菊と刀(中編)
二人のロシア人のいるテーブルには、菊の花が生けられたコップが載っていた。コップには、今にもこぼれそうなほど水が張られている。底からは目に映らないほどごく微量ではあったが、中の液体が漏れだしていた。
丑之森螺々は、煙草を手にしたまま憮然と立ち尽くしていた。戦闘に突入したことによる高揚感は今や薄れ、ただ薫子への郷愁が脳裏に浮かんだ。
着物の少女が小太刀を両手に構え、突進してくる。横なぎの一撃はおせじにも鋭いとは言えず、しかも螺々には届いていない。踏み込みが浅かった。
螺々は当初、少女が何らかの意図をもって、素人剣法を披露しているかと勘ぐったが、そうではないらしい。かれこれ五分ほど、少女は懸命に小太刀を振るっていた。剣術の趣はなく、重みに任せて振り回しているだけだった。その動きに合わせて、カールした髪がふわふわ揺れる。踏み込みはでたらめ、構えもできていない。典型的な素人。螺々はそう結論づけた。しかし、 そうだとすると解せない点が多い。一体部下を殺したのは何者なのか。もう一人の靴の主だろうか。その人物がゲストである可能性は高い。キャストとゲストは常に行動を共にしているからだ。
このキャストの少女は、超人的な再生能力と、金属を生み出す能力しか備えていない。恐らくそれだけに特化しているため、幼児のような攻撃力しか発揮できないのであろう。ならば恐るるに足らず。螺々はテーブルの間をモデル歩きしながら、煙草の煙を悠々と吐いた。少女が煙にせき込む。
「まるで、藕木刀だな。君、名前は?」
少女は答えない。無表情で小太刀を機械的に振り回している。
螺々は大きく舌打ちした。元来気の短い彼女(肉体の性別)は、同じ景色を五分と眺めるのを嫌う。早々にこの場から立ち去りたいという思いにとらわれた。手のひらを広げて、少女へと向ける。憎悪の念を込め、言の葉を結ぶ。
「吹き飛べ」
突如、少女は目に見えない塊に殴られたように宙を舞い、五メートル以上離れた壁にその身をしたたかに叩きつけた。その際、小太刀が手から離れてしまい、放物線を描いて螺々の側にあったゴミ箱を倒した。
「物足りんな、キャストといってもこの程度か。たまたま私のがアタリだっただけかな。 ねえ、ウリートカ」
真上の天井に大人しく待機している蝸牛に、螺々は微笑みかける。強欲を司るキャストに螺々は、ウリートカと名付けた。ロシア語で蝸牛を意味する。
少女は壁際に倒れたまま、身じろぎ一つしない。急所を狙っても立ち上がってきたにしては不自然だったが、螺々はもう少女への興味を失いつつあった。
螺々が食堂を出ようとした時、ふと側で倒れたゴミ箱が目に留まった。ゴミ箱からは透明な液体が大量に流れ出しており、たまりができている。螺々の足下にも液体は浸潤していた。胸の悪くなる臭いに、口元を覆う。
「これはガソリン、か。ゴミ箱に仕込んでいた? 何のために……」
ことんという音がしたので、振り向くと菊の入ったコップが倒れていた。テーブルの端からコップの中身がしたたっている。飛沫が螺々の服にかかった。袖の臭いを嗅ぐとそれもガソリンだと判明した。煙草を携帯灰皿へとしまう。
「ずいぶん手の込んだことをするじゃないか。私を焼き殺そうって言うのか? そんな真似」
倒れていた少女がいつの間に食堂からいなくなっていた。代わりに出口付近には大量のまきびしがばらまかれている。退路が塞がれた。
「どこに行った」
その時、螺々の頭に最悪の可能性が閃く。人間の体内にある物質を使えば全ての準備は整う。導火線はすでに食堂の中に存在した。 二人のロシア人の遺体から、白い煙が立ち上り始めた。肩から腕へと、弱々しい火花から、炎へと昇華する。
この食堂に入った時、螺々は既に罠に捕らわれていたのだ。
獲物を求める大蛇さながらに、猛火が螺々の四囲を取り囲んだ。
(*)
せっちんは、食堂の外でこの世のものとも思えぬ阿鼻叫喚の声に耳を澄ませた。首尾は順調だった。侵入者のボスを倒すことには恐らく成功した。あの蝸牛とゲストは薫子を狙っていたようだが、せっちんには関わりない。幸彦に少しでも危害が加わる恐れが生じたため、戦うことにしただけだ。
十分間ほどして、だいぶ静かになった。いい具合に炙られたのだろう。確認するため、ドアを開け中へと足を踏み入れた。
