シトシンセイ
陽の当たる場所を歩きたい。
それだけが望みだった。
舞台に光が当たると、影ができる。
陽の当たる場所を歩きたい。影が濃くなろうとも振り払い、前に進む。
舞台へと駆け上がる。誰もが恐れを忘れ、綺羅星のごとく先へ。
(1~)
朝日が昇ると、心臓にエンジンがかかる。脳は肉体に走れと勝手に命じた。
「はあ……、朝だ」
カヲリ=ムシューダは、ベッドの中で憂鬱な産声を上げて起き上がった。
『カヲリさんは、人の顔色を伺いすぎる傾向があります』
小学校の通信簿に書かれた彼女の性格だ。幼い頃から人見知りだったカヲリは、人の後によくっついていた。主体的に行動しようとする気概はないのだと思われても仕方がない。
幼少時から運動音痴で、学業も秀でているわけではないことを、カヲリは誰より知っている。見た目もさほど美人とは言えないし、特別な何かになれるわけでもないことも、理解しているつもりだ。
周りに合わせようとしてそうなっているわけではなく、自分は人の一歩後ろを歩くくらいが、身の丈に合っていると信じているのだった。
時計は六時半を指している。神経が高ぶって少し早く目が覚めてしまった。
カヲリがいるのは、六畳の部屋だ。部屋に置いてあるのは、寝ていたベッドと傷だらけでシールの一杯貼られた机。机は親戚のお下がりだ。
部屋の隅にかけられた黒のセーラー服に、袖を通す。別の誰かになるような不思議な感覚。カヲリはカヲリのラベルのままだが、一時小さな箱に入るようなそんな感覚がある。机の上にある赤いフレームの眼鏡をかける。伊達だが、誕生日に父にもらったもので気に入っている。赤いリボンを胸に締めたら、女子高生の完成だ。
初めが肝心。女はなめられたらオシマイ。母にそう教えられ、カヲリは定時になると学校に向かった。
西暦一九九九年十二月一日のことである。
カヲリが通うことになる私立丸岡高校は、高台に位置する学校である。生徒数約四百人。偏差値は中の上で、卒業生の進路は大学が六割、就職が二割、専門学校が二割程。部活の活躍は、野球部が二十年程前に甲子園出場経験があるものの、それ以来目立った戦績はない。
特別変な臭いも、無駄にお金をかけたトイレも、地下にガラス張りの旧校舎もない。普通の高校だ。
昇降口には見知らぬ顔ばかりで、カヲリは後込みする。早足で職員室まで行き、そこから担任に伴われて二年B組の教室に向かう。足を震わせながら教壇に立って自己紹介をする。
「カヲリ=ムシューダです……、よろしくお願いします」
予想以上に、教室の反応は冷ややかであった。拍手一つ起こらず、よそ見する者、カヲリを無視して平気でお喋りする者、寝ている者、皆一様にカヲリに興味がないように思えた。
「ムシューダさんって、何人なの?」
空いていた後ろの席に腰を下ろすと、多分今日何度もされるであろう質問が飛んでくる。
「お父さんがトルコ人なんだ。私はトルコに行ったことないんだけど」
「ふーん、でも全然ハーフっぽくないね。日本人の顔だよね」
クラスメートたちは地図帳を広げて、トルコの位置を確認すると満足したのか、彼らの生活に戻ってしまった。
カヲリの隣の席には、男子が座っている。中肉中背で、やさしそうな物腰の少年だ。
「よ、よろしくね……」
カヲリがおっかなびっくり挨拶すると、彼は人当たりのいい笑顔で頷いた。
「僕は寺田幸彦。えーと……、ムシューダさんって呼んでいいのかな?」
「うん。好きに呼んでいいよ」
カヲリは、幸彦とすぐに打ち解けることができた。不思議と初めて会った気がしない。男子と会話するのがあまり得意ではないカヲリもあまり意識せず話に集中できた。
ところが、そんなカヲリにささくれた視線を送る一人の少女がいた。袖の長いピンクのカーディガンを羽織った小柄な少女だった。
午前中は、何事もなく授業を受けた。
昼食の時間になり、学食で食べる者が教室を出ていく。
人の輪に入れないカヲリは、右往左往していたが、後ろから誰かが近づいてきて無言でぶつかってきた。カヲリは弁当を持ったまま膝をついた。
「幸彦君ー、学食行こうよ」
甘えるような女子の声が、カヲリの頭上でよく響いた。カヲリは弁当を抱えたまま動けなくなっていた。
