菊と刀(後編)
「私って、やさしいのかな。どう思う?」
そう不意に訊ねられた伊藤嘉一郎は、困ったような笑みを浮かべ、その場を取り繕った。
彼らは、ガラス張りの小部屋にいた。床、天井、壁も全て、ガラスで固められた奇妙な部屋である。透けて見える部屋の外も、同じようにガラスで仕切られ、視線を遮るものは何一つない。ただ床下だけは違っていた。眼下に視線を投じれば、深淵へと通じる濃い闇が広がっている。いくら目を凝らそうとも、その闇に終わりはなく、見るものが逆に奈落に取り込まれる錯覚を催させた。
嘉一郎は、ダークグレーのスーツ姿で、ピンク色のベッドの下にひざまずいている。ベッドは天蓋付きで、何者かが腰掛けていた。その何者かは、華奢な素足を露わにしていた。嘉一郎を誘うように突き出された両足は、唯一の光源である蝋燭の明かりで薄ぼんやりと化粧され、妖美に映えていた。
「生徒が質問したのに答えてくれないの? そういうのって、教師としてどうかと思うけど」
「恐れながら、支配者」
普段の飄々とした態度はなりを潜め、緊張した面もちで、嘉一郎は口を開いた。
「僕は貴方の忠実な奴隷、卑しい卑しい子羊です。貴方の望む答えを、僕は持ち合わせておりません」
「ふうん・・・・・・」
支配者と呼ばれた何者かは、納得していないようだ。静かに体を揺すり、ベッドをきしませた。そこに逆鱗の兆しを感じ取り、嘉一郎は歓喜に震える。
支配者は両足を伸ばし、そのまま嘉一郎の頭に足裏を乗せた。嘉一郎は、従順に頭を差し出す。支配者は足裏をさらに強引に押しつけ、嘉一郎の頭を床につけさせた。まるで物を扱うようだった。
「私のお願い聞いてくれた? 彼はここに来てくれるんだよね?」
「はい・・・・・・、手はずは整っております」
嘉一郎は、床に顔をつけたまま答えている。支配者はさらに一層、力を込めて嘉一郎を責め立てる。
「彼がここに来ることで全てが終わり、始まりへと還る。私は永遠に生き続けるんだよ。素敵でしょ?」
白雪のような無垢さで、支配者は嘉一郎を蹂躙する。この瞬間、嘉一郎は彼女と同化するような快楽を噛みしめる。
支配者は、そんな嘉一郎の機微を熟知していた。
「ねえ、何よがってるの? 他の女子生徒にも踏んでもらってるんだよね」
「いえ・・・・・・、そんなことは」
支配者は、せせら笑いながら嘉一郎の顎をつま先で持ち上げる。
「他の娘とは、どんなことをして遊んでいるのかな? 教えて欲しいな、教えてくれるよね?」
嘉一郎は、辿々しく経緯を説明する。支配者は、嘉一郎の目をのぞき込み、羞恥心を煽るように変態と罵る。
これは、ほんのお遊び。嘉一郎は、支配者の可愛い可愛いお人形なのだから。
「最低・・・・・・、ほんと、気持ち悪い。でも大好きだよ、嘉一郎君」
(*)
寺田幸彦は薫子の部屋に閉じこめられてから、階下で起こる不吉な物音に心を脅かされていた。
銃声、女性のものと思われる天地を裂くような悲鳴、何かがぶつかり合う激しい音、それらは幸彦の日常を覆すのに十分であった。
せっちんは、この部屋を出てはならぬと厳命した。幸彦は扉に背をつけ、その戒めを守っている。守っているとは聞こえがいいが、単純に恐ろしかったのだ。その気になればドアを壊してでも、せっちんの元に馳せ参じることは可能だった。それをしなかったのは、せっちんが尋常ならざる怪異と遊ぶ存在だと気づき始めたからかもしれない。薫子も恐らく無関係ではあるまい。せっちんと薫子は、幸彦の知らない世界で戦っていたのだ。
自分が蚊帳の外に置かれたのも理解できた。薫子のような勇気と責任感、せっちんのやさしさと、意志の強さ。いずれも幸彦にはないものだ。
ただ、幸彦は耳を塞ぎ、辛抱強く待つことができるほど、図太い神経を持っていなかった。いかなる恐怖が待ち受けようとも、せっちんを失うことに勝ることはないと思い始めたのである。身近な人間を失うことを極度に恐れる彼らしいエゴが顔をのぞかせた。
幸彦は意を決し、ドアを破ろうと体当たりを始めた。しかし、びくともしない。ドラマや映画のように簡単にはいかない。
「くっ・・・・・・、どうしたら」
念のため、ドアノブを回すとあっさり用をなした。この時、食堂のせっちんは、己に菊一文字則宗を刺し、自身のキャスト能力を一時的に喪失した状態にあった。
幸彦は事情を察することなく、廊下を駆けた。途中で、獣の雄叫びのようなものが聞こえ、ガラスの割れる音も耳にした。それでも転げ落ちそうになりながら、階段を降り、食堂に突入した。
食堂内部は、椅子とテーブルが嵐が過ぎ去った後のように散乱していた。
壁際には、見知らぬ金髪の外国人女性が心身を喪失した体で、座りこんでおり、そのすぐ脇には、生まれたままの姿の幼女が横たわっていた。
「せっちん!」
髪が背丈を超えて伸び放題になっても、幸彦にはすぐわかる。頼りない体を抱き起こすと、ひどく熱を持っていた。揺すっても反応がない。幸彦は耐えがたい焦燥と心配にとりつかれた。
「君は・・・・・・、学生か?」
宙をぼんやりと眺めていた外国人女性が、流ちょうな日本語で訊ねた。幸彦は当初、別人が喋っているのかと勘ぐって辺りを見回してしまった。
「その娘のことなら、心配いらない。多分、自分の身体能力以上の動きをして、その負荷に耐えきれなかったんだ。無理筋の能力を使ったんだろうな、大した奴だ」
女性の言っていることの大半が理解不能で、幸彦はどうしていいかわからず戸惑う。
「ああ・・・・・・、そうか。君はこの娘のゲストだね。そんなことは百も承知か」
「何を言ってるんですか、貴方は」
幸彦は我慢ならなくなり、女性に詰め寄る。
「一体、この有様は何なんですか、せっちんに何をしたんですか!」
女性は鼻に小皺を寄せ、うるさそうな表情を作った。
「騒がしい少年だ。少し落ち着き給へ」
「落ち着いてなんか、いられませんよ。せっちんが大変なのに・・・・・・」
女性はきょとんとなって、せっちんと幸彦を交互に見比べる。
「さっきから気になっているんだが、せっちんというのは、その娘の名前か?」
「え、ええ。そうですけど」
