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せっちん!  作者: 濱野乱
菊と刀編
10/97

菊と刀(前編)

「ムッシュくま五郎の世界」

と、書かれたスケッチブックを持った着ぐるみが、午前十時頃、駅前広場に出現した。道行く人々はその前を白けた顔をして通り過ぎて行く。

ムッシュくま五郎は、水色の毛に覆われた体に突き出るような大きな両目、反っ歯という間の抜けた風貌をしていて、ぽっこりしたお腹の当たりからはちょっと綿がはみ出ている。公式設定では身長百七十センチ、体重六十二キロとなっている。

ムッシュくま五郎は、株式会社エゾテー創立六十周年を記念して作られたマスコットキャラクターである。それまでマスコットを勤めていたエゾテンちゃんが、あまりに地味だと判断され、リニューアルされたのだ。現在では北海道にあるエゾテー博物館で、くま五郎初号機と共にエゾテンちゃんがケースに納められた姿を見ることができる。

ムッシュくま五郎は言語を発しない。それが空虚な墓石モニュメントだと理解しているかのようだ。しかしながら、彼は独活の大木ではない。スノボーに精通し、禅を嗜む古風な面を合わせ持つ。そのシュールな設定が一部のマニアに受け、くま五郎はマスコットとして各個たる地位を手に入れた。

イメージPV第三弾「ムッシュくま五郎の星間飛行」では、月に降り立つくま五郎の姿を確認できる。さすがにこれはさまざまな憶測を呼び、完全なフィクションと片づけられた。

しかし時を同じくしてNASA(アメリカ航空宇宙局)が、くま五郎の性能が宇宙服に劣るわけではないという声明を発表し、物議を醸した。

ファンの多くが、くま五郎は宇宙空間の運用に耐えうるという結論に達している。

奇妙な話である。所詮は着ぐるみ、中の人がいなければ指一本どころか存在も危うい傀儡だというのに。信じる力は大気圏をも超えるのだろうか。

そして着々と狂信を獲得するエゾテーという企業は何者か? ここではそれを長々と述べるのを避けたいと思う。

これはある女の物語だった。過去形なのは、物語は知らずにその女の手を離れて、いくつもの流れを形成していたためである。

美堂薫子。彼女の物語が、終わりを迎えようとしていた。 


 (*)


ムッシュくま五郎の沈黙は、十分間ほど続いた。正確な時間を計っているものは誰もいなかったし、朝の忙しい時間に、着ぐるみの前に立ち止まる者は皆無だった。小鳥がくま五郎の肩に止まっても、小さい子供がすねに蹴りを入れても微動だにしないくま五郎は、機が熟すのを待っていたのだ。

突如として激しいヒップホップ音楽が流れると、くま五郎がダンスを始めた。手足が別々の動きをし、大地を踏みならし、くま五郎は踊り続けた。その動き、あらぶる阿修羅のごとし。 

じょじょに人だかりができ、くま五郎の雄姿に注目が集まる。くま五郎は頃合いを見計らい、ブレイクダンス。頭を地面に載せて、強回転。くま五郎は地球を載せて回っている。

くま五郎が立ち上がると、一拍置いて拍手の嵐。パフォーマーとしての彼も一流である。

続いて、くま五郎はスケッチブックをめくり、皆に見えるように広げる。

「ムッシュくま五郎の消失」

と、書かれている。観衆が意味を考えているうちに、くま五郎は唐草模様の風呂敷を広げて頭から被っていた。

観衆がちょっと目を離した隙に、くま五郎の姿は煙のように消えた。 

「あら、どこに行ったのかしら」

会社員風の若い女性が風呂敷を拾い上げた。目のつく箇所を探していたが、ふと顔をあげた。

「あ! あれを見て」

七階建てのビルの屋上に悠然と立つ、くま五郎を発見したのだった。

観衆の中にハンチング帽を被った男がいた。彼はニヒルな笑みを浮かべていた。

「ふん、くだらん。どうせビルにもう一体用意していたに決まってる」

観衆は熱気に水を差されて、むっとしたが、男の指摘ももっともなので、もう立ち退こうと考え始めた。

そこでハンチングの男の肩を叩く者がいた。

「うわっ!」

ビルに移動したはずのくま五郎が背後にいて、男の肩を叩いたのだ。人々は目を剥いた。

その後もくま五郎の世界は続き、火を吹いたり、ジャグリングしたり、餅をついたりと目まぐるしく働いた。

広場の隅では、エゾテー直売所のテントがひっそりと営業していて、新商品を売っていた。

人の流れが止まってしまい、交通渋滞が起こり始めるとくま五郎は人並みに乗って移動を始めた。握手を求められたりサインをしながら、どこかに向けて移動する。

人々は何のためにここに集まっているのかわからなくなっていた。知らないうちにエゾテーの直売所に並んでいて商品を買っている。しまったと思いつつも、まあおもしろいものを見れたのでいいかと納得して帰っていった。

