prisoner of love
男は緑、女はえんじ色だ。
カヲリの眼前には、絢爛の花が咲き誇るような世界が広がっていた。
初めは、煙がたなびくような頼りない印象しかなかった。それが今や花火か祭りのように、めまぐるしく世界の色が転変している。
カヲリは、きつく目を閉じた。見続ければ、頭が壊れると思ったのだ。
何故そんな不可解な視野が広がったのか、彼女は理解していない。
意識を取り戻してすぐ、ジェルで固まった足が地面から抜けるのを発見したカオリは、自身の無事を確かめ、ほっと息をついた。首筋に血は残っていたもの、傷は既に塞がっていた。
帽子の少女が再起不能になっているのを確認し、カヲリは急ぎ足でその場を立ち去る。
帽子の少女は重傷だったが、命に別状はないと判断した。匂いがそう気づかせた。彼女がカオリを襲った動機や、何故倒れているのか探ろうとは思えない。
ただ本能のまま走り出した。不思議と体の重みは感じない。足はマシュマロのような地面を蹴り上げ、重力の縛りを回避しようとする。
気づけば、カヲリは宙を浮いている。自分で違和に気づいて、バランスを崩し、五メートルの高さにある居酒屋の看板に鼻から激突した。
体をひねって、危うげなく四つ足で着地する。まるで猫のような身軽さ。
「わ、私、何で走ってるんだろう。何か忘れているような・・・・・・」
カヲリは四つ足で駆けていることに、疑問を持たなくなっていた。
誰の目も触れない路地に滑り込む。夜目がきき、明かりがなくとも、障害物にぶつからない。
そうだ。思い出した。自分は雪乃を探していたのだ。せめて今夜の所在だけでも知りたい。
カヲリは、建物の壁を垂直に駆け上がり、月下に身を洗う。
お腹が、すんすんと鳴る。雪乃に夕飯を食べさせたが、自分はまだ済ませていない。あともう少しくらい持つだろう。
雑居ビルの屋上で鼻をひくつかせ、耳を澄ませる。
雪乃の色を思い出せ。
目を見開くと、地上から狼煙があがるように、色とりどりの香りが現れる。鼻を向け、集中する。
「見つけた」
カヲリはビルから跳躍し、常夜の海に忽然と消えた。
(2~)
カヲリが立ち去ってから間もなく、倒れていたハクアが、肘をついて起きあがった。
額から血を流し、目の焦点が怪しかったものの、気分は悪くないらしい。その証拠に口の端が少し上がっている。
「はあ・・・・・・、らしくねえことしちまったです」
眼鏡を外し、ハンカチで血を拭う。彼女はチョッキ型の防護服をブラウスの下に着ていた。かつての経験を生かしたものだったが、予想外の状況で役立ってくれた。
「虎の尾踏んじまいましたが、これであの女も気を引き締めるでしょう」
ハクアには、カヲリを殺す意志はなかった。今はまだその時ではない。彼女は時節を弁えないほど短絡な性格ではないと、自分で思っている。
時が満ちるのを待つと、螺々と話合って決めたのだ。
とはいえ、目的を達するために遠回りするのは、もどかしい。今すぐにでも、あの人の懐に飛び込みたいのに。
服の汚れをはたいてから、伸びをする。腰に激痛。たまらずよろけた。
「さて、吾輩の任務もひとまず終了ですぅ。奴らに感づかれる前に身を潜めるとしますかね」
月が雲間に隠れ、一層闇が濃くなった。地から白い靄が沸き、気温がぐっと下がる。
「もう帰っちゃうの? 私たちと遊ぼうよ」
カランコロンという下駄の音と共に路地から現れたのは、白い振り袖の少女だ。白粉をはたいたような不自然なほど白い肌に、マッシュルームボブの青い髪、頭に白百合の花をさしている。
「また鬼ごっこでもする? 今度はあんたが鬼になってもいいよ? あたしたちは捕まらないけどね」
逆の路地から出てきたのは、赤い髪をポニーテールにしたすらりとした長身の少女だ。スタジャンにジーンズ、スニーカーを履いている。
二人は交差点まで出てくると、並んで両手を広げた。
「じゃじゃじゃーん!」
信号機が、狂ったように赤と青を交互に点滅し続ける。交通量がなくなり、夜の街は死んだように沈黙した。