侵入者は、凶獣のような火炎に取り巻かれ、食堂の中央辺りで膝を折って事切れていた。火勢が思いの外強く、せっちんの進入を拒む。スプリンクラーのスイッチを切っていたため、自力で消火しなくてはならない。一度食堂を出ようと足を向けた時だった。
「う゛ぁ、う゛ぁ……、あつい……、あつい……」
くぐもった声がリフレインする。せっちんは耳を貸さず、食堂を出ようとした。
「ククク……、熱くて丁度良い火加減だ」
今度は一言一句はっきりと聞き取れた。せっちんが素早く振り向いた時、信じがたい光景を目の当たりにした。
炎がまるで統率されるようにきれいな層を作り、渦を巻いていた。侵入者を中心として、火の勢いがみるみる弱まる。侵入者は事切れてなどいなかった。指揮者のように流麗な手つきで、炎を操り、手のひらに載るサイズまで小さくした。息をふっと吹きかけ、火を完全に消してしまった。
侵入者の体は火傷はおろか、服に至っては焦げ一つなかった。
侵入者は自身の金髪をさっと払う。
「私の悲鳴はどうだったかな? なかなか真に迫っていただろう。この女の……、ああ、この体の元の持ち主はソプラノ歌手志望だったそうだ。私はまずこの女の声が気に入ったんだ。ハラショーな声で鳴くんだよ、カナリアみたいにね」
侵入者がわざとらしくウインクする。
せっちんの目論見は崩された。逡巡することなく次の手段に移った。小太刀を手に間合いを詰める。
侵入者は鼻でせせら笑う。
「相も変わらず猪武者か、本当につまらん。もういいよ、君」
何の前触れもなく、せっちんの右手の指が全て反時計回りにねじ曲げられた。骨が関節ごと割れる乾いた音階が響く。たまらず小太刀を落とし、膝をつく。せっちんは唇を噛み、激痛に耐えた。
侵入者は、つかつかと歩み寄り、せっちんの鼻に膝蹴りをめり込ませた。
「うぐぅ……!?」
「君はよくやったよ。部下の死体で私をおびき寄せ、機を見計らい、ガソリンをまく。死体を発火装置にし、私を焼き殺す。ただ、相手が悪かったね」
せっちんが金属を操ることは既に看破されていたが、自分で生み出す以外にも、鉱物を活性化させることも可能だ。その能力を使い、死体の中にある隣を活性化させた。隣はマッチなどにも使われている物質で、動植物の体内にも含まれている。隣は五十度で発火する。暖房をかけていたのは少しでも発火させやすくするためだった。
「さて、改めて訊こうか。君の名前は? 何故私を襲った。君は薫子とどういう関係だ?」
せっちんは慌てることなく、手をさすっている。鼻からは鮮血が滴っていた。
「ああ、名を訊ねるならまず私から名乗るべきか。私は丑之森螺々。周りからは親しみを込めて、螺々ちゃんと呼ばれているよ」
螺々が態度を急速に軟化させても、せっちんは地面に垂れた自分の鼻血に目を落としたままだった。無理もない。常人なら目を背ける暴行を平然と行う螺々に対して、気軽に口をきけようはずもなかった。
「強情だね。ゲストに忠義を立てているのかな? 君のゲストは薫子か?」
「ちがう」
せっちんが即座に答えるのを見て取り、螺々は確信めいた笑みを浮かべた。
「そうか、それならいい。薫子は今どこにいるか知っているかね?」
せっちんは怪我の治癒を待っている。三十秒もしたところで出血は止まり、砕かれた骨は握る力を取り戻していた。にもかかわらず、眼下に落ちる小太刀を拾うことができなかった。螺々の絶対的な力を前に心身ともに屈してしまったのだろうか。否、せっちんは悔しくてたまらなかったのだ。自身に与えられた恩寵が他のキャストに比べ、程度の低いものだとは理解していた。対キャスト専用の能力、菊一文字則宗も自分では満足に振ることも叶わない。それでも知恵を絞れば、戦えると、ゲストを守れると信じて疑わなかった。せっちんは螺々に敗北したのではない。自身の業である傲慢に屈したのだ。
「最後に訊ねるけれど、君の主は支配者ではあるまいね? ま、それはないか」
螺々はせっちんを見下ろして、冷笑する。せっちんはただ判決を待つ被告人のように神妙に目を閉じている。
螺々はせっちんの顔をハンカチできれいにふき取った。
「がんばったね、主のためによく戦った。その健闘を讃え、私が責任をもって君を壊してあげよう」