くま五郎は群衆の波を抜け、広場を離れていた。特に人目を気にする様子もなく胸を張り、通りすがりの小学生と一緒に横断歩道を渡った。小学生と別れてもくもくと進む。

とあるスーパーの駐車場に行き着くと、停まっている白いワゴン車の中に入る。

「お疲れさまでした」

眼鏡をかけた温和そうな男性が車内で迎えてくれた。くま五郎は頭部を外した。中から、汗ばんだ顔をした美堂薫子が現れた。前髪が額にぺったりと張り付いている。

「イベントは上首尾で終わりましたよ。貴方は素晴らしい働きをしてくだいました」

薫子は呼びかけられても、放心したように一点を見つめて反応がなかった。

「美堂さん」

「あっ・・・・・・、はい何ですか」

極限まで集中し、くま五郎を演じていた薫子は現実に復帰するのに時間がかかった。スポーツドリンクをこぼしながら飲み干し、汗を拭うと、人心地つくことができた。

「いやー、本社の方は動きが違いますな。私も若い時はならしたものですが、ああはいかない」

「いやいや、そんなこと・・・・・・」

薫子は謙遜しながら、三本目のスポーツドリンクに口をつけていた。薫子の着ていたくま五郎は使用者の体にフィットするように薄く軽く作られているが、内部に熱が籠もるのは避けようがない。飲んでも飲んでもなくした水分を補給できている気がしなかった。

薫子と話している男性は阿部といって、近くのエゾテー支社で働く企画担当だ。現在四十五歳、独身。

薫子は寮でかつての上司、東との電話を終えた後、段ボールを持って支社に向かった。受付には話が通っていて、薫子は会議室に通された。

会議室では、薫子の到来を待ちわびていたようであった。上司の根回しのよさに改めて舌を巻いた。

「いいものをお見せしましょう」

会議室の隅で、借りてきた猫のように縮こまる薫子に気を遣ったのか、阿部は備品室に連れていってくれた。そこで眠っていたくま五郎に、薫子は色々なしがらみを忘れ、飛びついた。前々からくま五郎を着てみたかったが、なかなか機会に恵まれなかったのだ。 

大学時代、手品のサークルに参加していたことが今回役に立った。薫子は主にチアサークルで活動していたが、友人に頼まれて掛け持ちで参加していたのだった。

「美堂さんは、くま五郎に特別な思い入れでも?」

「え? 何故ですか?」

「いえ、ただ何となく。失礼ながら貴方の鬼気迫る迫力は尋常ではなかったので」

薫子は心を見透かされてわずかに動揺したが、不思議と嫌な感じはしなかった。同じ苦難を乗り越えた阿部に親しみを感じ始めていたからかもしれない。

「実は初めて父にもらったおもちゃが、くま五郎だったんです」

「そうでしたか……」

薫子は、その人形を今でも鞄につけて持ち歩いている。後にも先にも父からもらったものはそれだけだ。

「阿部さん、差し支えなければ教えてほしいんですが」

「どうぞ。私に答えられることでしたら」

薫子は、自分の着ているくま五郎の腹を撫でた。

「このくま五郎スーツは他のと違うと思うんです。間違っていたらすみません」

阿部は目を丸くして、薫子を見つめた。失言だったかもしれない。

「美堂さん、実はこのくま五郎は表に出ることのなかった代物なんですよ」

「それはつまり」

阿部はどこか照れくさそうに話し出す。

「そのくま五郎は、いわば零号機という奴なんです。まあ、試作機という方が正しいのでしょうが」

「それがどうしてあの備品室に」

薫子は興奮気味に訊ねる。くま五郎のことになると我を忘れるのだ。

「私が、くま五郎の設計者だと言ったら、信じてもらえるでしょうか」

薫子は驚きのあまり言葉を失った。くま五郎の設計者は非公表になっている。その秘密を探ろうとした者は、不慮の事故死を遂げるとか。エゾテーに入りたての頃、先輩に脅かされた覚えがある。

「阿部さんが、くま五郎の生みの親だったんですね」

「はい。私が資料の隅に落書きしたものが、マスコットになったんです。上に進言して商品化したのは、東なんですけどね」

薫子は今すぐ車から飛び出して逃げ出したくなったが、実際は一歩も動けず、情けないうめき声が出ただけだった。

「つまり、その……、阿部さんの手柄を東が横取りしたということですか」

阿部の横顔はどこか哀愁を感じさせた。

「昔はそういう風に考えたこともありましたね。今では時々会って酒を飲むくらいにはなりましたけど」

阿部と東は同期入社だった。突っ走り気味の東を阿部が諫める。まるでピッチャーとキャッチャーのようなコンビだったらしい。

しかし、くま五郎の一件以来、二人の関係に亀裂が生じた。東はその後順調にキャリアを重ね、阿部とはそれきりとなったようだ。

「何かすみません。元部下として謝罪させて下さい」

「どうして美堂さんが謝るんですか。くま五郎は東が気がつかなければ、シュレッダーにかけられて、それまでだったと思います。私にはあんな行動力はありませんから」

阿部はこほんと咳払いをし、窓の外を見つめた。

「あの頃は楽しかった。零号機は私と東の合作です。恨んでいたら、とっくに処分していましたよ」


薫子が零号機を着たことは、どこか因縁めいていた。阿部は薫子の不祥事を知っているのだろう。支社でもあからさまに好奇の目を向けてくる社員もいたのだ。

阿部の心胆はいかに。それを訊くことは薫子にはばかれた。東と阿部の思い出に水を差すことはしたくない。

「ところで美堂さん、くま五郎の違いがよくわかりましたね。うちの者でも見分けがつかないことがあるのに」

薫子は水を得た魚のように雄弁になる。

「零号機には現在稼動中の二号機、三号機の特徴であるアイラインがありません。付属品の月のフラッグもなかったし、ウェストがなくて寸胴です。頭部は初号機並みの大きさですが、零号機は他の型にはない犬歯があり……」

