つまり
序 しつちゅうなう
十代女子、トイレの個室に立てこもる。
彼女は、髪を緩く巻き、絣の着物に身を包んでいる。開いた足の間に和式便器が鎮座する。
木製の壁に半紙が貼られている。『よごすべからず』と拙い筆で書かれていた。紙の右上のセロテープが剥がれ、今にもずり落ちそうだ。
少女は目を限界まで見開き、眉間にシワを寄せ、唇を痛々しく噛む。
後は天命を待ち、人類の仕事にふけるのみなのだが……
我々は外で待つことにしよう。
暫くして、個室から水の流れる音が聞こえ、木製の扉がギシギシときしみ、開く。中はもぬけの殻だ。
水音が徐々に小さくなり、やがて消え失せた。
一話 つまり
私立丸岡高校は、創立始まって以来の危機を迎えた。
学校の敷地内に謎の瘴気が発生したのだ。瘴気と言っても目には見えない。
ズバリそれは臭う。
各自、己の最も嫌悪する臭いを想像されたし。丸岡高校は、まさに地獄の瘴気をはらんでいたのである。
異臭騒ぎが発生してから、三ヶ月が経過しても問題は解決しなかった。
臭いが漂っていても、何かのガスが発生していないことは計器が証明している。専門家もなかばサジを投げてしまう。
校長が変な祈祷師に多額のお金を払っていた事が露見して、クビになっても学校関係者の多くが彼に同情的であった。
とはいえ、学校の主役はあくまで生徒である。彼らの生活に目を移そう。
とある冬の日の登校風景、丸岡高校では、男子は詰め襟、女子は黒なセーラー服に赤いリボン。
通っている生徒のほとんどが、マフラーと、マスクを着用している。
喧騒冷めやらぬ下駄箱で、顔見知りの女子生徒二人が出会った。
「おふあよ。けふたんむくね?」
「あしあし。あふたたむ」
そう言って、もう片方の頬に手を当てると、当てられた方は飛び上がり、切ない悲鳴を上げた。
「ふああっ! ひむたい! らりぬるら」
「めんそ。るい」
彼らは環境に適応する術を身につけた。鼻栓をし、香料の付いた防塵マスクをつける。鼻栓を持っていない者は、鼻にティッシュを詰める。中には酸素ボンベにガスマスクといういでたちで現れた猛者もいた。
気を紛らわすために口の中には常に飴か、ガムを入れておくと、心が壊れずにすむ。こうしていると、意思疎通に齟齬が生じるが、一ヶ月もすると、聞き間違えることはほぼなくなる。慣れとは恐ろしい。
下駄箱に入ると、まず上履きに消臭スプレーを吹きかける。こうして彼らの一日が始まるのだ。
下駄箱を過ぎると、皆、無言になり早足前進。
廊下の壁には、火気厳禁、感じるな考えろ!と書かれたポスターがはってある。
生徒のほとんどが、忍者のように壁に背をピッタリとつけ横一列で移動する。
彼らは、トイレと反対側の壁に張り付いている。臭気は、トイレから発生しているという噂が存在しているからだ。
事実、トイレは特に臭いがきつい。多くの学生が、平均三十秒以内でトイレを済ますという統計が出ているように、学内で最も危険な場所なのである。
そんな危険地帯をよそに、廊下の真ん中を平然と進む一人の少年がいた。
壁に張り付く者たちは、彼を畏怖を含んだ眼差しで見送る。
だが、真ん中を歩く少年は背を丸めて覇気が感じられなかった。
教室につくと扉を僅かに開け、半身を滑り込ませ、ギロチンのように素早く閉めなくてはならない。それができない者は、皆の顰蹙をかうことになる。それからマスクを取り、鼻栓を取る。これで一息つけることになるのだ。
教室内には、高性能空気清浄機が四台設置されている。とは言え、油断は禁物だ。 臭いは廊下から侵入してくるため、座席は窓側に密集している。
やがて定時になると、担任の教師が教壇に立ち、ホームルームを始める。そこは普通の学校と大差ない。
教師が、報告書でも読むような冷静な口調で話し始める。
「美術担当の田中先生が退職なさいました。実家に帰って、みかん農園を継ぐそうです」
突然、人がいなくなっても、生徒の感情を大きく動かすには十分ではなくなっていた。わずかな同情と、この環境から逃れられる羨望を、無言の態度で表すだけに留めていた。
「そんなにしんみりしない! いいニュースもあるんだな、これが。なんと、転校生が来ています」
この場にいる生徒全員が、担任の言葉を疑った。誰が好き好んで、肥溜めに飛び込むようなまねをするだろうか。
だが、教室の前のドアが開き、確かに人間が現れた。どんなイカレポンチがやって来たのかとクラス中が、固唾を飲んで見守る。
教室に入って来たのは、セミロングの黒髪に赤いフレームの眼鏡、膝丈のスカート、ごく普通の少女だった。
「美堂薫子、十七歳でーす。キラッ⭐」
突如、教室内を不穏な沈黙が支配した。教師が空気を読んで、妙に力を込めて拍手をする。それからまばらな拍手が続いた。
「えー、美堂さんはお父さんの仕事の関係で、北海道から来ました。皆、仲良くしましょう」
