーに二人の男が座っている。一人は眼鏡をかけたシャツ姿の男。痩せ型で面長、少し冷たい感じがした。もう一人は、MA-1を着た筋骨隆々とした男だ。
二人は翔の友人の大学生だったが、カヲリは彼らの自己紹介をろくに聞いておらず、料理に目が釘付けになっていた。空腹は限界に近い。理性が決壊してしまったら、マイたちに迷惑がかかる。そのくらいの分別はまだついた。
「この娘、ムシューダっていうんですよぉ。何人だと思います?」
マイがカヲリを小道具のように扱っても、今はお構いなしだ。一刻も早く、食事にありつきたくてふらふらと頷いていた。
皆が盛り上がっている話題に、適当に相づちを打って我慢を続ける。
カヲリの異変に目ざとく気づいたのは、翔だった。
「なあ、そろそろ乾杯しない? 俺のど乾いた」
翔がお酒を注いでいると、アイコがその脇に立ち手伝う。
「あたしも同じのにするー」
「未成年に酒飲ませられるかよ。ジュースにしとけ」
翔に諭され、アイコは渋々頷いた。
「かんぱーい」
カヲリはやっとの思いで杯を干すと、ソファーにどかっと腰を下ろした。
マイがビリヤードをやりたいと言い出したので、体格のいい男が教えてくれると買って出た。
翔は黙々と小皿に料理を盛っていた。
アイコは眼鏡の男と談話していたが目は時折、翔の背中に向けている。
カヲリは、グラスの中の氷を名残惜しそうに舐めていた。これがなくなると飢えてしまう。かつて自分が逃がしたウサギのように、どこか遠くに行ってしまう気がした。
「はい、これ食べな」
カヲリの傍らに、翔が座った。翔はエビチリの載った皿を手渡してくれた。
ぺろりとエビチリを平らげるカヲリに、翔は嘆息してまた料理を取りに行った。
いつの頃からか、ピアノが鳴り始めた。胸躍るジャズのリズムに彼らは意気揚々となった。
(3~)
皿を何段も重ねるカヲリの姿を、翔は飽きず眺めた。
「いい食べっぷりだね。おいしい?」
「はい」
翔は、料理が絶えることのないように常に気を配っている。
カヲリは申し訳ないと頭の片隅で思いつつも、手が止められなかった。
六人分はあったであろう料理は、今やカヲリ一人の胃袋に収められた。唖然とする一同。
翔だけが落ち着き払い、カヲリに如才なく飲み物を差し出した。
「本当よく食べたね。俺も腹減っちゃったな」
翔が冗談めかして言うと、爆笑の渦が起きる。
その時になってようやく自分がとんでもない場違いな行動をしたと気づき、愕然とした。
カヲリは青ざめて、翔に助けを求めるように顔を寄せる。
「ようやく俺の方向いてくれた。寂しかったよ」
「は、はい、すみませんでした」
何度も頭を下げるカヲリの姿を、アイコは見下げ果てたように遠くから毒づく。
「……、色気より食い気かよ。マジ最悪」
先ほどからアイコのリクエストに答えてピアノを弾いていた眼鏡の男が、肩をすくめた。
「あの娘を当て馬として連れてきたの君だろ。それに足下すくわれてちゃ世話ないよな」
表情一つ変えない男の皮肉に、アイコは気分を害した。本当は翔と話たいのだが、カヲリが邪魔だったのだ。
「あのー、宮本さん。さっきからピアノばっかり弾いてますけど、あたしと話すの楽しくないですか?」
眼鏡の男、宮本は首を傾げ、楽しげにダーツに興じているマイたちの方に体を向けた。
「いや、君がピアノが聞きたいって言うから演奏してたけど、飽きたならもうやめようか。ダーツでもする?」
アイコは、惚けて固まった。宮本はアイコがやめろというまでピアノを弾くのをやめなかったのだろうか。従順なのか抜けているのか、少し興味がわいた。
「気が変わりました。もっと弾いてください。指が折れちゃうくらい」
「怖いこと言わないでくれ。それじゃとりあえず耳慣れたこいつでも」
宮本が軽やかに弾き始めたのは、バッハのカノンだった。
カヲリは目を閉じ、メロディーに耳を澄ませた。
