お姫様は知らない
金曜日の就業時間直後。フロアの電話が鳴る。ワンコールで誰かがとった。
「…はい、少々お待ちください。紫さ~ん?あれ、今いたのに。」
電話を取った女子社員があたりを見回す。
「どなたからです?」
「お母様なんですが…」
困った顔の女子社員に自分が代わると蘇芳は合図をする。
「もしもし、代わりました。蘇芳です。…いえ、すぐ戻りますよ。忘れ物ですか?…ええ、わかりました。焼き豆腐ですね。はい、では、また後で。」
彼女の母との電話が終わると、皆の視線を感じる。いったい何の話だと思っているのだろう。蘇芳はくすっと笑う。
「お待たせしました、蘇芳さん。」
彼女、高橋 紫が資料室から帰ってきた。
「今、お母さんから電話がありましたよ。」
彼、高橋 蘇芳が迎える。二人は同じ苗字だが、親戚関係はない。年は違うが同期入社で、今は蘇芳が主任、紫がその部下という間柄である。女子高育ちで男性に免疫の無い紫を蘇芳が騎士のごとく守っているのだが、紫はそれを知らない。
「焼き豆腐を買い忘れたそうです。」
「あら、お母さんったら。このごろ買い忘れが多いんです。」
紫が帰り支度を済ませると、二人そろって「お先に失礼」と帰っていく。「メインが濃い味だからデザートはさっぱりフルーツが…」という声が遠ざかってゆく。
「今日はすき焼きですかね?」
「そのようですねぇ。」
「あれであの二人つきあってないんですよねぇ。」
「恋人通り越して、熟年夫婦みたいですけどねぇ。」
後に残された人々は、ひとしきり二人の話題で盛り上がるのだった。
金曜日の夜、仕事が無い限り蘇芳は紫の家に食事に行く。紫の母が食事を作ってくれるので、蘇芳はデザートを持ってゆく。いつの間にか、そういう決まりになった。
きっかけは、会社で高熱を出した一人暮らしの蘇芳を紫が家に連れ帰り、母と看病したこと。お礼に訪れた蘇芳は、また夕食を振舞われ、紫の父の酒と将棋の相手を務めることとなった。
娘一人の父は、相手ができてうれしいらしい。一人で鍋料理は食べられないでしょうと何度も呼ばれるうちに、金曜日の夕食会が恒例となった。
大学に入ってすぐに両親を亡くした蘇芳にとって、母が料理と共にむかえてくれ、父と酒を酌みかわせられる紫の家は、あこがれそのものだった。
蘇芳の失った「家庭」。一緒に買い物をして、一緒に鍋をつつき、笑いあう。紫の母も、わかっているのか、鍋や大皿料理を用意してくれる。
それがあまりに心地よくて、紫に交際を申し込むのを忘れてしまうくらいだ。
実は、蘇芳は紫の父に、自分が紫の騎士役だと打ち明けている。
「さしずめ、うちの娘は紫姫か。」
そういって笑った。
「騎士が蘇芳君なら安心だな。君になら、まかせられる。」
紫の父は、蘇芳をじっと見つめた。
「はい、必ず守ります。」
父の了解は取った。
母は、早くお嫁にもらって、お婿でもいいわよ~と言ってくれている。
スーパーで焼き豆腐とイチゴを買いながら、蘇芳は自分のマンションに用意してある指輪を思う。
結婚を前提にお付き合いしてくださいといったら、紫は驚くだろうか?
紫を自分のものにしたいと蘇芳が思っていると知ったら?
紫が蘇芳に笑いかける。
父と母の了解も、蘇芳の思いも紫は知らない。
お姫様には内緒にしておくのもあと少し。蘇芳はにっこり笑った。
急いで書いたので、誤字・脱字あったら申し訳ありません!