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せっちん!  作者: 濱野乱
菊と刀編
2/97

つみ(前編)

「さあ、特訓の時間だよ。準備はいい?」

西野陽菜が、歌のお姉さんのように明るく振る舞う。

教室の真ん中に机が一つだけ置いてあり、その上に陽菜が腰掛けていた。机の下では寺田幸彦が後ろ手で手錠をかけられ、正座していた。彼の目にはアイマスクがしてある。

二人を中心として、椅子が円を描くように並べられていた。窓には、ピンクのカーテンがかけられ、教室は薄暗くされている。

「い、いいけど……、ここまでする必要あるのかな、西野」

幸彦が、不安そうに口を開いた。

陽菜は返事をせずに、片足の靴下を脱いでいた。制服のスカートから伸びた、細くしなやかな白い足は、磨きあげられた宝石のように眩しい。

陽菜は靴下を脱いだ足のつま先で、幸彦の顎を器用に持ち上げ、冷然と言い放つ。

「あるに決まってるよ。せっかく幸彦君が皆に馬鹿にされないように特訓してあげてるんだよ? それと、特訓中は陽菜様って呼んでって、前に言ったよね?」

「は、はい。陽菜様……」

陽菜の有無を言わせぬ高圧的な態度に、幸彦は小さく縮こまるしかなかった。

幸彦の鼻炎を克服するべく、陽菜が開発した放課後プレイは過渡期を迎えつつあった。快楽と嗅覚が結びつけば、鼻炎が治るという陽菜の説は未来を歩んでいたが、誰も止める術はないのであった。

「さあ、時間も限られているし、始めるよ。まずはこれだ! わかるかなー?」

陽菜は机の上の鞄から何かを取り出した。芳醇に匂い立つ檸檬である。それを握りつぶす。絞り立ての果汁を、満遍なく自分のつま先に滴らせた。そして檸檬汁たっぷりのつま先を幸彦の鼻すれすれに突き出した。