薫子は窓側、一番後ろの席に座った。さっそく隣の男子に挨拶する。
「よろしくね。あー、なんか机の感触が懐かしい。学生っていいね」
話しかけられた優男は、怪訝そうに眉を八の字にする。
「机は全国共通だと思うけど」
「あっ……、そうね、そうだった。あたしったら勘違いして」
薫子は不審を吹き飛ばすように豪快に笑ったが、どこか空々しい印象を与えた。
「僕は寺田幸彦。よろしくね」
幸彦は最低限の自己紹介をし、正面に視線を戻す。彼は先程廊下の真ん中を歩いていた少年だった。
薫子は、彼の社交ベタに構わず話しかける。
「こちらこそ。ねえねえ、教科書持ってないから見せてくれる?」
「別に構わないけど。忘れたの?」
「あんまり急な話だったから、用意が間に合わなくて」
「お父さんのお仕事大変なんだ」
「そうなのよー、いきなりこの学校に入れって命令されたんだもの。こっちの都合なんてお構いなし」
「命令……? 厳格なお父さんなんだね」
薫子は机をガタガタと揺らした。
「うち門限もあるのよー、いやんなっちゃう。心配症なのよね……、いつもは定時に帰してくれないくせに」
薫子は口許を歪めたが、血走った目は笑っていなかった。
幸彦は少し不審がっていたが、すぐに休み時間になり、尋ねる機会を失った。
薫子は物珍しさからクラスの女子たちに囲まれ、質問攻めに合う。
「美堂さん鼻栓してないみたいだけど平気?つらくない?」
どこか緊迫した空気の元、尋ねられたので、薫子は居住まいを正した。周囲もこの話題に並々ならぬ関心を払っているようである。
「教室の外で外してたのよ。あれじゃ自己紹介もできやしない」
どっと爆笑の渦の中心となった。
「だよねー、てっきり私、美堂さんが鼻炎じゃないかって」
薫子は頭に疑問符を浮かべたが、打ち解けた雰囲気に水をさせなくなった。
「美堂さんって大人っぽいよね、メイクもしてるし、スタイルいいし」
薫子は相好を崩した。笑うと目尻に小皺が寄る。
「そうかなー? 脱いだら結構お肉すごいよ。触ってみる?」
「またまたー。どれどれで……」
代表として一人の女子が薫子の腹を触れたが、たちどころに手を引っ込めた。
「全然そんなことナイヨー。美堂さんより私の方が体重あると思う」
「えー? そうかな」
満更でもなさそうに自分の腹を撫でる。
生温い空気が漂う中、一人の女子が薫子の鞄についた人形に目をとめた。それは、水色の毛で覆われたクマのような人形だった。薫子が肌身離さず持っているせいか少し黒ずんでいる。
「それ、カワイー。どこで買ったの?」
待ってましたとばかりに薫子は目を輝かせ、説明を始めようとするも、
「これはねー、ムッシュ……」
その時、計ったようにチャイムがなったので、生徒はワラワラと席に戻って行った。
薫子は、誰にも聞こえないほど小さく舌打ちをした。
すると、さっき薫子の腹を触った女子が振り返って、こう言うのだった。
「あっ、そうだ。美堂さん、あんまり寺田と話さない方がいいよ」
「どうして?」
「だってあいつ鼻炎だから」
(*)
気さくな薫子は一日と待たず、クラスに順応していた。転校生特有の人気も手伝って、昼食の時間も引っ張りだこだ。
その誘いを丁重に断った薫子は、西野陽菜という、控え目な娘と二人で昼食を取ることにした。
陽菜はマッシュボブの髪型の可憐な少女である。手首が隠れるベージュのカーディガンを羽織った小柄な体躯、黒目がちな大きな目で見つめられると、同性の薫子にしても惑うこと頻りである。いわんや男子をや。間違いなく彼女はクラスの華であった。
陽菜と机をくっつけて、腰を落ち着けた薫子はアルミの弁当箱を広げた。中には白飯と鮭という日本男児STYLE。
対して陽菜の弁当は、ポケモンのキャラ弁にハンバーグや色とりどりのおかずを備えたものである。
薫子は半分、この弁当が狙いで陽菜に近づいたのだった。
「あんまり見ないで欲しいな、恥ずかしいよ」
弁当に穴があくほど、見つめ続けると、はにかみながら陽菜は腕で隠そうとする。
「見たって減るもんじゃないでしょ。それよりさ、寺田君のこともっと教えて」
薫子は声をひそめた。陽菜も辺りを伺いつつ話始める。
「寺田君はね、鼻炎なんだ。それも重度の。鼻先にある檸檬の匂いも分からなかったんだよ」
「まさか!」
「ホントだもん。目隠しして色々確かめたんだから」
陽菜は少し顔を赤くした。
陽菜が幸彦と仲が良いという情報を事前に入手している。幸彦が邪見にされている状況に目をつけた薫子は、陽菜から詳しい話を聞くべく接触したのだ。
「それでどうして仲間外れにされてるのよ」
「サッカーとか野球の試合観てる時、皆が応援してるのに一人だけ冷めてたら頭にこない? ああいう感じなんだと思う」
「ピンとこないわね」
