風を待つために
人は過去を振り返る時、今となっては笑えるようなくだらないことばかりを思い出す。
そう思ったのは飛行機に乗っていた時。
オレは五年ぶりに日本に帰ってくる。今まで海外出張だったから。
決まった時は戸惑った。海外なんて無縁だと思っていたし、そんな大きな仕事を任されるなんて、思ってもみなかった。
故郷に帰るのは八年ぶりか……。
高校を卒業して、上京して、仕事が忙しくて帰れなかった。本当に久しぶりなんだ。
みんな、どうしてるかな……。
「竜彦。こっちこっち」
親友の浩平が手を振っている。オレが帰ってくるって聞いて、迎えに来てくれたんだ。
「八年ぶり? どうだった?」
「あー……。時差ボケしそう」
口許を上げて笑う癖は変わってない。
「みんな竜彦が帰ってくるって聞いて、歓迎会を開くんだ。早く行こう!」
……やっぱみんな変わってないわ。「竜彦! おかえり!!」
みんなが一斉に叫ぶと、クラッカーの音が大きく響いた。
「ほら、さっそく飲め!」
「おいおい……、もう酔ってんのか?」
立ちっぱなしのオレにみんなそろって酒を勧める。
オレの故郷は東北の方で、かなりの田舎。周りは山ばっか。道もちゃんとできてないし、たんぼか畑しかない。
だからここを出てって上京する奴ばっか。オレもそうだったし。
でも、なんだか落ち着くんだ。心の安らぎというか、広げすぎた羽根を休めるのに最適というか。
「立ってないで座れよ〜。そして飲め!!」
高校の時の友達、祐司が絡んできた。酒くさっ。
とりあえず勧められた酒を飲んだ。一気に場の空気が盛り上がる。
「ちょっと、竜彦困ってるだろ。帰ってきたばっかなんだから、もっと優しくしてあげようよ」
浩平が助け船を出してくれた。ありがと!
「お前どこ行ってたんだー? フランスー?」
「……まぁその辺」
今度は准が話しかけてきた。
「そいえばさ、昔、近所のノラ犬と格闘してたよなー」
楽しそうに准は語る。
「あ、それって中学ん時の?」
祐司がオレと准の間に無理矢理入ってきた。せまい……。
「女子がキャーキャー言っててさ、そこでオレたちが退治しようとしたんだよな」
昔を思い出しているからなのか、目はずっと遠くを見ているようだ。
そんなこともあったな。オレと、浩平と、祐司と、准でどうにかして山ん中に追い込もうとしたんだ。その道を通らないと学校に行けないから。最初はビビってたけど、なんとか追い返したんだっけ。
「あーそんなこともあったねー」
そっけない返事をすると、祐司が怒りだした。「なんだよその返事。じゃあさ、神田の話をしよう!」
「────」
オレは握っていたコップを落としそうになった。『神田』もう聞くことなどないと思っていた名前。
もう一度コップを握り、机の上に置いた。
「あれ? 今日神田いないじゃん」
「え? ほんとだ」
准と祐司は辺りを見渡す。けれど、どこにも神田の姿はない。
「なあなあ、今日、神田どうしたんだ?」
近くにいた女友達に聞くと、思い出したように言った。
「望ねぇ、来れないって」
「なんでだよ」
「仕事だからって」
嘘だ。オレに会わないための口実だ。こんな休日に仕事もあるか。
「そっか。残念だな」
けれど、すっかり酔っている二人にはそんなことを考える余裕はないらしい。
呆れたというか、バカというか。
その後も、オレの歓迎会は深夜にまで続いたのだった。
神田望というのは、オレたちより一つ年下で、中学の時に引っ越してきた。
都会っ子だからなのか、周りにうまく馴染めなかったらしい。そこをオレたちが声をかけて、よく一緒にいるようになった。
神田はすごい美人で、大人っぽかった。きっと密かに好きだった奴もいるだろう。
神田はオレとよくいた。一番落ち着くからって。
高校に入ってもその関係は変わらず、毎日楽しかった、すごく。