「雪隠・・・・・・、かわやのことか。もう少しましな名は付けられなかったのか? 君のネーミングセンスは最悪だな。その娘が不憫でならないよ」
見ず知らぬ他人に批判され、幸彦はたまらず不興をかこつ。
「僕が名付けたわけじゃありませんから。その娘が自分から名乗ったんです」
「へえ・・・・・・、それは一体どういう意味なんだろうな。興味深い」
女性は自分一人の世界にまた戻ったようで、口を開かなくなった。
幸彦一人では妙案は浮かばず、さてせっちんを医者に診せるべきかと考える。せっちんの保護者はどこにいるのだろうか。連絡はいかようにすれば良いのだろうか。幸彦は、せっちんがどこか深い闇の奥から生まれたとは思いも及ばない。未だ普通の人間の子供と捉えている。
「君、名前は?」
女性が逐一訊ねるのを、幸彦は煩わしく感じた。見たところ外傷もなさそうだし、放置していてもよさそうだ。
「僕は、寺田幸彦です。貴方の素性は聞かない方がよさそうですね」
「ははっ・・・・・・、子供にしては気が利くね。そうか・・・・・・、寺田幸彦君か」
女性の目つきが、明らかに剣呑なものに変化した。が、それも一瞬のことで、すぐに弛緩し、壁に体重を預ける身分へと戻った。
女性は微瑕のない褐色の肌に、艶のある長い金髪をしている。少し厚い唇は半開きだったが、そこに稚気が感じられなんとも愛らしい。ミニスカートから際どく伸びた足は、ダンサーのように引き締まり、今にも踊り出しそうだ。開放的な色気と謎めいた言動に、幸彦は興味を引かれた。しかし、今はそれどころではないと頭を切り替える。
「僕は、せっちんを病院へ連れていきます。貴方も早く出ていった方がいいですよ」
「何だ、敵の心配をしてくれるのか。やさしいな」
「敵って・・・・・・、僕は貴方のことを知らないし、せっちんに何をしたのか知りたくもないけど、貴方をどうこうする気もないですよ」
幸彦は穏便に寮を離れようと思った。女性のすぐ脇には、拳銃が転がっているのに気づいたからだ。
女性はめざとくそれを察したのか、拳銃を拾って弾倉を外した。
「安心し給へ。戦う気力は、もう私には残っていない。その幼い獣に、完ぷなきまでに敗れたからね」
女性は自嘲気味に笑ったが、どこか晴れやかな笑みに受け取られた。
「もしかして貴方も・・・・・・、どこか怪我、しているんじゃないですか? よかったら一緒に病院へ行きませんか?」
幸彦は自然とそう口にしていた。女性が悪逆な人間とはどうしても思えなくなっていたのだ。
「お気遣い痛み入る。だが病院は嫌いでね。それに私は医師の資格を持っている。心配には及ばんよ」
「え?」
渡りに船とばかりに幸彦は、この人非人の手を取った。手段さえあれば、その是非を問える状況ではなかった。
幸彦は女性と協力して、薫子の部屋にせっちんを運び込んだ。せっちんに薫子のパジャマを着せ、ベッドに寝かせてから、濡れタオルを額に置いた。
「そこまでするかね、過保護だねえ」
女性は散らかった部屋から、壊れたオルゴールを拾っていじっていた。
「あの、お医者さんなんですよね? この娘を看てやってくれませんか」
鷹のように鋭く目を光らせた女性は、幸彦の顔のすぐ脇の壁に強く手をついた。女性の方が幸彦より身長が高く、かなりの圧迫感を与えてくる。
「私は高いぞ。当然その覚悟はあるんだろうね?」
幸彦はしっかりと頷いた。
女性は、幸彦の謹厳な態度がお気に召したらしい。懐から聴診器を取り出した。
「さてさて、Dr 螺々ちゃんの触診ですよっと。患者はどこだ?」
そう楽しげに言いつつ、幸彦の体を肩から腰へと無遠慮に触る。
「あのー、患者は僕じゃないんですけど」
女性は幸彦の焦りを知っていて、わざとやっている。頼む人間を間違えたかもしれない。
「異常なし。ただ少し痩せ過ぎかな。もう少し食べた方がいい。そうしたら私好みの男になれる」
「貴方の好みなんて知らないですよ。早くせっちんを頼みます」
女性は幸彦の頬を軽くつねった。間近に迫る紅をひいたぷっくりとした唇に、どぎまぎする。
「むー、私に興味がないのか? さてはロリコンだな。そうに違いない」
女性は 不平を言いつつ、ベッドに向かい、診察のようなことを始めた。幸彦は、まだこの異邦人を完全に信用したわけではなかった。距離を保って、目を離さない。
せっちんのパジャマの前を開き、聴診器を当てている女性の姿は、いかにも手慣れた医師らしく見えた。
「ふむ・・・・・・、心音は正常だ。この娘の体は、普通の人間と大差ないのかもしれないな。か・・・・・・、解剖したい」
幸彦は、にやける女性を思い切り突き飛ばした。
「じ、冗談だよ。本当にこの娘が大事なんだな」
せっちんは、熱に浮かされている。幸彦は耳を近づけ、聞き取ろうと努めた。
「ゆ、き・・・・・・、ひこ」
意識が朦朧とする中でも、自分の名を呼ばれたことに、目を細めた。しかし、次に続いた言葉に色を失うことになる。
「お、にい、ちゃん」
幸彦はとっさに後ずさり、せっちんから距離を置いた。その弾みで物に躓き、尻餅をついた。
「どうした? 具合が悪そうだが」
幸彦の豹変ぶりに、女性が駆け寄ってきた。口がうまく開かない。それでもどうにか、いつもの調子を装う。
「い、いえ・・・・・・、何でも。せっちんは本当に大丈夫なんですか」
「疑り深い奴だな。その娘はとても頑丈にできている。ちょっとやそっとじゃ壊れなかったんだぞ。それは君が一番よくわかっているはずだが?」
幸彦は震える指先で、せっちんのパジャマの前を閉じ、掛け布団を掛けてあげた。単なる聞き間違いに違いない。せっちんが、あのことを知っているはずがない。
「おい、聞いてるのか? 何か変だぞ、君」
幸彦はぶつくさ言いながら、散らかった部屋の物を拾い始めた。
「どうしたっていうんだ、一体」
女性が戸惑うのも構わず、幸彦は部屋を歩き回って、物を拾うのを止められない。
「へ、部屋、片づけないと、ち、散らかってる、から・・・・・・」
幸彦は右手の爪を噛み、左腕一杯に物を抱える。抱えきれずに拾う先から落としては、また拾う行動を繰り返した。その目には偏執的な光がちらついている。