蘊蓄をまくし立てる薫子を、阿部は口を挟むことなく見つめていた。薫子は喋り過ぎを恥じて、口を閉じた。これでは釈迦に説法である。

「美堂さんは、くま五郎を愛してらっしゃるんですね。大変光栄に思います」

設計者にほめられ、こそばゆい思いを味わう。この地に来て本当によかった。

しかし突然、阿部の表情が打って変わり、厳しくなる。仕事人の顔だ。薫子は身構えた。

「実はここだけの話、来年の春にくま五郎四号機がロールアウト予定なんです」

「えっ!? ついに四号機が誕生するんですか」

三号機がいるのに、二号機も稼動しているのには理由がある。三号機はシャープさを追求した故に、本来の持ち味であるくま五郎のやぼったさが消えてしまっており、大変人気がない。月に到達したレジェンド、初号機の路線を踏襲する形での新型誕生が望まれていたのだ。

「どうして私にそんな重大機密を」

「今日の貴方の八面六臂の活躍を見て決めました。貴方を四号機のテストパイロットに推薦したい」

「うひょっ! そんな、私でい、いんれすか!」

薫子は勢いよく立ち上がり、天井に頭をぶつけた。ろれつも回らなかった。くま五郎を演じることは、エゾテー最高の誉れとされている。役員ですらおいそれとは着ることはできないのだ。

「確約はできませんが、今日のイベントはテレビでも中継されていました。貴方の資質をアピールするには十分だったと思いますよ。お願いできませんか」

夢のようだ。薫子はあの希望のない研究所で、くま五郎の雄姿を心の支えにしていた。テレビで月に立つくま五郎を観て、かろうじて人間の心をつなぎ止めていたのだ。

夢が現実になろうとする刹那、薫子は左肩のうずきを感じ取り、物思わしげに息を吐いた。

「せっかくのお話ですが」

 

 (*)


薫子は阿部の誘いを丁重に断った。阿部はなかなか粘ったが、最終的に薫子の意志を尊重してくれた。

薫子を起用することはそれなりのリスクもあったはずだ。そのリスクを超える働きをすると、評価してくれことには感謝をしていた。阿部には、やることが残っていると釈明するしかなかったのが悔やまれた。

薫子はスーツを脱いで、ジャージ姿で車の外に出た。着替えを持ってこなかったので、汗が乾かず不快だった。

昼までまだ少し時間がある。阿部に打ち上げに誘われていたが、断ってしまった。周りが薫子を見る目は変わったかもしれないが、所詮自分は部外者の扱いだ。今更気を遣うのも面倒だった。

それにいくつかやりたいことがあった。まずはせっちんを探すこと。それが最優先事項である。会社の仕事がひと段落した今、体は自由になったので心おきなく探すことができる。

足音が聞こえてきたので、薫子は反射的に車の陰に身を潜めた。くま五郎は着ていないが、もし正体がバレれば皆の頑張りが無駄になる。あの現場で働いていたのは薫子だけではなかった。複数のエゾテー社員が陰に陽に働いていたのである。

「……こっちだよ」

若い女性のものと思われる囁きが薫子のいる車の反対側面から聞こえてきた。もう一つ違う足音が遅れて聞こえ、立ち止まった。

「もうこの辺りには、いないんじゃないかなぁ」

男性というより、少年の鼻にかかった声がした。

「でも、くま五郎がこっちに歩いていくのが見えたんだけど……」

女性の声がしぼむ。あまり気丈な方ではないらしい。

「きっとくま五郎は帰ったんだよ。僕らも帰ろう」

「う、うん。ゆー君がそう言うなら・・・・・・」

女性はゆー君とやらに主導権を握られているらしい。二人は恋人なのかなと薫子は推測した。

「あっ、そうだ。ゆー君。はい、今月の分」

紙のこすれるような音がして、薫子は一層聞き耳を立てる。

「え、こんなに・・・・・・? 受け取れないよ」

少年の戸惑いを含んだ声が響いた。

「気にしないで。あたしスーパーでバイト始めたから。足りなかったらまた言ってね」

「迷惑かけてごめん。必ず返すから」

「それは言いっこなしだよ。あたし、ゆー君のためなら何でもするから」

薫子はそろそろと足音を立てないように、その場を離れようとした。ゆー君恐るべし。きっとあの女性は骨の髄までしゃぶられてしまうのだろう。無関係ながら同情を禁じ得ない。さりとて薫子がくちばしをいれても、別れさせることは難しい。周りが反対すればするほど、ロミオとジュリエットのように感情は高ぶり、かえって意固地になることが想像できた。薫子のように目が覚めるのを待つしかない。

