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せっちん!  作者: 濱野乱
空蝉編
17/97

最後のシ者

駅を通過する電車には、人生が詰め込まれている。

ホームにいるカヲリの目には、ことさら眩しいものに映った。何せ、眼前に迫る不審な人物に、予期せぬ後退を迫られていたのだ。

竹の棒を握りカヲリを引き留めた子供は、ただならぬ殺気を漂わせている。

助けを求めようにも、橙色の明かりに照らされた地下鉄ホームには、カヲリたちの他に誰もいない。万事休すだ。

「……、か?」

子供のひび割れた唇から、声が発せられた。身の危険に心を奪われていたカヲリは、それに気づけなかった。

子供は、真っ赤になった手の平を差し出してきた。

とっさにカヲリは、足下に転がっていた空き缶を拾い、子供に持たせた。子供は、とことことゴミ箱に向かい、缶をシュートした。

そして、再び戻ってきた子供は手を差し出す。カヲリはその手を握った。温かい。少し乾燥していたが、普通の子供の手だ。

「おい、なにしとるんじゃ」

ぶっきらぼうに言って、子供はカヲリの手をはたく。

「なあ、金もっとらんか?」 

子供はうろうろカヲリの周りを回り、スカートのポケットに手を入れてきた。

「ちょっ……、やめて!」

その時、子供が顔を上げた。頬はこけていたものの、利発そうな小学生くらいの女の子である。

「ちょっとでいいんじゃ。どっかで財布落としてしまっての。切符も財布の中じゃ。兄ちゃんに会いに行く途中なんじゃが」

女の子は、兄に会いたくてたまらないのだろう。そわそわと線路を見つめている。

カヲリは自分の鞄に手を入れた。

「いいよ。いくら?」

カヲリが素直に応じると、女の子は眉をひそめた。

「何で信じるんじゃ? 私が嘘をついているとは思わんのか?」

「嘘つきは、そんなこと聞かないでしょ。もう暗くなるから、早く行ってお兄さんを安心させてあげなよ」

小銭を渡そうとすると、女の子は歯をむき出しにして、凶暴な顔つきになった。そしてカヲリの手をはたいた。小銭が大きな音を立て、ホームに散る。

「何てことするの! 困ってるから助けてあげようと」

「うるせー!」

女の子は腹の底から叫びを上げ、竹の棒をカヲリに突きつける。

「お前みたいな、善人面する奴が一番むかつくんじゃ。もう頼まん」

理不尽な女の子は竹の棒を持って、ホームの端に向かう。カヲリはその後を追おうとした。

「ついてくんな! おっぱい星人」

丁度その時、カヲリの後ろから会社帰りのサラリーマンが歩いてきた。すれ違いざま、一点を注視される。カヲリは胸を押さえた。

説得を諦めたカヲリは地下鉄のホームから出て、地上へ出た。雑踏に後押しされるように、駅を離れる。

既に日は落ち、人の顔がようやく見分けられるくらいの明るさになっていた。

人々の顔に一様に浮かぶのは、巣に帰ることのできる安堵。人間の顔が、朝より夜の方が輝いて見えるのは皮肉な話である。

カヲリは踏切を越え、住宅街に向かった。その頃には、人通りは絶え、寂しい街路を闊歩するカヲリの姿だけが目についた。

古巣に戻ってきたのには、理由がある。もしかしたら、父が戻ってきているかもしれない。そうでなくとも、手紙がポストに入っていやしないかと、期待するのであった。

残念なことに、カヲリたちの暮らしていたマンションの一室には、既に別の住人が入居していた。