「嗅いでいいよ」

陽菜の合図を皮切りに、幸彦は鼻をひくひくとさせた。つま先に鼻息がかかるたび、陽菜が体を小刻み震わせる。

十秒もたたないうちに、幸彦は臭いを嗅ぐのを止めて、首を振った。

「よくわからない。ごめん・・・・・・」

「そっかー・・・・・・」

陽菜は机の上で足をぶらぶら揺らしていた。指から透明な滴がたれて、床を汚す。

「じゃあ仕方ないね、体に覚え込ませてあげる」

「ふがっ・・・・・・!?」

陽菜は躊躇することなく、幸彦の鼻の穴に自分のつま先を突っ込む。突然のことで幸彦の意識は、混乱を来した。

「ねえ、これならわかるよね? 何の臭い?」

「……、がっ、ふぇもん」

「えー? 何言ってるかわからないよ……、ひゃん!」

幸彦は陽菜の親指に舌を這わせた。陽菜の体に電流のようなうずきが駆け上がる。

「な、なめていいなんて言ってないよ! こら、だめ……」 

幸彦は我を忘れたようにぴちゃぴちゃと下品な音を立てて陽菜の足を舐めている。親指の付け根まで舐め終わると、人差し指を甘がみした。

「きゃっ! こういうことばっかりうまくなるんだから……」

困ったように笑い、陽菜はされるがまま幸彦に足を差し出した。だんだんと二人の息は上がってきて、陽菜の口数も少なくなる。

「はあ……、こんなに私の足に夢中になっちゃって、幸彦君は変態さんだね」

甘ったるい吐息を漏らして、陽菜は首を後ろに傾けた。

「おかげで私もすごい変態になっちゃったで…、責任、取ってくれるよね?」

その時、教室のドアが勢いよく開かれた。陽菜は気だるい瞳を首ごと音の方向に向けた。

「……、だあれ? 邪魔をするのは」

教室にずかずか入ってきたのは、制服姿の美堂薫子であった。眼鏡の奥を、好奇心で一杯にしながら近づいてくる。

「宇宙の法則が乱れているから来てみれば、えらいことになっているじゃない」

薫子は、未だに陽菜の足の虜となっている幸彦をまじまじと見つめ言った。

「宇宙の法則ぅ? そんな細かいことが気になる人は、営業より事務の方が向いてるんじゃない? この書類にサインしてちょ」

「いいですとも」

快く一枚の紙を受け取った薫子だったが、内容を確認しようとして、目を剥いた。

「これは……!? 婚姻届け!?」

「そうだよ、私と幸彦君は結婚するの。美堂さんが証人になってくれたら、それはとってもうれしいなって」

薫子は呆然と婚姻届けを見つめていたが、ビリビリと二つに裂いてしまった。

「ところがどっこい、婚姻届けはもう一枚あります」

陽菜は、ぬかりなく鞄からもう一枚の婚姻届けを取り出し、薫子の眼前でひらひらさせる。

「ふん……、私がサインしても証人はもう一人必要なんでしょう? だったら無効よ」

「よく見てよ、証人はもう一人いる!」

婚姻届けの証人欄には既に名前が書かれていた。よれよれの字で、せっちんと。

せっちんは周りに置かれた椅子に、ちょこんと座っていた。ちょうど陽菜の後ろに位置していたので、薫子は初めてせっちんの存在に気づいた。

せっちんは膝の上に結婚情報誌を置いて、それを読むふけっていた。薫子の視線を感じ、面を上げる。

「しんぜんか、ちゃぺるか、それがじゅうようなもんだいじゃ」

「どっちでもいいのよ。大事なのは、二人の気持ちなんだから」

「ならば、しゅくふくするのじゃ。さすれば、すくわれるであろう」

「嫌よ、絶対!」

薫子は髪をかきむしった。追い込まれた獣のように苛立たしげに、逃げ場を探しているようだった。

「どうして、祝福してくれないの?」

無表情の陽菜が、薫子を見据えた。せっちんも似たような無機質な目をしている。

「私と幸彦君は両想いなんだよ? どうして会ったばかりの美堂さんが反対するの?」

「それは……」

考えてみれば妙な話だった。薫子は幸彦と会って一日だし、言葉を交わしたのもごく短い時間だ。にも関わらず、体の内側から沸き上がる拒否感は、押さえ込めないほど膨れ上がっていた。激しい頭痛がしてきた。景色が白っぽくなる。カーテンが二重にぶれて見えた。