立ち去る前に、後学と好奇心を満足させようと、薫子は顔を半分だけ出して、ゆー君の姿を拝もうとした。残念ながら女性の後ろ姿が視界一杯に広がった。

カーキ色のモッズコートに、黒のスキニーパンツにショートブーツ。すらりとした体型によく似合っている。

女性が振り返り、薫子と目が合った途端、大きな双ぼうが限界まで見開かれる。ぽかんと開けた口から、声にならない嘆きのようなものが漏れた。

薫子もまた同時に驚愕し、危うく声を上げそうになるのを堪えた。

「・・・・・・、ゆー君、ちょっとここで待っててくれる?」

女性が抑揚のない声でゆー君に断りを入れてから、薫子の方に歩いてくる。薫子は口を押さえ、しゃんがんでいた。

「どうしてここにいるんだ? 師匠」

見間違いであってくれたらと願ったが、それは叶わなかった。ゆー君と会話していたのは、来栖未来だった。未来は長身を精一杯屈めるようにして、薫子の真横にしゃがんだ。

「・・・・・・、ジョギングしてて、偶然通りかかって。聞くつもりはなかったんだけど」

未来の反応を伺いながら、薫子は探りを入れていく。

「前に振り向かせたい人がいるって言ってたけど、あの男がそうなの?」

「・・・・・・うん」

小声で話していたが、未来はことが露見しても恥ずかしがる素振りを見せなかった。逆に毅然としていて、むしろ盗み聞きしていた薫子を責めているように感じた。

「未来さんって可愛いとこあるのね、全然気が付かなかった。彼とは長いの?」

「幼なじみだよ」

素早く返事をして、ゆー君のいる方を気にかけている。一刻も早く薫子との話を終えたいようだった。

未来の別の一面に、薫子はショックを隠せなかった。ゆー君と自分を秤にかけて嫉妬している。

薫子は額をぴしゃと叩いた。

「あー、駄目だ。他人なら見て見ぬ振りしようと思ったけど、未来さんは友達なんだもの。黙ってられないわ」

「友達だから、そっとしておいてくれないか。あたしはへーきだから」

へーきな女がそんな複雑な顔をするだろうか。未来は強がっている。薫子は我慢ならなくなり、車の陰から身を乗り出した。

「え・・・・・・!?」

呆然となったのは薫子だけではなかった。ゆー君もまた、似たような反応を示した。

「美堂さん・・・・・・、どうしてここに」

幸彦が学制服のまま棒立ちになっていた。その手には封筒が握られている。

「あはは・・・・・・、そうか。幸彦だから、ゆー君ね・・・・・・」

薫子は目にも留まらぬ早さで、幸彦の手から封筒をひったくった。中をあらためると、一万円札が三枚入れられていた。

「何よ、これ。どうするつもりだったの?」

幸彦は貝のようにおし黙った。薫子の怒りは頂点に達した。烈火の勢いで怒鳴る。

「何とかいいなさいよ! やましいことがないのなら言えるはずでしょ?」

幸彦は首を縮めたまま黙っている。薫子は怒りたいやら情けないやらで泣きたくなった。

と、そこに未来が飛び出してきて、薫子と幸彦の間に割って入る。

「ゆー君は悪くないんだ。師匠、責めないであげて」

「はあ? 全然話が飲み込めないわ。こういうのは後腐れなくするのが一番なのよ」

気づけば激しているのは薫子だけで、後の二人は冷静だった。熱くなればなるほど虚しい。

幸彦は目を合わせることなく、告げる。

「ごめん、美堂さんには迷惑かけられないから」

薫子の思考は停滞し、何も考えることができなくなった。

「あっそう、じゃあ勝手にすれば。どうせ私は関係ないものね。丁度よかったわ、私北海道に帰るし、もう協力関係は解消しましょう」

幸彦と未来は同時に息を飲んだが気にせず、薫子は早口でまくしたてる。

「貴方たちのことは忘れないわ。じゃあね、さよなら」

封筒を放り投げると、脇目もふらずに走り去った。

スーパーの駐車場を出ると、とぼとぼと当てもなく歩いた。

幸彦と未来も薫子を部外者として見なしている。彼らのコミューンには、いくら薫子が努力したところで完全にとけ込むことはできない。それは承知していたつもりだったが、想像以上に堪えた。あの二人は薫子と知り合う以前から、長い時間を過ごしているのだろう。そこに入ることはできなくても、ここ数日で彼らの仲間になったように勝手に感じていたのだった。

一時間ほどして辿り着いたのは、百坪くらいの広さの廃車置き場だった。どのくらい歩いたか定かではない。土地勘もないので、まるで異国のように感じる。

廃車は外車、国産車問わずきちんきちんと折り畳まれるように重なっているので、ちょっと触ったくらいでは倒れそうにない。それでも風化は避けられず、錆の浮いた車体はみずぼらしい。

所々に茶色い水たまりができている。薫子は目を落とした。

水たまりに映る自分の顔は、しゃちこばっていて見栄えがしない。

「ぼっちのオバさんはっけーん!」

積み重ねられた廃車の上で、ニーナがぴょんぴょんと跳ねている。髪を一本にまとめ、ベレー帽を被り、タートルネックのセーターにフレアスカート、ストッキングに赤いフラットシューズを履いていた。