「どうやら診察が必要なのは、この少年の方だな。全く手間のかかる。どれ、こっちを向け!」
女性は何を思ったか、幸彦の顎を掴み、唇を奪った。愛撫などとは無縁の、強引な接吻だ。力強く押しつけられた唇を前に、酸欠の金魚のように幸彦がもだえる。手にしていた物が残らず、こぼれ落ちた。
女性が顔を離すと、幸彦は床にくずおれた。そして少女のように、か弱く震えた。唇には女性の口紅がこびりついている。
「た、煙草くさ・・・・・・」
女性は幸彦を見下ろし、艶然と笑う。
「大人のキスは、ほろ苦いものさ。気分はどうだい? ハラショーか?」
幸彦は、返事をせずに、部屋を飛び出していった。
女性は煙草を取りだそうとしたが、せっちんが寝ているので取りやめた。
五分もたたないうちに、幸彦が部屋に戻ってきた。口紅は取れていた。平静を取り戻したようだが、顔色は優れない。
「貴方は・・・・・・、何者ですか」
女性は、窓辺に立ってカーテンの隙間から外を窺っていた。幸彦に気づくと、顔を向ける。
「名乗っていなかったか。私は丑之森螺々だ。螺々ちゃんでいいよ」
「ら、ららちゃん?」
「うん。ラムちゃんみたいにはやらそうと思うんだ」
大まじめにそう宣う彼女に、幸彦の現実的なバランスは揺さぶられた。まるで機関銃のように放たれる幻想に、理性が悲鳴を上げる。
「君が知りたいのは、今ここで何が起こっているかって、ことだろう?」
螺々が寮にいる理由を幸彦は知らない。それを知ってしまえば、何かしら不都合が生じると直感していた。ただせっちんのことや、薫子の異変の端緒にはなるかもしれない。幸彦は頷いていた。
「そうだねえ、何から話そうか。君は霊的なものを信じるか?」
「どうかな・・・・・・、それなりに信憑性があることなら、信じられると思います」
「それは科学的な意味においてかね」
「はい」
「それでは、霊的なものとは呼べない。科学で証明されたものは科学でしかない。ここでは”霊的なもの”という別カテゴリーを仮定して、それを前提として話を進めることにしたい。いいかな?」
「は、はい」
螺々の用心深い口振りに、幸彦は既に目が回りそうになっている。何とかついていこうと気を引き締めた。
「さて、その”霊的なもの”は、この丸岡一帯の地下に眠っている。いわずもがなそれは人間にとって、よくないものだ。例えば、臭気によって人間を苦しめたりとかね」
学校の異変に触れられるとは、予想していなかった。しかも誰も唱えたことのない説だ。 「そんなオカルトじみたことがあるんでしょうか」
「言っただろ。別枠を作ったと。話は最後まで聞き給へ」
螺々はベッドに近づき、せっちんの頭を軽くなでた。
「性悪説ってあるだろ? あれは人間は本来悪しきものだと規定して、善性は後天的に習得できるという加点方式だ。まあ、幾分楽観的なような気はするが」
「でも僕は嫌いではないです。人は誰しも変わることができるということじゃないですか」
「そう。変わることはできるかもしれない。だが変わることができるということは変わらない部分も自ずと残ってしまうということなんだよ。そして、変わらない部分はどうなるか?」
幸彦は少しむっとなって、一歩体を前に出す。
「完璧に善の心を持った聖人みたいな人なんて、いやしませんよ。バランスが取れればいいんじゃないでしょうか」
「そうだね、君の言うことは概ね正しい。話がそれてしまった。私が言いたいのは、後天的に得られなかった性質は、いかようにして対処するべきかということなんだ」
「え? それは・・・・・・」
「君は数学は得意か? どこかの単位で躓いたことはないか?」
「・・・・・・、微分に苦戦してますけど」
「その問題を君はどうするつもりだ。解決しようと努力するか、それとも、その他大勢の人間のように、社会に出ても役に立たないという便利な方便を使うか?」
幸彦は螺々の舌鋒鋭い問いに、頭を悩ませた。以前、陽菜に同じことを訊いたことがあることを思い出した。その時彼女は、やりたくないからやらないと言った。それではテストに困ると、幸彦が言うと、テストがなければ勉強しないのかと、子供のようにやりかえされた。
「一応は努力したいですけど、正直なんのためにやるのかわからないです。もし、試験がないのなら、やらないかもしれない」
螺々は我が意を得たりとばかりに、にやりとした。
「今の君が、霊的なものの正体だ」
「どういうことですか?」
「では、君を霊的なもの、微分を善性と置き換えようか。霊的なものは、目的も明確な意志もない。善性などどうして必要なのか理解できない。なくてもやっていける。どーんと来い!」
螺々は両腕を真上に掲げ、幸彦を包むようなポーズをした。
「つまり、裸の王様となった性悪説が、幅を効かせているということさ。そして人に悪さをする。私は、この霊的なものの大本を、支配者と呼んでいる」
「ル、ルーラー・・・・・・」
幸彦は打ちのめされたように、座り込んだ。螺々の説はこれまで聞いたどの説よりも、荒唐無稽であった。
「そして話はまだ終わっていない。その支配者は、さらに新しいことを始めた。自身の波長に合う人間を見つけると、それを手下にしてしまうのだ。その手下になった人間をゲストと呼び、それを監督する役割のキャストと呼ばれる怪物が常に控えることになる。そう・・・・・・、寺田幸彦、君はゲストとなったんだ。君は知らないうちに奴隷にされていたんだよ」
幸彦は失笑を隠せなかった。螺々はそれを諫めるように怖い顔をした。
「何故笑う? もうとっくに気づいているんじゃないのか? せっちんは・・・・・・」
「やめてください!」
幸彦は、はっと我に返り、せっちんの顔をのぞき込んだ。幸い、せっちんはよく眠っている。心なしか少し顔色が良くなっていた。
「貴方の言うことは、滅茶苦茶だ。今の話をそっくり、性善説に当てはめれば、支配者は聖人ってことになりかねない」
「うん。それは私も考えていた。だから言っただろ、これは仮定の話だと」
「あ・・・・・・」