「とにかくこんなインチキ認めない、絶対ダメー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

薫子は世界を滅ぼしかねないほど絶叫し、同時に頭をぶつけた。痛みと共に降ってわいたのは、やけに低い天井。ベッドで半身を起こした自分。

「あれ……? ここは……」

薫子は丸岡高校の寮で目を覚ましたのだった。

「何て夢だ、くそっ……!」

枕を壁に向かってぶん投げた。部屋には段ボールが所せましと積まれている。小さな机が二つと、二段ベット。薫子は下のベットに寝ていた。

昨日は学校から帰り、荷物を少し整理してから夕食を取り、会社の上司に報告を入れてからベットに入ったことまでは覚えていた。

「そういえば、私、女子高生なんだった。無茶苦茶よね……」

しばらくベッドでぼんやりとしていたが、あることに気づき、大声を上げる。

「い、今何時!?」

時刻は既に八時を過ぎている。段ボールに躓きながら、大あわててで身支度を開始する。

制服を着て、メイクポーチを掴んで共同の洗面所に駆け込む。

「メイクしてる時間ないわ、でもでも……」

思い出されるのは、屈託無く笑うクラスメートたち。鏡に映る自分と比べてなんと青春を謳歌していたことか。

錆びついたようなため息しかでない。でも遅刻はしたくない。結局メイクはあきらめた。メガネを装着し、笑ってみた。

「笑顔を忘れなければ平気よね……、多分」

部屋にあった日めくりカレンダーをめくってから、無人の寮を出た。

西暦 一九九九年、十二月二日 木曜日。


異臭騒ぎが起こってから、寮に住んでいた生徒は残らず出ていったらしい。調査に便利だし、薫子は学校の臭気を感じないので、利便性を考慮し、住むことにした。

朝靄が濃くて、林道を走る薫子を疲れさせた。森の中は鳥の鳴き声一つせず、不気味なほど静かだ。

「こんなに学校遠かったかしら……」

パンフレットには寮から五分と書かれていたが、かれこれ十分くらいは走っているような気がする。

「自転車くらい持ってくるべきだったかな、……、はあ」

独り言を言いながら、一人マラソンを続ける。体力には自信があるので、問題ない。

対向車も人も見かけないので、退屈になった薫子は、せっちんが走ってハードルを飛び越える妄想を始めた。せっちんが一匹、せっちんが二匹……

次々と脳内に現れるせっちんが薫子を楽しませたが、何匹目かのせっちんがハードルにつま先をひっかけて無様に転んだ。

と、同時に薫子も同じように転んでいた。靄で視界が不良だったため、何かにぶつかるまで気づかなかったのだ。

うつ伏せで倒れた薫子の手元に、一個の林檎が転がってきた。

やっと起きあがると林檎を手にとってみた。突風が吹き、前方に目をやると、靄が晴れ人の姿が露わになった。

長身の少女が立っている。赤みがかったストレートの髪が肩にかかっていた。大きなマスクで顔が半分隠れている。薫子と同じ学校の制服着ていたが、くるぶしまで隠れた長いスカートをはいている。少女のつり上がった目が薫子に向かってそそがれていた。