人を小馬鹿にしたような風貌は相変わらずだ。むしろコケテイッシュな攻撃性が白日の下で花開いて、より魅力的に見えた。

「友達に受け入れてもらえなくて可哀想だね、なぐさめてあげよっか?」

「結構よ。何か用?」

尾けられていたのだ。今の自分がどれほど無防備だったのか身が引き締まる。だが奇襲をされなかったことは、不幸中の幸いだった。

「さっきは随分楽しそうなことしてたよね。何だっけ、くま」

「ハクアを殺したのは貴方たちでしょう?」 薫子は断言した。

校庭に置かれた菊の花は二輪だった。そこに何らかのメッセージ性を読み解こうとすれば自ずと答えは限られてくる。

「だったらどうするの?」

とり澄まして答えたのは、ナノである。ニーナより一段高い所に座り、素足をぶらぶらさせていた。黒地に蜘蛛の紬を着ている。

「あっさり認めるのね。ならここでハクアの仇を討たせてもらう」

ニーナとナノが同時に吹き出していた。笑い声がハーモニーを奏でるように薫子の耳元で鳴っているようだった。

「無理だよ、あんたには」

ニーナに軽くあしらわれ、薫子は強く地面を踏みならし叫ぶ。

「どうかしら、やってみなくちゃわからないわよ」

「結果は見えてるけど。ま、いいか」

二十メートルほどの高さから、ニーナが片足で地面に降り立つ。薫子は胸の前で拳を構え、ニーナに近寄っていく。ニーナは自分の手の爪を熱心に眺めている。

薫子は、無防備に見えるニーナの顔面に向け、鋭い拳打を放った。ニーナは上半身をわずかに後方にそらすだけでかわした。

「あんたは何のために戦うの? 薫子」

ニーナは薫子の直情的な拳、蹴りを流水を彷彿とさせる動きで難なく回避した。

「決まってるでしょう? ハクアの仇を討つためよ!」

薫子は決死の覚悟で頭からニーナに突っ込んでいったが、まるで闘牛をいなすように身をかわされた。

「仇とか言っちゃってるけどさ、あんたはそんなことちっとも思っていないでしょ。だってハクアはあんたを殺そうとしたし、むしろ清々したんじゃないの?」

「黙りなさい。貴方たちがやったことは許されることじゃないわ」

「あたしたちの行為に憤っているの? ハクアの死はどうでもいいの?」

薫子は意外な指摘に決意が鈍りそうになるものの、拳を強く握り耐える。

「・・・・・・、ごまかしはもうたくさんよ。まじめに戦いなさい」

「ふーん、いいのかな、そんなこと言っちゃって」

ニーナは腰に手を当て立っているだけだった。しかし、薫子の戦意は一気にそがれた。実力者特有の見切りの早さで薫子は悟る。ニーナに隙はない。高見の見物を決め込んでいるナノも恐らく同等か、それ以上の力を秘めている。ハクアを惨殺した能力も薫子はまだ知らない。初めから勝機はなかったのだ。

「じゃあお言葉に甘えて。いっくよー、オバさん!」

ニーナが怒濤の勢いで薫子に迫り、片足を掲げ、振りおろす。薫子は両手でニーナの踵をガードするが、骨に食い込むような衝撃が走る。

ニーナは薫子が体勢を立て直す暇を与えず、ローキックで脇腹を跳ね上げた。薫子は踏ん張り切れずに吹き飛び、廃車に突っ込んだ。 「ニーナ、やりすぎ」

ナノが不快感を露わにすると、ニーナが舌をぺろりと出した。

「だってぇー、オバさんが本気だしていいって言うからさぁ」

ニーナの猫なで声が遠くに聞こえる。薫子の意識は途切れかけていた。四肢に力が入らない。

ニーナは、右足だけで器用に廃車の上を飛び跳ねながら、ナノのいるところまで登った。 「ニーナ、おでこ出して」

「えー、何でー?」

「ルール破ったでしょう。キャストはゲストを直接攻撃してはならない。私たちも例外じゃないんだよ」

「あっ、そうか」

ニーナは前髪をかき分け、素直に額を差し出した。

「でこぴんぴん」

ナノはためらわずニーナの額を中指で二度はじいた。可愛らしいかけ声とは裏腹に、岩が砕けるような激しい音が鳴った。瞬く間にニーナのおでこが真っ赤になった。

「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いたいいいいいー⁉」

ニーナが悲壮な声を上げる。目には大粒の涙が浮かんでいた。演技ではなく、精一杯苦しみに耐えている。

「罰なんだから痛くしなくちゃ意味ないよ」

ナノは袖を振りつつ、廃車の階段を降りていた。

「やりすぎだってーの。殺す気か!」

「貴方だって美堂薫子を殺そうとしたじゃない。本気だったんでしょう。足は大丈夫?」

ニーナは先ほどから使っていない左足に触れる。

「・・・・・・気づいてたのか」

「貴方のことは何でもお見通し。半身だもん」

ニーナの左足は薫子を蹴り飛ばした時に損傷していた。歩行に支障はなかったが、戦闘には影響しそうであった。キャストと言えども、怪我もするし、致死量の傷を負えば死に至る。

「あのオバさん、鋼でできてるみたいに固かった。チクショー、あたしの美脚が腫れたらどうしてくれる」

「安い挑発に乗るからだよ。これに懲りたら慢心を改めることだね」

ナノは頭から血を流し、動かなくなった薫子を一瞥してから十メートルくらいの高さから飛び降りた。つま先から光子への変化が始まり、地面に着く頃にはその姿は大気に溶けて消えている。