「だって鼻が詰まってるとね、この学校の臭いだってわからないんだよ?」
気の毒そうな陽菜を真近で見ても、薫子は腑に落ちない。幸彦は、この過酷な環境に影響されないのである。
「でもそういうのってよくないと思うわ。どうにかならないかしら」
薫子は鼻息荒く凄んだ。陽菜は怯んだように身を縮めた。
「が、学校には全部で五人の鼻炎の人間がいるらしいけど、皆、寺田君と同じような扱いを受けているみたいだよ」
陽菜は薫子の憤慨に戸惑っていたものの、しまいには感化されてしまっていた。
「でも嬉しいな、美堂さんみたいな普通の感覚を持った人が来てくれて。できれば寺田君と仲良くしてあげて」
「そのつもりだけど、貴方はいいの?」
「何が?」
陽菜は、きょとんとした。
「だって貴方と寺田君、付き合ってるんでしょう?」
陽菜の口からは、かわいい悲鳴が漏れたが、それを咳払いで誤魔化していた。それから振り返り、幸彦のいる席をちらっとだけ見た。
「誰から聞いたの?」
一段と声を落し、陽菜が訊ねる。
「よく二人が一緒に下校してるって、色んな人が教えてくれたわよ」
薫子が若干の嫉妬を込めて陽菜に詰め寄ったのだが、当の本人は意外にも涼しい顔で流す。
「やめてよ。困るんだ、そういうの。私と寺田君は、ただの友達だよ」
ただのというところに力点を置く。本当は薫子に聞いて欲しいに違いない。
「本当にー? でもその気がないわけじゃないんでしょう?」
「ないね」
陽菜が間髪入れず、否定するのを聞いて、薫子はますます疑いを強めたが、それからは深く追及しなかった。
「そうよね、青春だもの。一緒に下校したっていいわよね」
「そ、そうなんだよ。朝、電話で起こしてもらったり、休日は二人で買い物に行ったり、私の部屋でポケモンしたり、新発売のゲームの列に一緒に並んだり、テスト勉強をするのは、今時真面目な学生の一般的な行為なんだよ」
「ん?」
薫子は首を傾げた。物分りのいいフリをして情報を引き出すつもりだったが簡単にボロが出た。
陽菜も小首を傾げてとぼけるつもりらしい。
「何か変かな?」
「そうね、最後以外、妙な話を聞かされた気がするわ。つまり、貴方たちの関係は……」
「ハンバーグ一個」
陽菜はゆっくりとみせつけるように自分の弁当を薫子の机に近づけた。
「懐柔するつもり?」
「だって美堂さん、さっきから私のお弁当を物欲しそうに見てるんだもん」
陽菜が弁当を動かすと、薫子の目も釣られて横に滑るのだった。陽菜は楽しそうに肩を揺すっていた。
「ふ、ふん。馬鹿にしないことね。そのくらいで……」
「じゃあいらないんだ」
陽菜が弁当にさっと蓋をすると、薫子が嘆きの声を発する。
ハンバーグは食べたい。たが、陽菜に媚びるのが嫌な薫子はジレンマに陥る。
「しょうがないなあ。美堂さん、ちょっと耳かして」
陽菜が耳打ちすると、薫子の表情がすとんと違うものに変わった。皆に好かれる薫子ではなく、腹に逸物ある大人の顔になった。
「わかったわ。ハンバーグをちょうだい」
「♪」
薫子の素直な態度に気を良くしたのか、陽菜は気前よく、ひじきの煮付けもくれた。それもまた、薫子の好物だった。
「ところで話は変わるけどね、美堂さん、エゾテーって知ってる?」
咀嚼に夢中になっていた薫子は、思わずの口の中のものを吐き出しそうになった。
「北海道に本社がある消臭剤で有名な企業よね。それが何か?」
「そう、そのエゾテーの消臭スプレーを使ってる子は、この学校に多いんだよ。近場だとすぐ売り切れちゃう」
薫子も、この学校でエゾテーの商品をよく目にする機会があった。この教室のロッカーの上にも、『消臭域』という置き型の消臭剤が置いてある。事によると命に関わってくるので、品質が良いものを使いたいというのは、自然の心理なのだろう。
「美堂さん、この学校の異常の原因ってなんだと思う?」
「……天変地異かしら」
薫子は予断は禁物だと考えていた。ただ、合理的説明ができないための方便に過ぎない。
陽菜もまたそう考えてはいないようだ。でなければ、その他大勢のように、幸彦を攻撃するだろうから。
「実はここだけの話、エゾテーがこの学校を使って人体実験をしてるっていう噂が持ち上がってるんだよ」
「ないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないからそんなことあるわけないっし」
薫子の奇妙なリアクションに、今度は陽菜が驚く番だった。
「えっ?」
「だって、だってエゾテーの他にも消臭剤を扱っている企業は腐るほどあるっていうのにまるで暴利を貪りたいブラック企業みたいに……そんなのってないよ」
「そ、そうだね、私もそう思う。単なる陰謀論かなって。変な事言ってごめんね」
薫子のエゾテー擁護に、奇妙な違和感を感じながらも陽菜は謝罪した。