それを確認すると、とぼとぼと元来た道を引き返した。

街灯の側にお弁当屋があり、そこで家族と思われる三人が楽しげにしているのを目撃した。両親に挟まれて、幼稚園児くらいの女の子が無邪気に笑っている。

子供が両親に囲まれていることは、案外恵まれたケースなのではないかと、カヲリはその時思うのだった。

前方を、影がさっと横切った。立ち止まり目を凝らすと、駅にいたパーカーの子だった。

「ど、どうしたの!?」

肩に手を置きカヲリが訊ねても、子供は恨めしそうに上目づかいをするばかりだ。竹の棒は、もう持っていなかった。

カヲリは屈んで、表情を柔らかくした。

「お兄さんとは会えた?」

女の子は首を振った。心なしか、うつむき加減で元気がないように思えた。

「さっきは、ごめんね。私が余計なこと言ったばっかりに」

「何ですぐ謝るんじゃ」

女の子は納得いかないことがあると、確かめずにいられない性分らしい。 

カヲリは自分に非があると思った時には、すぐ謝るようにしている。はからずも、女の子の自尊心を傷つけたのは事実なのだ。

「もしかして、私を追って来たの?」

女の子はそっぽを向いた。カヲリは歩きだした。

駅に戻って、後ろを振り返ると女の子がすぐ後ろについてきていた。

「帰りの電車賃は?」

小声で訊ねると、女の子は気まずそう首を振った。

千円札を半ば無理矢理、女の子に握らせる。今度は拒まれなかった。   

電車に乗ると、女の子もすぐ後から乗り込んだ。時刻は午後七時を過ぎており、結構な混み具合である。カヲリは女の子の姿をあれよという間に見失った。

十分程満員電車に揺られ、に降り立った。地上に出ると、後は歩いてアパートに向かうだけだ。

電柱の陰から、女の子が寒そうに手をこすりあわせ、カヲリの背をじっとにらんでいる。 カヲリが歩くと物陰に身を潜めながら近づいてきた。

「さっきのマンションには帰らんのか?」

線路沿いを歩きながら、女の子が話しかけてきた。

「あそこには、少し前まで暮らしてたんだ。引っ越したのよ」

「ふーん……」

女の子は、いつの間にかカヲリと並んで歩いていた。信号で二人は立ち止まる。

「貴方は? この辺に住んでるの?」

女の子は、信号機のボタンをやたらめったら押していた。

やがて信号が青になると、一足先に反対側の歩道に渡ってしまった。

「ねえ、お兄さんはどんな人、学生?」

追いついたカヲリが水を向けると、女の子は気乗りしたのか照れくさそうに口を開く。

「兄ちゃんは、かっこいいんじゃ」

「そうなんだ! 会ってみたいなあ」

大げさに相槌を打つと、女の子はカヲリの胸を凝視して、舌打ちした。

「兄ちゃんは、お前みたいな奴になびかん。彼女おるし」

「あ、ああ……、残念だな。モテるんだね」

カヲリが気のない返事をすると、女の子はしたり顔で頷く。

「ふん、兄ちゃんはお前なんかと違って忙しいんじゃ。本当は会いに行くのは迷惑なんじゃが」

消沈した顔で、女の子は立ち止まる。

「お兄さんとは離れて暮らしてるんだね」

「うち、離婚したから。私は母ちゃんと、兄ちゃんは父ちゃんと暮らしてる」

離婚という言葉に、カヲリはどきりとさせられた。父と母は別居中だ。無関心ではいられない。とはいっても、カヲリは両親が本当に離婚するとは考えていなかった。分裂した家庭にもたらされるものが何なのか、カヲリが知らないことを、この小さな女の子は知っているのだ。