「今日はお別れを言いに来たの。もうこの世界で会うことはないと思うから。バイバイ、薫子さん」

惜別のこもったナノの口調は、薫子の知る誰かのものに酷似していた。気を失っていた薫子が、それを知るのはまだ少し先のことだ。

 

 

 (*)


薫子に突如として別れを切り出された幸彦と未来は、やっとのことで混乱を収めると、投げつけられた紙幣を拾い、二人で目を見交わした。

「何かあたしが口べたなせいで、師匠に誤解させちゃっみたい。どうしよ、ゆー君」

「未来姉ちゃんは悪くないよ。僕がいけないんだ」

幸彦は封筒を胸の前で強く握った。幸彦と未来は実家が近いこともあり、幼少の頃から親しくしてきた。未来は派手な見た目から気が強いと誤解されがちだが、本来は気が弱く、トラブルに巻き込まれることが多い。幸彦はそんな彼女を時折、助けていた。いつの頃からか、未来は年下の幸彦に絶対的な信頼を寄せるようになってしまった。幸彦はそんな彼女の弱さにつけ込んでいる。自分は最低だと思っている。

「師匠どうしたんだろ。何か様子がおかしかった。北海道に帰るって本当なのかな」

「わからないけど、何か事情があるんだろうね」

幸彦は昨夜の薫子の様子を思い出していた。寮に戻ってきた時の薫子はあきらかに様子がおかしかった。制服はボロボロ、風呂場でのおぞましい悲鳴、まだ新しい生傷、ベッドでの秘密の会話。

「私まだ死にたくない」

薫子は幸彦が眠ったと思っていたが、幸彦の耳に彼女のSOSは届いていた。だが結局何もできなかった。

「美堂さん、一人で何か抱え込んでるのかもしれない。僕に何かできることがあればいいんだけど」

「ゆー君珍しいね。誰かのこと真剣に考えてる」

「え? そうかな、未来姉ちゃんは違うの?」

「う、ううん。違わない」

未来の表情に微妙な陰影が生まれ、潮が引くように消えた。

「ところで気になってるんだけど、未来姉ちゃん、どうして美堂さんのこと師匠って呼ぶの?」

「ふぇっ! そ、それは・・・・・・」

未来は顔を真っ赤にしてうつむいた。しどろもどろになり、口をもごもごさせた。

「あ、あの、その」

「うん、落ち着いて。ゆっくりでいいからね」

幸彦に勇気づけられるように、未来の表情が活気づく。こんな時、どちらが年上なのかわからなくなる。 

「あのね、師匠は卓球がものすごく強いんだ。あたし負けちゃってさ、師事しているんだよ」

未来は卓球の全国大会に出場するほどの腕前だが、薫子がそれ以上に強いということを幸彦は無条件で信じた。

「ゆー君、これからどうしよっか。ランチならあたし行きたいところあるんだ。イタリアンのね・・・・・・」

「悪いけど未来姉ちゃん、これから・・・・・・」

幸彦が意図せず話を遮ると、未来の顔がひきつけを起こしたように固まる。まずいと思った時にはもう遅かった。

「ごめんなさいごめんなさいごめんさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい勝手にしゃべってごめんなさい」

未来は頭を抱え、ひたすら小声で謝り続けた。まるで、幸彦に対して大きな罪悪を披瀝するかのようだった。

幸彦は動揺を見せないように注意しながら、未来の肩をしっかりと抱きしめる。

「大丈夫だから、僕は怒ってないからね」

未来は、青ざめた美しい顔を上げた。怯えきった彼女には幸彦の一言でも、大いなる福音に感じられたようだ。か細い声で訊ねる。

「ほんとう? あたしのこときらいにならない?」

「うん、僕は未来姉ちゃんの味方だよ」

未来は放心し、幸彦に体を預けた。未来がこんな風になってしまった原因は定かではない。中学生頃から、異性に極端に怯えるようになってしまった。未来は幸彦以外の男子とは話すことはないらしい。些細なきっかけでスイッチが入り、パニックを起こす。学校ではまだ発覚していないようだが、いつそうなってもおかしくはない。

またしても肝心なときに幸彦は役に立てない。未来だけでなく陽菜や薫子、せっちんのことも。

「僕、これから美堂さんと会ってこようと思う」

未来は言葉の意味が飲み込めないように首を傾げていた。

「このままだとよくないと思うんだ。美堂さんには、あのことを話しても大丈夫そうだし」

「あ……、ああそうだね、師匠なら何とかしてくれるかも。あたしったら自分のことばっかり考えてた。駄目だよね」

幸彦は未来と駅前で別れ、丸岡高校前行きのバスに乗った。バスに乗ると不意に大きなあくびが出て、慌てて口を閉じた。幸いバスには幸彦しか乗客はいなかった。

未来には悪いが一緒にいるとかなり疲れる。言動に細心の注意を払わなくてはならないからだ。それに昨夜はほとんど睡眠をとれなかったのが痛い。健康的な男子が若い女性と閨を共にして正常でいられるわけがない。寝たふりをしていたが、いつ理性のたがが外れてもおかしくなかった。

丸岡高校前で降りると、寮へと続く小道に入る。骨のような白樺の木が道なりに生えている。靄が出てきて、気温が低下しつつあった。視界が悪いので、躓かないように慎重に歩く。ふいに前方の木の陰から見知った後ろ姿が、躍り出た。