翔はまた一人取り残されたが、なれたものでカヲリと同じように目を閉じ、宮本の演奏に聞き入っていた。
カヲリは、いつしか昏昏とした眠りに落ちていた。翔の肩に傾いだ体を投げ出した。
一方その頃、地上の花屋では営業が続けられていた。秘密の部屋の入り口を兼ねているが、本業は花屋なのである。通りを歩く誰もが素通りしてもおかしくない普通の花屋の地下に、秘密の部屋があると気づく者はいないかった。
「……? 何かしら。口笛?」
店員が耳にしたのは、ひょっこりひょうたん島のテーマだ。店の外から聞こえてくる。
店員が出て見ると、赤いランドセルを背負った女の子が地面にしゃがんでいる。しかもチョークで地面に絵を描いていた。
「ここで何してるの? 営業の邪魔だから他のところでやんなさい」
女の子は店員の言葉を無視して、口笛を吹きながら熱心に絵を描いている。店員が後ろから覗き込むと、店の前に置かれた菊の花の模写だとわかった。デフォルメされていたが、特徴を捉えられていて彼女を感心させた。
「なかなか絵心あるわね、君。最近は小学校でこんなことも習うの?」
「いや。普段、暇がある時に描いてるだけじゃ。学校からくすねたチョークでな」
女の子は手を休めずに答えた。店員は女の子の脇にしゃがみ、目線を合わせる。
「学校には黙っててあげるから、人の迷惑にならないところで絵を描きなさい。ここは人の通りも多いし。ほら、これあげるから」
店員が菊の花を一輪、女の子に手渡した。女の子は機敏な動作でそれを受け取ると、しげしげと眺めた。
「子供のくせに菊が好きなんて変わってるね。どうせ売れ残りだし、好きに使っていいよ」
店員はそれだけ言い残すと、立ち上がって女の子に背を向けた。
女の子は、年に似合わぬ狡知に長けたような笑みを浮かべた。
「ではお言葉に甘えて。うりゃ!」
予期せぬ素早い動きで店員の前に回り込むと、菊の花を振り回し、道を開けさせた。
「ちょ、何!?」
店員が怯んだ隙に、女の子は店の奥へと闖入した。
「こら、勝手に入っちゃ駄目!」
制止する店員を余所に、女の子はカヲリたちのいる地下への扉へと迷わず直行した。
この女の子は、雪乃であった。彼女は幸彦が恋しくなり、学校の前で待ち伏せしていた。
その最中、カヲリが不穏な連中と歩いてるのを目撃し、ここまでついてきたのだ。
間違いなくこの先で怪しい何かが行われている。カヲリはそれに巻き込まれており、雪乃しか救える者はいない。突如芽生えたヒロイズムにつきうごかされ、雪乃はstuff onlyの扉を断りもなく開けた。
(4~)
星が宇宙を形成する。星のために宇宙があるのか、宇宙があるから星があるのかカヲリは知らない。多分、誰も答えを出すことはないだろう。
カヲリは都心の空にこんなにも、明瞭な星が映えるのを奇異に感じながらも、気だるい体をソファーから起こすことをしなかった。
傍らにはグラスを傾ける翔の姿がある。
「あ。目覚めた?」
カヲリは子供のように、目をこすり辺りを見回した。電気が消えていたが、先ほどと同じ地下室である。足下に室内用のプラネタリウムが置いてある。天井の星はフェイクだった。
「俺はピアノが弾けないからね。こんなのしか用意できなかったよ。これもレンタルだけどな」
カヲリは翔と体を寄せ合っていたものの、嫌悪を感じることなく自然体でいられた。
「ごめんなさい」
「何で謝るの?」
「ひいてますよね、みんな」
アイコたちの姿はどこにもない。呆れてカヲリを置いていったのだろう。
「そんなことないんじゃないかな。あいつら意気投合してたみたいだし」
アイコが翔に思いを寄せていたのは、鈍いカヲリにですらわかった。いわんや翔ならなおのこと。
「アイコちゃんには悪いことしました。私、来ない方がよかったですよね」
「そうだね。陽菜ちゃんの代役としては失格かなあ」
あっけなく肯定されるとは思わず、カヲリは涙ぐんだ。彼らとは所詮住む世界が違うのだ。今夜はそれを学ぶことができただけ収穫だった。