「そっか、大変なんだね」

カヲリからは月並みな感想しか出ない。本当の労苦を知る由もない。女の子はそれを見透かしているから小馬鹿にできるのだ。

そうこうするうち、カヲリの住むアパートについてしまった。築三十年の木造のアパートである。その二階の一室には、電気がついていなかった。母はまだ帰っていないようだ。

「せっかくだから、お茶でも飲んでいきなよ」

半ば寂しさから口にしていた。断られるかと思いきや、女の子は遠慮なく部屋に上がり込り込む。

入るやいなや、サンダルを乱暴に脱ぎ散らかす。カヲリがそろえてやる間に、冷蔵庫を開けて牛乳をパックのまま飲んでいた。

「行儀悪いなあ、もう」

カヲリが苦笑し、居間に入ると女の子は白い髭をつけている。

「何か食うものないのか?」

「えっ?」

女の子は居座る気のようだ。さっさと襖を開けてカヲリの部屋に入ってしまう。

もうままよとばかりにカヲリは、冷蔵庫の残り物で料理を作ることに決めた。

十五分ほどで料理を作り終え、女の子を呼んだ。

居間のテーブルに、卵焼き、ウインナーとブロッコリーの皿が並ぶ。お米を炊く暇がなかったので、昨日冷凍しておいたものを解凍した。

女の子はすかさず、皿の一つを脇にどける。

「ブロッコリー嫌いじゃ」

「好き嫌いしないの。早く食べな」

女の子は、よほど空腹だったのだろう。カヲリの分まで平らげた。嫌いだと言ったブロコッリーも残さず食べた。

箸の使い方に難があり、ぽろぽろこぼしている。皿まで食べそうな勢いで、カヲリは少し怖くなった。

「ごちそうさまは?」

カヲリが促すと、女の子は小さな声でごちそうさまを言った。

共通の話題もないので、すぐに気詰まりになる。カヲリはテレビをつけようとリモコンに手を伸ばす。

「なあ、お前の家の表札なんだあれ」

女の子にふいに訊ねられ、カヲリはリモコンから手を離した。

「私、カヲリ=ムシューダっていうの」

女の子は頬を膨らませ笑うのを堪えていたが、すぐに吹き出した。

「何よ、そんなにおかしい?」

「うん。だって消臭剤みたいじゃ。変なの」

カヲリは少し心が通じあったような気がして、身を乗り出していた。

「ねえ、貴方の名前は? そろそろ教えてくれてもいいじんじゃない?」

女の子は、渋々口を開いた。

「雪乃……、小林雪乃」

洗い物をして、部屋をのぞくと雪乃は漫画を持ったまま、ベッドに横になり目を閉じている。

明るい所で眺めると、雪乃の肌は汚れていた。髪には、ふけが目立っていたし、足裏は真っ黒だ。面と向かって言わなかったが、少し臭う。

「ほら、こんなところで寝ると風邪ひくよ」

「んあ」

雪乃は目をこすり、また眠ってしまう。カヲリは辛抱強く肩を揺すって目を覚まさせる。

「汗かいちゃった。お風呂行こう」

雪乃は薄目で、首を振る。

「お風呂嫌いじゃ」

「あら、嫌いなものばっかりね。このアパート、お風呂ないんだ。銭湯って行ったことある?」

「ない」

雪乃は好奇心を刺激されたようで、目をぱっちり開けた。

二人は、近くの銭湯に向かう。瓦屋根と、長い煙突を前に、雪乃は今日初めての弾んだ笑顔を見せた。

「すげー、江戸時代みたいや」

「銭湯って、今時珍しいからね。私もついこないだ初めて来たんだ。中は結構広いんだぞ」

カヲリが番台でお金を払い、脱衣所に入る。

カヲリが服を脱いでいると、雪乃は目くじらを立てた。

「お前なあ! お前の乳房なんか今に下がるんだぞ。私知ってるんだ。重力が働いて……、うぐっ」

雪乃の口を押さえた。興奮すると、周りを気にせず喚くのは、いかんともしがたい。

雪乃は、体にタオルを巻いて浴場へ足を踏み入れる。もうもうとした湯気の中、大浴場が眼前に開かれた。清潔そうな青い壁に、富士山が描かれている。十人はゆうに入れる湯船には、並々と湯が張られている。

「すげー」

浴場を見回した雪乃は、感嘆の声を上げた。

それから、 じろじろ客の裸体を見ようとするので、シャワーに無理矢理連行する。

「ほら、まずは体を洗うのがマナーよ。背中流してあげるから」

その時、雪乃はふいに顔を強ばらせ、タオルを押さえた。カヲリは不審がったが、体を洗わなければ始まらない。強硬にタオルをはぎ取ろうと力を込めた。 

「やだっ!!!」

雷のような雪乃の悲鳴は、浴場によく響いた。カヲリは驚いて、手を引っ込めた。

雪乃はしゃがみ込み、体を震わせる。

「ご、ごめんね。でも、体洗わないと」

カヲリが手を伸ばすと、雪乃はその手をすりぬけるように走り出し、浴場から出てしまう。

慌てて脱衣所まで追いかける。雪乃は既に着替えをすませた後だった。

「どうしたの? お風呂入ろ? 雪乃ちゃん」

「うるせー」

カヲリの顔を見ずに、低い声で威嚇した。開きかけていた心が、また拒絶の意志を示している。

「お風呂、とっても気持ちいいよ。私、貴方とお話したい。学校であったこととか、友達のこととか」

雪乃は側に積んであった桶を掴んで、めちゃくちゃに放り投げた。そのいくつかは、客に当たり、壁や床を跳ねる。

「や、やめなさい! 何するの! 雪乃ちゃん」

カヲリが取り押さえようとすると、桶でしたたかに殴られた。

「うるせー! 私知ってるんだ。お前、私のこと可哀想だと思っただろ? お金もなくて、ろくにご飯食べてなくて、お風呂も入ってなくて、服だって夏から同じのずっと着とるんや、どうだ、参ったか! あはは」 

雪乃はだらりと腕をたらし、桶を落とした。魂が抜けたように、ふぬけた表情で歩きだす。

カヲリの脇を通り抜ける際、一言ぶつけてきた。

「お前なんか、だいっきらいだ。偽善者女」

 

 (2~)