せっちんの体がまるで重力を失ったように浮かび上がり、天井に張り付けられた。待ちかねたようにウリートカが這いよってくる。得体の知れない存在にせっちんの集中が途切れる。
「く、るな」
「安心しなよ、そいつは君を消化液で溶かしたり、変な病にかけたりするわけじゃあない。そいつにできるのは、ただ廻すことだけだ」
せっちんの視野に異変が生じる。天地が、ゆっくりと反時計廻りに廻転を始めたようだった。しかし、当初、床と平行だったはずの天井が斜めに傾いたと思うと垂直になり、また平行になりつつある。せっちんは目を閉じ、状況を打破する作戦を練る。
「廻転って便利だよね。方向をねじ曲げたり、ねじ切ったりもできる」
せっちんの瞼が強制的に持ち上げられた。目を閉じることができない。廻転速度は非常に遅い。せっちんは床と天井が垂直に交わるのを見計らい、慎重に手をついて立ち上がろうとした。
「!?」
上半身を曲げようとしたが、自分の意志とは無関係にまた天井にはりつけになる。何度か試したものの、体を起こすことができない。
「遠心力が働いているからね。生半可な力では身動きは取れないよ」
壁に垂直に立つ螺々と接近したと思うと、また天井から離れていく。廻転の方向も速度も螺々が支配している。距離が縮まるはずがない。天地がまるでベルトコンベアーのように四隅に吸い込まれる。せっちんの体が、地層のプレートのように壁に消え、対角線から姿を現す。螺々だけが異常な世界の中心で動かずにいた。空間に奥行きがなくなり、平べったく感じられた。
「私が見たところ、君の再生能力は細胞を活性化させていることに起因するんだろう。それなら細胞自体を壊してやればいい」
螺々の推量は、当たらずとも遠からずだ。せっちんの体の構造は人体と大差ない。ただ人体のどの部分にも適応する万能細胞を生成し、大量にストックする臓器が一つ余計についており、その臓器が活発に働くことにより、不死が成り立つ。もし、その臓器の働きを超えた攻撃を受けた場合、せっちんは消滅してしまう。
螺々はその臓器の存在に気づいていないが、このまま廻転したままでいると血の流れが滞り、細胞が壊死する。当然、例の臓器も損壊を免れない。残り時間は少ない。
「子守歌でも歌ってあげようか。もうそんな年でもないかな。なら手慰みに私の話を聞いてくれないか。ある娘の話だ」
せっちんは、廻転の法則性を見極めようと努めたが、一定時間を過ぎると廻転方向と速度がランダムに切り替わり、螺々に接近する手段が見つからない。よしんば、近づけたとしても、遠心力と三半規管の異常で満足に動けないだろう。
「その娘は病弱だった。いや、病弱にされてしまったんだ。彼女の父親は娘が風邪を引いただけで、不治の病にかかったと思いこむほどの心配性だった」
単なる心配性の域を超えて、神経症に近いものだった。
父親は不必要な思いこみにより、娘に治療を施した。実際は治療とは名ばかりの虐待だった。免疫をつけるためと言って、寒空の下に放り出し、体を鍛えるためと言っては暴行した。
「驚いたことに父親に罪の意識はなかった。本当に娘のためを思って冬山に置き去りにしたり、猛獣のうろつくサバンナに放置した。彼は言った、これで娘の病気は治る」
せっちんは最近、別の人間から似た話を聞いていた。因縁めいたものを感じる。
「悲しいかな、娘はいくら虐待されても死ななかった。死ねなかったのかもしれないね。二人は依存しあっていたのだから。行き着くところまでいっても、父親は満足しなかった。そこでこの不世出の天才、螺々ちゃんの出番というわけさ。不安で参ってしまっている可哀想な親子に同情した私は、娘さんを元気にしてあげましょうかと申し出た」
父親は喜んで螺々に投資もとい、散財した。螺々はそのお金を遣い、研究者を集めた。
「初めは適当に説得力のあるデータを集めて、娘の健康を証明しようと考えていた。本当だよ? 私だって慈善を尊ばないわけじゃない。それでハッピーエンドだ。私は懐が潤い、父親は安心し、娘は人間らしい生活を送ることができる。万々歳だ」
ところが、娘の体は螺々と研究者の想像を超えて発達していた。臨床研究を行えば画期的な発見をすることが可能であることは誰の目にも明らかだった。
「私も研究者のはしくれだからねえ、探求欲には勝てなかった。その娘をさらに元気にする研究を始めた」