その他にも、陽菜は宇宙人犯行説や、地下に溜まった地獄の瘴気が漏れ出しただの、噂話を薫子に吹き込んだ。
お昼を食べ終わった薫子は、いてもたってもいられなくなり、机を叩いて立ち上がる。何故かストレッチも始める。
「もうっ! やめてよね、そういう冗談は。踊るから。あの消臭域のCMのダンス、私、得意なんだ」
「 え? 意味わかんない。いいよそんなことしなくて」
陽菜の懇願も虚しく、薫子は全力でダンスを披露する。体に染み付いたキレのある動きだった。
(*)
「そーいやさ、あの転校生どうなの?」
授業は昼を挟み、体育の時間。体育館で行われていた。男子はバスケットボール、女子はバレーボール。
ここは男子サイド片隅。試合形式で授業は行われていたが、出番のない若い衆が空気清浄機を囲み、薫子の品評会を粛々としていた。
実は女子には内緒で、男子だけに薫子に関するアンケートが回っていたのだった。
「容姿、性格、将来性、セクシーさ、以上を踏まえまして、総合得点は……」
皆、前傾姿勢になりながら結果を待った。
幸彦だけ少し離れたところで体育座りしていた。試合を見るフリをしていたが、耳だけはアンケートの結果を知るために、心持ち集まりに寄せている。
「六十三点!」
溜息のようなものが、全員の口から一斉に漏れた。
幸彦も心持ち肩を落とした。
しかし、男子たちの目は薫子の程よく重量感のある尻と、楽園の果実を思わせるバストへと注がれている。
「推定Gカップ」と、記録係が秘密ノートに書きしるした。この秘密ノートは過去三年間の女子のプロフィールが詳細に記録された門外不出の品である。先輩から後輩へと受け継がれる美しく気高いメモリーだ。
薫子のページの備考欄には、「素材は悪くないが老けている」と、追記された。
こうしたことは薫子だけに限って行われているわけではない。女子は例外なく格付けされているのだ。
ちなみに、陽菜の点数は八十七点、順位はクラスで三番目である。
年に一度、学内総選挙が行われ、一位の栄冠に輝いた者には、残念ながら何も与えられない。
ただほんの少しの優越感と共に、卒業するだけ。消費され、食いつぶされるだけの若さの特権である。
「上等だあ! こい」
薫子が体育館の隅まで響く雄叫びを上げた。場違いな程の凄まじい気迫。周りは慄然とするばかりだ。
薫子と同じチームの陽菜が、恐る恐る声をかける。
「み、美堂さん、単なるゲームなんだからさ、もっと気楽に……、ねっ?」
「一球入魂!」
「ひっ……」
薫子の鋭い眼光に萎縮した陽菜は、それ以上何も言えなかった。周りもまた距離を置いた。
薫子のチームがサーブ権を握った途端、一方的なワンサイドゲームが続く。薫子の気合と彼女の運動能力に、敵はおろか味方すらついていけなくなりつつある。
何故、薫子は必死なのか。それは若さに追いつきたいがための必死とも呼べる執着である。
「ゲ、ゲームセット……勝者、薫子王国」
勝ち名乗りを受けると、薫子は額に流れる汗を脱ぐい、白い歯を見せ笑う。
クラスメートたちは試合終了後、何事もなかったように肩寄せ合って雑談を開始した。
唯一、陽菜だけが遠慮がちにナイスファイトと声をかけた。
やり場のない闘志をたぎらせて、薫子が男子のバスケに混ざろうかと考えていると、体育館から幸彦が出て行くのが見えた。
その姿を追って、薫子は男子のコートに足を踏み入れた。途端に六十三! と一様に囃し立てられる。秘密の遊びを知らない薫子は、不可解な男子の熱気に辟易としながら、体育館を出た。
日は差しているものの、外は寒風吹きすさぶ冬の大地。だが、生まれも育ちも北海道の彼女には、苦にならない。
曲がり角で消える幸彦の背中が、垣間見えた。
幸彦は退屈な授業を抜け出し、トイレに行こうとしていた。何せ授業とは名ばかりの自習だったのだ。黙って抜け出しても文句は言われない。
先日、体育の教師が残らず辞めてしまい、授業はなくなってしまったのだが、少しは体を動かした方がよかろうと、体育の授業は行われている。
学校は存続していると言えるのだろうか。あるいは生徒たちは何故逃げないのだろう。
近隣に受け皿となる学校もないこともあるが、単なる意地というか、もはや宗教の域に達しているのだ。
これだけ辛い目に合うのだから、一致団結して乗り越えればきっといいことがある、教師も生徒も皆そう思いこもうとしていた。
「バカだよね、ほんと。皆死んじゃえばいいのに」
ニヒルな笑みを浮かべ、陽菜がそう言った時には、幸彦は胸が空く思いがした。
普段はガーリーを固く貫いている陽菜も言う時は言うのである。勿論二人きりの時だけだが。
「そんなバカに相手にされない僕は本当のバカさ」
そう自嘲した幸彦の手を取り、陽菜はこう言った。
「じゃあ私と踊ろうよ。私もバカの部類だからさ」