「君が笑うのも無理はなかったね。この話の大部分が私の推測に過ぎない。しかし、支配者やゲスト、キャストがいるのは真実だ。その証拠に私はゲストであり、つい先ほどまでは、キャストが傍らにいた」
螺々のキャストだったソドムは、せっちんが完全に破壊してしまった。一度、消滅したキャストはもう復活しないようだ。
「もしかして美堂さんも・・・・・・」
「そう。薫子もゲストの一人のようだ。どうやら思い当たる節があるみたいだね」
昨日の爆弾事件は、支配者がかかわっていたのかもしれない。薫子はそれに巻き込まれていたのだ。
「でも、美堂さんは悪い人じゃないですよ。僕も・・・・・・」
幸彦は口ごもる。いや、自分は悪人だ。性善説に乗っ取り、どんどん悪徳に染まった人間だ。虚偽、欺瞞、もしかしたら、自分は支配者とそう遠い場所にいるわけではないのかもしれない。
螺々は幸彦の表情を見て取り、こう告げる。
「君の至った考えは、そう的外れではない。だが、誰しも清流の中だけでは生きられない。仮に清流の中で生きられるような聖人がいるとしたら、それは気持ち悪いよ。とても気持ち悪い」
「慰めてくれるんですか?」
螺々は肩をすくめる。
「そんなつもりはなかったがね。泥りに土塊を洗う老人の戯言さ、聞き流してくれ」
螺々は幸彦の頭をぽんと叩いた。どこか遠回しな愛情表現は薫子を彷彿とさせた。
「螺々さんって、やさしい人ですね。見直しました」
「なっ・・・・・・!?」
螺々は、口を開けたまま固まった。それから無駄のない動きで、幸彦を床に押し倒した。その眼光はけいけいとして、不気味だった。
「な、何て可愛いんだ。どうだ、寺田君、私のものにならないか? あらゆる欲求を満足させてやるぞ」
「あ・・・・・・、あらゆる?」
「そうだ。君の望むものを何でも与えてやろう」
螺々はコートの前を少しはだけさせ、豊かな丘陵を見せつける。彼女の左胸の少し上に、五亡星の入れ墨があった。幸彦は顔を真っ赤にして、目をそらした。
「・・・・・・、そんなものいらないです」
螺々は真顔になって、幸彦の上から退いた。
「つまらん」
螺々はコートを着直し、背を向けてしまった。幸彦は状況を整理するべく、話のきっかけを探す。
「螺々さん、貴方もゲストなら、支配者の目的とかわかるんですか?」
螺々は横顔だけで、振り向いた。口元にはうっすら笑みが浮かんでいる。
「それがわかれば苦労はない。私も知らぬ間に首輪をつけられ、不愉快な思いを味わっている。幸い、支配者の右腕と思われる人物に心当たりはあるがね」
「それは」
螺々は手を伸ばし、幸彦の言葉を遮る。
「それは守秘義務に当たるから聞かんでくれ。そこで、ここからが本題なんだ」
螺々は立ち上がり、窓辺に立つ。
「私はその人物から、依頼を受けてここに来た。依頼内容は、寺田幸彦を丸岡高校の旧校舎へと連れていくこと」
幸彦は、舞台袖から突然、舞台に引きずり込まれたような恐怖を感じ、肌が泡立つ。
「僕を? 一体どうして」
「さあね、それはわからない。十中八九、支配者が背後にいるとみて間違いはなさそうだが」
「支配者が・・・・・・」
諸悪の根元のような支配者。その立ち位置はヴェールに包まれてきた。しかし、もはや架空の怪物などではなく、実存を以て迫るようだった。
「どうする、寺田君。今までの私の話を聞いて、よもや行くなどとは言わないよな」
「・・・・・・、行きます」
幸彦は躊躇することなく、返事をしていた。螺々は目を白黒させている。
「君は一体何を聞いていたんだ? 支配者は危険なんだ。せっちんも使いものにならない状態で、そんな所にのこのこ出かけていったら・・・・・・」
「わかってます。でも、美堂さんや、せっちんが戦ってるのに、僕だけ見て見ぬふりなんてしたくないんです。それに学校の皆も苦しんでる。その原因がわかるなら」
螺々は走り寄り、幸彦の肩を強く揺さぶる。 「いいか? 今ならまだ間に合う。依頼人には私から適当にごまかしておくから」
「螺々さんは、僕に行って欲しくないみたいですね」
螺々なら幸彦を自然に誘導できただろう。それなのに、依頼人の意向を無視して、行かせまいとする。その理由が気になった。
「おもしろくないんだよ」
螺々は憤然と口を開いた。そして、幸彦の背後を見透かすように、瞳を据えた。
「私は、自分の意志で依頼を引き受けたと思いこんでいた。だが気づけば、見えない糸が私を縛り、テーブルにつかせようとする。私は支配者のお客としてここにいるのか? あるべくして、生を全うしているのではないのか? どうなんだ、一体・・・・・・」
螺々は興奮し、舌がもつれるのも構わず喋り続けた。
幸彦は圧倒された。螺々が語ったことは、運命論とも違っているように思えた。螺々は恐怖していた。幸彦にもその呼び名もつかぬ恐怖は伝播するようであった。
「螺々さん、落ち着いてください。そんなことあるわけないじゃないですか」
「いいや! 客人である我々は、自分の意志で席を立つことすら許されないんだぞ。それが生きるということなのか?」
「螺々さん!」
幸彦はとっさに、螺々の体を抱き寄せる。恐慌を押さえることには、とりあえず成功したようだ。螺々は静かになった。
「螺々さんって、恐がりなんですね。何か美堂さんに似てるな」
「ば、馬鹿にするな。それに何で、私の体を触っているんだ。離れろ馬鹿」
「すみません、つい・・・・・・」
幸彦が離れようとすると、螺々は拒むようにほっそりとした腕を回してきた。
「いや、やはりいい。そのままでいろ。私の体は薫子と比べてどうだ」
「え? 煙草くさいですけど」
奇妙な間が空いた。幸彦は口が滑ったことを反省したものの、事実なので訂正しなかった。
螺々が、ぼそっとつぶやくのを耳にした。
「馬鹿者が・・・・・・。だが、人間の体温も存外悪くないものだな」
しばらくして、体を離した二人。螺々は、また窓辺により外を窺っていた。
「最後に確認するが、本当にいいんだな?」
「ええ、後悔はしないと思います」
初対面で泣いていた、せっちんを思い出す。あの時の涙が、支配者に関することなら見過ごすことはできない。幸彦の決意は固かった。