幸彦が席を立って、手を貸してくれた。
「ムシューダさん大丈夫? 西野、謝って」
幸彦に西野と呼ばれた女子は、可愛らしく小首を傾げてカヲリと対峙した。髪型はマッシュルームボブで瞳が大きい。小柄ながら堂々と胸を張り、まるでカヲリが立っていたのが悪いと決めてかかっているようだった。
「あー、ごめーん。私、視野が狭いから」
「目が悪いの?」
西野は、にっと笑ってカヲリの眼鏡を取って自分でかけてしまった。
「あれ、これ伊達じゃん。私、目悪くないよ。視野が狭いっていうのはつまりー……」
西野は、幸彦の腕に自分の腕を絡ませた。カヲリは驚きのあまり声が出なかった。
「恋の病にかかっているからでーす。だからごめんね、私つまんないものが目に入らないんだ……、きゃっ」
幸彦が、西野の頭を軽くこづいた。
「いいかげんにしろよ。謝る時はちゃんと謝る」
「はーい、すみません」
幸彦の厳しい言葉に、西野は意外にも満更でもなさそうである。より強く腕をからめて笑っている。
「本当にごめんね、ムシューダさん。西野に悪気はないっていうか、ちょっと気分にムラがあるんだ」
「わ、私、気にしてないから。ぼーっとしてた私も悪かったし」
その時、カヲリは西野が舌を出しているのに気づいた。彼女の横暴をクラスメートも見て見ぬ振りをしているのを鑑みるに、それなりに影響力のある娘のようだ。お菓子のように甘ったるい彼女に、可愛いし、幸彦も彼女に甘い。
「ねえねえ、お昼終わっちゃうよ。早くいこ?」
西野は、カヲリに眼鏡を放って寄越すと幸彦にべったりくっつき、教室を出ていった。
カヲリは、この西野陽菜というおきゃんな娘と浅からぬ因縁を結ぶことになるのだが、まだ知る由もない。
自分からグループに混じる勇気もなく、ぽつねんと席に座っていると、遠巻きに見ていた五、六人の女子グールプが、かしましく近づいてきた。
「大変だったね、仮面夫婦にからまれて」
「仮面夫婦?」
カヲリが聞き返すと、皆一様に声をひそめる。
「熱愛中なのはポーズなんだよ。あの二人付き合ってないの」
カヲリは首を傾げた。彼らの仲むつまじい様子は、友人同士の気安さと違う緊張感があった。鈍感なカヲリでもそのくらいわかる。抗議の声を上げる。
「そ、そんなの不純だよ。恋人でもないのに」
カヲリが憤慨すると、周りは爆笑した。
「ムシューダさんって純情なんだー。カワイー」
カヲリは確かに異性と話すのが得意ではないし、手すら握ったことがない。もしかしたら幸彦たちの方が普通なのかもしれないと、思い直した。
「まあ、陽菜ってちょっと変わってるから気にしない方がいいよ。それよりムシューダさん、お昼どうする?」
「私、お弁当持ってきたんだ。みんなは?」
彼女たちは、意味ありげに目を見交わしていた。カヲリを素通りするような視線が、何となく不快である。
「今から、食堂行っても席空いてなさそうだし、私たちお弁当ないよね」
「パン買ってこなくちゃ。かったるいね」
「すぐ近くじゃん。でも廊下さみーし。誰かさんみたいに暖めてくれる男もいない」
「はー……、どうしたら」
彼女たちの中で結論が既にできあがっていて、後はカヲリの返事を待っているだけのようだ。重圧に耐えられなくなったカヲリが、おずおずと手を挙げる。
「私買ってこようか?」
彼女たち揃って黄色い声を上げた。間髪入れずにまくし立てる。
「ありがとう! ムシューダさんってやさしいんだね」
「私たち友達だよね」
「メロンパンがいいな」
「友達だね」
「飲み物もお願いできる?」
「もう友達だよ、私たち」
「ありがとう、ムシューダさん。これからよろしくね」
(2~)
食堂では、幸彦がうどんをすすっていた。向かいには陽菜が頬杖をついて、その様子を眺めている。
食堂は、ガラス張りで白いテーブルがいくつもあるモダンな空間であったが、二人以外に人気はなかった。チェス盤のような白と黒のチェックの床は、磨かれたようになめらかで光を反射しそうであった。
「西野、食べないの?」
陽菜は、にこにこして頷いた。彼女の前には、小さなティーカップが置かれているだけだった。