何も変わらないって信じてたんだ。
でも、それを壊したのはオレだ。
オレがあんなこと言わなきゃ今でもオレたちの関係なんて、変わらなかったはずなんだけどなあ──。
翌日、オレは浩平と街に出かけた。
休日、ということもあって、カップルなんかも多い。
「どこ行く?」
「そうだな。まずは──」
オレは、見つけてしまった。
立ち止まってその姿を目に焼き付ける。
柱にもたれかかる神田を。
動けなくて、言葉もなくしてしまった。
神田はオレたちに気づいていない。安心したのも束の間、神田に誰かが近づいてきた。
神田は笑いながら手をつないで歩いていく。どうやら、待ち合わせをしていたらしい。
付き合ってる、んだよな。あんな笑顔、見たことないよ。
何をオレは期待していたのだろう。
震える唇を血が出る程噛みしめ、溢れそうな『何か』を堪えた。
「……行こう」
浩平に声をかけられても、なかなか一歩を踏み出せなかった。
風に押され、オレは歩き出したのだった。
あれは確か、オレの就職が決まった時。
いつも通り、くだらない話を神田としてたんだ。
「神田さぁ、好きな人とかいないの?」
「そんなのいないよ」
「絶対いるだろ。あ、もしかして准か!?」
おもしろ半分で聞いたんだけど、神田は必死になって言った。
「違うよ! 私が好きなのは……」
言いかけてやめたから、オレは気になって深く追求する。
「やっぱいるんじゃん。教えろよ」
神田は黙ってしまった。さびしそうな目で見つめられる。
「……竜彦くん、就職するの?」
帰ってきたのは思わぬ質問。神田は下を向いてしまった。
「だって大学いくの金がいるだろ? それよりオレは働きたいんだ」
「上京、するの?」
「もちろん。ここじゃあんまり稼げないし」
神田はまた黙った。なんだよ、真剣っていうか、落ち込んだ感じに話されるとこっちが動揺するだろ。
「私、ずっとみんなとここで暮らせると思ってた。なんで竜彦くんだけ行くの?」
なんで、なんて聞くなよ。オレの家、貧乏なのに兄弟たくさんいること、知ってるだろ。
「オレにはオレの人生があるんだよ」
少し強い口調で言った。
神田が顔を上げると、泣いていた。
「私っ……、ずっと竜彦くんといたい……。だから、行かないで……」
最後の方はかすれてよく聞こえなかった。
『行かないで』って、なんで神田にオレを止める権利があるんだよ。人の人生を自分で操れるわけないじゃん。
「意味わかんねぇよ。なんで神田がお前の人生決めるんだよ。オレの人生ぐらい好きにさせろよ!」
わけがわからなくなって怒ってしまった。ヤバイ、と思ったが、神田はどこかへ走り出す。
それ以来、オレと神田は会うことはなかった。
街に行けば、昔の仲間に会う。
「そういえばさ、覚えてる?」
そして、昔の話をする。
「本屋で立ち読みしてたらさー、『買って読め』って言われて説教されたことあったじゃん」
「……あったっけ」
「それにムカついて本の位置変えたじゃん」
……あ、あのことね。そんな悪さもしたっけ。
「あの頃、怖いものなんてなかったからな」
「ほんと。今となっちゃ笑えるけど」
もう、思い出さないと思ってた。そんな、昔の話。
今どうしてるのか、最近の出来事を話してほしい。
けれど会う度するのは昔の話で。
笑って誤魔化してるけど、胸が苦しくなる。
「なんで昔の話しかしないんだよ……」
呟いたらもっと苦しくなった。
あの頃見てたものはこんな姿じゃない。
いろいろ望みはあったけど、もっと違う姿を想像してたはずなのに。
きっと多すぎてわからなくなってしまったんだ。
小さな公園にあるブランコに座っていたら、浩平が声をかけてきた。
「どうしたの?」
浩平も隣のブランコに座る。
「……みんなに、会ったんだけどさ」
大きく息を吸う。
「みんな、知らない間に変わったな」
八年というのは、相当でかい。
