虚栄の市
瑕疵一つない白い壁と、天井で形作られた病室。朝日が窓から差し込んでいる。
ベッドで半身を起こす病人は、横顔だけを入り口に向けていた。
「おはよう、お母さん」
西野陽菜が花束を持って、入り口に佇んでいる。
病人は、首を曲げた姿勢のままで陽菜に顔を向けようとはしなかった。首の稜線に刻まれたしわが、わずかに痙攣する。
「私に娘はおりません」
陽菜は、作りものめいた笑みを浮かべた。
「お母さんの好きな百合だよ。私が育ててるんだ」
白百合の濃い匂いが部屋の調和を破るように香る。花瓶に生けて、窓際に置いた。
「百合は嫌いだって、言ってるでしょう! 何度言えばわかるの」
激した病人は、花瓶を床に叩きつけた。肩で息をしている。陽菜のことを忘れたように、また顔を真横に向けた。
「娘は・・・・・・、陽菜は死んだのよ。ああ、私が目を離さなかったら。ごめんなさい、あなた・・・・・・」
病人は顔を覆い、嗚咽を漏らす。
陽菜は、静かに花瓶の破片を拾う。指に切り傷をこさえた。
一度ついた傷は、ふさがることはない。新しい傷が増えるたび、新しい扉が開かれるのだろう。
渇かない傷は魔を放つ。いつまでも生々しく私は存在し続けるのだ。
(2~)
十二月二日
カヲリが高校の教室に着くと、ある人物の顔に目が吸い寄せられた。
寺田幸彦。彼は頬杖をついて窓の方に体を向けていたが、外を気にしているわけでもなさそうである。注意を払うべきものが、教室にないという寂寥とした印象をカヲリに与えた。
二人の視線は交わることはなかったが、昨日とは違う線の上を歩くことになると、二人は気づいていた。
「おはよう、寺田君」
カヲリが、はにかみながら挨拶をすると、幸彦は眠たそうに目を瞬かせた。
「あ、ああ・・・・・・、おはよう。ムシューダさん」
「昨日は色々ごめんね。母さんから聞いた」
カヲリは、落ち着きなく目を動かす。声も心持ち小さくなっている。誰かに聞かれたら困るという風に。
「いや、こっちこそ。雪乃からも話は聞いたよ。ご飯、ありがとう。お風呂も入れてくれようとしたんだって」
余計なお世話だったかもしれないが、雪乃との距離は確実に縮まった気がする。眠っている時に雪乃がベッドに入ってきたことを知っているのだ。
「雪乃ちゃんは、あの後」
「今朝早くに、送ってきた。もう心配いらないよ」
そっけなく言われ、カヲリは雪乃の消息を訊ねる機会を失った。幸彦はそれ以上詮索されたくないという風に、また窓辺に顔を向ける。雪乃のことだけでなく、もっと幸彦と話がしたかった。
カヲリは席についた。何気なく陽菜の姿を探す。
陽菜は、まだ登校していない。
ホームルームが粛粛と始まった。
陽菜の席だけが、空いている。カヲリは何となく不安になる。幸彦は窓を向いたままだ。
一限目の数学が始まってすぐのことである。ドアがけたたましい音と共に開けられた。陽菜が教室の前方のドアから堂々と入ってきたのだ。
彼女は教室中の注目を浴びても、毛ほども動じることがないようだった。耳に大きなヘッドフォン、首に大きめのマフラー、大きめのピンクのカーディガン、短めのスカート。口元がわずかに動いている。ガムを噛んでいるのだ。
「西野、遅刻か」
教師が立ちはだかっても、陽菜は黙って下を向いたまま自分の席に向かう。
「何とか言ったらどうだ。遅刻の言い訳もなしか」
「うっせーんだよ、ハゲ」
後ろの席にいるカヲリの耳にも、陽菜の暴言は聞き取れた。教室に緊張が走る。
「ぷっ・・・・・・」
相伴するような笑い方をしたのは、幸彦だった。陽菜もそれに気づいたのか、細い指先を幸彦に振っていた。
カヲリは、たまらず目を背けた。
「は、早く、席に着きなさい! もう授業は始まっているんだ」
何となく哀れを誘い、教室は失笑にあふれた。カヲリだけが笑えなかった。
授業中にもかかわらず、陽菜はヘッドフォンをしたままファッション誌を広げて、貪るように読みふけっている。
生徒はおろか、教師も見て見ぬふりをしていた。
カヲリは居心地の悪さを感じ、授業に集中できなかった。
授業が終わると、陽菜は数人の女子と大きな声で騒いでいた。それからまもなく取り巻きを連れて、教室を出ていった。