後はせっちんが以前に聞いた話と相違はなかった。その娘はオーバーフローを起こし、人間の機能を失った。
「やりすぎたと思った時は、大抵取り返しがつかない。あの時がそうだった。娘は李徴の虎じゃないが、理性を失っていた。私は手首を丸ごとごちそうしたよ、あれは痛かったなあ」
螺々は右手首をさする。かつての肉体の痛みは持ち越されるのだと確認していた。
「私は申し訳なくて申し訳なくて、父親にそれなりの慰謝をしようとしていた。しかし、父親は私をなじるどころか、感謝していた。ありがとうございますと何度も頭を下げた」
その時、螺々は理解した。この父親にとって娘が健康かどうかは重要ではない。娘が病気だと信じれば、自分は必要とされる。父親は病弱な娘を投射することによってしか己の存在を確認することができない。娘は人間ですらなくなったから、今度はそれを大事に大事に育てなくてはならない。新しい目標が見つかったのだ。
「私がこんな話をしたのはね、後悔しているからだよ。感謝されるくらいなら、実験を続けるべきだった。重ね重ね残念だよ。……ま、君にはかかわりない話だがね。私の懺悔は以上だ」
螺々の話を半分聞いた当たりで、せっちんの意識は途切れがちだった。彼女の顔は鬱血して毒々しい紫色になり、腫れていた。血栓ができて血管につまれば一巻の終わりだが、それももはや時間の問題である。
螺々の話は、美堂薫子の生い立ちであった。せっちんは薫子の脳天気そうな顔を思い浮かべ、腹立たしくなった。しかし、無様な自分の現在の姿はそれに勝るとも劣らない。せっちんはある決意を固めた。
「あ、の、おんなのちからを、かりるのはふほんいじゃが、いたしかた、あるまい」
螺々にはせっちんのつぶやきは聞き取れない。せっちんは螺々と最大限に距離が離れる対角線上で、菊一文字則宗を取り出した。胸から木が萌えるように太刀が伸びる。薫子が使っていた時とは違い、刀身は梵字で隙間なく埋められていた。
せっちんは則宗を掴み、一息吸い込むと自身の心臓に突き立てた。
(*)
天井と床が水平になり、不規則な運動が唐突に終了した。空間が奥行きを取り戻したのだ。
螺々は確かな地面を踏みしめ、待ちかねていたように煙草を取り出す。
「ようやく片づいたな」
螺々の頭上では、少女がぶら下がっていた。少女は自らの心臓に太刀を突き立てたのだ。よほど強く刺したようで、天井に刺さって抜けないらしい。滝のような血が止めどなく床に滴っていた。
「苦痛に耐えかねて自害したか。キャストも人間と同じように感覚があるのだね」
螺々はしみじみと言ってから、少女のことを頭から締め出した。薫子が現れない以上、この寮に用はない。伊藤の依頼も遂行しなくてはならない。時間をかけすぎたと言える。
「仕方ない、嘉一郎の依頼を先にこなすとするか。しかし、どこにいるのだろうね、寺田幸彦とやらは」
せっちんの体がこぎざみに揺れる。螺々は気づいていない。
「上の階にもう一人いたんだっけ。とりあえず行ってみるとしよう」
螺々が階上に目を向けた直後、ピピピというアラームに似た電子音がどこからともなく聞こえてきた。螺々は耳を澄ませたが、どこで鳴っているのかはっきりしない。近いようで遠いような気がするが、音は段々と大きくなっている。
「……、ヲ、アンインス、トール、シマシタ」
螺々はすぐに能力を使えるように、見構えた。電子音に混じって声らしきものが聞き取れた。
「……、ヲ、確認……、”暴食”ヲ、インス、トール後、再起動シマス」
螺々には、何が起きているのかわからない。ただ電子音に混じって聞こえる音声が、何かを始めようとしていることだけは自明だった。
「終わったはずだ。あの娘は自害して……」
螺々は自身の失策に思い至る。あの少女は自ら死を選んだが、細胞が死んだわけではないのかもしれない。未だ再生能力は健在で、もしこの状況を打破できる切り札を隠し持っているとするならば、話は違ってくる。
螺々は余裕をなくした声で叫ぶ。
「ウリートカ! 今すぐその娘の体をねじ切れ! 修復不能になるまでだ、今すぐ!」
螺々は時間をかけずに、真っ先にそうするべきであったのだ。だがもはや遅過ぎた。
せっちんの体から黒い霧が立ち上る。せっちんのカールした髪がほどけ、みるみる背中に伸び始めた。手足の爪が鋭く刃のように研ぎすまされていく。胸に刺さった則宗がバターのように体にとけ込み、消えていった。