カヲリは、銭湯で客と従業員に頭を下げた後に、雪乃を追ったが、影も形も見あたらない。

しかたなく一人でアパートに戻ってきた。八時を過ぎていたが、母は帰っていない。

真っ暗の部屋に明かりをつけても、心が晴れることはなかった。

自分の部屋のベッドに、うつ伏せで倒れ込む。

「くさい……」

雪乃の残り香が、ベッドに染み着いていた。

確かに自分のしたことは、偽善と受け取られてもしかたのないことだったのかもしれない。雪乃が恵まれない環境で生きていると、カヲリは気づいていた。憐れみを抱いていると悟らせないようにしていたのだが、かえって彼女の自尊心を傷つけてしまったのは、痛恨の極みである。

だが、空腹に耐え、少ないお金で兄に会いに行こうとしていたあの子の力になりたいと思ったカヲリの気持ちは、間違っていたのだろうか。 

カヲリは、それが正しい判断だったと言い切れるほど強い心を持っていない。少なくとも今はまだ。

あの子は、今夜どこで過ごすのだろう。兄に会いに行くと言っていたし、そこに向かったのだろうか。カヲリが渡した千円の残りがあるはずだし、交通機関はまだ生きている時間だ。

カヲリは寝返りを打ち、雪乃が読んでいた漫画をぱらぱらめくった。

漫画の中で、制服の女の子が顔を真っ赤にして壁際に立ち、それに覆い被さるように長身の男の子が壁に手をついている。

「俺のこと・・・・・・、好きなんだろ?」

自信ありげに男の子に囁かれ、女の子は覚悟を決めた顔をして・・・・・・

「あー! 駄目だ」

カヲリは漫画を放り投げ、コートを着てアパートを飛び出していた。

フィクションに浸ることができる気分ではなかった。あの子も自分も現実を生きているのだから。

駅に向かって必死に走るカヲリの姿を、見下ろす人影があった。 

「ふん、せわしない女ですぅ」

四角い学帽を被った少女が、アパートの屋根の上に立っている。彼女は学校からカヲリの後をつけて、動静をずっと伺っていたのである。

「監視しろと言われていますが、言われた通りのことしかできない奴は、単なる愚図ですぅ。吾輩は吾輩の流儀でやらせてもらうですよ。ヒッヒッヒ」

カヲリは、そんな不穏な影に気づくことなく走り続けた。駅前の再開発で、建設中のマンションのすぐ脇を通りがかる。ふと疲労を感じ、走るペースを緩めた時だった。

カヲリの右手に停まっていた軽自動車が、轟音と共に突如激しくきしんだ。地震ではなく、その車だけが、こぎざみに振動している。

車の上に銀髪の少女が立っている。四角い学帽に、紺のジャケットとスカート、髪はおさげにしている。

「そんなに急いでどこ行くです? カヲリ=ムシューダ」

カヲリは少女の声が聞こえなかったように、上空を見上げていた。

少女が、空から降ってきた。落下の衝撃で車体の天井はへこんでいたし、間違いない。神秘的なこの少女なら、それくらいやってのけると何故か納得できた。

学帽の少女は、不満ありげに真顔で車から飛び降り、カヲリの眼前に立つ。背丈は雪乃とそう変わりなく、同い年くらいに感じられた。彼女は眼鏡の奥のスミレ色の瞳を細める。

「思った以上に、しけた面してるです。何とか言ったらどうですか? この雌豚」 

容赦のない罵り雑言が飛んでくる。だが不思議と初めて聞いた気がしない。

「吾輩の顔を見てもリアクションなしですか。これは重症みたいですねえ」

そう言って、少女は光きらめく何かを懐から取り出す。折りたたみ式のバタフライナイフだ。

「なっ……」

カヲリは絶句し、後ずさる。その様子を少女は、楽しげに観察している。

「ふふ、逃げたければどうぞ。まあ、逃がしませんけどね」

カヲリは命の危機にぶち当たり、周囲に助けを求めるように視線を走らせる。だが、交通量は少なくないが、カヲリの危険に気づくドライバーは皆無だった。今もタクシーが脇を通り過ぎていく。

「どうして、私の名前を知ってるの?」

「ん? それを知ってどうするです? お前は屠殺される寸前の豚なのですよ。理不尽な理由で、命を奪われるただの豚。明日の新聞の朝刊に、女子高生が通り魔に刃物で襲われ、死亡という見出しがでかでかと載ることになるでしょう。でもよかったですねえ、お前みたいなつまらない人間が、世間を賑わすなんてこと金輪際ないでしょうから」