「そういえば、螺々さんって、美堂さんの知り合いなんですよね。どういう関係なんですか?」
螺々は決まり悪げに目を伏せた。
「浅からぬ因縁はあるけれど、そうだな・・・・・・、私は彼女の主治医ってところか」
「主治医・・・・・・」
幸彦は、薫子の体の不調を訴えたが、螺々の反応は芳しくなかった。
「機会があればと思っていたが、その気も失せたよ。今は君を旧校舎に連れていくことを優先したいと思う。それにあいつは、風邪一つひいたことないんじゃないか? 心配することもないだろう」
幸彦の不安は拭えなかったものの、今は自分のことで精一杯である。せっちんの意識は未だ戻らない。薫子の行方もわかっていない。一人で立ち回るしかない。
「さて、話が決まったところで善は急げだ。旧校舎へ向かうぞ」
螺々が廊下に出た後、幸彦はせっちんのあどけない顔を目に焼き付けてから、部屋を出た。
(*)
とある病院の大部屋のベッドに、美堂薫子は寝ていた。
普段目を通すことのない女性週刊誌を、隣のベットの主に借り、スキャンダルに心躍らせていた。
せっちんと螺々が死闘を演じ、幸彦がこれから支配者と対峙するなどと、露とも考えぬ気楽な身分であった。
「あー・・・・・・、俳優のMと女優のSが破局かあ・・・・・・、原因はSの浮気ね。男好きしそうなタイプだもんね」
耳年増の中学生のように、訳知り顔である。
薫子は廃車置き場でニーナに蹴り飛ばされ、意識を失った。その後、青息吐息でタクシーを拾い、寮に帰ろうとしたが、薫子の姿がよほど正視に耐えないものだったようで、タクシーの運転手から、病院に行くべきだと強く勧められた。鼻血が止まらなかったし、節々が痛んで歩くのも難儀していたので大人しく従った。
「すぐに入院の手続きをしてください」
病院で診察を受け、血液検査をしたところ、医師にそう言われた。血が止まらないのは血小板が減少していることが原因らしい。精密検査を受けることになった。
念のため、家族に連絡しておくようにと指示された。薫子は検査を待つ間に、そうするつもりだったが未だベッドから動くことはなかった。
時刻は一時半。午睡には丁度いい案配の静けさに、薫子の表情は、だらけきっていた。週刊誌を読み終わり、半身を起こす。
「あー、十円ないわ・・・・・・、宮前さん、十円ありますか? 両替して欲しいんですけど」
週刊誌を借りた隣のベットの宮前さんに両替してもらい、十円をじゃらじゃら言わせながら、廊下に出た。
廊下を歩いていると、窓の外が気になった。外は小さい庭になっていて、ベンチに入院患者が座っていた。長い髪を両脇におさげにして、大きめのロイド眼鏡をかけた幼い女の子だった。青いパジャマを着て、膝の上に分厚い本を載せて熱心に読みふけっている。薫子が立ち止まって眺めていると、向こうも気づいたらしく顔を上げ、笑顔で会釈してきた。薫子も会釈を返した。
「誰かに似てるなあ、誰だっけ」
薫子は首を傾げながら、その場を後にした。
赤い公衆電話の前に着くと、十円を山と積んで電話をかける。唯一の肉親である叔母の元へ。
「・・・・・・、はい、サロンBiBiです」
愛想よく、張りのある叔母の声が、電話口から聞こえる。叔母は北海道で美容室を営んでいる。薫子もよく髪を切ってもらっていた。
「あっ、もしもし、ママ? 私よ、薫子」
「・・・・・・、うちに薫子なんて娘はおりません」
薫子が喋った途端、叔母の声は平坦なものに変わった。電話を切られる気配を如実に感じ、慌てる。
「ま、待って、話を聞いて。少しだけでいいから」
叔母と薫子の関係は、以前は良好であった。本当の親子よりも、親子らしいと薫子は誇りに思っていたほどだ。しかし、薫子の不倫の一件が叔母を激怒させた。もう家の敷居はまたがせないと言われ、ほぼ絶縁状態にあったのだ。
「あんたの声は聞きたくない・・・・・・、と言いたいところだけど、お客さんもいないし、その間だけなら許してあげる」
「あ、ありがとう、ママ」
薫子は猶予を与えられ、ひとまずほっとする。さて何から話そうかと、考えていると叔母に先を越された。
「今日はどうしたの? もしかして子供でもできたの?」
「できてない、できてない。どうしてそういう想像するかな」
薫子は苦笑する。叔母が不安がるのも、無理からぬ話だった。薫子は東と結婚したいと思ったことはない。ただ側にいられればいいと、安直に考えていた。取り返しがつかなくなる前に別れられてよかったのかもしれない。
「私、会社に残れそうよ」
「・・・・・・、あっ、そう。良かったね」
叔母の声は冷ややかだったが、語尾がちょっと上がったように感じた。身内にしかわからない機微である。
「あんた、ちゃんと相手の人と切れたんでしょうね? もう会ったりしてないわよね?」
「うん、もう大丈夫・・・・・・、ふっきれたし」
叔母は、憂慮を含んだため息をついた。
「あんたを見てると、姉さんを思い出すのよ。あの件があってから、やっと一人立ちしたと思ったのに。本当どうしてなのかね」
叔母は、薫子の生みの母親の妹である。生みの母は薫子が生まれてすぐ、浮気相手と駆け落ちしたらしい。その行方はようとして知れない。写真は父が処分してしまったので、薫子は生みの母の情報をほとんど知らない。叔母も意図的に隠していたようだ。叔母が不倫を嫌悪するのも、そういう事情がある。
「あんまり心配かけないでよ、私だって若くないんだからさ・・・・・・」
「うん、悪いと思ってる。反省してる」
心配ばかりかけているのは、叔母の元で暮らし始めてからずっとのことだったが、今回のことは別次元だ。本当に反省していた。
「それで? 関係解消の報告だけじゃないんでしょ? 電話してきたのは」
「ああ・・・・・・、うん」
薫子は左肩に触れた。先ほど痛み止めを飲んだが、あまり効き目はなさそうだった。
「あんた、風邪ひいた? 何か鼻声じゃない? 珍しいね、家にいた時は病気したことなかったのに」
叔母は、ささいな変化も見逃さない。薫子は十円を電話機に入れ、通信を途切れさせまいとする。