菊一文字則宗は出自の怪しい名刀。存在すら定かではない名刀。亡霊のように、人の口の端に上っては消えていく名刀。人を夢幻に惑わせる能力を持った名刀だ。
薫子が使用した時は単によく切れる刀だった。それは薫子が自身で読んだ小説でイメージした結果に過ぎない。せっちんが使用した場合、それとは異なる効果を発揮した。他のキャスト能力を自身に投影する能力だ。
「ヴ、ヴ……ヴ!」
薫子を襲った獣に似たうなり声が、せっちんの喉を借りて放たれた。
その時になってようやく、螺々の指示を受けたウリートカの能力が発動した。せっちんの首が百八十度ねじ曲げられ、体中の骨という骨、内蔵、関節が同じように粉々になるまで廻転させられた。せっちんは天井から落下し、テーブルに叩きつけられる。その体はぞうきんが絞られたような不自然な姿勢で凝り固まり、もはや動き出すまいと思われた。
螺々はそれでも安心ができなかった。久方ぶりに味わう恐怖に完全に飲まれていた。
「まだだ! もっともっと、曲げろ!」
どれだけ絞っても何故かせっちんの体は、擦り切れなかった。螺々は体力の限界を感じ、玉の汗を浮かべて壁に手をついた。キャストどゲストはリンクしているため、能力を使うたび体力は減少するのだ。
「はあ、はあ……これなら」
螺々が安堵したのも束の間、せっちんが花の蕾のような不自然な体勢のままテーブルの上に立っていた。螺々は息を飲んだ。無尽蔵の再生能力に加え、さらに新しい能力が加わったに違いない。でなければ、自分の足が怯だ震えるはずがない。
螺々の予感は的中した。
せっちんが獣とも人とも異なるおぞましい雄叫びを上げたのだ。螺々は目を閉じ、耳を塞いだ。その衝撃は窓ガラスを残らず紙のように吹き飛ばした。
螺々が目を開けた時には、せっちんの姿は見当たらず、窓から頼りない風が吹き込んでいるだけだった。
だが気配ははっきりと感じる。螺々はゆっくりと壁際まで移動した。
螺々のキャスト、ウリートカの最大の弱点は、攻撃対象を螺々が目で捉えなければならないことだ。さらにキャスト自体は自立していても、命令なしでは一切攻撃を加えることはない。たとえ、キャスト自身に危険が迫っても。意思が全くないのか、ゲストがいなければ無能の存在。その点あらゆるキャストの最底辺に属するとも言える。
つまり対象が螺々の胴体視力を超える動きをした場合、能力は有効に機能しなくなる。一旦、守勢に回れば圧倒的に不利にならざるを得ない。
「ふん、来るなら来い。今度こそバラバラにしてやる」
黒い影が狩りを足音を立て、食堂中を駆け回る。螺々は目を皿のようにして敵の動きに備えた。
どさっと螺々の眼前に何かが落下した。粘着質の液体にまみれた貝の残骸だった。自身のキャストが破壊されても螺々は眉一つ動かさず、足下に落ちていた拳銃を拾った。
十メートル離れたテーブルの上で、小さな手をなめていた獣と螺々の目が合う。獣は、背丈を超えた髪の毛を顔に垂らし、ほぼ全裸の状態で、無心に螺々を見据えている。
跳躍した際、足場にしたテーブルが木くずに成り代わる。
黒い凶獣の爪牙が走馬燈のように螺々に迫る。かの獣は虚無を抱いて飛ぶ。螺々は瞬きも許されぬこの瞬間、獣に羨望を抱いた。かつて螺々は薫子に同じ想いを抱いたことがある。獣は螺々が忘れていたものを全て備えていた。失うことにより得られる背理に心が躍る。
死は、喜び。それを思い出させてくれた若い獣に感謝を。
死を運ぶ風は、螺々に届くことはなかった。獣は鋭利な爪を螺々の瞳すれすれまで伸ばした状態で床に転がった。呼吸をするたびに痙攣し、涎をまき散らしながら、苦しみに喘ぐ獣に、螺々は心からの憐憫を寄せた。
螺々は自身のこめみかみに拳銃を当て、躊躇することなく引き金を引いた。弾は発射されなかった。念のためもう一度行ったが、結果は同じだった。
「しけた話だ、全く。そうは思わないか」
螺々は心底悔しそうにうめくと、拳銃を捨て、壁を背に座り込んだ。
食堂の入り口では、一人の少年が血の気のない顔で突っ立っていた。何か大声でわめきながら獣に駆け寄る。螺々には、そんな情景がもはや無意味な情景に思えた。
獣は体を丸め、死んだように瞼を落としている。彼女は幼子が母に抱かれた時のような安堵の表情を浮かべていた。