不当な決めつけにカヲリは、怒りに沸いた。そして自分はこんなにも沸点が低い人間だったのかしらと、訝る。非常事態で、神経が高ぶっていることも影響しているのかもしれない。

「貴方は私の何を知ってるの」

「知ってますよぉ。お前は、愚図でのろまの、可哀想なシンデレラ。ガラスの靴を置き忘れてきた間抜けですぅ!」

少女は疾風の如く、カヲリの間合いに入った。よけるまもなく、カヲリの袖を閃光が裂く。ぱたたっと、血が音階を奏でる。

「いたっ……!?」

傷を確かめることもせず、カヲリは背を向け逃走を計る。だが、抜け目のないこの相手には、そんな浅知恵は通用しなかった。

背後から野球ボールくらいの大きさの球が飛んできて、カヲリの足下に落下し、はぜた。アスファルトとカヲリの靴に、ジェルのような粘着質で透明な液体がからみついた。

「と、とれない!」

足首ごとジェルがついてしまい、カヲリは身動きがとれなくなってしまう。粘りのあったジェルが空気に触れるうちに固まり、石膏のように堅固になった。

「おもしろいでしょう? そのジェルは常温で固まり容易に剥がれません。もう逃げられませんよ」

ナイフをちらつかせながら、少女が背後から近づいてくる。この少女は、ただの通り魔ではない。用意周到で、確実にカヲリの命を奪うつもりのようだ。

「ま、まって! お、お金ならあげるから、どうか、命だけは」

カヲリは財布を捧げ持つように差し出した。少女は無表情で財布を受け取り、中身を地面にぶちまけた。学校でパシリにされ、雪乃に千円を渡したので、小銭しか残っていなかったのだが、一瞬頭が真っ白になる。

「お前の命の値段は、たったこれっぽっちですか? カヲリ=ムシューダ」

最後の十円玉を財布から落ちるのを確認して、少女は冷たく笑った。

「たった数百円の命。情けないですねぇ。十七年生きてきた集大成がこれとは。親も泣いてると思いますよ」

カヲリの心は、いかにしてこの場を生き延びるかよりも、自分に対する侮辱をいかにはらすべきかという強い一念にとって変わっていた。

しかし、どうすることもできない。刃渡り十センチのナイフが、カヲリの首筋に当てられた。ひんやりした感触に、わきの下から汗が吹き出る。

「でも仕方ないですね。お前は自分で言ってた通りその程度の人間なのです。ここで散っても、文句は言えませんよね」 

カヲリは瞬き一つせず、少女を睨んでいた。身の内にある野蛮な感情を押さえつけ、暴発しそうになる拳を握りしめる。

「何です? その目は。死ぬのに変わりはないんですよ。あきらめたらどうですか?」

ナイフが強く押し当てられ、首から血が一筋流れた。

少女の言う通りかもしれない。自分はつまらない人間だとずっと思っていた。少女漫画みたいな恋に憧れるばかりで、実行に移せない人間だ。

雪乃を傷つけた罰として、こんなことになっているのかもしれない。それでも、まだ生きるのをあきらめられなかった。

「あの子のところに行きたい。あの子を抱きしめたい。あの子の力になりたい」

カヲリの目と言葉の一音に、力強い光が宿る。その光はかつて、彼女のものだったもの。貪欲に生に執着した女の持ち物だった。

それを認めたナイフを持った少女は、カヲリを叱咤するように叫ぶ。

「往生際の悪い女ですぅ。なら証明してみせるです! お前が生きた証、カヲリ=ムシューダの命の力を」

ナイフが、カヲリの首を裂かんと滑る。カヲリは身じろぎせず、その凶器を受けた。

命の灯がさらに勢い盛んに燃え立つ。黒い獣が彼女の傍らに立つ気配を確かに感じた。

「!?」

建物を軋ませるほどの強風が、場を支配した。

ナイフが粉々にはじけ飛ぶ。破片の一つ一つに、黒い獣の姿がくまなく映り込み、瞬時に消える。

四角い学帽が風に煽られ、持ち主の少女もまた十メートルの高さまで吹き飛ばされていた。

建設中のマンションのガラスに映る自身の姿を理解する間もなく、さらに二度、三度、質量のこもった追撃を受け、アスファルトに豪快に叩きつけられた。

頭から血を流し、大の字に倒れる。顔の上に帽子がふわりと載せられた。

カヲリは膝をついてうなだれていた。ナイフの破片が雪のように光を反射して舞う中、彼女は呼吸をしていないようだった。

肩の辺りから、黒い靄のようなものが立ち上っていたが、すぐに燃え尽きるように消えてしまった。

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