「今、ダイエット中なの。幸彦君が食べてる姿を見てるだけで満足だから」
「少しでもお腹にいれた方がいいよ。サラダとかも駄目なの?」
「うん、平気。今、この時間を大切にしたいんだ」
陽菜は、一度言い出すと聞かない強情な性格だ。幸彦でも、彼女の意見を曲げさせるのは容易ではない。
幸彦と陽菜は、周知の通りカップルではなかったが、友人とも違う密な関係である。
幸彦も、どうして陽菜が側にいるのかわかっていなかった。成り行きというか、気づけば彼女が常に隣にいた。
「あのさ、西野。今日一緒に帰らないか」
幸彦は言ってから、すぐに顔を横向けた。それだけ彼にとっては軽い話ではないのであった。
陽菜は、黙ってカップに口をつけた。それから幸彦をじらすようにゆっくりとカップを置いた。
「ごめんね、今日も残って、絵を仕上げたいの」
幸彦は陽菜を憎からず思っており、もっと仲良くなりたいのだが、その気になるとすぐに陽菜にはぐらかされてしまう。こんな中途半端な関係なら、いっそ解消したいのだが、それも言い出せずにいた。
「余計なこと言って迷惑だった?」
「ううん、気持ちは嬉しいよ。もう少ししたら完成するから、その時は一番初めに幸彦君に観て欲しいな。お願いできる?」
陽菜には、非凡な絵の才能がある。連日学校に居残って、コンクールの絵を制作しているのだ。
「でも絵なら、伊藤先生に観てもらえばいいのに。素人の僕じゃ役に立てないよ」
「そんなことない!」
陽菜は声を荒らげ、椅子から立ち上がっていた。それから静かに腰を下ろす。
「幸彦君は、もっと自信を持たないと駄目だよ。私の絵観たくないの?」
「観たいよ」
「えへへ、じゃあ決定♪」
陽菜の手が、幸彦の手の上に重ねられる。心地よい体温と柔い手の感触。ずっとこうしていたいと願わずにはいられなかった。
「帰りは、嘉一郎君に車で送ってもらうから。家についたら電話するね」
幸彦の頬が一瞬で固まる。陽菜の口からあの男の話題がでるたびに、追い立てられるような感覚に襲われる。
伊藤嘉一郎というのは、この学校の美術教師である。二十代後半の、細面で長身の伊達男だ。彼はこの学校に来る以前から陽菜の知り合いで、仲もいい。陽菜に絵を教えたのも、伊藤のようだ。
「美術部って、何人くらいいるの?」
幸彦は、遠慮がちに訊ねた。
「私、美術部じゃないから知らない。普段準備室にこもって絵を描いてるし。あー、そっか……」
陽菜の瞳が妖しくきらめいた。
幸彦は椅子から飛び上がりそうになる。テーブルの下で、陽菜の足が幸彦のすねにそーっと触れてきたのだ。上履きを脱ぎ、紺のソックスに包まれた少女の足が蠢いて、すねからももにゆっくりと移動してくる。
「あるよ。準備室で嘉一郎君と二人きりになったこと」
陽菜の足の指が、バラバラの動きで幸彦の太股をはいまわる。親指ではじいたり、人差し指でさすったり、土踏まずの部分で撫でられると、背骨まで言いようのないうずきがかけ上がる。その度に、幸彦は口元を押さえ、顔を真っ赤にして耐える。
「幸彦君は、私と嘉一郎君がイケナイ遊びをしているって思ったんだね。嫉妬しちゃったんだ」
「ひうっ……」
ぐりぐりと内股を押されると、幸彦は息をするのも忘れ、快感に悶える。陽菜は幸彦の弱い部分を熟知していた。機嫌が良くなると、こうやって足でなぶりものにする。
幸彦は、陽菜の足にいいように蹂躙されながら、早く終わって欲しいという思いと、もっとして欲しいという矛盾した状態に置かれた。
陽菜は、そんな幸彦の痴態を観察して微笑んでいる。
「嘉一郎君には、絵を教わってるだけだよ。何を教わってると思ったのかな?」
幸彦は、テーブルに突っ伏していた。陽菜のオシオキは、うぶな彼には刺激が強過ぎたのだろう。
ふと陽菜が視線を転じると、廊下をのろのろと歩くカヲリの姿が目に入った。
「あーあ、馬鹿な娘。さっそくパシリにされてる」
陽菜は鼻で笑い飛ばし、テーブルに伏せったままの幸彦のすねを、やにわにさする。電気的な刺激に幸彦の体が鯉のように跳ねた。
「ほらほら、お昼休み終わっちゃう。もっとお話しようよ、幸彦君」