「何でもないよ。ただちょっとママの声が聞きたかっただけだから。忙しいのにごめんね」
「本当にそれだけ? 変な子だね」
叔母は、からからと笑った。薫子も笑いたかったが、できなかった。
「ママは変わりない? 病気とかしてない?」
「お客さんが、インフルエンザが流行ってるって言ってたけど、私は至って健康だよ」
「そう、良かった。体、大事にしてね」
「? あんたまた何か隠し事してるね・・・・・・、まあいいや、正月は帰って来なさいよ。待ってるから」
薫子の腕がふとしたはずみで当たり、積み上げていた小銭を倒してしまった。床にばらまかれた小銭の音を叔母が不審がる。
「薫ちゃん? どうした?」
昔のように呼ばれて、薫子の感情が決壊する。限界だ。
「何でもないから。今までありがとう、ママ。愛してるよ」
薫子は受話器を叩きつけるように置いて、床にくずおれた。嗚咽が漏れる。
「言えるわけないよ・・・・・・、私が死ぬなんて」
鼻から血が垂れて、床に滴った。血が止まらない。検査を待つまでもなく、もう長くないことは自分が一番よくわかっていた。ただ薫子は、残された時間を悲嘆に暮れて過ごしたくなかった。
今の自分にできることは何だろう。高校生として、会社員として、女として、戦士として、できることは何だろう。
「私にできることなんてないのかも」
体は満足に動かない。病室までの道が、千里も離れたものに感じ始めた。体調が悪くなると、心まで引きづられ、弱くなる。
鼻血を拭い、落ちた小銭を拾う。その時ふと、目に留まったのは、黒い動物の毛のようなものだった。指でつまむと、光沢があり、絹のような滑らかな感触である。衛生に気を遣う病院にあるまじき失態であったが、今の薫子にはそれを糾弾する余裕はない。
病室に戻ろうと立ち上がった時、廊下の曲がり角を長い尻尾が鞭のように跳ねるのを、一瞬だけ目の端で捉えることができた。十メートルは離れていたが、サテンのような光沢を持った黒い獣の尾だと理解していた。
薫子は、全てを忘れてよろよろと歩きだした。結局、病室に戻るまで、不審なものと出会うことはなかった。恐らく見間違いだったのだろう。
病室に戻ると、先ほど両替をしてもらった宮前さんが駆け寄ってきた。彼女は五十歳の専業主婦で、乳ガンで入院している。現在は快方に向かっており、来週退院予定だ。
「ねえ、ちょっと美堂ちゃん」
退屈で死にそうだと言っていた先ほどとは、打って変わって、生き生きとした顔をしている。薫子を病室の隅へと連れていった。
「どうかしたんですか?」
「さっき、この部屋に新しく患者が入ったんだけどね」
言われてみれば、入り口すぐの左手のベッドにカーテンの仕切りができている。電話をしに行く前、ベッドは空いていたのだ。
「何でも、自分で手首を切って運ばれてきたみたいよ」
宮前さんは、声を押し殺して言った。好奇心を押さえきれないようで、目が笑っている。
「まだ高校生らしいけど、若いのに命を粗末にするなんてねえ・・・・・・、何考えているんだか」
薫子は否定も肯定もせず、自分のベッドに戻った。自殺に老いも若きも関係ない。人は人が理解できない理由で死を選ぶことがある。本人にしかわからない痛みを一体誰が、何があがなってくれるだろうか。その解決策の一つが自殺なのかもしれない。方法を責めても、誰も報われない。
薫子は死に瀕していたが、名も知らぬ自殺志願者を羨むことはあれ、軽蔑することはなかった。
薫子の反応が薄いので、宮前さんも仕方なくベッドに戻った。病室に静謐な時間が戻ってきた。
薫子は、便せんに叔母への手紙をしたため始めた。一度は完成したものの、あまりに畏まっていたのでもう一度書き直す。
宮前さんは、いびきをかいて寝ていた。カーテンで隠れた新顔のベッドからは、物音一つしない。
万が一ということもある。その場合、寝覚めも悪い。薫子はベッドを離れ、新顔のカーテンを静かにめくった。
カーテンの内側には、三十代後半くらいの女性がやつれた顔でベッド脇の椅子に座っていた。じっと膝の上に目を落とし、土気色の顔をしている。母親かもしれない。肉親が側にいるのだから、薫子がおせっかいを焼くことはないだろう。
退散しようとした時、女性がふと顔を上げた。薫子は観念して、頭を下げた。
「・・・・・・、すみません。私、この病室の者です。失礼かと思ったんですが」
「いえ・・・・・・、こちらこそ。お騒がせしてしまって」
女性は薫子の謝罪に、小声で答えた。精も根尽き果てているようだった。
「あの・・・・・・、お母様ですか?」
「いえ、私は使用人です。家にいたのが、私だけだったので、付き添いです」
怪訝に思い、ベッドに目をやった。そこに寝ていたのは、西野陽菜だった。昨日、薫子と激しく喧嘩をした面影はどこにもなく、紙のように白い面を天井に向けている。人を心をのぞき込むような大きな瞳は固く閉じられ、唇は乾いている。近くには命をつなぐ点滴がある。
「え・・・・・・?」
薫子は事態が理解できずに、ベッドに近寄りその顔を間近に捉える。本当に本人なのか未だに信じられない。
「あのお・・・・・・」
女性が不安そうに身を乗り出している。これ以上の心労を与えないように、薫子は気を配る。
「私、陽菜さんのクラスメートで、美堂薫子と申します」
「お嬢様の・・・・・・?」
女性は薫子の顔をまじまじと見つめ、口の端を曲げた。
「お嬢様の同級生にしては、老けてるような・・・・・・、あっ、ごめんなさい! 私失礼なことを」
「イエ! ヨクイワレマス」
薫子は少し泣きそうになったが、そんな場合ではない。陽菜がこうなった事情を知りたいと思う。
「陽菜さんはどうして・・・・・・、リストカットを?」
女性は頭を抱え、嗚咽を漏らした。
「わかりません・・・・・・、学校から帰ってきた時は普通だったかと。夕べは遅くに家を抜け出して、今朝九時過ぎに帰ってきました。それで昼食をお部屋に運びましたら・・・・・・、こんなことに」
「陽菜さんは、その、よく夜遊びとかするんですか?」
女性は素早く顔を上げ、反論する。