そうして陽菜との付き合いが始まった。付き合いと言っても、ママゴト遊びの延長でしかないのだけれど、陽菜は幸彦の心の拠り所となった。
幸彦がのけ者にされたのは、たった一言が原因だった。
「一体、どんな臭いがするのか僕にはわからない」
幸彦は正直に言っただけなのだ。今では、自分が正しいのか皆が正しいのかわからない。
幸彦は目的のトイレに辿りついた。トイレは体育館をほぼぐるりと回った奥まったところにある。校舎とは別に建てられた小さな小屋だ。辺りは草が生え放題で、少し陰鬱な空気に包まれている。
そのトイレは、校長の負の遺産と呼ばれている。何せ使い込んだ全てのお金をそのトイレの建設につぎ込んだからだ。外観は小さな木造建築だが、檜を使っているため、取り壊すのが躊躇われ、放置されている。
校長が何の目的でこれを建てたのか、知る者はいなかった。使用は禁じられていたが、幸彦はせめてもの腹いせに故あれば、ここを使うようになったのである。
トイレの正面には、これまた小さなブロンズ像が建てられていた。
髪を現代風にパーマさせているにも関わらず、着物姿のチグハグな少女の像だ。この像も様々な憶測を呼び、宝のありかを示していると噂されたが、そのうち飽きられ、誰も注意を払わなくなった。
手を宙空へと伸ばし、何かを訴えるような哀しい表情を浮かべた少女の像に意味もなく手を合わせてから、幸彦はトイレに足を踏み入れた。
小屋の入り口に、『せっちん』と、子供が筆で書き殴ったような半紙が貼られ、風に吹かれていた。
入ってまず木の香りを感じ、立ち止まる。
鼻炎といっても、匂いに鈍感過ぎるというわけではない。強い香りは感じ取ることができる。
それ故、幸彦は、学校の異臭が不思議でならない。果たして皆が感じている学校の異臭の正体は、何なのだろう。自分だけが、砂漠に取り残されるような不安に、日夜さらされていた。
トイレの中は、朝顔型の小便用の便器が三つと個室が一つ。幸彦は一番奥の便器に落ち着くと、用を足し始めた。暫くして、背後から腰を掴まれた。
「あっ、どうも」
何故礼を言ったのか、幸彦にもわからない。
いくらこの学校に異常がまかり通っていても、さすがに用を足している最中に腰を掴まれたりはしないはずである。しかも微動だにできないほど、腰骨を鷲掴みにされていたのだ。
それでも痛みは感じなかった。多分悪意はないのだろう。それはそれで問題がある気がするが。
「このトイレ良いですよね。僕、気に入ってるんです」
幸彦は、背後の何者かに話かけた。
「さすれば、よごさぬように、せねばなるまい。わらわは、そのてつだいをするまで」
舌ったらずな子供の声が聞かれた。幸彦は少し安堵した。子供のイタズラならそこまで大事はないと高を括ったのである。
用を足し終わっても、子供の小さな手は離れなかった。そーっと幸彦が首だけで振り向くと、怒ったように眉を曲げた少女がいた。
少女は、年端もいかず背も低い。中学生にも満たないようである。トイレ前の像と同じように緩く髪を巻き、膝丈の地味な絣の着物を着ていた。
幸彦は、像と少女の符合に驚くよりも、非常にまずい事態に陥ったことを悟った。使用禁止のトイレで、少女といるのを、誰かに見られでもしたら誤解されかねない。とにかくここを出なければと気持ちは焦るが、腰を掴まれ身動きが取れない。
幸彦は、何気無い風を装って、口を開く。
「そろそろ戻らないと、皆心配するな……」
そんな相手はいないが、口実があれば手を離なしてもらえると期待した。ところが、より一層、力は込められ、幸彦を拘束するのであった。
意を決して振りほどこうと考えたのだが、止めた。少女は肩を震わせている。
少女は幸彦が振り向いているのに気づくと、袖で涙を拭い、駆け足で個室に飛び込むと鍵を掛けてしまった。
「ま、待って! 僕が何かしたなら謝るから」
幸彦の必死の呼びかけも虚しく、少女の返事はない。
諦めた幸彦がトイレを出ようとすると、入り口に薫子が立っていた。
「わあ! ここ男子トイレだよ。何でいるの!?」
幸彦は、飛び上がらんばかりに驚いた。
「細かいことは気にしなさんな。貴方の後をつけたらここに来ただけのことよ」
幸彦は薫子のことが少し苦手だ。人の領域に無遠慮に入り込んでくるからだ。それに挙動も怪しい。
「後をつけたってどうして? 先生にでも言いつけるのか?」
喧嘩腰で尋ねる幸彦に、薫子は笑顔を崩さず答える。
「そんなことしないわ。興味もないし。私が興味あるのは貴方よ」
薫子は幸彦の胸を人差し指でつついた。
「何なんだよ、一体……」
「貴方が一人でいるのが気になってたのよ。私たち、友達にならない?」
安っぽい同情に幸彦はかっとなって、薫子を押しのけて、トイレを出た。
「待ってよ! 寺田君。私、知ってるんだからね。貴方の秘密」
幸彦は足を止めた。
「本当は臭いなんて存在しないって言ったらしいじゃない」