(3~)
カヲリは、両手一杯に菓子パンとペットボトルを抱えて廊下を歩いていた。食堂を通り過ぎ、曲がり角に差し掛かる。進路から人が歩いてきた。
前方の視野がおぼつかないので、不意をつかれて、もろにぶつかり、尻餅をついた。パンと飲み物が、雨あられと散らばった。
「ありゃりゃ、どうなっちまったんだ。こりゃ」
とぼけたような女子の声に、カヲリは身を固くした。
思えばこの学校に来てから良いことがない。陽菜には馬鹿にされるし、カヲリにパンを買いに行かせた娘たちも、口では友達と言いながらも内心ではカヲリのことを利用しているだけだ。
ぐったりと座り込んだカヲリをよそに、一人の女子がはしっこく動き回って、菓子パンを拾い集めていた。
少し赤みがかった長い髪に、整った鼻梁に切れ長の目、くるぶしまで届く長いスカート。その反面、腰を曲げた際の折り目正しい所作に洗練されたものを感じさせた。
「おい、大丈夫か? 打ち所が悪かったのかよ。おーい?」
カヲリは、ぼーっと正面を見据えたまま、無反応だったので、ぶつかった少女は不審がり肩を揺すってきた。
「わっ!?」
カヲリは我に返り、まじまじと自分の顔をのぞき込む不良のような少女に恐れを抱いた。
「す、すみません、私の不注意で」
カヲリの目から大粒の涙がこぼれる。突発的な防衛反応だった。もう傷つきたくない。慣れない環境に強靱でない心が折れてしまったのだ。
「泣くな!」
ぶつかった少女は、気合いを込めて叱咤した。
カヲリはびくりと身を震わせ、後ろに手をついた。
「泣けばなんでも解決すると思うな。お前は、自分が悪いと思って泣いてるんじゃない。泣けばあたしが責めないと思って泣いてるんだ」
ぐうの音も出なかった。彼女の言うとおりだ。割食う自分に腹立ち、見ず知らずの彼女を困らせてやろうという気持ちがなかったわけではない。だが、素直にそれを認められるほど、今のカヲリは強くなかった。子供のように膨れ面をして、黙り込む。
「だんまりか。お前下級生だろ? 名前は?」
「カヲリ……、です」
少女はカヲリの目線に身を屈めた。
「あたしは、三年の来栖未来。別にクリスチャンじゃないぜ。宗教の勧誘じゃないからな」
カヲリは、口元にうっすら笑みを浮かべた。
「笑えるじゃん。その方が可愛いよ、お前。さっきはきつい言い方して悪かったな。でもこんなにたくさんパン買ってどうするんだよ」
カヲリが俯くと、未来はそれとなく察したのか深く立ち入ろうとはしなかった。
「さ……、立ちなよ。昼休み終わっちまう」
「はい……」
カヲリは立ち上がり、未来にパンを持たせてもらった。
「一人で平気か?」
「はい。色々すみませんでした」
少し助けを期待したのだが、所詮は赤の他人である。カヲリは細心の注意を払って階段に足をかける。
「待って!」
背後から大声で呼びかけられ、カヲリはうっかり階段から足を踏み外しそうになった。
「あたし、卓球部の部長なんだ。よかったら放課後、見学に来ないか」
「……、考えさせてください」
気を遣われているのはわかったが、その日は誘いを断った。
教室に戻ると、パンを頼んだ女子たちが、待ちかねたように入り口まで出てきた。一応お礼は言うのだが、あきらかにカヲリの要領の悪さを責めるように文句を言いたげな顔をしていた。
「あ、ムシューダさん、私たちお金持ってくるの忘れちゃったんだよね。明日返すから」
「え」
悪びれず言ってのけると、彼女たちは席についてカヲリの買ってきたパンを美味そうに頬張っている。
さすがのカヲリも腹に据えかねたのだが、大股で自分の席に向かい、弁当をかきこんだ。
放課後、カヲリは美術室の掃除を押しつけられた。どうして断れないのだろう。自分の弱さがつくづく嫌になった。とはいえ、引き受けた以上、やりとげなければならない。
四隅まで、手際よく箒を掃き終える。雑巾でテーブルを拭き、窓ガラス、せんまで掃除した。
掃除は割と得意なのだ。地味な作業が向いているのかもしれない。
一通り終えると、三時半に近かった。掃除道具をしまって、帰ろうとしたが、美術準備室の扉がわずかに開いているのに気づいてしまった。