「いいえ! そんなことこれまでありませんでした。旦那様に厳しく目を配るようにと言いつけられていますし、お嬢様は、普段夜十時には床につかれます。夜更かしするタイプではないんですよ」
女性は陽菜の布団をかけなおしてあげていた。かいがいしく世話を焼いて、まるで母親のようだ。
「確か、陽菜さんのお父様は代議士をなさっていますよね。今どちらに」
「それが、一昨日から地方に出張で、今日中にお戻りにはなれないそうです。ああどうしたら・・・・・・」
陽菜の父親は娘を溺愛していると聞いていたが、家を空けることは多いようだし、陽菜は寂しかったのかもしれない。
「美堂さんとおっしゃいましたよね、学校でお嬢様に何か変わったことはありませんでしたか?」
陽菜が、スカートをめくられたらしいということや、薫子と口論になったことを話すと、女性は仰天した。
「お、お嬢様と、喧嘩のできるご学友の方がいるとは思いませんでした・・・・・・」
「いや、すみません。こっちもつい、かっとなって」
女性は薄くほほえんだ。
「でも安心しました。お嬢様に同姓の友人はいないと思っていましたから」
トラブルに巻き込まれ、陽菜の精神状態は確かに不安定だったが、自殺の要因になるかといえば疑問だった。薫子が陽菜と知り合ったのは、まだ数日だし、使用人のこの女性の方が陽菜の事情に詳しいのではないだろうか。
「私、陽菜さんと友達になったのは、つい最近なんです。陽菜さんのこと知りたいんです。教えてもらえませんか?」
女性は、林と名乗り、彼女自身も使用人になって、まだ三ヶ月だと教えてくれた。
「お嬢様は、とかく細かいことにお気づきなる方です。ちり一つ見つけようものなら、箒で使用人をどつきまわし、父祖代々伝わる食事の味つけが違えば、鍋ごと捨ててしまいます」
「そ、それ、マジですか?」
「はい、マジです」
林は淡々と話すが、陽菜の仕打ちは理不尽なものに思える。
「そういうわけですから、大抵の使用人は、三日と持たずやめてしまうそうです。私は運良く続けることができました」
「はあ・・・・・・、過酷な職場ですね」
「お嬢様の母上は、お嬢様が幼少の頃、お亡くなりになりました。ご病気だったそうです。お父上は、ご承知の通り代議士をなさっています。地元の地盤を引き継いだ、いわゆる二世議員ですね」
陽菜は一人っ子で、家を空けがちの父の代わりに使用人を遊び相手にして育ったようだ。大抵は、使い捨ての玩具のように扱っていた。
「陽菜さんのお父様は、叱らなかったんですか?」
「無理ですね。旦那様はお嬢様を猫かわいがりしていますから、欲しがるものを買い与え、放任主義です」
陽菜は、まるでお姫様のように生育された。少なくともそんな生活が高校に入るまで続いたという。
「どうやら、高校に入ってできたボーイフレンドがお嬢様を変えたみたいです。暴力をふるう頻度が減り、よく笑うようになったそうです」
林は頬をゆるませる。薫子も陽菜の様子を想像し、ほほえ笑む。
「ひょっとして、そのボーイフレンドは寺田幸彦君ではないですか?」
「はい! 素直そうなぼっちゃんで、お嬢様の世話を甲斐甲斐しくされていました」
幸彦は陽菜の家によく遊びに行っていたようだ。残念ながら、林は二人の馴れ初めを知らなかった。林が知るのは傍目に見て、幸福な幼いカップルの姿だった。
「でもそんな温厚な寺田君でも、お嬢様が度を過ぎた戯れをなされた時には、叱ることもありましたね。お嬢様もそれを期待して、わざと大げさに振る舞っているような節もありました」
陽菜は生まれて初めて、自分の思い通りにできない他人と出会い、強く惹かれたのだろう。
だが、陽菜はわがままに振る舞うことでしか、愛情を表現できなかった。無理を言えば、構ってもらえるという刷り込みが彼女を臆病にした。
「お嬢様は初恋に夢中でした。私も相談を受けたことがあります。お嬢様は寺田君に嫌われることを、とても恐れておいででした。それなのに、寺田君を苦しめてしまう自分が許せないとおっしゃって・・・・・・」
昨日の陽菜も、幸彦を苦しむ顔が見たかったと、言っていた。それでも内心では、悲鳴を上げていたのかもしれない。
「今回の件も、お嬢様なりに苦心した結果なのかもしれませんね。褒められたことではありませんけど、恋にかける情熱は、本物だったと思いますもの」
恋の病に侵された少女が、ドラスティックな結末を迎える。
そういう筋書きに、薫子は一瞬納得しかけたが、どうにも腑に落ちなかった。
林は多分、嘘をついていない。彼女は使用人としてだけでなく、心から陽菜を思いやっていることが、話の端々で伺えた。実際に陽菜が幸彦に恋をしていたことは、間違いない。
だが、陽菜は本当に情緒不安定になり、自殺を敢行したのだろうか。正確には未遂のつもりだったのだろうが、林の発見が遅れれば本当に死ぬことも十分あり得たのだ。そのような賭けに出なければならないほど、幸彦の気持ちは、陽菜から離れていたのだろうか。薫子にはそうは思えない。
幸彦は確かに、未来と怪しい関係に陥っていたものの、陽菜に対する想いは、真摯であったと薫子は信じている。薫子が知る陽菜の性格からして、仮に未来と幸彦が不適切な関係にあったとしても、怯むことなくぶつかっていくのではないか。
憶測はいくらでも立てることが可能だが、どれも憶測の域を出ず、もやもやした。
「私、もう一度旦那様に連絡してみます。お嬢様も旦那様の顔を少しでも早く見たいでしょうから」
林が電話をかけに行く間、薫子が陽菜の様子を見守る。陽菜の意識は戻っていない。命に別状はないそうだが、再び自傷行為をしないとも限らないため、目が離せない。
「陽菜、貴方とこうして会えるなんて思いもしなかった。うれしいような、残念なような。でもうれしい方が強いかも」
陽菜の胸が小さく上下する。今生きている命、強く開きたいと主張している。彼女は生をあきらめていない。
「こんなこと言うと、またオバサンのくせにって言うでしょうけど、言わせて」
薫子は、痛いほど自分の拳を握りしめた。