恐らくこの少女にぶつかって、薫子は転倒したのだ。

「あ、あの、ごめんなさい。私の不注意で」

薫子は反射的に頭を下げた。不良めいた少女に因縁でもつけられたらたまらない。

マスクを取り、整った鼻梁を開帳する不良少女。

「あたしはへーき。あんたの方こそ大丈夫だった? 派手に転んでたねえ」

「あ、はは……」

以外にも気さくに話しかけてくるので、出鼻をくじかれた。

「びっくりしたよー、いきなり後ろからち○んちんって叫びながら走ってくるんだから」

「は?」

「しかも高校生にしては、エゲツないパンツ穿いてるね。彼氏に見せんの?」

薫子はスカートを押さえ、この大柄な女の顔をにらんだ。

「何なの? そんなの貴方に関係ないでしょう?」

「怒んなって、あたしだって見たくもないパンツ見せられたんで一言言いたくなっただけさ」

薫子は言い返そうとするが、空腹を思い出したお腹が悲鳴を上げた。

「それ、食っていいよ」

少女は、薫子が握っている林檎を指した。

「あたし、三年の来栖未来くるすみくっていうんだ。お近づきの印にやるよ」

未来の側には台車が置いてあり、その上には野菜を積んだ段ボールが載っていた。

「私は美堂薫子、二年よ。この林檎、貴方のものだったのね。ごめんなさい、まだ何か落ちたりしてないかしら?」

「多分平気だろ、それより早く食いなよ、腹減ってんだろ?」

「じゃあお言葉に甘えて」

薫子は袖で林檎を拭いてから、かじりついた。酸味の効いた濃厚な甘さと歯ごたえが脳髄を刺激する。食指を動かされ二口、三口と口に含む。

「ねえ、薫子って処女?」

薫子は林檎を口から吐き出しそうになった。

「いきなり何言い出すのよ。貴方は下ネタを会話に織り交ぜないといられない性分なの?」

「わ、悪いかよ、気になったんだよ。彼氏いるのかなーって思ったら、ヤルことは一つしかないだろ?」

「何か貴方って、男子中学生みたいな残念な頭をしてるのね。美人に生まれた業なのかしら……」

「あ、あたしが美人? 足太いし、でっかくて邪魔だ、とか親によく言われるけどな」

未来は長いスカートを握り、照れている。身長がコンプレックスのようだ。

そんな可愛いコンプレックス、今に吹き飛ぶのにと薫子は思った。若い時分にはくだらないことで悩むものだ。薫子にもそういう時期があったような気がする。

「私、経験済みよ」

薫子はそっけなく言った。林檎をかじりながら。

「そ、そーか、どうりで大人っぽいと思ったぜ。あたしより年下なのにすげーや」

未来は、尊敬の眼差しを薫子に向ける。

「そんな薫子を見込んで頼みがある。あたしを弟子にしてくれ!」

未来の真剣な申し出に薫子は戸惑う。

「弟子? 何の?」

「エロスなあれこれのさ、だって薫子は好きなんだろ、ち○ちん」

薫子は精一杯の苦笑いを浮かべた。

「……、ねえ、未来さん、彼氏が欲しいなら、そう言う物言いは控えた方がいいわよ。男は妄想で恋をする生き物なんだから。幻滅されてもいいの?」

「頼むよ! エロス師匠!」

薫子の眉間が険しくなる。

「話の通じない子ねえ。だからそういうのをやめなさいって言ってんのよぉおお!」

薫子は未来の胸ぐらに掴みかかって、揺さぶった。未来は真剣なのかもしれないが、薫子は神経を著しくすり減らすことになった。

「はあ、はあ……、全く、最近の子はスケベばっかり多くなって、そんなに結婚したいの?」

「薫子だってスケベ代表みたいなパンツ穿いてるだろ……、あっ」

薫子の矢のような視線に射すくめられ、未来は一端黙った。そして小声になる。

「振り向かせたい男子がいるんだ。あたしみたいなデカ女でも男心を知れば、もしかしたらって思ったんだ」

薫子は未来の胸ぐらを掴む力を解く。

「それなら一つ言わせてもらっていい? スケベなことしなくても、男を振り向かせることはできるわ。安売りなんてするもんじゃない。もっと自信を持って。貴女、可愛いんだから」

未来は感激して、薫子の手を取った。

「カッケー! さすが師匠だぜ、これからよろしく頼む」

 「だからその師匠ってのやめなさいって……」

薫子は背後に視線を感じ、ものすごい勢いで振り返った。木立には風のざわつきはおろか、何かが動く気配もない。

「どうした? 熊でも出たか」

「気のせいだったみたい。立ち話が長すぎたわね、学校へ急ぎましょう……、っていうか熊出るの? ここ」

「あー、そうだなー、みかんあるけど食う?」

「頂くわ」

マイペースな未来といると一生学校にたどり着けない気がして、薫子の足を急がせた。

二人が立ち去った後、薫子が見ていた木の後ろから、せっちんが顔を出した。

 「くくく……、わらわのけはいに、かんづくとは、あなどりがたし」

せっちんは、薫子が寮を出てからずっと後をつけていたのだ。未来との会話もばっちり聞いていた。

「こうしてみはっておれば、いつかは、よわみをみせるであろう。わらわをぶじょくしたつみ、ぞんぶんにつぐなわせてみせようぞ」

せっちんは、木の影から飛び出すと、俊敏な動きで薫子たちの後を追った。

 

 

(*)