準備室は掃除しろと言われていない。
一端帰りかけたカヲリは、扉に身を潜り込ませていた。電気がついておらず、薄暗い。
準備室に入ってすぐの所に、段ボールが重ねて置いてある。体を横にして慎重に中に入る。まるで隠れ家を探検するようで、胸の高鳴りを感じた。
奥に入ると、意外と散らかっていない。小さな机に火の消えた蝋燭と、石膏像。本棚とキャビネットが脇にあり、部屋の中央にイーゼルが置いてあった。
イーゼルには、描きかけの油絵が立てかけてある。ワンピースを着て、両手を膝の上で重ねて座る女性の肖像画だった。ただし、肖像画に顔は描かれていない。
「何を……、しているのですか?」
誰何の声が、カヲリの心臓を凍らせた。
音もなくカヲリの背後に立っていたのは、背の高い若い男だった。ダークグレーのスーツは、彼の引き締まった肉体に肌のように馴染んでいた。顔にはとらえどころのない笑みが張り付いている。彼からはオーデコロンの香りが漂っていた。
カヲリは首だけで振り向いて、何とか弁解しようとした。その時、男がカヲリの腰に手を回してきた。何をされているのかわからず、わずかな気力も失ってしまう。
「仙骨って、どこにあるか知っていますか? 君」
男は囁くように言って、カヲリの腰に触れるか触れないかの距離で手を動かしていた。
「わ、わかりません、あの」
男は、カヲリの耳に息を吹きかけた。カヲリは一瞬で体の自由を奪われたように朦朧となった。
「骨盤の一部分をなす骨です。形は、二等辺三角形で、それで体を支えています」
男が囁いても、カヲリの耳には入ってこない。もはや自分の意志で立っていられなかった。背後の男に身を預けていた。
「いわば要、なんですよ。君の仙骨はとても良い形をしている気がするんです。僕にはそれが興味深くて仕方がない。どうですか、絵のモデルに」
その時、カヲリたちの背後の準備室の扉がノックもなしに開けられた。男はとっさに体を離した。
「お邪魔、だったかな」
西野陽菜が笑いを堪えるような、くしゃっとした顔で入ってきた。我に返ったカヲリは、陽菜の足下にすがりついた。
「なーに、どうしたの? レイプされそうになったの? あの人、面食いだからムシューダのこと襲わないと思うんだけどな」
陽菜はクスクス笑って、カヲリの恐怖に歪んだ顔をのぞき込む。
陽菜の皮肉に気づかないほどカヲリは気が動転し、そのまま走って準備室を出て行った。
陽菜は、背を向け立っている男、伊藤嘉一郎の側に近づいた。そしてイーゼルに置かれた絵に気づく。
「また描いてるんだ、これ」
陽菜は、側の机にあった黒い絵の具を手のひらにべっとりとつけ、描きかけの絵に上塗りしてしまった。
伊藤は無表情で、その様子を眺めている。
陽菜は、絵が作品としての機能を失うのを確認すると、絵の具で汚れた手のひらを伊藤に差し出した。
伊藤はひざまずき、陽菜の手を取るとためらうことなく舌をはわせた。犬のように飼い主に承認されるためだけに、彼は存在しているようだった。
陽菜は、そんな浅ましい男の姿を厭わしそうに見下ろしていた。
(4~)
「はあ、はあ……」
カヲリは、美術準備室から全力で逃走した。
げた箱についても、動悸が収まらない。
準備室にいた男は、何者だったのだろう。今朝、職員室で見かけた気がする。教師だったのかもしれない。
思い出すだけで悪寒がして、身震いする。相談できる人間も思いつかないし、泣き寝入りするしかないのだろうか。
下駄箱では、意気軒昂な生徒たちが、たむろしている。
彼らと自分は、一体何が違うのだろう。昼のことを思い出し、また落ち込んだ。
靴を履きかえ、昇降口を出ると、数歩歩いた所で立ち止まった。どこからか、猫の鳴き声がする。耳をすませて、方角を確認する。
植え込みの向こうからのようだ。校舎と植え込みの間の狭い隙間に入った。
少し行くと、テニスコートが脇にあり、部員が精を出している。そこからさらに先に進むと、開けた空間にでた。
物置の上に、黒い子猫がいた。助けを求めるように、か細い声で鳴いている。
「ま、待ってて。今助けるから」
物置の高さは二メートル弱ありそうだった。子猫が、自分で上ったわけではなさそうである。誰かがイタズラしたのだ。