「西野さんって、いつもああなの?」
カヲリが訊ねると、幸彦はつまらなそうに頷く。愛想がなくて、いかにも事務的だ。
「でも、寺田君ってすごいね」
「何が?」
「西野さんがして欲しいことわかっているみたい。以心伝心っていうか」
「やめてくれよ」
幸彦は突き放すように言った。
「西野のことなんて何もわからないよ。ただおもしろいから笑った。それだけさ」
カヲリは幸彦と勝手に距離が縮まったと考えていたが、勘違いだった。幸彦はカヲリに倦んでいる。
話しかける気力を失い、カヲリは体をまっすぐに向ける。とてもじゃないが、これ以上幸彦と仲良くやっていける自信がない。近くて遠い隣人として付き合っていく他ないのかもしれない。
これまで通り。
(3~)
「それでさー、何て言ったと思う?」
「えーわかんないー」
「だよねー」
陽菜と取り巻きたちは、廊下の真ん中を横に広がって歩いていた。まるで大名行列のように、自分たち以外の全てを見下し、睥睨するかのような行進である。
「陽菜もそう思うでしょ?」
真ん中を歩く陽菜は小首を傾げ、頬を膨らませる。それだけで、周りの人間はおもしろいように慌てふためくのだ。
取り巻きたちは皆一様に、陽菜のご機嫌とりに必死だ。陽菜が機嫌を損ねると、とばっちりを受けるのは、周りの人間つまり自分たちだ。最大の関心はいかにして陽菜に、心地よい学校生活を送ってもらうかにかかっている。
この小さな暴君は、それだけの威儀と魔性を兼ね備えているのだった。
彼らの進行方向から、足首まで隠れる長いスカートを履いた麗人が真っ直ぐ歩いてきた。
来栖未来。彼女と陽菜は目と鼻の先で同時に立ち止まった。両者臆することなく、相手の目を捉える。
「おーおー、今日も人気者だね。陽菜ちゃんは」
未来は長身を曲げ、なれなれしく陽菜の頭を叩いた。
「ちょっと何ですかぁ? 邪魔なんすけど」
それに神経質に反応したのは、取り巻きの一人だった。陽菜は今朝から、かなり虫の居所が悪い。先輩が相手でも何をしでかすかわからない。未来には悪いと思ったが、悪者をかって出たのである。
「邪魔なのは、おめーだろ」
陽菜はへらへら笑いながら、未来に難癖をつけた取り巻きに蹴りを入れた。それから上目遣いで、未来にすり寄る。
「ごめんね、未来ちゃん。許してニャン」
未来は、身をよじって避けようとする。
「うわっ! 声色急に変えんな、気色わる」
「やーだ。だって慌てる未来ちゃん、可愛いんだもん。もっとしちゃお」
陽菜は、未来にハグをして離れない。二人の関係性は傍から見てもよくわからなかった。
かつては横暴な陽菜を更正させようと、骨折ったこともある未来だったが、とらえどころのない彼女についには振り回される形になっている。
未来は、わき腹を押さえてうずくまる娘を悲しげに見下ろす。
「ダチは大事にしろよ。何かあったらどうすんだ」
「私、友達は大事にしてるよ。・・・・・・オモチャは大事にしないけど」
最後は未来にだけ聞こえるように付け加え、大名行列を再開した。蹴られた娘はわき腹を押さえ何とかついていく。
「来栖先輩って、後輩になめられても全然怒らないよね」
騒ぎが収まると、未来の耳にそんな声が聞こえた。
「さすが我が校の仏様。なんまいだぶー」
少し離れたところで手を合わせる人々に、未来はあきれて物が言えない。
未来は、この学校で仏様と呼ばれている。誰も彼女の怒る姿を目撃したことがないためだ。
だが、怒りを全く感じないわけではない。むしろ感情の起伏は激しく、不平も人並みに持っている。陽菜のように他人に辛辣に当たれない分、うちにため込みやすい傾向にある。普段、スポーツで発散させているので問題ないが、もし許容を越えた怒りを覚えたら・・・・・・
「どうなっちまうんだろうな」
未来は頭をかいて、のんびり歩きだした。
それは未来自身も知らない。無意識に考えないようにしていたが、遠からぬ将来それは起こりうるのだろう。
(4~)
カヲリは一人で昼食を取った。
昨日誘ってくれた娘たちは、会話はおろか目も合わせてくれなかった。
むしろ清々する。