ハクアは、この二人を前にして足を強く踏ん張っていた。そうでもしないと尻尾を巻いて逃げ出しそうだった。
「お返事ないよ。ニーナ」
振り袖の方が、こしょこしょと片割れに耳打ちした。
「ホントだ、何とか言えよ。えー・・・・・・、何だっけ。こいつの名前」
「ハクアじゃなかったっけ」
「ああそうだ。よく覚えてるな、ナノかしこい」
二人は快活にハイタッチし、ハクアのことなど忘れたように盛り上がっていた。
振り袖の方がナノ、カジュアルな服装をしているのがニーナという。顔だちはうり二つで、まるで双子のように見える。二人はいつも行動を共にしている。
ハクアは、この二人と面識がある。あまり愉快な間柄ではなかったが。
「やっと、会えたです・・・・・・」
頬を紅潮させ、ハクアがつぶやいた。
「そうは思えないけどなあ。あたしたちから逃げ回ってたくせに」
ニーナに見下されても、ハクアはめげずに胸を張る。
「逃げる? 人聞きの悪いこと言うなです。今はハーフタイムですよ。お前らを抹殺するための準備に忙しいのです」
ぽかんと、二人は唇を開けてハクアを見つめた。
「おもしろいこと言うね。でもやーだ、戦ってあげないもん」
くすくす笑いながら、じゃれ合う二人にハクアは焦りを感じ始めた。
「意外ですね。もしかして吾輩の能力が恐いのですか?」
ハクアは、先ほどまで持っていなかった分厚い辞典を見せびらかした。表紙には、楔型文字が金字で彫られている。
ナノが余裕めいた態度で、首を振る。
「そういうことじゃないよ。今回は支配者がそう望んでいないから。私とニーナは審判に徹しろって」
「あたしたちに感謝しなよ。”二重契約”のことも支配者に黙っててあげてるんだからさ」
ハクアは、以前螺々が言っていたことを朧気に理解した。時を待てというのは、いつでもこの二人と戦えるわけではないということらしい。それに情報も漏れている。慎重に動いていたが、作戦を練り直した方がよさそうだ。
「ちっ、遊びがいのねえ奴らですぅ。そういうことなら今夜は退散させてもらうですよ」
ハクアは未練なさそうに、きびすを返す。本音では今すぐにでも戦いたい。勝算はある。
だが一度無惨な敗北を喫したがゆえに、慎重にならざるをない。あの二人の背後には、支配者という本命も控えているのだ。
ニーナが背後で叫ぶ。
「待ちなよ。あんた、カヲリ=ムシューダにちょっかいかけてるみたいだけど、やめた方がいいぜ」
ハクアは振り返ることなく、手だけ振った。
「あいつは単なる抜け殻だよ。ゲストでもなんでもない。”美堂薫子”はもう死んだんだ」
ハクアは、ぴたっと足を止めた。
同時に吹いた風が、靄を一掃する。ニーナたちがほんの少し前までいた交差点は、信号が青に切り替わり、車が入れ違いに通過していた。世界は息を吹き返した。
ハクアは、いたいけな拳を握りしめた。自身の底から沸き起こる押さえがたい感情を、理解しないまま口走る。
「あいつは、そんな簡単にくたばるタマじゃねえです。それは吾輩がよく知ってるですよ」
(3~)
雪乃の匂いは、駅近くの交番から放たれている。
カヲリは、三百メートルほど離れた場所からそれを感知した。
四肢をフルに使い、地を駆ける。
だが、暗いところばかりを進むわけにはいかず、耳目の集まるのは避けられないと判断した。
二足歩行してはどうか。人間としての機能を忘れかけるほど、カヲリは獣の本能に支配されつつあった。
試みに、建物の壁に手をつき、立ち上がってみる。足が意図せず震え、姿勢を保っていられない。
「だ、だめ、立ってられない・・・・・・」
すぐに地面に両手をついてしまった。
ようやく考える余裕ができて、自分が奇想天外な存在に成り代わっていることに疑問を持つに至る。
「ゆ、夢の中じゃないかしら。だって私、運動音痴だし、こんな身軽に動けるわけないわ」
じっと、手を見る。幸い、人間の五指がそこにはある。気が狂ってしまったわけではないらしい。
だとしたら尚更、奇妙だ。自分は一体どうしてしまったのだろう。
いつまでもそうしているわけにはいかず、壁を伝うように歩きだした。