カヲリは台になりそうなものを探した。古くなって使われなくなった机をいくつか見つけ、それを物置の下に設置する。
「おいで」
カヲリが机に上がって手を伸ばすと、子猫はすいっとカヲリの手を伝って、地面に降りた。小猫の方が一枚上手のようである。
子猫はすぐに行ってしまわないで、地面にお座りしていた。カヲリは、懲りずにしゃがんで子猫に手を伸ばした。
「痛っ!?」
子猫は、カヲリの人差し指を爪でひっかいた。子猫だと侮ったのがまずかった。鋭さは大人の猫と大差ない。指から、血が垂れた。
「やったな、この!」
手から、子猫が逃げ出す。少し逃げると立ち止まり、カヲリが追って来るのを待っている。
カヲリは、子猫を追うのに熱中した。むしろ犬の方が好きで、それほど猫好きではない。だが、惹かれた。今日あった全てを忘れ、足を踏ん張り子猫を追った。
校舎を一周し、体育館の方角に子猫は逃げた。体育館の脇の小道は、日陰になっていて湿っぽかった。至る所に苔が生えていたり、雑草が伸び放題で人の手が入っていないようだ。何となく陰気で、カヲリは足を止めた。子猫も同時に動きを止める。
「何か、この先に行っちゃいけない気がする……」
だが、子猫を追わなければという謎の使命感に突き動かされた。
子猫は、つかず離れずの距離を歩いた。
ほどなくして突き当たりにたどり着いた。そこはテニスコート半分くらいの空き地で、ススキが至る所に生えている。崖に面しており、ここからは、どこにも行き着くことはない。
そんな何の用もなさない場所に、先客がいた。
まず目に付くのは、短いスカートから伸びる足。たるんだルーズソックスを履いていた。真冬なのに小麦色の肌に脱色した髪、濃いアイメイク。コテコテの黒ギャルである。カヲリと同じ丸岡高校の制服を着ているので、生徒であろうことは伺い知れた。
カヲリは固まった。何故袋小路にギャルが待ち受けているのだろう。カヲリの苦手な人種だ。きっと喚かれて仲間まで呼ばれてキリキリ舞を強いるに違いない。
ギャルは、カヲリから一歩分くらいの距離まで近寄ってきた。大股で今にも食ってかからんばかりの勢いだ。彼女からは、煙草の臭いが漂っている。
カヲリは、ギャルを押しとどめるように両手を前に出す。
「私、猫を追ってここへ来て……、貴女のことは見なかったことにしますから」
カヲリの弁明を無視し、ギャルのはれぼったい唇は妙な言葉を口走る。
「君は、” ”か?」
「え?」
カヲリの耳には、音声として認識されない不思議な記号。ギャルは、口元を押さえて呻いた。
「そうか。君が” ”でも、この世界では認識されないというわけか。今の君の名前は何だ?」
「えっ!?」
「名前だ名前。山田花子でもなんでもいい。早く答えろ、時間が惜しい」
ギャルは、偉そうな口調でカヲリを急かした。
「カヲリ=ムシューダです」
カオリの名前を聞いた途端、ギャルは目をむいた。
「ムシューダ? 本名か?」
「ええ、父がトルコ人です」
ギャルは、天を仰いで絶句した。見ず知らずのギャルにがっかりされるほど、カヲリは名前負けしているらしい。
「うーむ、どうやら私が思っていた以上に、事態は深刻らしい。ムシューダか……」
ギャルはこの世の終わりのような暗い顔をして、地面を向いた。
カヲリには、事態が飲み込めない。ふと自分の足下に猫が、座っているのに気づいた。今なら捕まえられる。逃げられないうちに素早く抱き上げる。
「や、やった……!」
カヲリは歓喜の声を上げた。それからギャルのことを思いだし、笑顔を引っ込める。
「それは……、君の猫だよ」
ギャルは眩しそうに目を細めて言った。
「野良ですよ。今日初めて会ったんですから」
ギャルは頑なに首を振り、断言する。
「それでも、その猫の飼い主は君だ。大切にしてやるんだな」
カヲリは腑に落ちなかったが、手のひらに乗りそうなほど、小さな猫は彼女の目を捉えて離さない。
「でも困ったなあ。アパートじゃ猫飼えないよ」
カヲリが子猫にお伺いを立てるように言うと、ギャルが突然高笑いをする。
「な、何ですか」