「貴方、バカよ・・・・・・、生きてるんだから、生きられるんだから、生きなさいよ。貴方がこんなバカな真似しなくても、寺田君は貴方を見捨てたりしないわよ。昨日、私が言ったこと真に受けたんじゃないでしょうね? あんなの、オバサンの嫉妬よ、貴方たちが羨ましかったのよ、本当はラブラブのくせに・・・・・・」
薫子は陽菜に思いのたけをぶつけた。激情は激情を呼び、涙が頬を伝った。耐えきれなくなり、陽菜のベッドを離れた。カーテンを開けると、予期せぬ出来事が生じた。
一頭の黒い虎が、薫子のベッドに悠々と座っていた。体躯は人間の大人以上で、気品のある黒い毛皮には所々、金色の縞が走っている。発達した筋肉は、隆々として奥深い。ベッドが狭いようで、体を丸めていた。
薫子は唾を飲み込み、宮前さんのベッドに目を走らせる。彼女は、まだいびきをかいて寝ていた。虎に気づく様子はない。
虎が長い尻尾を鞭のように二度、しならせた。こっちを見ろと催促しているようだ。薫子が視線を戻すと、虎は口の端を持ち上げ、笑うような表情を見せた。薫子の手首ほどの大きさもある、不吉な牙がのぞく。
薫子は下を向いた。この虎が自分のキャストであることはすぐに察せられた。どうして今、この場所に現れたのかはわからない。いずれにしろ戦う気は湧かない。
王者の貫禄。虎からはそんな威風が発せられている。寮で戦った時とはまるで違う、完全な形での顕現だ。仮に菊一文字則宗がこの場にあったとしても、今の薫子では、太刀打ちできないだろう。
気詰まりになりそうだったので、薫子の方から話しかけてみる。
「貴方、男前じゃない。あっ・・・・・・、メスだったらごめんね。それにしても、これが私のキャストだったなんてね」
うっとりと感慨にふけっていると、虎が音もなく床に降り立った。目前に迫ると、まるで山のように巨大に感じる。思わず、薫子の肩に力が入る。
虎は静かに薫子の前まで歩いてくると、ぺろんと指を一舐めした。虎の涎が生温かく、獣臭かった。
「え?」
虎は甘えるような鳴き声を立て、薫子に体をこすりつけてきた。体重が違い過ぎるので、薫子はよろけてしまう。
「ち、ちょっと! どうしたの? これは一体どういうことなの」
薫子は戸惑い、虎の行動の意味を考えた。以前は敵意をむき出しにし、薫子を襲ったのに、今度はまるで飼い主に愛想を振りまくように接してくる。この落差は何なのだろうか。
「きゃっ! くすぐったいよ。もう・・・・・・、しょうがないなあ」
薫子が苦笑しながら、虎の顎を撫でると、ごろごろ鳴きながら仰向けに倒れた。
「あら、この子オスだわ。まあ、いっか」
この黒い虎、見た目はおっかないが、とても大人しく猫のようだ。飼い慣らせば力になってくれるかもしれない。
「でもどうして今更出てきたのかしら。ねえ、どうして?」
虎に、お座りとお手を教えると、すぐにやってのけた。人語を解すようだが、言葉を話すことはできないようだ。
「何とか言いなさいよ、ほれほれ」
虎の腹を撫でてやると、嬉しそうに尻尾を振る。薫子はすっかり気をよくした。
「あんなにゲテモノだったのに、随分可愛くなったじゃない。よーしよし」
虎とじゃれあって床を転がり回っていると、電話を終えた林が戻ってきた。
「美堂さん、お嬢様の様子は・・・・・・」
床に寝転がっている薫子を、呆然と見下ろす林。キャストは、第三者には関知されないのだ。薫子は事情を説明するべく慌てて立ち上がる。
「い、いや違うの、これは・・・・・・、いゃっ、ちょっ、何かこすりつけてる。ストップ、ハウス、ステイ、やめなさいって、あはは」
事態を重く受け止めた林は、ナースコールに手をかけた。看護士が何事かあらんと、なだれ込んできた。
薫子は何とかその場をうまくごまかした。窓からスズメ蜂の襲撃を受けたのだと。危うく、気持ちのよくなる薬を注射をされそうになった。
(*)
拝啓 母上さま
私は元気に働いています。同僚は良い人たちばかりで、アットホームで明るい職場です。残業はそんなにありませんし、ちゃんとタイムカードもあり、残業代もでます。
休日出勤は、月に三回ほどしかありません。
営業ノルマはありますが、同僚と競って、ゲーム感覚で楽しみます。本当です。
今は忘年会のために、腹話術の練習をしています。いっこくどうみたいになれたらいいな。
かしこ
薫子は叔母への手紙をしたためた。込み入ったことを書くと、涙が出てしまうので、簡素な内容になってしまった。
虎は薫子のベッドの下で丸くなり、眠っている。一悶着あった後、虎に大人しくしているように命令したのだ。
ところが困ったことに、この虎、相当な女好きと判明した。若い女性看護士を目の当たりすると、猛突進して押し倒してしまう。キャストは目に見えないが、質量はあるのだ。謎の怪奇現象として、看護士たちを震え上がらせた。
ただし、例外が二つあった。一つは、虎が若い女性にしか反応しないこと。宮前さんや、林には見向きもしなかった。薫子が見る限り、二十代がボーダーらしい。そして二つ目が問題であった。陽菜の姿を認めた途端、それは起きた。
「グルル・・・・・・」
陽菜のベッドに喜んで乗り込むかと思いきや、違ったのだ。殺気だった低い声を上げ、今にも襲いかからんとした。薫子が制止しなければ危なかった。
虎は陽菜のベッドを異様に警戒し、今でも薄目を開け、じっと様子をうかがっている。
「どうしたの? 陽菜は具合が悪いのよ。静かにしてなさい」
虎は不服を漏らすように、一声鳴いた。
薫子は手紙を封筒に入れると、テレビを観ていた宮前さんのところに持っていった。
「すみません、宮前さん。この手紙、出しといてもらえませんか?」
「んあ? そんなの自分で出してくればいいじゃないの」
「いや、これから出かけるんで」
宮前さんは、にやりと笑って封筒を受け取った。
「あんた、カチコミに行く岩下志麻みたいな良い顔になったね。いいよ、やっといてあげるよ」
「恩に着ます」
薫子は虎を伴って、病室を後にした。最後に陽菜の顔を一瞥した。彼女は現世のしがらみから解き放たれたような清々しい表情で眠っている。後は林に任せれば安心だろう。今の陽菜には安心できる揺りかごが必要だ。