幸彦は一人で教室を出ていった。カヲリが知る限り、彼と陽菜は今日、会話をしていない。昼食時も別行動だ。
カヲリは、二段重ねの弁当を広げると、静かに食事を始めた。
母に作ってもらったお弁当には、ぎっしり白米が詰め込まれている。
昨夜、母が幸彦たちに話したようにカヲリは空腹に耐えられない。わき目もふらずに箸を運ぶ。
「わー、おいしそー」
陽菜がカヲリの席の脇に立ち、感嘆の声を上げた。
予期せぬ出来事に、カヲリはむせてしまった。
「あっ、大丈夫? 慌てすぎ」
陽菜に背をさすってもらい、ようやく落ち着いた。
「もう平気だから・・・・・・、ありがとう」
「うん。どういたしまして♪」
気味の悪いほど気さくに陽菜が話すので、カヲリは自然と身構えた。幸彦も側にいないし、何かされても誰の助けも期待できない。
「私のこと疑ってる? こわーいかお。余計ブスになっちゃうよ。ふふ・・・・・・」
恐いのは陽菜の方だ。カヲリは今すぐ席を立ちたかったが、ここで逃げ出したら今度こそ居場所がなくなってしまう気がした。
「ねえ、西野さん何か用事? 悪いけどお昼食べてる途中だから・・・・・・」
「ムシューダってさ、幸彦君のこと好きでしょ?」
カヲリは箸を落とした。顔を上げられなかった。陽菜の声は高くて、よく通る。付近の人間に確実に聞かれてしまった。
「ねーえ、聞いてんの? 答えなくちゃダメなんだよ。はい、大きな声で、さん、はい♪」
どうして自分がこんな辱めを受けなくてはならないのか。陽菜に何かしたのだろうか。顔を背けて隠れようとしても、陽菜は見逃してくれそうにない。しつこく肩を揺さぶってくる。
カヲリは唇を固く結び、一言も漏らすまいとしていた。言葉に出してしまえば、何もかも嘘になってしまう。この感情は誰にも話さないで今は大事にしておきたい。
「ムシューダが私のこと無視するの。超ウザ。一生机にかじりついてなよ」
カヲリをいたぶるのに飽きると、陽菜はそそくさとその場を離れた。彼女の行動に大した意味などないのかもしれない。だがカヲリはひとかたならず心を揺さぶられた。
お昼休み終わり間際に幸彦が教室に戻ってくると、カヲリは座って前を向いていた。
「・・・・・・、どうかした?」
カヲリが瞬きしないのを、不審に思った幸彦が訊ねた。
「別に、どうしもしないよ。変な寺田君」
「そう、ならいいけど」
カヲリは平然としているので、幸彦も深く考えようとしない。
陽菜が自分の席に座り、声を立てて笑っていた。クラスメートの男子がおもしろいことを言ったらしい。常に輪の中心で輝くことを宿命づけられた彼女に、幸彦は一抹の同情を覚える。
陽菜は空虚な栄光に気づいていながら、笑っている。自分と他人を。陽菜を裸の王様だと内心で侮蔑している周りと自分自身を含めた世界を笑っているのだ。
「いいなあ・・・・・・」
カヲリが夢見るような顔つきで、陽菜を眺めていた。空っぽの彼女には、裸の王様ですら魅力的に映るのであった。
(5~)
「ねー、どうすんの?」
「うーん・・・・・・」
放課後の女子トイレの鏡の前に、二人の女子がいる。
一人は大きい黒縁眼鏡に髪型はツインテール。もう一人は気むずかしい顔でワンレングスの髪に櫛を通していた。
「先方はぁ、陽菜ちゃんが来ると思ってるんでしょ?」
間延びしたしゃべり方をしながら、ツインテールが鏡をのぞき込む。唇にリップを塗り、放課後の顔を作っていく。
「つい、ね。海老で鯛を釣っちゃったっていうか」
「陽菜ちゃんは、海老ですか! せめてフォアグラくらいにしとけばいいのに」
「あんた、それ陸の生き物混じってるし。それを言うならキャビアだろ」
突っ込まれたツインテールは、口をだらしなく開けたまま考えていたが、あまり考えることが得意でないので、口をついて出たのは違う話題だった。
「海のものでも、陸のものでもどっちでもいいじゃん! 陽菜ちゃんにばれたらどうするっていう話ですよ。絶対、半殺しにされるよ。ウチまだ死ぬのやだにょ・・・・・・」
「大げさだよ。たまには甘い汁吸わせてもらわないとさ、割に合わないって。あんな馬鹿娘の相手なんて」
憎々しげに言って、わき腹を押さえる彼女は廊下で陽菜に蹴られた娘である。二人は陽菜の取り巻きたちだ。