何度も躓きそうになり、地面を這う誘惑に負けそうになる。通常の何倍もの時間をかけ、交番の手前までたどり着いた。
雪乃に会って何を話そう。かける言葉は見つからない。ただ、会いたい。
交番から人が出てきた。
カヲリの視野は、先ほどまでとは打って変わって、金属がこすられるような雑音に苛まれ、墨汁を溶かしたような曖昧もことした世界になっていた。交番の光が遠い。
両足の筋は体重を支えきれなくなり、前のめりに倒れそうになった。
倒れる寸前、誰かに抱きとめられる。カヲリは意識を失った。
「大丈夫ですか? あれ・・・・・・、」
カヲリを支えたのは、交番から出てきた少年である。そのすぐ後ろから目を真っ赤にし、ぐずついている雪乃がやってきた。
「にいちゃん。何しとるん? あっ、そいつは!」
雪乃はカヲリを指さし、叫んだ。
「雪乃、人を指ささない」
「あっ、ごめん」
雪乃は、素早く手を後ろに回した。少年はカヲリの顔をのぞき込み、驚いたような声をあげる。
「ムシューダさん? ねえ、どうしたの? 大丈夫・・・・・・、じゃないよな。これ」
雪乃と一緒に交番を出てきたのは、カヲリのクラスメート、寺田幸彦であった。セーターとジーンズを着た彼は、妹の雪乃が警察に保護されていると聞き、先ほど吹っ飛んできたのだ。
一人でふらついていたという雪乃を叱ってから、交番を出てカヲリと邂逅した。
制服姿のカヲリは、右足の靴を履いていなかったし、靴下はボロボロである。首に乾いた血がこびりつき、呼吸が弱くなっている。
「兄ちゃん、そいつどうすんじゃ」
「うん・・・・・・、そうだね」
背後には交番があるし、ひとまずそこに連れて行こうと幸彦はカヲリを背負おうとする。
「ん・・・・・・」
カヲリは薄く目を開けた。意識はおぼろであったものの、幸彦と雪乃の会話をわずかに耳にしている。
「大丈夫・・・・・・、歩けるわ」
カヲリは一度幸彦から体を離すが、立っていることすらできない。紫色の唇で、ごめんとつぶやく。
「私、こいつんち知ってる」
「え? 本当?」
雪乃は、鼻をぐずぐずやりながらカヲリの血のついた襟を触っていた。
「さっきそこで、ご飯食べたんじゃ。この近く」
幸彦は、カヲリに意向を訊ねる。彼女は弱々しく頷いた。
カヲリを背負った幸彦と、雪乃はそこからアパートへと向かった。
カヲリの母は、アパートに帰宅していた。彼女は二メートル近い巨体で、圧迫感がある。 幸彦は扉を開けた当初、うまく口が利けなかった。雪乃は萎縮して、幸彦の背後に隠れっぱなしだった。
恰幅のいい母は、カヲリを猫のように片手で抱え、ベッドに横たえた。
「ちょっと、この子を見てておくれ」
と、言って台所で何か作り始めた。
カヲリを毛嫌いしていた雪乃もさすがに心配になってきて、狼狽える。
「大丈夫じゃろうか。こいつ」
雪乃は、カヲリの手を握ってあげていた。幸彦は、その献身の姿に驚き目を見張る。
しばらくして、カヲリの母が小さな鍋を持って部屋に現れた。鍋からは、湯気と共に、胃を鷲掴みにする匂いが漂っている。
雪乃は背伸びをして、鍋に鼻を近づけた。鍋の中には、牛肉の塊と野菜の煮込み料理、ポトフが入っている。
「ほら、起きな! カヲリ」
銅鑼のような威勢のいいかけ声に、幸彦と雪乃はのけぞる。
眠っていたカヲリは突如目を開け、鍋に顔を突っ込まんばかりの勢いで起き上がる。
「これ、焦るんじゃないよ。お前、お腹空いたんだろう? 小学生の時も、あたしが作った料理だけじゃ足りなくて、冷蔵庫の中のもん食い散らかして・・・・・・」
「は、は、やく、ごはん」
カヲリは亡者のような異様な執着心で、鍋に手を伸ばしていた。口からは、ダムが決壊したように涎が出ていた。
「スプーンがあるから、ちゃんと人間らしく食べるんだよ。わかったね?」
「うん、うん」
噛んで含めるように言ってからカヲリの母は、幸彦たちに部屋を出ていって欲しいと頼んだ。素直に二人は部屋を出た。