薫子と未来が台車を押しながら、学校に近づいた頃には、九時近くになっていた。

未来に影響されて、薫子は遅刻を全く恐れなくなっていた。のんびりフルーツを食べながら、弟子を指導していた。

「だから、アレがアレの時、アレをアレすると男はたちまちアレになっちゃうわけよ」

「おおーっ! アレにそんな使い道があったとは、さすが師匠、恐れ入るぜ。しかし、アレになっちまうとはな。男はつくづくアレな生き物だな」

「ところで未来さん、一つ訊いてもいい?」

「うん、なんだい」

「この台車で運んでいる野菜や果物は一体どうするの?」

「これは、京都にいるばあちゃんが送ってきた食べ物さ、食べ切れないから、学校で欲しい奴にあげてるのさ」

「でも学校は……」

「うん、そろそろ近づいてきたな。師匠も準備した方がいいぜ」

校門が見えてくると、未来は鼻栓をし、マスクをつけた。薫子も一応マスクをする。

「はあ、やっぱり慣れねえなこの臭いは。師匠、まだ転校してきたばっかでつらくない?」

「ええ、何とか」

台車を無事昇降口まで運ぶと、二人は一息つくことができた。

「ありがと、師匠。後はあたし一人で運べるわ。師匠もなんか欲しいのあったら、持っていっていいからね」

「じゃあ、これとこれ……」

薫子は段ボールから、白菜と林檎一つを取り出した。学校に食べ物を持ち込んでも臭いはつかないらしい。でないと、弁当も食べられない。学校の七不思議である。

「色々勉強になったよ、サンキュ。師匠の彼氏にもヨロシクな」

「言い忘れてたけど私、今フリーよ」

「えっ? そうだったのか、まあきっと師匠なら良い相手がすぐ見つかるよ、それじゃ」

未来の去り際の一言に、苦い過去が蘇る。

「恋って良いわね、相手の良い面ばっかり見えるもの」

下駄箱には人気がない。まだ授業中なのだろう。

「さて、と・・・・・・」

薫子は校舎の中に入らず、一端げた箱から外へ出た。

「いるんでしょー? 出てきなさい」

大声で呼びかけながら、薫子は埃っぽい校庭を少し歩いた。日陰になったプランタンの前で足を止める。可愛らしい尻が、プランタンの後ろからはみ出ている。

薫子は黙ったまま、その尻をつねった。

「ぎゃっ!」

尻をつねられたせっちんが、堪らず飛び上がって姿を現した。

「貴女、尾行下手くそね。ずっとバレバレだったわよ」

「うー……」

せっちんは、悔しそうに薫子を見上げていた。今日もきれいにカールさせた髪を揺らしている。その割にボロを継いだような粗末な着物を着ている。草鞋も擦り切れそうだった。

せっちんは何故か長ネギを持っていた。薫子の視線に気づくと、背中にネギを隠した。

「それ、どうしたの?」

薫子が興味本位に訊ねると、せっちんは建物の陰に身を半分隠した。

「そのへんにあったんじゃ」

「その辺ねえ……」

大方、せっちんが持っているネギは、未来が運んでいたものの中にあったものだろう。薫子とぶつかった時に落としたものを拾ったのかもしれない。

「ねえ、せっちん、そのネギどうするつもり?」

「きやすくわらわをよぶな。このねぎは、わらわが、たべるためにあるのじゃ」

「そお、でも生で食べるってわけじゃないでしょう?」

「た、たべかたは、いろいろじゃ。わらわはしっておる」

「そう、例えばうどんに切って入れるとか……」

せっちんの小さな喉が、こくんと鳴る。

「他のお野菜と一緒に鍋に入れて……、楽しむのもいいかもしれないわねえ」

言いながら、持っていた白菜をせっちんにさりげなく見せた。せっちんの目は、白菜に釘付けになっている。

「実は今日の夕食、鍋にしようと思ってたんだけど、白菜だけじゃ心許ないと思ってたのよね、せっちんがそのネギを提供してくれたら、鍋も華やかになるんだけどなあ」

「わ、わらわも、そのなべをくえるのか?」

せっちんが針に食いついた瞬間、薫子は勝利を確信した。

「ええ、もちろん。しかもそれだけじゃないわ、せっちんには特別に食べやすいように鍋の正面の席を用意してあげる」

「まことか!」

席はプレミア感を演出するためで特に意味はない。たが、せっちんは狂喜乱舞した。

「さらになんと、ネギを渡してくれたら、この林檎を今すぐプレゼント。ネギは今すぐ食べられないけど、この林檎はすぐ食べられるわ。時間を買うって何てお得なんでしょう! さあこんな良い取引めったにないわ。今すぐ決めないと後悔するわよ!」