カールした髪を可憐に揺り動かしながら歩く小柄な少女。

「せっちん!」

幸彦が呼びかけても、彼女は振り向きもしない。まるで兎のように小さく飛び跳ねながら進んでいるように見える。靄が濃くなり、せっちんの姿を見失わないように注意しながら幸彦は寮への道を急いだ。

寮に辿り着くと、正午を過ぎていた。玄関には空の段ボール箱が置いてある。人の気配はない。薫子はまだ帰っていないようだ。

階段を駆け上がる音がしたので、幸彦は二階へと上がる。

「せっちん? いるの?」

幸彦は一つ一つ部屋をのぞいていった。最後に薫子の部屋の前に立ち止まる。

誰もいないのに、何故か辺りを気にしてしまう。まるでこれから悪事を働こうとするような奇妙なためらいが生じた。意を決して幸彦は薫子の部屋に立ち入った。

部屋の中はひっくり返したように雑然としていた。教科書や服などの薫子の私物が散乱している。薫子が大切にしていたオルゴールは踏みつけられたように破損し、部品が周囲に飛び散っていた。所々に靴の跡が見受けられる。

今朝、幸彦が寮を出る前、部屋は整然としていた。薫子がやったとも考えにくい。寮に鍵はかかっていなかった。第三者が部屋を荒らしたとも思える。

「まさか、せっちんが・・・・・・」

「よんだか?」

幸彦の背後にせっちんがいた。足音がしなかったので、降って湧いたような感じがする。

「せっちん! よかった。無事だったんだね」

せっちんは膨れ面をして、そっぽを向いた。幸彦はそんな彼女の異変に鈍感であった。

「美堂さんの部屋を散らかしたのは、もしかして君?」

せっちんは頑なに首を振った。

「そうか、じゃあ一体誰が」

「ゆきひこ!」

せっちんがぴょんぴょんと跳ねて、怒りを露わにする。

「え? どうしたの?」

「きのうはどうして、わらわをさがしにこなかったのじゃ」

幸彦はせっちんの不満の原因に思い至ると、すまなさそうに姿勢を低くした。

「ごめん、探しに行きたかったけど美堂さんにお願いしたんだ。心配だったのは本当だよ」

「うー・・・・・・、しんようがおけぬ」

せっちんの曇りのない眼から、幸彦はたまらずに顔を背けた。だがせっちんは幸彦を困らせるつもりはないようだ。すぐに笑顔になる。

「まあ、すぎたことはもうよいじゃろ。じゃが、それなりのつぐないをせねばな」

「償い?」

幸彦はぎくりと身を固くする。せっちんは目を閉じ、顔をつきだした。

「せ、せっちん?」

幸彦が狼狽したのは言うまでもない。小鳥の雛が餌を催促するようにせっちんはその体勢のままでいた。

「なにをしておる、ゆきひこ。おうべいでは、ほんのあいさつがわりにするのがならわしじゃ。き、き、きすするくらいなんでもないのじゃ」

「うーん・・・・・・、でも恥ずかしいな」

せっちんは謝罪の気持ちをキスで表現して欲しいようだ。幸彦は躊躇した。幼い頃に未来とした記憶はあったが、それはノーカウントだと思っている。つまり異性の唇に触れた経験はないのだ。しかし、せっちんもまた幼いし、それで彼女の気が晴れるならと、思い直した。

せっちんの背の高さに屈んで、軽くおでこに唇を当てた。せっちんは幸彦の薄弱な態度を薄目でしっかり確認した。

「りていく!」

やり直しを要求され、幸彦は途方に暮れてしまう。子供の方がごまかしに敏感なのかもしれない。

できるだけ余計なことを考えないようにして、幸彦は再びせっちんに顔を近づける。今度はしかと唇にするつもりであった。

せっちんの恋する乙女のような恍惚とした表情に当てられ、幸彦も気を引き締めた。

あと少しで唇が触れそうになった時、一階でドアの開閉する音が響いた。

幸彦は、せっちんから体を離した。薫子が帰ってきたのかもしれない。

階下に向かおうとする幸彦の袖を、せっちんが押さえる。

「ゆきひこ、したにいってはならぬ」

と、強い口調で制止した。

「・・・・・・、どういうこと? 僕、美堂さんに話があるんだ」

せっちんは、力を込めて離そうとしない。幸彦はふりほどくのをあきらめざるを得なくなった。

「理由を聞かなくちゃわからないよ。どうしたの? 美堂さんと会いたくないとか」

「うー、ちがうのじゃ。とにかくここにおれ」

せっちんは薫子の部屋に幸彦を押し込めた。せっちんは部屋の外からドアを押さえて開かないようにしている。

「わらわがいいというまで、そこをでてはならぬ」

「どうして?」

せっちんはドアを背中にして、囁くように返事をする。

「なにもきかずにしたがってくれ。わらわからの、さいごのたのみじゃ」

「え・・・・・・?」

それからせっちんの気配が消えた。ドアもノブが回せなくなって開かなくなった。

せっちんは階段を飛ぶが如くに駆け降りる。

「こんどこそ、ゆきひこは、わらわがかならずまもる。なんびとたりとも、じゃまはさせぬ」

  

 

 (*) 

 