十分もしないうちに空の鍋を持って、母が出てきた。エプロンはポトフのスープで汚れていた。巨大な山のようだった彼女は心なしかすり減り、少し小さく見える。
「みっともないとこ見せたね」
「いえ・・・・・・、カヲリさんは大丈夫なんですか?」
母は鍋を台所にどんと、置いた。
雪乃は、彼女の手に小さくない傷がいくつもあるのを見つける。
「腹がへるとね、駄目なんだよ。あの子は」
鍋を力を込めて洗う。しつこい汚れがこびりついているというように。
「過食っていうのかねえ。並大抵の量じゃ満足しない。それなのに全然太らないのが、不思議だよね」
その原因は、カヲリが小学校一年生の時に遡るという。
動物好きのカヲリは、学校で生き物係をしていた。ウサギを可愛がり、甲斐甲斐しく世話を焼いていたのだが、ある日、一羽のウサギが小屋から逃げ出した。
「次の日もまた一羽、そのうちどんどんウサギは消えていったんだよ」
幸彦は固唾を飲んだ。雪乃は頭を抱え、部屋の隅で縮こまっている。普段強がっていても怪談の類に弱い娘なのだ。
「結局、ウサギはみんないなくなっちまってね。一羽も見つからなかったそうだよ」
食べたんだ。雪乃は声に出さずに口を動かす。
「当然、カヲリの責任問題になってね。泣きながら家に帰ってきたのを覚えてるよ。事情を聞いてもなかなか話してくれなくて困っちまったねえ」
思い出話のように気軽な口調だったが、まだ問題は現在に繋がっているのだ。
「ウサギはどうなったと思う? お嬢ちゃん」
意見を求められた雪乃は涙目で、幸彦に助けを求める。幸彦は励ますように力強く頷くことしかできない。
雪乃の頭は、悲観的な想像で一杯だった。暗い小屋の中で、猛獣のようなカヲリがウサギを貪る様が目に浮かぶ。
だが、母は雪乃の暗黒童話を吹き飛ばすように呵々大笑する。
「ウサギはね、カヲリが逃がしていたんだよ」
幸彦と雪乃は、そろって目が点になる。
「ウサギは自分の意志で、ここに来たわけじゃないから可哀想だって、近くの山に放してたんだ。子供は時にとんでもないことをしでかすもんだけど、あたしゃ度肝を抜かれたね」
カヲリはよかれと思ってやったかもしれないが、ウサギは飼育されていたものだ。野に放たれて、無事に生きられる可能性は低い。
カヲリは、さらに間違いを犯している。ウサギの意志を尊重すると言いながら、より厳しい環境に送り込んでいる。幼いエゴが、牙をむいたのだ。
「それが学校でばれちまった。カヲリは皆から、よってたかって責められた。やったことは間違いだったけど、あの子はあの子なりに、苦しんでウサギを逃がしたと思うんだけどね」
でも周りは、そんな思慮に至らない。猛烈な排除が始まった。
「その頃からさ。あの子が、過食し始めたのは。食うもんがないとね、食えないものまで食おうとしちまう。口に入るならプラスチックや、紙なんかもお構いなしさ。何度病院のお世話になったことか」
母は、まだ鍋を洗っている。とっくに汚れは落ちているだろうにそのことを忘れたように、しつこくたわしでこすり続けている。
「最近はまだましになったけどね。一食でもぬくと危ないね、ホント。あんたたちが拾ってくれて助かった。そういえば、名前を聞いてなかったね」
「寺田幸彦といいます。カヲリさんとはクラスメートで。こっちは、雪乃。妹です」
「そうかい、聞いての通り一筋縄じゃいかない娘だけど、仲良くしてやっておくれ」
母は、深く頭を下げた。
雪乃は涙をふいて、母の巨木のような足に手を触れた。
「あいつ、腹ぺこだったの私のせいかもしんない。自分で食べないで、私にご飯作ってくれたんじゃ」
「そうだったのかい。教えてくれてありがとうね」
野球のグローブのような分厚い手のひらが、雪乃の頭に載せられる。雪乃は、こわごわ頭を差し出していた。
「謝るのは、こちらです。雪乃がカヲリさんにご迷惑をおかけしていたみたいで。本当すみません」
「こんなに可愛いお客さんなら、いつでも歓迎さ。カオリも一人で寂しかったんだろう。もう謝らないでおくれ」
雪乃は、カヲリの部屋の襖をそっと開いて中に入った。電気は消えており、物形は判別できない。