オレがいない間にみんな違う姿になってた。
祐司も、准も、浩平も。
「思い描いた通りになってるって、思ってた。でも、ちょっとずつ変わってさ……」
想像してたものは、遠すぎたんだろうか。
目指していたのはこんなものじゃない。
もっと違う“形”を目指してたのに。
「笑って誤魔化したけど、もう無理だ……。オレはそんなに器用じゃない……」
頭を抱えた。
オレが器用なら、笑ってそれで済むだろう。 けど、無理なんだ。
微妙な変化ですら受け流せないオレには。
「……昨日、神田に会ったんだ」
浩平が口を開いた。オレは顔を上げて浩平を見つめる。
「たまにでいいから、会いたかったって」
「────」
オレは言葉をなくした。なんだよ、それ。
「竜彦、一回も帰ってこなかっただろ」
──今更、気づいた。
そうだ、仕事を理由にして帰ってなかった。
「会ってあげなよ。竜彦の帰りを一番待ってたのは、神田なんだから」
浩平は立ち上がり、オレの肩を叩くと優しく笑った。
それだけで、心が少し軽くなった。
──とは言ったものの、タイミングがわからない。
第一、オレが会いに行っていいのか? あんな別れ方して、会ったら怒られそう……。
「この空の下で、うまくやれてたはずなんだけどなあ……」
公園のベンチに寝っ転がり、空を見る。
仕事をやってる時は、こんなふうに悩むことはなかった。
与えられた仕事をこなして、『やれ』って言われたらやって、上司とか部下とも適当に付き合って──。
あれ? なんだよ、結局オレって、自分で決めたことなんでなんにもないじゃん。
本気で、何もやれてないじゃん。
何もかも適当にやって、言う通りにやって、そうすれば何も言われなかったから。
「オレ、気づかないうちに疲れてたんだな」
空に手をのばす。雲一つない空はずっと高く見えた。
『疲れてる』って、思われたくなかった。だから余計無理しすぎてまだいけるつもりでいた。
「いつの間にこんなに疲れてたんだろう……」
急に太陽が眩しくなって腕で目を覆う。
そういえば、季節はもうすぐ夏だっけ──。
街に行けば、待ち合わせの人でいっぱいで。
でもその隙間を歩くのも慣れた。
他のことも、こんなふうに行けたらいい。と考えながらまたオレは人の隙間を通り抜ける。
けれど、八年の時間を埋めることはできなくて、早く街の色に染まろうと必死になるんだ。
何もかも変わって、全然わかんないんだよな……。
みんなが変わったんじゃなくて、オレ一人が取り残されてたのかな……。
「浩平、こっちこっち」
手を振って浩平を呼ぶ。
「あれ、髪切った?」
「あぁ、少しだけ」
オレも変わろうと思って。
「オレさ、ここを離れてからいろんなこと考えたよ。みんなどんなふうに過ごしてるのか、思い描いた通りになってるかとか」
大きく息を吸って吐いた。
「でも、帰ってこれなかったのは、変わっているのが嫌だったから」
怖くて逃げてた。知らない間に変わっているのが怖かった。
でもそれじゃだめなんだ。
仕事してる時は、何も思い出せなくて楽だった。けど、心に穴が空いたみたいになって、悲しくなって。
そして、気づかされる。
「やっぱりオレの帰る場所はここしかないんだ」
一文字ずつ、はっきりと言った。
すると浩平は笑って呟いた。
「……竜彦、変わってないなぁ」
笑いを堪えているのか、腹を抱えている。
「どういう意味だよっ」
「いやぁ、小学生みたいで初々しいというか」
「お、お子様ってことか!?」
──あぁ。
オレが待ってたのは、こういうくだらない日常なんだ。
なんでもいいから、楽しい日々を過ごしたい。
オレの居場所はここなんだなあ──。
「明日も晴れたら会いに行こう」
決心がついた。
晴れたら、君に会いに行くよ。
ま、もしも晴れたらの話なんだけど。
そしてまた、夏の風が吹く。
─END─