「いや、飼いたいならここに置いていくといい。ここなら”ご加護”もあるだろう」
ギャルに言われると、仮に神仏の前だったとしても真実味に欠ける。諧虐のつもりだろうか。
「猫を飼えと言ったり、置いていけと言ったり、貴女の言うことはよくわかりません」
「……、本当にわからんか?」
ギャルの青い瞳には、不可解な憐憫の気配が漂っている。カヲリは、どぎまぎして目を逸らした。
「君は、ここで始まったのだよ。そして……、この芝居を筋立てている輩もね」
ギャルは、カヲリの背後に目線を投じた。カヲリが振り返ってもそこには、雑草が茂るばかりである。
「まあ、今の君に言っても詮無いことか。どうだ、ムシューダ、今の自分に満足しているか?」
カヲリは、陽菜やクラスメートのことを思いだし、胃が痛むのを感じる。
「満足……、しています。私はこのくらいの人間ですから」
ギャルは皮肉めいた笑みを浮かべた。この人も嘲弄している。カヲリ=ムシューダは、パシリにされたり、人の恋路を指をくわえて見ているのがお似合いのつまらない人間だと。
「このくらい……、か。それは数量化できる課題か?」
「は?」
「だから、このくらいと定義するからには、明確な基準が設けられているのだろう? 身長何センチ欲しいとか、現金がいくら欲しいとか」
「私は……、そういうことが言いたかったわけじゃないんです」
「じゃあ何だ」
ギャルは、カヲリを解放してくれない。カヲリの言いたがらないことを言わせようとしている。
「誰だって、自分はこのくらいだって、当たりをつけて生きているんです。自分より上の人はいくらだっているし、そんなの張り合うだけ無駄なんですよ!」
感情的になり大声を張り上げていた。これまでの人生で一度も、叫びなどあげたことはない。叫ぶだけの主張を持ち合わせていないと自分で思っていたのだ。
「つまらん」
ギャルは、煙草を取り出し火をつけた。カヲリに構わず吸い込み、もうもうと煙を吐く。
「私が知る君は、もっとタフな女だったがね。モテたいと、はっきり口にするアバズレだった」
カヲリは、反射的にギャルの頬を平手で打っていた。煙は目に染みたし、ギャルの言動に我慢ならなくなっていたのである。
ギャルは打たれた頬を撫でて、満足げに一人ごちる。
「ふん、やればできるじゃないか。悪くない」
カヲリは我に返り、とんでもないことをしでかしてしまったと後悔した。
「カヲリ、変わりたくはないか?」
カヲリは返事に詰まる。
「もし少しでも、現状に不満があるなら、もう一度ここに来てくれ。私なら君の力になれる」
ギャルの自信にあふれた口調に、カヲリは怯んだ。そのまま背を向け、空き地を後にした。
ギャルは、カヲリの遠ざかる背をしばらくじっと見つめていた。
カヲリが走り去って、数秒もたたないうちに、雑草が激しく揺れ動いた。
「やっと行ったですか」
雑草をかき分け現れたのは、紺のジャケットとスカート、白いブラウスを着て、四角い学帽を頭に載せた十代前半の少女だ。色素の薄い肌は、透明度がすさまじく、両脇におさげにした銀髪を揺らして、まるで妖精のようなたたずまいをしていた。大きめのロイド眼鏡の奥の瞳はスミレ色である。
「何で隠れてたんだ、ハクア」
ギャルは、気安く少女を呼んだ。
「あの女と吾輩は因縁がありますから、おいそれと顔を合わすわけにはいかないのです」
「そういや、君は彼女に負けたって言ってたもんな」
ハクアは、顔を真っ赤にして小さな体を震わせる。
「ま、負けてねーです! あんなの勝負のうちに入りません。吾輩の辞書に敗北の文字はないのです」
威勢良く担架を切ったハクアの表情が、急に陰りを帯びた。
「あの雌豚、ずいぶん腑抜けちまったもんですね」
ギャルは、吹き出した。ハクアは慌てて訂正を試みる。
「べ、別に寂しいとかじゃなくて、やりがいがないといいますか……、そうですぅ! 殺りがいです。あのアマの息の根を止めるのは、吾輩の使命ですから」
「まあ、そういうことにしておいてやるよ」
ギャルは空を見上げた。巨大な入道雲が、空を覆っている。
「もしかしてですけど、あのカヲリとかいう奴を使うつもりですか?」