「でも君の役割は果たしてるよ。俺はそう思う」
「引き立て役としてですか?」
カヲリだって、アイコたちの意図は初めから気づいていた。それを知って敢えて誘いに乗ったのだ。その点では彼女たちを責めるつもりはない。
「誰の引き立て役でもない。カヲリ=ムシューダの役割を君は立派に果たしてるじゃないか。その証拠にほら」
翔はおもむろにカヲリの手を握り、自分の胸へと当てさせた。翔の鼓動にカヲリは息を飲む。
「俺、すっげーどきどきしてるよ。カヲリちゃんはどう?」
「わ、私は」
今の気持ちを口に出したら、不実になってしまいそうでカヲリは曖昧に頷くにとどめた。
「陽菜ちゃんや、アイコちゃんたちだと俺、こんな風にならないよ。君だから」
その時、翔とカヲリの顔は息が当たるほど非常に近くにあった。カヲリは初心な本性が現れ翔の肩を押し、顔を背けてしまった。
「私、まだそういうのはちょっと」
翔は無理に関係を迫ろうとしなかった。何事もなかったように、酒をついでいる。
カヲリは内心ほっとしたような、物足りないような気分を味わった。
「陽菜ちゃんは、学校でどんな風に過ごしてるの?」
話の切り替えについていけず、カヲリは自分のグラスをごまかすように持った。飲みかけのウーロン茶はぬるくなっている。
「西野さんはクラスで人気者です。可愛くて友達も一杯いて……」
「それ、本気で言ってる?」
翔はカヲリより、陽菜との付き合いが長い。余計な気遣いとわかっていたが、本当のことを口に出すのは気が引けた。それに自分が平気で陰口を言う人間だと、翔に思われたくない心理も働いたのだ。
「西野さんは、機嫌が悪いと何するかわからないっていうか。怖い人です」
「あはは、怖いっていうのは同感」
翔の表情は部屋が薄暗くてよくわからない。ただかなりの飲酒をしているにも関わらず、酩酊の気配はなかった。
「俺たちの間で、彼女何て呼ばれているか知ってる?」
「いえ」
「星の王女さま」
カヲリはぷっと吹き出した。そして慌てて室内に陽菜の気配がないかと探ってしまう。
「陽菜ちゃんは、どこか遠い星から間違ってやってきたお姫さまなんだよ。かぐや姫とは違うんだよな。彼女は罪の意識がないんだ」
「罪?」
「そう。陽菜ちゃんは大人と平気で口論して、時に打ち負かすこともある。普通はやりすぎだったなとか後悔するものだけど彼女は違う。常識がないんじゃないよ。ただ自分が間違っているという考えが、頭の中にないんじゃないかな。そもそも俺たちが平生間違ってると思い込んでいることが、案外本当は正しいことなのかもしれない。そう彼女は信じているのかもしれないね」
そういうものかなと、あの小悪魔のことを思い出す。確かに大人が相手でも怯むことはないだろう。正義かどうかは別としてだが。
「でも常に何かに怯えてる。だから相手をけちらすことしか頭にない。彼女にとってのバオバブの木がなんなのか俺は知らないし、知りたいとも思わない。知らぬが仏って感じがする」
カヲリも陽菜の暗部に触れるのは危険だと、肌で感じている。アイコたちも同様だろう。
「今日は陽菜ちゃんが来ると思ったから、ここを予約したんだ。彼女は騒がしいところが苦手だからね」
陽菜は、カヲリの持っていない全てを持っている。嫉妬を感じた。幸彦だけではなく、翔も陽菜の掌の上のようだ。
「でも陽菜ちゃんには、感謝かな。今日、君に会えたから」
翔の舌は淡々として滑らかだ。カヲリは、彼に酔っていて欲しいと願う。自分もお酒が飲めたら、話を合わせられただろうか。触れさせてももらえないのがもどかしい。
「冗談ばっかり。アイコちゃんにも同じこと言ったんじゃないんですか」
「意外と斜に構えてるね。もっと楽しまないと損だよ」
少なくとも今だけは他のことは忘れて、この人だけを見つめていたい。カヲリは翔にほだされ、彼から目が離せなくなりつつあった。