手探りでベッドまで行こうとして、何かに躓く。
「いてっ! うう・・・・・・、ん? この感触は」
運良くというべきか、雪乃カヲリのいるベッドに倒れ込んだ。カヲリとおぼしき体温と感触を間近に感じる。荒い息づかいが耳もとで鳴っている。
雪乃は、当てずっぽうでカヲリの体をまさぐった。
「んっ・・・・・・」
カヲリが、か弱い呻き声を上げる。雪乃は構うことなく、肉体の稜線をなぞる。
「だめ・・・・・・、寺田君、こんなのよくないよ」
雪乃は手を止める。カヲリが無念そうな吐息をもらす。
「え? やめるの? そう・・・・・・、だよね。私なんか」
カヲリは目覚めているのだろうか。雪乃は太股を軽くつねってみた。
「ひうっ!? い、痛いよ。どうしたの? 痛いのは、ちょっと苦手かな。したいのなら別にいいけど・・・・・・」
媚びるような調子が、雪乃の勘に触る。一泡吹かせてやろう。
「そこっ!? いきなり指入れちゃ駄目だから。駄目じゃないけど、駄目だからっ・・・・・・」
雪乃もカヲリも、ふうふう言っていた。
カヲリの体が何度も仰け反り、ベッドがきしむ。その時、電気のスイッチが突然入った。
明るみになったベッドの上で、痴態が繰り広げられていた。
大きく足を広げたカヲリの上に、雪乃がのしかかっている。雪乃は、幹にしがみつく蝉のように微動だにしていなかった。
「雪乃、何してるんだ」
幸彦が厳しい声で詰問する。
がばっと雪乃が顔を上げた。興奮して大声を出す。
「兄ちゃん! こいつすげーおっぱいしてるぞ。見るか?」
幸彦は脱力したようによろける。
「どうしてそう人に迷惑かけることばっかりするんだ」
雪乃は、カヲリにまだしがみついている。そしてぽつりと漏らす。
「だって、温かいんやもん」
カヲリは赤い顔をして眠っている。口はだらしなく開いて舌が出ていた。雪乃が聞いたのは、寝言であったのだろう。
カヲリを起こさないように、雪乃をひきはがすのにだいぶ時間を要した。
「もう遅いし、泊まっていってもいいんだよ」
カヲリの母は気を遣ってくれたのだが、そこまで甘えるわけにはいかないと断り、幸彦たちは辞去した。
二人きりになるとすぐに、雪乃は幼児ように甘えてくる。
「にーちゃん、だっこ」
アパートを出ると十時を過ぎていて、雪乃は普段床についている時間らしい。あくびばかりしている。
「雪乃、今日は家に泊まるだろ?」
「うーん」
抱き上げた雪乃の体は痩せ細っている。二人が会ったのは先月の初め頃だ。その時も同じ服を着ていた。
「母さん、帰ってこないのか」
「・・・・・・」
雪乃と暮らす母は、頻繁に家を空けているらしい。何日も帰ってこないこともある。その間、雪乃は一人で生活している。母は仕事だと言っているらしいが、何をしているのか雪乃も知らない。父は養育費を払っているはずだが、雪乃は食うものも困って、時折幸彦を訪ねてくる。
「なあ、やっぱり父さんに相談しよう。このままじゃよくないよ」
「それは、せんといて兄ちゃん」
雪乃は、静かに目を上げた。
「母ちゃん、かわいそうな人なんじゃ。私がおらんと、洗濯もせんし、料理もせん。一緒にいてやらんとあかんのじゃ」
雪乃は、母のことを絶対に悪く言わない。例え、一週間無一文で放置されても、虫の居所が悪くて殴られてもだ。
「やっぱり私、帰るわ。母ちゃん帰っとたら、心配するもん」
「いいじゃないか、今夜くらい。明日になったら僕が送ってやるよ」
雪乃がからからと笑う。
「兄ちゃん、本当は寂しいんじゃろ。しゃーないのぅ。今夜は一緒に寝てやるわ」
「そうだね。そうしてくれると嬉しいよ」
幸彦は、雪乃の小さな体を抱く力を強める。
こんなに側にいるのに何もできない。雪乃は以前より衰弱している。今日も幸彦に助けを求めて来たに違いない。
小さな家の中の小さな家族。一度、壊れてしまえばもう修繕は不可能に近い。
雪乃は、まだ家が再生すると思っている。思いこもうとしている。
ウサギはウサギ小屋から逃げられない。
幸彦はそれに気づきながら、どうすることもできなかった。