恐らく陽菜に聞いたのだろう。余計なお世話だ。
「本当は僕が間違っていたのかもしれない、君には関係ないよ」
「これを見なさい」
薫子は黒い小さな計器のようなものを見せてくれた。
「大気成分に異常はないわ。むしろ都会にしちゃきれいなくらい」
「それが何だよ、皆、嘘を言ってるっていうのか」
「その可能性は大いにあるけれど、理由は不明よね。それ、知りたくないかしら?」
薫子は学校の異変に興味本意ではなく真剣に調べようとしている。登校初日とは思えない。始めからそれが狙いだったのかもしれない。
「あの陽菜って娘も、貴方ががんばったら惚れ直しちゃうかも」
「西野の事は、今関係ないだろ……」
「素直じゃないわね、二人とも」
幸彦が小声でぶつくさ言うと、 薫子は微笑した。
「僕は鼻炎だから自信が持てない。君も鼻炎なの?」
「いいえ。でも、この学校に来てから特に異臭は感じていないわ」
「ひょっとしたら僕の勘違いかもって思ってたけれど、君が言うならもしかして……」
幸彦は複雑そうな顔をして、地面をにらんでいた。
「でもそんなこと放っておいたらいいじゃないか。僕らに何もできやしないんだから」
「そうかしら?」
「だって大人たちにも解決できないのに、僕ら子供に何ができるっていうんだよ」
薫子はずかずかと歩いてきて、幸彦の手を握る。熱い手。幸彦はたまらず顔をそむける。
「ねえ、貴方はとっても強いわ。クラスを、いいえ、学校を敵に回しても休まず登校している。正直、貴方みたいな強い男に会ったことないの、私」
薫子は期待を込めた眼差しで、幸彦の顏を覗き込んだ。
「そんな貴方が小さくなっているのを見るのが、忍びないの。私も協力するわ。今度は皆の秘密を暴いてやりましょう」
薫子の熱心さに幸彦はついていけない。復讐だとか見返すとか興味もない。ただ薫子はこの学校の人間にないものを持っていた。絶望に駆られたやけっぱちの思想ではなく、妙な信念を持ち合わせていた。
いつまでも陽菜の負担になることを気に病んでいたところだ。少し考えてみるのも悪くないかもしれない。気持ちが、揺らいでいた時である。
「だまされちゃいかーん!」
疾風迅雷とはこのことか、先ほどトイレで出会った少女が、凄まじい勢いで幸彦と薫子の間を裂いたのだ。
「な、何をするのよ……」
半ば吹っ飛ばされるような形で、薫子は尻餅をついた。
着物の子は、すかさず薫子を指差す。
「そのおんなは、うそをついている。じぶんのりえきのために、ゆきひこをだまそうとしている」
「えっ……」
薫子の表情に浮かんでいたのは、大人が人を騙そうとするようなしたり顏。立ち上がり、眼鏡を掛け直す。
「まあ、寺田君には私の正体を明かさなと始まらないしね。手間が省けて助かったわ」
薫子は、一枚の名刺を差し出した。名刺には「株式会社エゾテー営業部、美堂薫子」と書かれていた。
「驚いて声も出ないようね。そう、女子高校生、美堂薫子とは仮の姿。その実態はこの学校の異変を調べるためにやって来たエゾテーの潜入調査員だったのよ!」
バーンと効果音でも出そうな口上に幸彦はあくびがでそうになったが慌ててこらえた。
「それで? 会社員の方がこんな秘境にどんな御用です?」
「えっ……」
幸彦の冷静な指摘に薫子は戸惑いを隠せない。もっと幸彦が驚くことを期待したからだ。
「あの、それでね、この異変を調査して製品開発に役立てたいなーって……」
「それでハブかれて、扱いやすそうな僕に近づいたと……」
薫子は社会人の意地か、無理に虚勢を張るように突っ立っている。
薫子の嘘に平然とした態度を取っていた幸彦であるが、動揺はしていた。自分の背後に今立っている着物の少女。彼女はどうして薫子の正体を知っていたのだろう。そして幸彦の名前も何故か知っていた。
「君は一体……」
少女はトイレに貼ってあった「せっちん」という紙を剥がして持ってきた。
「わらわは、こういうものじゃ」
「せっちん……?」
せっちんは、人差し指を立てた。
「ひとのこは、みだりにわらわのなを、よんではならぬ。じゃが、ゆきひこにだけは、とくべつにゆるそう」
「あ、ありがとう」
神秘的な振る舞いに圧倒され、幸彦は素直に頷く。
「ちょっとお嬢ちゃん、私と寺田君は大人の話をしてる最中なんだけどなー」
せっちんは、薫子を無視した。あまつさえ背を向け、尻文字でカエレと書いた。
「せっちんだかなんだか知らないけど、いいかげんにしなさいよ。あんまり大人をからかうと……」
感情的になった薫子がせっちんを背後から捕らえようとするが、その手は虚しく空を切る。せっちんの姿が一瞬で霧が晴れるように消えうせた。
「はれ?」
薫子も幸彦もせっちんの姿を探して、必死に目を動かすも、どこにも見当たらない。
「ひとのこが、わらわにふれることあたわず」