「そうだが。問題でもあるのか」
ハクアは地面に寝転がる黒い子猫を、しっしっと手で追い払う仕草をした。
「あいつは、単なるヘタレですぅ。そのくせ、どこかに自分を変えてくれる王子さまがいると信じて疑わない腐った性根の持ち主です。戦う意志なんて持ってないですよ」
「そうかもしれんね」
ギャルは煙草を携帯灰皿にしまった。最後の一本だった。
「萌芽はあるんだ。それに駒は多いに越したことはない」
「それはそうですが……」
ハクアが少し目を離した隙に、子猫が彼女のローファーに爪を立てていた。
「あーっ!? 何してるですか、この獣。こらやめるです!」
ハクアがみっともない悲鳴を上げ、飛び跳ねる。
「どうやら主をけなされて、腹が立ったようだね。なかなか気骨があるじゃないか」
ギャルは子猫を抱きかかえる。が、すぐに怒気のこもった一声を浴びせられ、その手から逃れて草むらに消えた。彼女は昔から動物には好かれない。
「ハクア、頼みがある。カヲリ=ムシューダを見張ってくれないか?」
ハクアのこめかみが、ぴくっと動いた。
「それは、命令ですか? お前が吾輩の手綱を握るという意味ですか、丑之森螺々(うしのもりらら)」
一触即発の空気が流れた。ハクアは、黒ギャルこと螺々をまっすぐ見据え、微動だにしなかったし、螺々もまた同様だった。
しばらくのにらみ合いのすえ、螺々の方から緊張を解いた。
「頼みと言ったろう? 嫌なら別にいい。最終的に決めるのは、彼女だ」
ハクアは息を吐き、肩の力を抜いた。
「別に嫌とは言ってません。吾輩が主と仰ぐ方は、ただお一人。それを確認しておきたかっただけですぅ」
「君は性根は腐っているが、義に厚い女だね。嫌いじゃないよ」
ハクアは、膨れ面をして腕を組む。
「お前に好かれても嬉しくないです。それで、ただ見張ればいいですか」
「任せる」
それを聞いたハクアは、にたーっと不気味な笑みを残し、去っていった。
(5~)
カヲリは、帰路に着いた。だが気づいた時には、前に住んでいた町の駅で電車を降りていた。
それから駅のホームに、一人取り残されたように立っていた。
地下鉄のホームは、電車が通過するたび轟轟という野蛮な風が吹き荒れる。カヲリの髪の毛は乱れていた。
「私だって、変われるものなら変わりたいよ」
カヲリの心中では、嵐が巻き起こっていた。ギャルのことだけでなく、明日からの学校のこと、自分の立ち位置に思いが及ばないわけがない。
「変わりたくないか」
ギャルの言葉に、波紋が広がる。うまい話があるわけがない。そう自分に言い聞かせても、考えてしまう。もっと花開きたいと思うのは、わがままなのだろうか。あの陽菜という娘のように。
陽菜のことを思い浮かべていると、足下でかちゃという物音がした。
側に自販機があるのだが、何者かが釣り銭口に手を入れる音だった。
この駅で降りたのは、自分だけだと思っていたため、少し奇異に感じた。
その人物は黒いパーカーを着て、ダメージジーンズを履いていた。フードをすっぽり被っていたため、性別はわからないが、かなり小柄でまだ子供のようだ。小さい素足にサンダルを履いている。
飲み物を買って、釣り銭を取ろうとしているのかと思いきや、いつまでも手を突っ込んであきらめない。しまいには、自販機の下をのぞき込む始末。
カヲリは、鼻の奥が無意味につーんとなった。見てはならないものを見た時の常として、口元を結んで足早にその場を離れた。
自販機を漁っていた子供は、細長い竹の棒で自販機の下をさらっていたが、カヲリが動くのに際し、立ち上がった。
「まて!」
カヲリは、どきりとして立ち止まった。エスカレーターは、目と鼻の先だ。走れば振り切れるだろう。だが、怖さに負けて振り向いてしまった。
カヲリを呼び止めたのは、黒いパーカーの子供だった。フードのせいで顔はうかがえないものの、カールした長い髪を垂らしている。女の子のようだ。
しかし、ただの女の子が竹の棒で自販機を漁るだろうか。よんどころない事情があるにせよ普通ではない。
女の子は竹の棒を引きずり、にじり寄ってくる。サンダルからのぞく足の爪には、汚れが詰まっていた。