「ね、ねぎは、あずける! なべは、かならずよういするのじゃ、やくそくじゃ」

最終的に、せっちんは、犬みたいに涎を垂らしていた。

薫子はネギと白菜を手に入れ意気揚々と校舎に入った。食費が浮いたので機嫌がいいのだ。

「それにしてもこのネギ、ちょっと変わってるわね」

せっちんが持っていたネギは、葉の部分が長くて青々としており、茎が短い。薫子の知っているネギとは少し違う。ニラに似ているかもしれない。

夕食の鍋に幸彦を呼ぼうか少し考えたが、今朝の夢のこともあり、やめるべきか迷う。

「おーい、美堂。ちょっといいか」

靴を履きかえていると、誰かに呼びかけられた。薫子を呼んだのは、担任の教師だった。三十代半ばの男性教師で、先月CAと結婚したのが自慢だ。

薫子は担任の前に進み出て、四十五度のお辞儀を繰り出した。

「先生、遅刻して申し訳ありません! 始末書は放課後まででよろしかったでしょうか?」

「ははっ……、何会社員みたいなこと言ってるんだ、美堂。そんなことしなくていいぞ、どうせ一限は自習だったしな」

「あっ、そうでしたか」

「そんなことより美堂、その野菜はどうした?」

「これは、知人から」

担任は、薫子の肩に手を置いた。

「先生、不倫はあまりに悲惨です。奥さんに慰謝料を絞り取られ、職も失います」

薫子は諭すように言ったが、担任はそれを笑い飛ばした。

「要らぬ心配だ、美堂。俺は嫁を愛しているからな。それよりその野菜はどっから持ってきた? ちょっと話を聞かせてもらおうか」

まるで何か悪事を働いたかのように決めつけられて、不快だった。しかし、口答えしても得はないので、従うしかないというのが普段の倣いになっていて我ながら悲しい。

「やめてー、乱暴する気でしょー、エロ同人みたいにー」

職員室に連れて行かれる間、学校中に響きわたる声で叫び続けた。

職員室に入ると、薫子は応接用のソファーに座らされた。何故か暇な教師たちが集まっていた。

薫子の向かいに座ったのは年輩の教師だった。確か古文の沼田という男だったと薫子は思い出した。鳥目なのか、目を細めて薫子をじろじろながめていた。

そして、前触れもなく、

「君は自分のしでかしたことがわかっておるのかね!」

甲高い声で怒鳴りつけてきた。薫子は怯んだふりをしておいた。彼女の上司の方が百倍は恐い。

「さしつかえなければ、先生のお怒りの理由が知りたいのですけれど」

沼田先生は早くも息を切らせていたが、座り直して威儀を正そうとしていた。

「君はその野菜を教頭先生の畑から盗んだんじゃないのか?」

「はあ……? 畑、ですか。この学校にそんな場所があったとは初耳です。昨日、転校してきたばかりで」

担任に目で助けを求めたが、彼は頼りにならないらしい。先生、信じているからなと目で返された。

「最近、教頭の畑を荒らす不届きものがいるのだ。何か心当たりは?」

「ありません」

ここに連れてこられた当初から、教師たちは薫子を犯人と決めつけているようだ。不当な言いがかりも甚だしいが、反論の材料を探すしかない。

「そういえば美堂、さっき知り合いがどうとか言ってなかったか?」

担任の教師が横から口を出した。その時、未来の顔が頭をよぎる。

「……、知人に、送ってもらったのを学校に持ってきてしまったんです。紛らわしい真似をして申し訳ありませんでした」

その場にいた教師のほとんどが懐疑的な眼差しを薫子に注いだ。歯を食いしばり、何とか耐える。

「証拠はあるのかね?」

「いえ、ありません。信じて頂くしか」

薫子は下を向き、苦悶の表情を浮かべた。先ほどまでは自分のことだけ考えていたので、余裕があった。しかし今は違う。未来が畑から野菜やらを盗んでいたとしたら、そう想像してしまう。もし、未来の名前を出せば、自分は助かるかもしれない。しかし、慕ってくれた未来を売るような決断をすることはできなかった。

「もうその辺でよろしいのでは?」

一同が声のした方を振り返った。

その男も教師なのだが、その中でも一際若い。長身、細面で理知的な眼差し、机に手をついて気取ったポーズをしていた。

「しかし、伊藤先生、この娘は盗人なのですぞ」

沼田に伊藤と呼ばれた男は、人差し指を立て異議を申し出た。

「結論を出すのはまだ早計かと。彼女が家から野菜を持ち込んだという証拠もないのと同様に、彼女が盗みを働いた決定的な証拠も今のところありません。聞いたところによると、彼女が転入したのは昨日のこと。畑荒らしは確か、先週からでしたね」

「あ、ああ・・・・・・、確かに」

薫子は一縷の望みを賭け、伊藤を見守った。

「ですが、疑わしいのもまた事実。どうでしょう? ここは彼女に猶予を与えては」

「ゆ、猶予とは?」

沼田を含め、教師一同は、伊藤の手品師のような口ぶりに魅せられているようだった。

「美堂さんは夕刻までに、真実を我々に告白すること」

教師たちはお互い顔を見合わせ、理解できずにいるようだった。

「では、彼女が盗みを働いていた場合、然るべき処置が取れるということだな」

沼田が言った。

「ええ、それなら仕方ありません。美堂さん、構いませんね?」

薫子は立ち上がり、伊藤に頭を下げた。

放課後までに何らかの結論が出なければ、強制的に停学処分。どうせ結論はここに来た時から決まっていたのだ、薫子は逡巡しなかった。

「先生って名探偵なんですね」

職員室の入り口までついてきた伊藤に、薫子が言った。皮肉だったが、伊藤は気分を害した様子は見せなかった。

「そんなつもりはありません。僕はただ、君を信用したいと思ったまでですよ。教師の勤めは生徒を信用することですからね」

伊藤は白い歯を見せ、笑顔を作った。

「伊藤先生の信用を裏切らない結果を出すことを、お約束します、それでは」

薫子は早口で言って、野菜を抱えて乱雑に歩きだした。その背ははちきれんばかりの怒りをたたえていた。

伊藤は薫子の姿が見えなくなるまで、そこに佇んでいた。彼もまた学校の臭いを感じていないのか泰然自若としている。

「美堂薫子か……、なかなか胆力のある女性だ。彼女なら、あるいはこの学校の秘密にたどり着けるかもしれませんね」




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