せっちんは、二人の背後にあるトイレの入り口から堂々と現れた。
「し、瞬間移動した……?」
「そんなはずないわ、きっとこの草むらに穴とかあって、トイレとつながってるのよ」
疑り深い薫子は懸命に辺りを捜索して回ったが、何も見つけることはできなかった。
「あはれなひとのこよ、そなたのめは、ふしあなかえ? わらわは、はじめからここにおった」
「さっき寺田君と話してたじゃない」
「それはざんぞうじゃ」
せっちんは、幸彦の背後から抱きついた。その顏には、あどけない笑みがうかんでいる。
「もう勝手にしなさいよ。それよりどうなの、 寺田君、私に協力してくれるの?」
「僕は……」
幸彦は背後のせっちんの方を振り返る。
「せっちん、君はさっき泣いていたよね。僕はその理由が知りたい」
「ちょっと寺田君? その子は今、関係ないでしょ」
「せっちんは、僕を助けようとしてくれた。今度は僕がせっちんを助けたい」
せっちんは、顏を真っ赤にして俯く。
「わ、わらわのことは、どうでもよいではないか」
「よくない、少なくとも僕は納得できない」
せっちんは観念したように両手をだらんと落とした。
「わらわは、ゆきひこをいつもみておった」
「いつも?」
「むろん、わがしんでんを、おとずれたときのことじゃ。こしつのすきまから、ゆきひこのせなかを、みまもるのが、わらわのたのしみだったのじゃ」
「それって覗きじゃ……」
薫子は口を覆った。何となく邪魔できない気配なのだ。神秘の前では変態行為も黙殺されるのかもしれない。
「いつもは、みるだけでまんぞくしていたのじゃが、きょうはつい、“えきさいと”してしまい、ゆきひこにだきついてしまった。すまぬ」
「そうだったのか……」
幸彦とせっちんは、神妙な面持ちである。それとは対照的に薫子は蒼白となり、震えが止まらない。
「あ、あんたら、変態よ……」
薫子は唇をわななかせた。
「空気に毒されたってことかしら。私も長くいると危険か。撤退するわ」
薫子は走り去り、草むらに消えた。残された幸彦とせっちんは、見つめあって意思の疎通を図る。
「気にしなくていいよ。僕は怒ってないから」
「まことか? わらわのおこないをゆるしてくれるか」
せっちんは、頬を緩ませた。
幸彦は安堵した。せっちんを傷つけたのではないかと危惧していたのだ。
「ゆきひこは、うつわのおおきいおのこじゃのう。わらわがみこんだとおりじゃ」
「えっ? そうかな?」
素直に褒めらるとくすぐったい。人から認められるのは久しぶりだ。
「そんなゆきひこだからこそ、はなしてもよいものか」
ふいに、せっちんが表情をくもらせる。
「何か心配ごとでもあるの?」
「いや、たいしたことではないのじゃが……」
せっちんは辺りに誰もいないことを確認してから、幸彦を手招いた。そして耳打ち。幸彦は大きな声を上げる。
「えーっ、便秘!」
「しーっ」
せっちんは口に人差し指を当てた。口外憚られることを聞いたのだから、幸彦が動転するのも仕方ない。
ことの次第はこうだ。せっちんは、幸彦を監視するのに夢中になり過ぎて、うん。
「それでどのくらい出てないの?」
「……」
せっちんは固く口を結び、返事をしない。それだけで相応の返事になった。
「……僕のせい?」
「いちがいにはいえぬが、そうともいえる」
さすがに、便秘になった少女を救う手立てをすぐには考えつかない幸彦。
せっちんは啓示を待つ信徒のように辛抱強く待った。
「ごめん、あんまりこういうのは詳しくないよ。誰かに聞くしか……」
しかし、幸彦が相談できるのは、陽菜くらいのものだ。それも校内で人目のあるところでは、避けるべきだろう。
「話は聞かせてもらったわ!」
突如、帰ったはずの薫子が草むらから出現した。幸彦は驚いたが、せっちんは特に気にも留めない。
「ま、まだいたんだ。ずっと隠れてたの?」
「寺田君、そんなこと言ってもいいのかしら。便秘の解消法を私は知り抜いているというのに」
疑心の目で見ている幸彦だったが、話を聞いてみないことには始まらない。
「いい? 便秘っていうのはね……」
「そなたのはなしは、きかずともわかっておる。むだじゃ」
せっちんはにべもなくそう言うと、薫子を手で追い払う仕草をする。
「人が教えてやろうってのにその態度は何よ! 謝りなさい」
「そなたのあさじえで、わらわをどうこうすることなどできぬ。なぜならわらわは、かみであって、ひとのこではないからじゃ」
薫子は唖然とし、もう電波には付き合いきれないとばかりに肩をすくめた。
「神の子、せっちゃんよ。私はごっこ遊びに興味はないの。寺田君、もう行くわよ」
薫子は幸彦の腕を強引にひっぱる。
「ああっ……、ゆきひこ」
せっちんが手を差し伸ばした時、何かが幸彦の中で閃いた。
「美堂さん、この子の言うことは本当に全部でたらめなのかな」
