幸福の結末
「せっちん浄瑠璃だと思っただろ?」
美堂薫子は、野外劇場にいた。その円形劇場は、百人程度を収容できる小規模のものではあったが、古代ギリシャを思わせる瀟洒なものだった。
寒天の夜空に瞬く星は数が少なく、散り散りだ。
眼下にある小さな舞台には人気がない。今さっきまで、大勢のキャストが慌ただしく動き回っていたのだが、薫子は眠ってしまった。ただ一人の観客だったのに、だ。
スーツ姿の薫子は、石で作られた座席に座っていた。眼鏡の奥の瞳はしょぼしょぼしている。
席は階段状になっていて、舞台からは十メートル近く離れていた。師走の冷気が容赦なく襟元に忍び寄る。小さなくしゃみが出た。
「え? 今なんて?」
薫子は隣にいる人物が何か言ったような気がして、聞き返した。
水色のパーカーを着た見知らぬ人は、男性のようだった。スポーツ新聞を広げ、顔はわからない。傍らには杖を置いていた。
「いや、何でもない。ただ随分気持ちよさそうに寝てたから」
「あ、はは・・・・・・、私、劇とか普段観ないから理解できなくて」
薫子は会社帰りにバスに乗った。つい、考えごとをしているうちに乗り過ごしてしまい、終点に着いてしまった。次のバスは一時間後だし、降りたのはタクシーも通らない寂しい場所であった。近くに時間を潰せる場所は、この劇場を置いて他になかったのである。
腕時計に目を落とす。現在の時刻は八時四十分だ。バスが来るまで二十分はある。
「キャストは、がんばってくれているんだがね。脚本がへぼなのさ」
「はあ・・・・・・」
この男性は舞台関係者なのだろうか。声を聞く限り、薫子と同じ二十代のような印象を受けた。
薫子は席を立つ機会を伺うが、なかなかきっかけが掴めない。手の平が汗ばんできた。
「もしかして、監督さんなんですか?」
パーカーの男は、薫子の質問に少し間を置いて答える。
「いいや、俺は傍観者だよ。ここからしか観えない景色が気に入ってる」
想い出を語るような切ない口調だった。
薫子は男を警戒し始めた。初めから怪しかったが、不審者かもしれない。密かにバッグの中の携帯に手をやっていた。
「さっきから時間を気にしているようだが、約束でもあるのか?」
薫子の胸の音がふいに高まり、唾を飲み込む。
「こ、これから、恋人と約束が」
薫子は自分の軽口を呪った。わざわざ話のタネを蒔いたようなものだった。
だが、男は未練なさそうに薫子を離してくれる。そう、もう芝居は終わったのだ。
「そうかい。なら、こんなとこで油を売ってないで早く行った方がいい。足はあるか?」
「は、はい。バスの時間に遅れないようにしないと」
ようやく解放されると知り、安堵した。だが、腰が上がらなかった。
「恋人とは、久しぶりに会うんです。お互い、仕事が忙しくて、なかなか機会がなくて。今日は大事な話があるからって、彼に連絡を受けたんです。プロポーズだったらどうしようかな。えへへ・・・・・・」
薫子は顔を伏せて小さく笑った。バッグの持ち手を強く握りしめながら。
「私、今とっても幸せなんです。仕事もプライベートも充実してて、怖いくらい・・・・・・」
薫子の声は沈んでいた。表情にも陰があり、バッグを握りしめたままだ。
「そりゃ何よりだ。俺みたいに、おまんまの食いっぱぐれにならなけりゃ、大抵の奴は平和ボケしたクソ野郎でいられるさ」
「あ・・・・・・」
男の言うことは冷水のように、薫子に浴びせられる。甘えるなと言われている気がした。
「ごめんなさい・・・・・・、私自分のことばっかり」
「わかってるなら、世話ないよ。愚痴なんて言ってないで、早く行きな」
突き放されると、薫子は立ち上がり頭を下げていた。その場を離れる。
行く手に、水色のパーカーを着た小柄な人影がいた。長い髪をカールさせている。フードを目深に被り、顔はわからない。
「これあげる」
フードを被った小さな女の子が舌足らずに言い、何かくれた。
パンフレットのような薄い冊子だ。表紙には、こう書かれている。
「空蝉」
薫子は女の子に意味を訊ねようとしたが、彼女は風のように立ち去った後だ。
「次の演目だ。同じ時間にやってるから、気が向いたら来てくれ」
男は憂鬱そうにそれだけ言い残すと、杖をついて歩き去った。傍らには、先ほどパンフレットをくれた少女が寄り添っている。二人はお揃いのパーカーを着ていた。