ところが翔は自分の腕時計に目を落とし、落胆の声を上げる。
「でも、もう遅いから帰らないと駄目か。駅まで送ってくよ」
「え」
カヲリは、駿馬のような時間経過を呪った。明日からまた退屈な時間が帰ってくる。
アイコたちは、自由に広い世界に飛び出すことができる。カヲリはどうか。もう今日のような魔法の時間を味わうことはできない予感がある。翔ともこれきりになるかもしれない。
「さ、行こう」
翔はカヲリに手を差し出す。カヲリはその手を、ためらいがちに握った。
ソファーに長時間座りっぱなしだったため、カヲリは足をもつれさせ、翔の胸に飛び込む形となった。偶発的な出来事だったが、二人の距離は今夜一番近くなった。
「カヲリちゃん、やっぱ俺」
翔は、カヲリの体を抱きすくめた。
「今夜は君を帰したくない。いいだろ?」
カヲリは抵抗するどころか、すすんで彼を受け入れた。魔法にかかったように、とろんとした瞳で翔を見上げる。
彼の熱を帯びた真剣な表情が目視できた。カヲリは流れの赴くままに任せた。
その時だった。嘲るような口笛の音が、耳に飛び込んできた。それも一瞬のことで、幻聴のように消えた。
カヲリは驚愕に目を見開き、辺りを見回す。
「どうした、怖くなった?」
翔が、カヲリの耳もとでからかうように囁いた。
「大したことじゃないんですけど、口笛が聞こえませんでした?」
「いや、聞こえないね。それよりカヲリちゃん」
翔に急かされ、カヲリは再び二人の時間に引き戻される。
エレベーターのドアが音を立てて開いた。中からランドセルを背負った女の子が飛び出した。
小さい侵入者にまず気づいたのは、翔だった。ランドセルの金具が、ガシャガシャいう音は目立ちすぎた。
小さな人影が二人のすぐ近くで立ち止まった。
「大丈夫か! おっぱい星人」
カヲリは翔の胸に顔を埋めた。それくらいしかこの場を乗り切る術が思い至らない。
「え? 何? 子供?」
翔はカヲリを置いて、電気をつけにいった。明るみになった室内に、目をつり上げ鼻息を荒くして佇む雪乃の姿があった。昨日とは打って変わり、きれいにカールした髪をセットし、真新しいブルゾンとジーンズ、ニューバランスのピンクのスニーカーを履いている。
「誰?」
翔は困り果てて、カヲリに事情を説明してもらいたがっている。カヲリは雪乃に背を向けたまま壁をにらんでいた。
「私は正義だ」
雪乃はちょっと心細くなったのか、小声だった。カヲリが無視していると、気に食わないのか防犯ブザーを鳴らした。ぶぶぶーと耳障りな音が轟く。
「うるさいうるさい、もうやめてー」
泣きそうになりながらカヲリは、雪乃から防犯ブザーを取り上げた。翔にどう釈明するかしか頭にない。
「心配いらんぞ、カヲリ。私が来たからもう安心だ」
どこか誇らしげな雪乃に、翔が一歩近づいた。
「君、カヲリちゃんの知り合い? どうやってここまできたのかな。結構セキュリティー厳しいんだけど」
翔はやさしく雪乃に語りかける。悪の巣窟に乗り込んだ予定の雪乃は出鼻をくじかれ、強く出られなくなってしまった。得意の大声でごまかす。
「う、うるせー! 優しい顔したってわかってるんだぞ。お前、カヲリに変なことしようとしてただろ」
「うーん、どうだろ? カヲリちゃん」
いたずらっぽくカヲリに水を向ける翔。雪乃の視線が氷のように冷たくなった。
「そーか、おっぱい星人だもんな。男なら誰でもいいってわけか」
「何てこと言うの、この子は。本当にすみません。この子は知り合いの妹なんです。私になついちゃってもう。こんなとこまでついてきて、しょうがないんだから」
雪乃の口を塞いで、言い訳したカヲリだった。翔は頷いただけで詳しく聞こうとしなかった。どこか冷静な彼に、カヲリは今夜の夢が終わりを迎えたと悟る。
それから何事もなく三人はエレベーターに乗り込んだ。
翔は、雪乃が話す武勇伝を熱心に聞くふりをしてくれていた。