「そうでしょうよ。神を騙るなんて救いようがないわ」
薫子は嘲笑したが、幸彦は真面目な顔を崩さない。
「でも、あれを見てよ」
幸彦が指したのはトイレの前のブロンズ像だ。
「あれがどうかした?」
「せっちんに似ていると思って」
そう言われた薫子はブロンズ像に近寄り、三十秒程仔細に観察した。
「確かに髪型といい、背格好といい、似ているけれど、偶然でしょう?」
「そうかな……」
せっちんは、胸を張っている。自分の威厳が損なわれるかもしれないなどとは、露ほども思っていないようだ。
「せっちんが、何者だろうと僕は気にしない。困っているのは本当だと思うし」
「あっそ、好きにすれば。私の邪魔にならなければ、どうでもいいわよ」
薫子はかなり投げやりに言った。どこか悔しさを滲ませて。
「せっちんは、どうしたい? 僕とここにいるお姉ちゃんに何か協力できることはないかな」
「ちょっと、何勝手に…」
一見がさつで人の心の機微にうとそうな薫子だが、人でなしでないことを幸彦は知っている。そうでなかったら、辛抱強く待ってから、話をしに出てきたりはしないだろう。
せっちんは、悩んだ末に意を決したように口を開いた。
「ゆきひこ、わらわのために、“きんのおまる”をさがしてきてくれぬか」
きんのおまると聞いて、薫子は口覆い、幸彦は明後日の方を向いた。
「それはわらわにとって、なくてはならないものだったのじゃ。それをどこぞのあほうが、かくしてしまいおった」
「そ、それってどこにあるの?」
幸彦はせっちんの顔を見ずに言った。薫子は腹を押さえて前屈みになる。
「わからぬが、このしきちのどこかにあるはずじゃ。けはいをかんじる」
顔を上げた薫子が、ぷっと吹き出した。幸彦と視線が絡み合う。幸彦の脳は反射的に笑えと残酷な命令を下した。それを何とか堪える。
「み、美堂さん、笑ったら失礼だよ」
「笑ってなんかないわよ……、それを言うなら貴方の方こそ、かみさまが、きんのおまるを使ってる所を想像するなんて罰当たりも甚だしいわよ」
「お、おまるがきんでも別に問題ないんだ。せっちんには、それが必要なんだから……」
地面を笑い転げる幸彦たちを、見下ろし、せっちんは青くなった唇を動かす。
「いうのはずかしかったのに。ゆきひこは、わらわぬと、しんじておったのに」
せっちんは、袖で涙を拭いつつ、草むらへと消えた。あまりにひっそりとその場からいなくなったものだから、幸彦も薫子も暫く気づかなかった。
「あれ、せっちんがいないよ、美堂さん」
「あら、本当。きっと神殿に御帰還遊ばされたのね。寺田君が笑うから、アマテラスよろしくストライキでも起こすつもりよ、きっと」
「参ったなあ……」
「デリケートな問題を笑われたんだもの、私なら自殺するわ」
「何かさっきから、他人事みたいに言うけれど、最初に笑ったの美堂さんじゃないか」
「は? 男の癖に責任転嫁しようっていうの? だいたい貴方ねえ……」
以下十分程、醜い責任のなすりつけ合いを続けたが、幸彦が結局負けた。
「ごめんなさい、僕がわるうございました」
「わかればいいのよ。薫子様、生まれきてごめんなさいって言ってごらん。楽になるわよ」
幸彦は地面に正座して、念仏を唱えるように復唱していた。
その悲惨な光景を前に頭が冷えると、やり過ぎを自覚した。幸彦に謝ろうとするが、実際は真逆の悪魔のような考えを口にしていた。
「ねえ、せっちんに誠意を見せたくなぁい?」
幸彦は素早く顔を上げた。
「誠意? どうやって?」
「簡単よ、彼女を喜ばせてあげるの。貴方ならそれができるんじゃない?」
幸彦はブロンズ像を見上げていた。責任を感じやすい性格なのだ。あるいは村八分されている自分とせっちんを、重ねているのかもしれない。
「微力ながら、私もお手伝いしたいわ。責任の一端くらいは、これでも感じていなくもなくもないのよ」
幸彦はおずおずと頷いた。
体育が終わり、その後は滞りなく、授業は消化された。やがて下校時刻になり、生徒たちは教室から次々と掃けていく。
薫子は、お腹を押さえて机に突っ伏していた。
「お、おまるって……ウヒャヒャヒャ」
体育が終わってからというもの、薫子は笑っぱなしであった。授業中、特別おもしろいことがあったわけではない。教師が注意すると、一旦は笑いを堪えるのだが、五分も待たずにまた機関銃のように笑い出していた。
幸彦は帰り際に、薫子の様子をちらとだけ、うかがってから、何も言わずに教室を出た。
きんのおまるを探すのに際し、薫子は交換条件を提示した。どんな些細なことでも報告させる旨だ。
せっちんが学校の異変と関わりがあるのかは不明だが、恐らく無駄にはなるまい。
せっちんは薫子の正体を見抜いた。ただの子供ではない。
「それにしても、おまるとは傑作だわ」
薫子は、教室に一人取り残されてもなお、思い出し笑いを続けていた。