そんな舞台裏になっているとは露知らず、カヲリがトイレに入ってきた。カヲリは二人に気づかず個室に入った。
「あれ、半殺しって、殺しちゃうの? 半分だから、半・・・・・・」
「そんなのどうでもいいから。あんたも準備しな、マイ。もう行くっきゃないって。出たとこ勝負」
「はい、はーい。アイコちゃんは前向きですな」
アイコは、学校で禁止されている化粧を営々と行う。眼鏡のマイは、普段通りのほほんとして髪を揺らしていた。
「あっ!」
マイが何か閃いたように、大きな声を出した。
「何? 尿漏れ?」
「ちげーし。アイコちゃん、ウチ良いこと思いついたにょ。耳貸して」
小声で何か言葉を交わす二人。
カヲリは何も知らずに、個室を出た。
「ハロー、トルコ人!」
素っ頓狂な明るい声で、カヲリの目の前に現れたのはマイであった。
愛想笑いを浮かべ、カヲリは通り過ぎようとしたのだが、マイが狭い道に立ちふさがっている。場の空気を無視して、まくし立ててくる。
「ねー、ねー、トルコってどんなとこ? トルコから来たんでしょ?」
「私、トルコ行ったことないから・・・・・・」
「待って待って! 話聞いてにょ。お願いあるんだ。楽しいお話だから」
マイの背後には、アイコが腕を組んで立っている。カヲリは普段のならいで勢いに飲まれ、頷いてしまった。
「あのね、あのね。今日これからウチら、合コンするんだけどね、相手は、MARCHでね、あれで、それで」
マイの話は、全く要領を得ない。カヲリは不審そうに目を細めた。
「ごめんね、この娘ちょっと馬鹿だから。簡単に言うと、今日行く予定だった娘が都合悪くなったから、代役募集ってこと。どう? ムシューダさん」
見かねたアイコが補足してくれた。まだこちらの方が話が通じそうである。
「どうして私にそんな話を?」
「陽菜にいじられて、落ち込んでたでしょ。景気づけにどうかなーって。マイが言った通りそこそこ名のある大学の学生相手だから、身元は心配ないよ。無理強いはしないけどね」
MARCHというのは、関東にある五つの私立大学の頭文字をとったものだ。偏差値六十代。カヲリも奨学金をもらい、その当たりに落ち着きたいと思っている。異性との交流は脇に置いて、先輩に話を聞くのは悪い話ではないだろう。
カヲリが迷っていると、アイコが寂しげに笑った。
「陽菜ってさ、ひどいよね。あたし今日蹴られた。笑いながら」
「友達なのに?」
「ううん、いつも一緒にいるけど友達じゃない。恐いから一緒にいるだけ。ムシューダさんもあたしたちと同じだと思ったんだ。ねえ、あたしたち友達になれるよね?」
カヲリは即答できなかった。昨日も手ひどく裏切られる経験をしているのだ。
アイコは心持ち肩を落とす。
「わかって・・・・・・、くれないよね。そうだよね、行こう、マイ」
「えー、カオリン合コン来てくんないの? 絶対楽しいよ。行こうよぉ」
マイは、カヲリに腕をうっとおしく絡ませる。
「やめなよ、マイ。ムシューダさんには気になる人がいるみたいだし」
カヲリの脳裏に一瞬だけ、ある少年の顔が水泡の如く浮かんで消えた。一方的に冷たくあしらわれ、傷を負わされたような感覚があった。これは恋なんかではない。ただ恨めしくはあった。
「行きます」
カヲリの口は気持ちとは、裏腹な動きをしていた。合コンに興味はなかった。無意味な意趣返しを企図したものだ。自棄と言ってもよかった。
そんな複雑な胸の内に無頓着なアイコとマイは、喜色満面にカヲリの手を取った。
「えっ、マジ? カヲリン、やさしいね。サンキュ」
「ありがとう、ムシューダさん。あたしたち外で待ってるから準備して来てね」
アイコとマイは、笑いを堪えるのに必死であった。トイレを出てからすぐに声上げて笑いだした。
「アイコちゃん、演技うますぎ。途中まで無理かと思っちった」
「人聞き悪い事言うな。先に言いだしたのは、マイだろ。ムシューダが引き立て役に丁度いいってさ」
マイは、お腹を抱えて笑い転げる。
「だってだって、ウチら陽菜ちゃんみたく可愛くないじゃん。カオリンにはぁ、踏み台になってもらいまーす」