「空気が澄み渡っているねえ」

丑之森螺々が丸岡高校付近の散策を終え、女子寮に戻ってきたのは、幸彦が部屋に閉じこめられるほんの数分前のことだった。

螺々は薫子がくま五郎を着てパフォーマンスをしている間に、一度寮を訪れていた。目的の薫子が不在だったため、部下二名に寮を見張らせ、自身は散策に足を向けたのだ。

螺々は白のトレンチコートにミニスカート、パンプスを履いていた。山歩きには不向きな格好だったので、景色を眺めるだけですませた。

「嘉一郎の奴、パンデモニウムの障気が湧いているみたいに脅かしやがって、きれいなもんじゃないか」

ぷりぷり文句を言いながら、寮の中に入る。玄関に男物の運動靴が脱いで置いてあった。

「お客様かな。どれ挨拶でもしておくか」

螺々は物怖じすることなく、靴のまま寮の中を進んだ。一階を丁寧に一つ一つ調べ、食堂に足を踏み入れた。

両開きの扉を開けた途端、中に籠った熱気が外に溢れだした。暖房を強くしているらしい。最初に訪れた時には、暖房はついていなかったので、奇異に感じた。

食堂の中心テーブルに二人の人間が向かい合って座っていた。螺々の部下であるロシア人の男たちだったが、様子がおかしい。二人の前には、なみなみとつがれたコップが二つあり、瑞々しい白菊の花が生けてあった。二人は目を見開いたまま黙って座っている。

螺々は頭に来て、声を荒らげる。

「おいおい、やけにくつろいでるじゃないか。君らの国では日本の葬式の真似事をするのが、労働に相当するのかね」

螺々の当てこすりに、二人は何の反応も示さなかった。両腕をだらんと垂らし、菊の花に目を落としている。彼らはうだるような暑さにも、関わらず汗一滴かいていなかった。

さすがの螺々も気味が悪くなってきた。背を向けている方の肩を掴んだ。男の太い首には小さな赤い斑点が一つついている。その瞬間、螺々は状況が飲み込めた。二人は応えたくても応えられなかったのだ。

螺々は背後に気配を感じ、素早く振り返る。絣の着物を着た小さな女の子が立っていた。その無垢な手には、不釣り合いの血を滴らせる千枚通しが握られている。今まさに螺々に凶器を突き立てようとするように、手を振り上げる最中であった。 

螺々は慌てることなく懐から、四十口径の拳銃を取り出し、少女の眉間に向け、引き金を二度引いた。少女は眉間を正確に打ち抜かれ、人形のようにどうと倒れた。

「・・・・・・、子供、か」

少女は、螺々の部下と同じく目を見開いたまま、頭から血を流し絶命していた。

この少女が二人を殺害したのだろうか。部下の二人は軍に籍を置いていたこともあるプロの傭兵である。腕は立つ。螺々も信頼して連れてきたのだ。それがいともたやすく背後から首を一刺しされ、オブジェにされてしまうとはにわかに信じがたい。少女はボロボロの草鞋を履いている。玄関にあった靴は別人のものだ。犯人はもう一人いる。銃声を聞きつけ今にもやってくるかもしれない。

「この娘、ゲストかキャストか判別がつかんな。どうせならキャスト同士をぶつけてみたかったが」

螺々は少女の死体に背を向け、むせかえるような菊の香りに引き寄せられるようにテーブル側に寄った。

少女は音もなく足だけで立ち上がっていた。眉間から拳銃の弾がコロンと床に落ち、螺々が振り返る。

「何だ・・・・・・、これは?」

死んだはずの少女が起き上がり、汚れた顔を一生懸命袖で拭っている。螺々は、自分の目が信じられず、テーブルに手をついた。

少女がバックハンドで、千枚通しを螺々に向け投擲した。螺々は完全に隙だらけだ。

ところが倒れたのは、またしても着物の少女だった。螺々に向けて投げたはずの千枚通しが、少女の喉を深く刺し貫いたのだ。少女は驚いた顔をしたまま、うつぶせに倒れた。

「不意をついたつもりだったようだが、残念だったね。私に死角はないんだよ」

螺々は煙草に火をつけ、一服した。紫煙の向こうに立ち上がる人影がかすんで見えた。

少女は千枚通しを喉に刺したまま幽鬼のように立ち上がっていた。おもむろに千枚通しを引き抜き、床に放り投げる。螺々の足下近くに血の付いたそれが転がってきた。

首筋の傷が、ファスナーが閉じるように塞がるさまを、螺々は興味深げに眺めていた。

それから少女は、首を目一杯後ろに倒し、口を大きく開けた。何をするのか気になり、螺々は煙草を吸いながら成り行きを見守った。

少女の口から這い上がるように小太刀の柄が突き出した。柄が完全に露出すると、少女はずずずと口から抜き身のままの小太刀を引き抜いた。そのまま螺々に切っ先を向ける。

 ふっ、と笑って螺々は、拳銃を軽快に投げ捨てた。

「そうか、君はキャストだったか。それならあの二人を殺れたのも頷ける。遊んで欲しいのか? よかろう、薫子が現れるまでの時間つぶしだ。存分に楽しませてやるよ」

螺々の真上の天井に、蝸牛が顕現した。目が回りそうな黄色と紫の配色の奇妙な貝殻が鈍く光る。

せっちんが小太刀を手に、螺々へと斬りかかる。人外の戦いの火蓋が切って落とされた。

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