カヲリは翔の気を引こうと手を握ってみたものの、彼は握り返してはくれなかった。
花屋に着くと、雪乃はこっぴどくしかられた。今度やったら警察に届けると、カヲリ共々厳重注意を受けて花屋を後にした。秘密の入り口は他言無用。いずれにしろカヲリにお鉢が回ることは、金輪際ないだろうと思われた。
「今日は楽しかったよ、カヲリちゃん。また皆で遊ぼうね」
別れ際、翔の言葉はそれだけだ。一応の礼儀か名残惜しそうにしていたが、どこかよそよそしくてカヲリを落胆させた。
雪乃と手をつなぎ、寂しくなった通りを歩いた。
カヲリも雪乃も、行き場のない不満を顔に露わにしていた。歩幅がまばらなので、雪乃は何度もつまづきそうになった。
「ずっと外にいたの? 雪乃ちゃん」
長時間寒空の下にいた雪乃の頬は、林檎の如く赤い。手も干し柿のようにかさかさしていた。
「コーヒーでも飲んで帰ろうか」
雪乃は地面をにらんだまま、顎をわずかに動かした。
近くのファーストフード店の明るい店内は、雪乃の顔を明るくしなかった。
喫煙席の側を横切ると、煙草の残り香が感じられた。
カヲリは、ハンバーガーとポテトとジュースを頼んだ。一応、雪乃を労うためだ。
カヲリが席についても、雪乃の機嫌は直らない。ハンバーガーに手をつけようとしない。
「悪かったの。お楽しみの最中邪魔して」
独り言のように言うのを、カヲリは真正直に受け取る。
「私のこと思って、してくれたんでしょ。怒れないよ」
「嘘つけ」
雪乃は、毒づきながらジュースのストローを咥えた。貪欲に喉を潤している。
「お前、あいつのこと好きだったんか? 男と女って、会ったらすぐ好きになるもんか?」
「ううん、そうでもない。少なくとも、私は一目惚れとかしないたちだから」
雪乃は、カヲリを盗み見ながらポテトをつまみ始めていた。その旺盛な食欲に触発され、カヲリも何か注文すればよかったと後悔した。
「じゃあなんで?」
雪乃は、身を乗り出して答えを聞き出そうとする。曖昧な誤魔化しは許されない空気である。
「別に。ただ機会があったから、してもいいかなって。いいじゃない、皆やってるんだから。私が良い目を見ちゃいけないの?」
カヲリの声は張り詰めたものだった。雪乃は落胆したように膝の上で拳を握りしめた。
「兄ちゃんに、言いつけてやる」
「どうぞ、寺田君とは何でもないから。どう思われても構わないよ」
カヲリは幸彦にどう思われるか想像した。軽蔑されるだろうか。少なくとも自分を見る目は変わるに違いない。
雪乃は五分もしないうちに、テーブルの上のものをきれいにした。
「さ、帰ろうね。駅まで一緒に行こう」
雪乃は、うつむいて席を立たない。
幸彦に情報が行くことを気にする前に、雪乃のことをまず考えるべきだった。彼女の失望は、カヲリが思ったより深いようだ。
かといって、カヲリに釈明する気持ちはなかった。翔に身を委ねたことに一片の悔いもない。翔だって本気でカヲリを欲していたわけではないだろう。それでもいいとお互い納得していたのだから、釈明の必要はない。
「お前は、幸せものじゃの」
雪乃の辛辣な一言に、カヲリは打ちのめされたような感覚に陥った。正味の子供の言葉は、大人を容赦なく地獄に突き落とす。今この時がそうだった。
「適当に、パーティでもしとけ。男をとっかえひっかえ、楽しいのは今だけじゃ」
「何よ、その言い方! 子供のくせに生意気」
どちらの論理が整合性があるか、自明のことであった。
雪乃は臆することなく、カヲリを見上げる。カヲリの方が逆にいたたまらなくなり、目をそむけた。
カヲリが床を向いていると、床をコツコツ叩く靴音が耳についた。振り向くとそこには、
「子供相手に何イキってんの? かっこわるーい」
大きなクマのぬいぐるみを抱いた西野陽菜が、立っていた。高尚な戦利品のように、ぬいぐるみが威容を誇る。
不意に訪れた嵐に、カヲリは常に巻き込まれていくばかりであった。




